2016年3月14日月曜日

ハヤシ君の死

 去年(2015年)夏、いわき市立美術館で「神々の彫像 アンコール・ワットへのみち展」と同時に、ロビーで「ニュー・アート・シーン・イン・いわき 松本和利展」が開かれた。ジャンルは「インスタレーション」というやつだろうか。途中、「8月9日一部展示替え」の予定が前倒しされた。作家が体調を崩して再入院したためだった。
 それから7カ月余、旧姓・林、ハヤシ君が亡くなった。享年64。きのう(3月13日)、通夜へ行き、年を取っても若々しい遺影と対面した。
 
 彼と知り合って40年余がたつ。高校で美術部に所属し、短大でデザインを学んだ。20歳で福島県総合美術展洋画の部で県美術賞を受賞した。社会人になってからは「育児無死グループ展」を開催し、個展を開き、若い美術仲間と「スタジオCELL」を結成した。実験的・挑戦的な若い彼(ら)を、少し年上の新米記者である私が取材した。

 東日本大震災の直後、四半世紀余り中断していた創作を再開した。実験的・挑戦的な作風は健在だった。それが、美術館のロビーという大きな空間で「ニュー・アート・シーン」を展開するきっかけになったのだろう。
 
 個展が始まる前、本人がわが家に案内はがきをいっぱい持ってきた。そのとき初めて重い病気にかかり、入院していたことを知った。「オープニングパーティーに出てほしい」というから、軽い気持ちで承知した。

 やがて同じ日の同じ時間帯に別の行事が入った。オープニングパーティーは残念ながらパスするしかない。初日午後、作品を見に行ったついでに事情を話して謝った。「乾杯の発声をしてもらいたかったんだけど」。それは、それは……。

 3・11直後に開いた個展のタイトルは「3・11沈む」だった。「ニュー・アート・シーン」では「3・11沈む…浮ぶ…変形した時をサンプリング」に発展した。美術館のロビーを埋め尽くした、多様な作品群に息をのんだ。

 彼が20歳で県美術賞を受賞したときの、いわき民報の記事。「『わからない作品でも、何度も足を運んで鑑賞しているうち、何か得るものがあるはずです。わかろうとする柔軟な頭脳の持ち主になってほしい』と現代美術を不可解とする人たちへの批判も、熱を込めて語る」(たぶん私が書いた)。
 
「何度も足を運んで鑑賞」すると決めた。コミュニケーション(作品との会話)より、まずはバイブレーション(作品との共振)だ。「ニュー・アート・シーン」へは2回行き、本人と話をした。3回目のときには再入院したあとだった=写真。

 前にも書いたが、5年前の創作再開時には「林和利」として作品を発表した。「ニュー・アート・シーン」では「松本和利展」になっていた。「林和利」として生き、「松本和利」として死んだ。最後に大きな仕事をしたので、自分の人生に悔いはないだろう――今はそう考えている。

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