2016年3月15日火曜日

感謝を伝える会

 ほんとうは、こちらから感謝を伝えないといけない、そんな思いなのだが――。シャプラニール=市民による海外協力の会が東日本大震災後、初めて国内支援に入った。3月12日、いわきでの5年間の活動に区切りをつけ、きのう(3月14日)、活動に協力してくれた行政・団体・NPOその他の人々を招いて、いわきの椿山荘で「感謝を伝える会」を開いた=写真。
 大地震・大津波、そして原発事故。放射能への不安・恐怖が広がり、福島県浜通りへの物流・救援がストップした。そのとき、シャプラがやって来た(シャプラの創立メンバーの一人が平高専=現福島高専の寮のルームメートで、いわきの人間だった。その関係で、創立当初からシャプラとかかわっている)。
 
 あのとき、一時避難から帰って3日後の3月26日。いわき市社会福祉協議会のK常務理事からカミサンに電話が入った。「あした、シャプラが社協に来る」。初耳だった。その翌日の動きを、ざっと拙ブログでなぞる――。
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 日曜日の27日午前、わが家にNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。いわきでの中期的な支援活動を考えているという。

 19日、北茨城市に入った。ボランティアが集まってきたので、次はいわきへ――いわき市の「うつくしまNPOネットワーク」と連携し、22、23日と避難所への救援物資運搬活動を展開した。

 北茨城からいわきへ活動拠点を移したのは、例の「原発事故」でいわきへのボランティアの足が止まっているからだ。短期から中期へ――次の戦略が必要になっている、そんな判断もある。

「シャプラ」としてなにができるか。いわき市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて、いわき市南部で復興のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会いに行くことにした。旧知の人間だが、ケータイの番号などは知らない。

 ここは市勿来支所へ駆けつけ、支所長の知恵を借りるに限る。支所長と情報交換をしているうちに、地震・津波の災害現場を見て回った副市長が偶然、支所長室にやってきた。市のナンバー2の話は、シャプラニールが何をしたらいいか、大きな参考材料になった。

 やがて「未来会議」のリーダーとも連絡が取れ、津波被害に遭った海岸部で落ち合った。(中略)

「未来会議」のリーダーが「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。大津波で壊滅的な被害に見舞われたところだ。道はと聞くと、「生活道路」だから立ち入り禁止にはなっていない。

 被災地に踏み込んで息をのんだ。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流された。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えるではないか。

 そのあと、小名浜、永崎、中ノ作、江名と回って平へ戻った。超現実的な風景が延々と続いていた。あらためて被害の甚大さを思った。
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「感謝を伝える会」では6団体が感謝状を贈られた。いわき地域学會までその栄に浴した。それぞれの代表がコメントを述べた。

 私の番になった。私は、シャプラのマンスリーサポーターでもある。これからどうなるのだろう――震災から半月、漠たる不安を抱いていたとき、力強い“援軍”が現れた。道案内を兼ねて社協~市役所~市勿来支所~関田・須賀海岸と巡った。そんなことを話した。
 
 私より先に勿来のリーダーが、私からの電話がシャプラとつながる最初だったと述べたことも手伝って、話しているうちに急にこみ上げてくるものがあった。涙声になるのを抑えられなかった。
 
 それから5年。シャプラは「取り残さない」「地元とともに」のシャプラ精神で、いわきで活動を続けた。謝辞の最後に、自分でもなぜそうしたのかよくわからないのだが(つぶやくだけの人間なので)、「シャプラ、ありがとう!」と叫んでいた。そういう自分に私自身が驚いた。

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