2026年8月26日水曜日

隠居の危険な生き物

                              
   8月23日の日曜日は朝早く、夫婦で夏井川渓谷の隠居へ出かけた。土いじり(夏場は草引きが中心)をするのは3週間ぶりだ。

その1週間前の16日は、早朝、月遅れ盆の「精霊(しょうりょう)送り」が行われた。終わって隠居へ出かけ、台風被害がないのを確かめてとんぼ帰りをした。カミサンは「片付けがあるから」と家に残った。

下の庭も、上の庭もきれいになっていた。お盆を前に、集落のKさんが見かねて草を刈ってくれたのだった。

そのまた1週間前の9日は夫婦で郡山市立美術館を訪ね、帰りにほんのちょっと、隠居に立ち寄った。

それから3週間。たまった生ごみを畑に埋めたあと、ネギのうねに土寄せをした=写真。カミサンは? ネギのうねと旧苗床のそば、県道との境の土手際に植えてあるアジサイの手入れを始めた。

土寄せが終わり、旧苗床から大きくなったネギを収穫した。まだまだ夏の暑さは続く。土いじりは朝のうちの1時間。そう決めているとおりに切り上げて隠居へ戻ると、カミサンが台所でなにやらやっていた。

「手袋の上からハチに刺されたの」。それですぐ隠居に戻り、刺されたところを指で押して毒を出し、水に流していたのだという。

2度目ではないか! 20年ほど前、やはり隠居の坪庭で草むしり中に、キイロスズメバチに手を刺された。

やけどをしたような痛み収まらないので、磐城共立病院(現いわき市医療センター)の救命救急センターへ連れて行った。

「今度刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」。ドクターにいわれていた。怖いのはアナフィラキシーショックである。

刺されてからすでに30分はたっている。前回よりは刺され方が浅かったという。それもあるのか、体調の急変はなさそうだ。

まずは平地の小川に戻り、コンビニで軟膏を買って塗ることにした。すぐ雨戸を閉め、風呂場の水を止めて坪庭に伸ばしていたホースを引っ込め、隠居をあとにする。

日曜日である。行くとすれば救命救急センターだ。保険証(資格確認書)を取りに家に戻ったが、体調に変化はない。

どうやらアナフィラキシーショックは回避できたようだ。念のため、翌日、マチの皮膚科医院で診てもらう。

「大丈夫でしょう」ということで、とりあえずかゆみ止めの薬と、炎症を抑える軟膏を処方された。

隠居では、私がムカデに刺されたばかりだった。ムカデに刺されたとき、台所で水を流しながら、ムカデの毒を押して流した。それを見ていたから、カミサンもハチに刺されるとすぐ台所に駆けつけた。

マチなかのわが家の庭でさえ、キイロスズメバチやアシナガバチが飛び交っている。大自然から間借りをしているような隠居の庭は推して知るべしだが、つい「造園好き」の一面が出てしまったのだろう。

ハチ類が活発に動き回る時期でもある。隠居の中にはムカデが、庭には蛇がいる。土いじりは楽しいが、危険な生き物もひそんでいる。そのことをまた「痛感」した。

2026年8月25日火曜日

医師作家夏川草介

                               
   ざっと1カ月前になる。「あさイチ」に作家の夏川草介が出演した。本業は医師で、しかも若い。老人医療を主題にした小説も書いているとかで、がぜん興味がわいた。

1978年に大阪で生まれた。信州大学医学部を卒業後、長野県内の病院で地域医療に従事しているという。

 2009年、『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞し、作家としてデビューした。

この作品は本屋大賞の2位にもなり、150万部を超える大ベストセラーになったそうだ。

 夏川草介というペンネーム自体、作家がらみだ。夏目漱石の「夏」、川端康成の「川」、「草」は漱石の「草枕」から、そして芥川龍之介の「介」。しゃれたネーミングから「くたばってしめえ」の「二葉亭四迷」を思い出した。

年寄りの了見の狭さというか、若いころに愛読した作家は年がいってもそのまま受け入れるが、大人になったあとに出てきた作家には、なかなか興味がわかない。

近年登場した作家は、名前は知っていても作品は読んだことがない、というケースがほとんどだ。

年下の元同僚が井坂幸太郎(1971年~)や星野智幸(1965年~)を読んでいると聞いて、作家と作品は時代と世代によって違うことを痛感した。

先日亡くなった東野圭吾もその一人。『クスノキの番人』を読んで、人間と人間の間に巨樹を媒介させたところに新しさを感じたが、彼の作品が広く若い人に読まれているのを知ったのは死を伝えるニュースで、だった。夏川草介も若い人には人気がある。

医師で作家といえば、久坂部羊がいる。こちらは71歳。認知症をテーマにした小説『老乱』を読んだのは6年前。久坂部は年齢も近い。

認知症や老人医療などは、もはや自分自身の問題でもある。これからやってくる、あるいはもう始まっている世界を知る上でも興味・関心がある。

その興味から夏川作品を読んでみることにした。いわき市立図書館のホームページを開くと、16冊の本があった。翻訳を除く14冊の大半が「貸出中」か「予約中」になっていた。これだけでも人気作家であることがわかる。

「あさイチ」に出演した日の朝、図書館にはたまたま「貸出可」が2冊あった。3日後の月曜日に借りに行くと、書架にはない。すでに「貸出中」になっていた。一歩遅れた。

かろうじてティーンズコーナーに『本を守ろうとする猫の話』と「君を守ろうとする猫の話』があったので、これを借りた=写真。猫が人間の言葉を話す。そこから物語が展開する。

超人気の『神様のカルテ』シリーズは出納書庫にあるが、デビュー作はやはり「貸出中」になっていた。これも「あさイチ」効果か。

毎年8月は「文字読み」の仕事が入る。今年は軽いタッチの夏川作品を頭において、連日、文字読みをした。

夏川草介は息子たちよりはずっと若い。彼のほかの作品はおいおいと。そう、老いては子に、いや若い人に従え、である。

2026年8月24日月曜日

誤嚥が怖い

                                 
 日ごろキャンバスと「対話」している親友の画家が「声を出して本を読んでいる」という。

 理由を聞いて納得した。医師から誤嚥(ごえん)を予防するために、のどの筋肉を鍛えるようアドバイスされた。

 実は私も同じ理由で、そばにある本でも、ブログの原稿でも、声を出して読んでみないとなぁ――と考えていたところだ。

食事をしていると、ときどき食べ物が気管に詰まりそうになる。味噌汁=写真=でもそうなる。

あるときは激しくせき込んだ。いつものせき込みならすぐやむが、このときはちょっとてこずった。やっぱりのどの筋肉が衰えているのだろう。

 いくら脳活=ブログの文章を書いているといっても、無言の行に変わりはない。親友の画家は独り身に戻ったから、しゃべる相手がいない。私もカミサンを相手に、「あれ」「それ」で用をすませている。「おしゃべり」には縁遠い。

 テレビを見ながら、「ああだ、こうだ」いうのはカミサンで、私はスポーツ番組を見ていて「よしっ」とか「うわー」とわめく程度だ。

 年寄りほど誤嚥しやすいと知ったのは、75歳と80歳を対象にした無料の歯科口腔健康診査を受けたときだった。

怖いのは誤嚥性肺炎で、歯周病菌が肺の中に入り込むと炎症を起こす、とあった。飲食物が食道ではなく、誤って気管に入り込むとそうなる。

 原因は老化や脳血管障害などによる飲み込み機能の低下、咳(せき)をする力の低下など、だという。

そういえば、若いときはコップの水をガブガブ飲んだものだが、今は……。

2024年の夏に水の飲み方の変化を実感した。暑いのでコップに氷を浮かべて冷えた水を一日に何回も飲んだ。それを繰り返しているうちに、少しずつ飲み方が変わっていった。

 最初はゴクゴク連続して飲み干すようにしていたのが、いつからかゴクンとひとくちやって、水が食道を下っていくのを確かめるような飲み方に変わった。

 すると、なぜだか知らないが、いつもの水道水なのに「冷たくてうまい!」と感じられた。

 はじめは、のどを潤すだけでなく、内部体温を下げる目的があった。が、「うまさ」を知ってからは、味覚を優先してゴクンとやるようにしている。

 今は、その飲み方が「うまい」からだけではなく、のどの筋肉が衰えたための「自衛」でもあったか、という思いがある。

姿勢も違っていたのではないか。ゴクゴクのときは顔を上げるようにして。しかし、ゴクンはあごを引くようにして。庭で歯を磨くときも、同じ理由で空を見上げないようにしている。

そうなったのはたぶん誤嚥を意識してのことだ、と考えると、納得がいく。その後は、水であれ何であれ、飲み方・食べ方が慎重になった。

 ご飯とおかずはよく噛む。ヤクルトは3口半、つまりゴクンを3回やって、残りをなめるようにして飲む。

 飲み方はそれでいいとして、まずは声出し、音読だ。覚悟はわかった、実行だよ、実行あるのみ――もう一人の自分が冷ややかに言う。

2026年8月22日土曜日

暴風倒木

                                
   日曜日は午後3時を過ぎると、ドライブを兼ねて四倉へ刺し身を買いに行く。月遅れ盆が明けた8月16日は、町の魚屋さんが遅い盆休みに入ったので、ほかの買い物と併せてスーパーへ出かけた。

行きも帰りも旧道(浜街道)を利用した。草野を過ぎて四倉の狐塚に入ると、水田の先に桐の木が立っている。

一面の緑色と桐の木の組み合わせがおもしろくて、車を止めて眺めたり、写真を撮ったりする。

今度も後続車両と対向車両がないのを確かめてチラッと目をやったら、「あれっ! なんだ!」。

桐の木が幹の途中から折れている=写真上1。あの台風15号(8月11~12日)の暴風にやられたか。

平では11日、雨はほとんど降らなかったが、北からの風が吹き荒れた。この日午後5時過ぎには、小名浜で瞬間最大風速25.8メートルを記録した。一時、3千戸が停電したが、これは順次解消された。

この日の雨量は山間地の川前で65.5ミリ、三和で52.5ミリ、平地の平では6.0ミリ、好間は4.0ミリだった。

台風15号そのものが異例のコースをたどった。東の太平洋からやって来て、夜8時ごろ、茨城県に上陸した。

この暴風の影響で、いわき市役所近くの童子町公園(平)では大木が折れた。波立海水浴場では監視塔の屋根と壁が壊れ、結局、解体・撤去された。

以上はメディアで知ったいわきの暴風被害だが、狐塚の桐の木も折損状況からみるとそうだったのだろう。

その2日後の18日、いわき駅前へ行く途中、祢宜町広場のそばを通ったら、いわきPIT側にある公園木が1本、根元から折れているのに気づいた=写真上2。これも、11日の暴風で倒れたのかもしれない。

台風15号のあと、今度は千葉を線状降水帯が襲った。内水はんらんで都市部の道路が冠水し、車両が2千7百台もエンスト・放置された。

こんなことは想定外だった。想像もしなかった。これからはしかし、過去の被害を越えた被害が起きる、それが何度も起きる、と覚悟しないといけないようだ。

2026年8月21日金曜日

終わって始まる盆休み

                               
   終わってやっと始まる盆休み――。いわき市では月遅れ盆の「精霊(しょうりょう)送り」が区内会単位で8月16日朝に行われる。

わが行政区では区の役員が前日に祭壇(集積所)を設け、当日早朝6時から8時過ぎまで、当番制で各家庭からの供え物を引き受ける。

9時前には供え物を回収するために市の収集車がやって来る。これがあるので、お盆がきてもどこかへ泊りがけで出かけるようなことはなくなった。

祭壇を設けるのは区内の県営住宅集会所の前庭と決めている。そのため、14日には集会所前の路上に「駐車自粛」の立て看を置く。

15日は夕方5時、前庭をきれいにして供え物を受け取る祭壇をつくり、表面に竹を2本立てて縄を張り、間に杉の葉とホオズキを差す。

前は四方に竹を立て、縄も張り巡らしたが、役員の年齢と体力を考えて江戸時代の「結界」を示す文献を参考に、前面だけにした。

結界用の竹は故義伯父の家の庭にある細竹を利用する。4本だと切ってそろえるだけで息が上がる。年々、運ぶのがきつくなった。2本に省略したのもこのためだ。

そして、当日。早朝6時前には集会所へ出かけ、お布施の箱や焼香台などをそろえる。今回は幾分早めの5時半ごろ出かけたが、すでに供え物を置いていった人がいる=写真。

今年(2026年)のお盆は、これだけではなかった。スペインの旧知の青年がカップルでやって来た。

向こうへ渡って画家活動を続けた親友と交流があり、その縁でわが家(実際は故義伯父の家)にホームステイをするようになった。今度で3回目である。

スペインを引き揚げてきた画家といわき駅で合流し、3人を乗せて帰宅したあと、故義伯父の家で歓迎の小宴を開いた。

前日の盆の入りにはカミサンの実家へ行って仏壇に焼香した。家に戻ると、今春、東京の大学に入った孫が親と一緒にやって来た。翌日はスペイン青年との小宴に合流した。

それとは別に、8月には膨大な量の「文字読み」が入る。お盆には、その時間はない。が、今年は量が多い。お盆中も時間をつくって読むようにした。

お盆の締めくくりは前述の「精霊送り」である。休みと仕事の区別がつかない身だから、いつもの日常が戻ってきただけ。とはいえ、お盆には毎日何かがあったために、いつもの年よりは開放感も大きかった。

いわき市の行政嘱託員としては、8月15日の回覧配布がある。前は10日おきに月3回だったのが、1日と15日の月2回に替わった。回数は減っても回覧する種類・量は変わらない。

盆の終わりの15日も配る資料があった。しかし、お盆には配れない。17日にずらした。18日朝にはスペインの青年のホームステイが終わった。

20日には平鎌田で夏井川流灯花火大会が開かれた。わが家の2階からも花火の先っちょが見えた。夕方には雷雨が来るかと思ったが、雷様(らいさま)の汗のような雨で終わった。この花火とともに平の夏は終わり、秋が始まる。

2026年8月20日木曜日

ミョウガの花が咲いた

                                         
  先日、ダンシャリをしていたカミサンが和風ハーブの本を引っ張り出してきた。木村幸子著『ふるさとハーブ物語』(いしずえ、1998年)=写真上1=で、著者の木村さんはいわき市出身である。

 著者略歴によると、木村さんは磐城女子高校(現磐城桜ケ丘高校)から法政大学へ進んだ児童文学作家である。

 カミサンとつながりのある先輩と同学年で、その先輩から本の恵贈にあずかったようだ。

 『ふるさとハーブ物語』では、シソの実に始まってカヤの実で終わるまで、ネギ・ウド・ユズ・ニンニクなど15種類の和風ハーブを取り上げている。

たとえば、ネギ。子どものころはネギの味噌汁が嫌いだったという。やがて大人になり、PTAで親しくなった母親たちと浅草の「駒形どぜう」へ行ったとき――。

小鍋に並べられたドジョウの上に山盛りにのせられた、小口切りのネギの煮えたのを、ドジョウよりもおいしいと感じながら、ネギが好きになったのは会津の曲がりネギを食べたときだったことを思い出す。

子どもの味覚と大人の味覚はやはり違うようだ。私自身、フキノトウは子どものときは苦くて嫌いだった。

それが新聞記者になり、取材先の草野美術ホールでフキノトウを焼いて一献となったとき、苦さが酒に合うことを知った。以来、フキノトウが手に入ると必ず酒の肴にする。

フキノトウだけでなく、ミョウガも出てくる。ある日、PTAで知り合った女性2人、店で飲み始めると握りずしが出てきた。その1つのネタがミョウガの甘酢漬けだった。

著者は甘酢漬けを口にしながら、子どものころを思い出す。好きだったのはナスとミョウガの油炒め、キュウリとミョウガの酢のものだった。

糠漬けのキュウリやナスに細かく輪切りにして水にさらしたミョウガを、細かく刻んだショウガとともに和えたものも好きだったという。

後日、店をやめた女主人と地下鉄の車内で偶然、一緒になる。自分が降車する駅に着いて別れるとき、女主人がいう。「ミョウガは、ほぐしてサッと蒸したものに薄く塩を振って、甘酢に漬けるだけ」

そのミョウガがわが家の庭でも姿を見せるようになった。薄く黄色い花をつけている=写真上2。春に芽生えたものはミョウガタケ、月遅れ盆のころに根元から現れて花を付けるのはミョウガの子という。

糠漬けにする。甘酢(わが家では甘梅酢)漬け同様、縦に2つに割って糠床に入れる。じかに入れると取り出すとき、小さくてどこにあるかわからなくなる。

前は小さなプラ容器に糠味噌を入れてそれに寝かせたが、今はガーゼに包んで糠床に入れる。

わが家の庭、隣の故義弟の家の庭、夏井川渓谷の隠居の庭と、ここしばらくはミョウガの子から目が離せない。

2026年8月19日水曜日

高木敏子さんが亡くなった

                                                     
   ベストセラーになった児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者高木敏子さんが8月8日、亡くなった。94歳だった。

『ガラスのうさぎ』は少女の過酷な戦争体験記である。高木さんは東京大空襲で母と2人の妹を、疎開先の神奈川県で米軍の機銃掃射によって父を失った。

終戦直後の昭和21(1946)年2月末、13歳の高木さんは寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、常磐線で焼け野原の東京へ戻る。

しかし、列車は平止まりだった。たまたま列車で同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」がいる。

「おばさん、ありがとう。わたしはきっと、このご縁を一生忘れないでしょう。いつかまた、かならずお礼に参ります」

少女は33年後、誓いを実行する。昭和53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。

私は当時30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。

 当時の記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。(略)残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」

幸い「おばさん」が判明し、高木さんは翌年1月4日、再会を果たす。広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。

勿来のおばさんは77歳になっていた。「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」と答えている。

高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした(以上、いわき民報の記事=写真=を参照・引用)

訃報に接して、勿来のおばさんを捜す記事を書いた記者(再会の記事は別の記者)として、当時のやりとりがよみがえった。

 令和元(2019)年8月1日の拙ブログでも高木さんに触れていた。若い人と『ガラスのうさぎ』の話になったこと、新たに高木さんの『ラストメッセージ――ガラスのうさぎとともに生きて』を読んだことを書いている。

――『ラストメッセージ』は、『ガラスのうさぎ』と合わせ鏡の半生記でもある。どちらにも平和への祈りがこもる。

「命の終わりのときには、『ペール・ギュント』の中の『オーゼの死』か『夜明けの歌』、そのどちらかを流してもらいたいとわたしは思っています」――

理由は、青春の思い出がからんでいるからだった。戦後、男子校の第九中学校(現都立北園高校)でイプセンの劇詩「ペール・ギュント」をやったとき、先生からの依頼で第七高女(現都立小松川高校)の生徒だった高木さんが「純情な女」ソルベーグ役でゲスト出演し、グリーグ作曲の歌もうたった――。

訃報を知って、一度だけ聴いたことのある、グリーグのこの曲が思い浮かんだ。