東日本大震災から今年(2026年)で丸15年がたつ。原発事故が起きたこともあって、3・11はいまだに現在進行形のままだ。
沿岸部は大津波に襲われ、壊滅的な被害に遭った。山林には放射性物質が降り注ぎ、野生キノコは今も摂取・出荷が制限されている。
1月最後の日曜日、ヤマ(夏井川渓谷)の隠居からハマ(薄磯海岸)のカフェ「サーフィン」へ移動して昼食をとった。
そのとき、ママさんが店の上の部屋からキルトの作品を引っ張り出してきた=写真。なにかのはずみで被災したキルトの話になったのだ。
カフェは震災前、海岸堤防のそばにあった。2階の店から太平洋が見えた。私たちはいつも窓際の席に座った。
カミサンとママさんは付き合いが長い。共にパッチワークをやる。ママさんが古裂(こぎれ)を買いに来る、私ら夫婦がコーヒーを飲みに行く、といったことを続けていた。そのカフェが東日本大震災の大津波で流された。
薄磯だけで122人(直接死111人)が亡くなり、集落がほぼ壊滅した。ママさんも義理の弟夫婦など身内を何人も失った。
被災直後は、薄磯への立ち入りはできなかった。日曜日に限って通れるようになった7月、カフェのあった付近に、1階部分の壁が抜けながらもポツンと立っている2階建ての家があった。
店と地続きのママさんの自宅だった。そこにたまたまママさんがいた。被災後初の再会が生存の確認になった。
一時湯本でカフェを再開し、その後、高台移転のために切り開かれた薄磯の山のふもとに店を新築した。
津波から生き延びたあと、流されて砂に埋もれていたキルトを回収した。店の看板や食器なども見つけた。家に残ったキルトも塩水をかぶった。
その年の10月末、鹿島ショッピングセンターで「甦(か)えってきたキルトたち」展を開いた。
津波に遭った作品のほか、看板、食器など、ママさんの思い出の詰まったものたちが展示された。
それから15年――。塩水につかったせいで生地がかすれてきたものがあるという。冒頭の作品がそれだった。
大作である。端午の節句になると、庭先に「幟(のぼり)」(小旗)を掲げる。その武者絵を再利用したキルトで、ところどころ生地がほつれて色が消えていた。
海水につかったキルトはコインランドリーで洗い、乾かした。七面鳥をモチーフにした小品が店の壁に飾ってある。こちらは被災前と変わらない色合いを保っている。生地によっては傷みが出るのだろう。
これもまた、「そのとき」と「その後」を伝える津波遺品にはちがいない。どこかで「津波に遭ったキルト」を展示し、広く市民に見てもらったらどうだろう。
少なくとも作品を通して、震災を、津波を感じることはできる。さらに、そこから防災へと思いを致すことはできる。15年の節目にそんなことを思った。