2025年11月11日火曜日

続・じゃんがら人形

                                
 いわき駅前の総合図書館で常設展「デザイナー鈴木百世(ももよ) 知る人ぞ知るいわき人」が始まって半月余り。

 11月8日に展示コーナーをのぞくと配布資料が積んであった。これが欲しくて、図書館へ行くたびにコーナーに足を運んだ。

これまで何度か拙ブログで鈴木百世について触れてきた。そのたびにこのグラフィックデザイナーと、彼の創案した「じゃんがら人形」のその後を知りたい、という思いが強まった。

常設展には「じゃんがら人形」の写真が展示されている。その解説に、昭和36(1961)年、現在の上皇上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、郷土工芸品の「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上された、とある。

 拙ブログではそれには触れず、去年(2024年)11月7日に亡くなったカミサンの弟の遺品の中に5人組の「じゃんがら人形」があったことを紹介した。

 資料を読みながらひらめいたことがある。当時のいわき民報に「じゃんがら人形」のことが書いてあるかもしれない。

 図書館のホームページから「郷土資料のページ」に入り、昭和36(1961)年5月下旬から6月上旬のいわき民報をチェックすると、5月29日付の3面にあった。

「皇太子ご夫妻へ“じゃんがら人形” 鈴木恭代さんの力作を平市が献上」という見出しで経緯が紹介されている。

 恭代さんは百世の妻で、昭和27(1952)年、亡き夫が考案した「じゃんがら人形」の制作を再開した。

平市が、皇太子と美智子さまの来市の折、この「じゃんがら人形」の献上を決め、恭代さんに発注した。

 資料の末尾には参考資料の一つとして、昭和62(1987)年7月7日付のいわき民報(縮刷版)も紹介されている。

 電子化されたいわき民報は昭和57(1982)年までしかない。図書館で縮刷版に当たると、「『じゃんがら人形』秘聞」と題する猪狩勝巳さん(炭田研究家)の寄稿文が載っていた。

猪狩さんは「常磐炭田鳥瞰図」を入手して、初めて作者の鈴木百世を知った。百世の長男は当時、内郷公民館長をしていた。

地元に優れた工芸家がいたことを記録にとどめなくてはと考え、長男から聞いた話を交えて百世の経歴を紹介した。

 猪狩さんはこのなかで、「じゃんがら人形」の原材料などに触れている。百世は赤井・好間から出る良質の粘土で素焼きの人形をつくり、泥絵の具で着色した。

戦後、恭代さんが制作を引き継ぐ経緯も伝えている。いわき民報と平市商工課から復活の要請を受け、悩んだ末に制作再開を決めたという。

まずは既存の「じゃんがら人形」を借りて、石膏でかたどりをし、1年をかけて再生に成功する。この民芸品制作は、恭代さんが老齢で制作を打ち切るまで続けられた。

義弟が購入したのは、制作最終期の昭和50年代の終わりごろだろう。義弟の遺品をきっかけに、命日からほどなく疑問が解けたことになぜかホッとしている。

2025年11月10日月曜日

お福分けがドサッと

        
 11月に入るとさすがに石油ストーブをつける日が増えた。晩酌は、茶わんの焼酎とは別に、ポットのお湯を盃に注いで、のどの奥でお湯割りにする。

 ある晩のつまみは、ゆでた落花生にサツマイモのてんぷら、それに「仙台名産 鐘崎の笹かまぼこ 大漁旗」だった。

 笹かまぼこは楢葉町の知人の仙台みやげだ。顔を出すたびに手づくりのおかずや酒のつまみを持ってくる。ありがたいことである。それでカミサンの台所仕事が一つ減る。

 落花生は海に近い農村部に住む後輩が、自分の家の畑で栽培した。サツマイモも届いたが、それは別の日に焼きいもになって出てきた。

 後輩の家は前と後ろに長い畑がある。一角を借りて家庭菜園として野菜を栽培している人もいる。

 今でも記憶にあるのは4年前(2021年)の秋のお福分けだ。軽トラで庭まで乗り入れ、荷台からスイカ、トウガン、メロンといったウリ科の大物を玄関の上がりかまちに置いた。どれも大きくて重い。全部、後輩が栽培したものだった。

 たぶんそのころか翌年あたり、パパイアの栽培を始めた。最初はビニールハウスで、今は裏の畑で。

海外生活を経験し、向こうでパパイア料理に親しんだのが大きいようだ。今年(2025年)もお福分けが届いた。落花生とサツマイモのほかに、パパイアとトウガンがあった=写真。

4年前の大物のときは「ドカン」という感じだったが、今回は「ドサッ」という感じだ。こちらもまとめて持つと重い。

食べきれないので、いつものようにお福分けのお福分けをする。おもしろいことに、古着や不要になった食器だけでなく、野菜も届いては出ていく。そして別のものが来る。

衣食住でいえば、住=建物はハブ空港、そこを起点に人が、モノが行き来する。野菜や果物は金銭を伴わない移動だから、こちらも、そして向こうも少しは家計の足しになっているはずだ。

後輩のトウガンは薄く刻んで吸い物になった。びっくりするほどやわらかい。味が染みている。

悩ましいのはパパイアだ。初めて青パパイアをもらったとき、「皮をむく、切る、水にさらす。それからサラダにして食べる」。そう教えられた。

しかし、それでも硬い。どうしたらこの硬さがほぐれるのか。ネットで探ると、炒め物、煮物、せん切りのてんぷらやきんぴらもいい、とあった。つまりは、もっと薄く切る。細くする、ということだろう。

その延長で浅漬けにすると、少しはしんなりしたが大根のようにはならない。ずいぶん稠密(ちゅうみつ)な食材だ。

 で、パパイアは今回、楢葉町の知人の家に飛んで行った。知人は農家レストランを開いている。パパイアを見て、「これ、何?」と驚く客がいたという。そういうカルチャーショックもたまにはいいものだ。

2025年11月8日土曜日

「チャイの部屋」

                                           
     ある日、インド料理店「マユール」を経営していた奥さんがやって来た。米屋をやっていたころ、「お得意さん」だった。お母さんもよく知っている。

「マユール」と同じところで6月18日、「チャイコタ」というカフェを始めたという。「チャイコタ」の「コタ」はネパール語で「部屋」という意味だそうだ。

ドリンク1杯のサービス券が付いたミニメニュー表を持参した=写真。それによると、チャイを主体にしながらも、ポークキーマカレーのランチも出す。

ドリンクに「マンゴーラッシー」、フロートに「ラッシーフロート」があった。「ラッシー」とは? ネットには、インドや南アジアで親しまれている、ヨーグルトをベースにした飲み物、とあった。

「マユール」が「チャイコタ(チャイの部屋)」に生まれ変わったことは、つい先日、フェイスブックの友達からの情報で知った。「チャイでも飲みに行くか」。そう思っていた矢先のサービス券持参だった。

もともとは新舞子海岸にあった。東日本大震災で大津波の直撃を受け、人的被害はなかったものの、「全壊」の判定を受けた。

その10カ月後、奥さんの実家の一角を利用して、規模を縮小しながら再オープンした。夫はネパール人。以前のように向こうのシェフを雇う余裕はない。夫と2人だけの再出発だった。

 「マユール」はわが家から車で5分ほどのところにある。今年(2025年)5月中旬、惜しまれながら閉店した。

 わが家はカミサンの実家(米屋)の支店を兼ねていた。本店が去年の秋、米穀の新年度(11月にスタート)を前に米屋を廃業した。米の配達をやめて半年後の閉店だった。

マチの商店などでは高齢による体調不安、後継者不足などから営業の継続が難しくなっているところが少なくない。個人営業のところはいつかその問題に直面する。

「チャイコタ」の営業時間は午前11時半から午後4時まで。無理のない範囲で店を開いているということだった。

定休日は月・火曜日で、家事の都合で随時休業もあるようだ。その点はわが家も同じだ。

米屋をやめてカミサンの趣味の店と地域文庫だけになってからは、マチに用事があるときは一時店を閉めて出かける。年をとっているのだから、もうゆるやかでいい。

で、10月の末に「チャイコタ」を訪ね、「10食限定」という「お得なランチセット」で腹を満たした。

ドリンクにはチャイを頼んだ。サービス券は、食事ではなくチャイだけを飲みに来たときに使ってくださいというので、そうすることにした。

なにはともあれ、チャイの部屋として再出発した。ゆっくりと、休み休みでもいいから、長く、長く続けてほしい。

2025年11月7日金曜日

戦争の危機

                                             
 チケットの販売を頼まれたので、何人かにお願いし、私ら夫婦も買って聴きに行った。いわき九条の会・秋の講演会である。

 講師は布施祐仁(ゆうじん)さん、49歳。演題は「戦後80年・日本を再び戦場にしないために~戦争の危機と平和憲法を活かす道~」で、歴史的経過とデータに基づいて米国従属の日本の軍拡を批判し、戦争回避の外交努力こそが必要と説いた。

 布施さんの名は東日本大震災と原発事故を機に知った。事故1年半後の2012年秋、『ルポ イチエフ――福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)が出版される=写真上1。

 いわきを中心に、命がけで事故収束のために奮闘した原発作業員を取材し、劣悪な労働環境と搾取の構造などを明らかにした。

同じころ、門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所刊)も読んだ。それを紹介する拙ブログから一部を抜粋する。

――郡山市に陸上自衛隊が駐屯している。駐屯地には消防車が配備されている。3・11の夕刻、原発側からの要請で福島市の駐屯地にある消防車と合わせて2台に出動命令が下った。

翌3月12日朝にはもう、東電の消防車と連結して1号機への注水・冷却活動を始めている。建屋爆発にも遭遇した。

郡山に駐屯している特科連隊は「浜通りはもちろん、福島全体から隊員が集まった“郷土部隊”」だ。

「入れつづけた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた――福島県とその周辺の人々に多大な被害をもたらしながら、現場の愚直なまでの活動が、最後にそれ以上の犠牲が払われることを回避させたのかもしれない」――。

警察や自衛隊だけではない。事故現場の最前線にいた労働者の存在も忘れるわけにはいかない。

布施さんは『ルポ イチエフ』の「あとがき」で、命がけで守ろうと思うほどの郷土愛をうらやましく思ったとつづる。

そして、「『郷土愛』とは、同じ時間を共有しながら育って来た幼なじみや同級生の存在があるからこそ、強く深いものとなる。これも、浜通りの地元出身の原発作業員たちから学んだことだ」。

 だからこそというべきか。「故郷とそこにつながるすべてのものを根こそぎ壊された彼らの喪失感と悲しみの深さに、言葉を失った」のだった。

布施さんが外交・安全保障を専門にするジャーナリストだと知ったのはずっとあとだ。

彼の目には、日本はアメリカに従属し、言いなりになって「戦争ができる国づくり」を進めていると映る。核の危機でもある。

 講演した内容は『従属の代償――日米軍事一体化の真実』(講談社現代新書)=写真上2=に詳しい。

 この本は、チケットを買ってくれたが、講演には行けなかった知人が次に読む。知人は大熊町に自宅がある。しかし、帰還困難区域なので帰れない。原発も、戦争も核の危機をはらんでいるという点では同じなのかもしれない。

2025年11月6日木曜日

みんなの食堂

                                
  「こども食堂」にはちがいない。が、「子どもも、大人も」なので、「みんなの食堂」だ。正式には「いいのみんなの食堂」という。

    NPO法人が毎月第2・4火曜日、地元の旧フランス料理店を会場に開いている。最初に訪ねたのは9月の第4火曜日、秋分の日だった。

旧知のスタッフから連絡が入った。「よかったら食べに来て」。カミサンの実家に顔を出し、墓参りをしたあと、午後3時に「みんなの食堂」を訪ねた。

 会場は「レストラン シェ 栗崎」。いわき市平南白土の葬祭場「ラポール平」の裏手にある。

 わが家からは夏井川の向かい側、山崎(平)を過ぎて新川を渡り、葬祭場手前を左折するとほどなく店に着く。感覚的には「川向こうの『みんなの食堂』」だ。

 月に2回、午後2時にオープンし、2時間ほどは子どもの宿題と交流タイムに充てる。4時から7時までは大人もOKの食事タイムになる。

 調理を担当するのはシェフの栗崎さん。奥さんが若年性認知症と診断された。それで南白土の店を閉じて、いわき駅前に小さな店を開いた。

そうしたなかで、地域住民の要望を受けて、空き店舗が「みんなの食堂」として利用されることになった。栗崎さん自身もNPOの副理事長としてかかわっている。

食事は、子どもは無料、大人は「投げ銭」という。この日はカレーライスが出てきた=写真。

お代は?となると、通常のレストランを基準にする人ばかりではない。一般論だが、困窮している大人もいる。となれば、自分のふところと相談すればいい。そこは福祉的な性格の店だから自由(投げ銭)、ということなのだろう。

10月は14日と28日。10月も「みんなの食堂」を利用した。理由は二つ。一つはおいしいこと。もう一つは、この日の夕食はカミサンがつくらなくてもいいからだ。つまり、「カミサンが夕食をつくらなくてもいい日」として利用する。

それと、スタッフの友人のダンナさんもこの日はここで夕食をとる。ダンナさんとも付き合いは長い。

私が会社を辞めて家に引っ込む。それと同じで、彼も現場から離れて家に引っ込む。

で、なにかあるときは電話で話し、その電話も間遠になって、今はすっかり会うことがなくなった。それが「みんなの食堂」で再びおしゃべりをするようになった。

10月28日は、行ってびっくりした。ハロウィンのイベントが行われていた。店の外も中も扮装した子どもたちでいっぱいだった。

孫のような子どもたちが脇を行ったり来たりするなかで、彼と私ら夫婦と3人でシチューライスを食べた。

子どもたちのにぎやかさも加わり、食事が終わるころにはいちだんとくつろいだ気分になった。

2025年11月5日水曜日

渓谷の露地売りオープン

                                
   夏井川渓谷も紅葉のシーズンに入った。カエデはこれからだが、尾根から谷筋までツツジのアカヤシオやヤマザクラその他の落葉広葉樹が赤や橙、黄色に染まり、アカマツとモミの緑に混じって「錦繡(きんしゅう)」をまとっている。

10月26日の日曜日は朝、雨から曇天になったものの、渓谷の隠居へ行くのを断念した。

翌週の日曜日(11月2日)は、平六小体育館で開かれた神谷公民館まつりのオープニングセレモニーに出席したあと、いつもよりは遅い時間に渓谷へ向かった。

この時期になると、磐越東線江田駅前には食べ物を出したり、野菜を売ったりするテント村ができ、渓谷の錦展望台では小野町のNさんが直売所を開く。

Nさんの直売所はパイプを組み立て、ブルーシートをかけただけの簡素なものだが、自分の畑から掘って来たとろろ芋やゴボウ、曲がりネギなどが並ぶ。

Nさんは江田駅近くの背戸峨廊(せどがろ)入り口向かい、県道小野四倉線沿いの空き地にも直売所のスペースを借りている。

既にパイプで小屋の骨組みができていたが、朝10時前にそこを通ると道端にロープが張られていた。

錦展望台には来ているかな? 隠居の手前にある展望台を見ると、Nさんの直売所に行楽客が何人かいた=写真上1。江田の方は休んでこちらに張り付いたようだ。

Nさんはもう何年も前から、紅葉シーズンになると背戸峨廊入り口の空き地で自産のとろろ芋などを直売する。で、まずは曲がりネギを、次いでとろろ芋を買うのが習いになった。

1年ぶりの再会である。顔を出すと、「ああ」といった表情ですぐ曲がりネギと大根、白菜、ゴボウを手渡される。そのあと、とろろ芋を手に入れた。それらをトランクに詰めるといっぱいになった=写真上2。

江田では直売所の近くにある江田川橋の改修工事が始まった。Nさんには、これは想定外だったようだ。江田川は夏井川の支流で、別名・背戸峨廊。本川に合流する手前で県道と交差する。

最近、橋の前後の道端に工事を告げる看板が立ち、欄干の外側にも足場が取り付けられるなどした。直売所前にも工事の看板が立った。これでは車は止めづらい。展望台で今シーズン最初の露地売りをしたのもそのためだろう。

曲がりネギを手に入れたら、まずはネギとジャガイモの味噌汁である。翌4日朝、今季初めてネギジャガの味噌汁を味わった。

ジャガイモと曲がりネギのやわらかさが混じり合い、ネギの香りと甘さが口内に広がる。ふるさとの味噌汁の味である。これは毎日出てきてもいい。

白菜は夜、鍋にした。しゃぶしゃぶ用の豚肉を買って来て、鍋で湯がいて、タレにつけて食べた。すぐ満腹になった。寒い晩はけんちん汁が一番だが、準備の簡単な鍋もいいものである。

2025年11月4日火曜日

題48回吉野せい賞表彰式

                        
 第48回吉野せい賞表彰式が11月1日、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた=写真。

 今年(2025年)の正賞(せい賞)は該当作品がなく、準賞に良川十鵜(よしかわとおう)さんの「凪(な)ぐ」、奨励賞に伊関鉄也さんの「ファミリー(The Family)」、中山孔壹(こういち)さんの「未完の器」、高校2年渡部綾音(あやね)さんの「くぐる」が選ばれた。

 中学生以下の青少年特別賞は中学2年小林礼依(れい)さんの「ステップ」が受賞した。

4人の選考委員を代表して、毎年、選評と総評を述べる。何年も作品を読んでいると、その年の特徴のようなものが見えてくる。今年は「奇妙な物語」が多かった。

ずっと先の未来の話や、過去と現代の間を自在に行き来するタイムトラベルの物語、あるいは心霊、輪廻転生を取り入れた作品などが目立ったことによる。文学を取り巻く環境がなにか新しいステージに入ったような印象を受けた。

そうした時代の反映なのか、選考過程で直接議論したわけではないが、一般論として「AI小説」があらわれたらどうすべきか、選考委員の間で話題になった。そんなことを総評のなかで述べた。

コロナ禍前は受賞者と会食する機会があったが、今はどちらも壇上からの話を聞くだけだ。それでもあとで2人の受賞者と話すことができた。

驚いたことがある。準賞受賞者と奨励賞受賞者の一人が知り合いだった。片方がペンネームだったために、会場で顔を合わせるまで知らなかったという。こんな偶然はせい賞の表彰式では初めてだろう。

表彰式のあとは、仙台在住の芥川賞受賞作家佐藤厚志さんが「地方で小説を書く」と題して記念講演をした。以前は「書店員作家」だったが、今は作家業に専念しているという。

佐藤さんが心のよりどころとしてきた言葉がある。ネットで確かめたら、詩人高村光太郎が、宮沢賢治が死んだとき、岩手日報に寄せた追悼文だった。

「内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺縁に居ても常に一地方の存在から脱する。内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心に居ても常に一地方的な存在に終る」

地域に根差して普遍に至る。それが賢治文学である。いや、吉野せいもそうだ。今も賢治が、せいが読まれるのは、作者が「内にコスモス」を持っていて、作品が独自の光を発しているからだろう。

若いとき、賢治をむさぼり読んだ。今はもう「卒業」したつもりになっていたが、そうでもなかった。

賢治作品に立ち返ることがある。せいの作品についても、あれこれ調べを続けている。コスモスを内包した文学にはやはり引かれる。