2016年3月6日日曜日

可処分時間

 夏井川渓谷の隠居の下の空き地にフキノトウがやっと頭を出した=写真。秋にヨシを刈ってもらった。枯れヨシに隠れて、いや、それをふとん代わりにしてよく見えなかったのだ。から揚げにして苦い春の味を楽しんだ翌朝、訃報が届いた――。
 こんなことを考えていた。アナログ人間だから紙の情報がないと落ち着かない。新聞は毎日4紙、週単位では5紙を読む。本は図書館から借りてくる。仕事も出かける用事もないときには、だいたい本を読んでいる。ところが、というべきか。デジタル社会になって、インターネットで情報を取れるようになった。次から次にキーワード検索をしていると、あっという間に時間が過ぎる。

 朝からノートパソコンを開いて調べ物をしているときがある。あれっ、まだ新聞を読んでないぞ――近ごろ、「新聞が第一」の暮らしではなくなったことにがく然とする。起きるとまず新聞を読む、ではなく、まずパソコンを起動する。スマホとにらめっこの若い人と、どこがどう違うのか。いながらにして情報を取る“魔力”に支配されている点では同じだ。

 最近は、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にはまっている。若い仲間に教えられた。「磐城」で検索をかけると、あるわ、あるわ。仲間も苦笑していたが、休日にパソコンを開いているとすぐ昼になる、夕方になる。「新聞離れ」「テレビ離れ」の原因はこれか。

 会社を辞めてからは、自分で時間をコントロールできるようになった。が、可処分時間をネットに取られてしまっていいのだろうか。そんな思いも年々ふくらむ。自分の年を考えると、もう時間はない。

 彼はしかし、それさえ考える暇もなく逝った。享年48。きのう(3月5日)、後輩記者の通夜式に臨みながら、彼の無念を思った。原発震災のまっただなかを、踏みとどまって取材に駆け回った「ローカリスト」だった。会うたびにやせていくのが気になった(「殉職」という言葉が頭をよぎった。にこやかな表情の遺影に、ただただ頭を下げるしかなかった)。

 残った者はだからこそ、仕事でも余暇でも時間を大事にしてほしい。仕事ではきちんとアナログ情報を伝える。同時に、私生活ではちゃんと可処分時間を確保する。自分の時間は自分でつくるしかない。時間は待ってはくれない。

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