思い立って図書館から『新選飯島耕一詩集』(思潮社、1977年)=写真=を借りて読んだ。
目当ては「夜あけ一時間前の五つの詩他」。しかし、それは入っていなかった。若いころ読んでよくわからなかったが、表現としては「現代風」と感じた記憶がある。
作品がネットに紹介されていた。そのなかに「砂粒たちの夜あけ一時間前の/青い爆発」とある。
今も何のことかはわからない。ただし、意味以上に新しい言葉の関係を築こうとしていることは理解できる。
「他人の空」と題した詩。このタイトルはなんとなくわかる。自分の住む世界の空とは思えないという違和感。シュールレアリスト詩人には、戦後の日本がそう映ったのだろう。
実は最近、夜明け前1時間の空に「なんだろう、これは」と思うことがあった。すっかり早寝早起きになって、未明の4時半には玄関の戸を開けて新聞を取り込む。ついでに庭へ出て天を仰ぐ。「観天望気」の「観天」である。きょうは曇天か。
星が見えない。でも、ネットでいわきの天気予報をチェックすると、その時間も「晴れ」のマークになっている。星が見えないのは、なぜ?
夜明け前1時間の空を細かく表現するとこうなる。人間のいる庭はまだ夜で暗い。空は全体としては暗いが、天のドームだけは灰色に近い。
晴れているのに星の見えない時間帯がある。考えれば当たり前だが、ネットで検索すると「天文薄明」という言葉がヒットした。
日の出前・日の出後1時間ほどの空の薄暗さを指す。太陽はまだ地平線の下にあるか、地平線に沈んだばかりだ。大気中の微粒子がその角度からの日光を散乱し、空が薄暗く(薄明るく)見える現象をいうそうだ。
春夏秋冬、日と月が変わり、季節が変わっても、未明の4時半前後に新聞を取り込む習慣は変わらない。
夏至のころは玄関の先が明るくなり、冬至のころはまだ暗い。春分の日と秋分の日のころはその中間だ。
今年(2026年)は3月20日が春分の日だ。前日に見ると、夜明け前の玄関はガラス戸がほんのり灰色がかっていた。
ついでながら、「天文薄明」にたどり着いたあとも検索を続けて、ふだん使っている言葉の違いに触れた。
「かはたれ」と「たそかれ」。どちらも意味は同じだろう。「かはたれ」は「彼は誰」、「たそかれ」は「誰そ彼」。
「たそかれ」は夕方の薄明を指し、「かはたれ」は朝方の薄明を指すのだとか。私は「黄昏」も「かわたれ」も同じ夕暮れの言葉として使ってきた。
ま、それはどうでもいいことだが、「観天望気」は暮らしの基本で、週末だけの土いじりでもかなり大事になる。
腕時計に縛られた生き方から解放されて18年。今は身体的な実感がより大切だという思いがある。
19日の薄明は、地平線に近いところ、民家の黒い屋根の上もほんのり白んでいた。それがはっきりわかった。夜が明けると霧状の雨。しかし、これもすぐやんだ。今年(2026年)は、雨はまだまだ足りない。
