2026年2月10日火曜日

突然の選挙・上

        
  予想もしなかった衆議院解散・総選挙だった。その余波が巡りめぐって、地域の片隅で暮らす後期高齢者にも及んだ。

 解散・総選挙を報道で知り、どこの区長が投票所の管理者と立会人になるか、すぐ気になった。

令和7(2025)年7月には参院選、その2カ月後にはいわき市長選が行われた。参院選では地元の投票所の管理者を務めた。

前は、管理者は市職員OB、立会人2人のうち1人は区長というのが、地元の投票所の慣例だった。それが近年、管理者も、立会人の1人も区長という流れに変わった。

最初に立会人を務めたのは、平成29(2017)年10月の衆院選、次は令和3(2021)年9月の市長選だった。間に福島県知事選など4回の選挙をはさんでいる。

3回目は令和5(2023)年11月の県議選で、このときは管理者だった。4回目は少し順番が早まって去年(2025年)7月の参院選だ。やはり管理者を務めた。間には2回選挙があっただけだ。

同じ小学校の学区に8人の区長がいる。投票所は小学校と中学校の2カ所。管理者・立会人も2カ所に分かれる。計算上、今回は役目が回ってこないはずだった。

投票日には予定が入っていた。恒例のいわき昔野菜フェスティバルが開かれる。主催者側の一人なので、なんらかの役割がある。

ところが某日朝8時半すぎ、市役所の始業時間と同時に電話がかかってきた。選挙管理委員会からだった。

 やむを得ない。立会人を引き受け、イベントの方は事務局に理由を伝えて欠席することにした。

役がないときは当日、投票所に出向き、だれが管理者と立会人になったのか、激励を兼ねて確かめるのだが、今回はその役目がこちらに回ってきた。

で、1週間前の日曜日(2月1日)、宣誓書=写真=を持っていわき駅前のラトブで期日前投票を済ませた。

立春のあととはいえ、まだ厳寒期だ。早朝6時半には投票所の小学校体育館に赴き、投票が終わる夜7時以降、借り上げのタクシーで最高裁の裁判官国民審査を含む投票箱を3つ、開票所の総合体育館へ運ばないといけない。そこまでが役目。とにかく長丁場だ。

令和5年の県議選は11月12日に投開票が行われた。そのときの寒さ対策がブログに残っている。一部修正しながら再掲する。

  ――下はパッチとコールテンのズボン、上は長そでと厚手のシャツ、ブレザー、ジャンパーで出かけた。

投票所は、出入り口が開放されている。ジェットヒーターが動いていても、暖気は投票事務従事者には届かない。

いくら冬着に替えても、ジェットヒーターが動いていても、寒気がじわじわと足を、首筋を冷やし続ける。午後には体が小刻みに震えることもあった。

冬は戸の開いた施設で寒風を遮る工夫ができないものか。投票事務に従事する職員がかわいそうでならなかった――。

 これを上回る防寒対策をすること。政治に振り回された挙句、風邪を引いた――では話にならない。絶対風邪を引かないことを自分に言い聞かせた。

2026年2月9日月曜日

ページめくり

                         
   寝床では大活字本を読んでいる。年が明けて間もなく、おかしなことが起こった。

次のページへ行くと、文章がつながらない。どうしたんだろう? 確かめると、裏のページではなく、そのまた裏のページをめくっていた。要は2枚めくり。これが今も続いている。

 前は、そんなことはなかった。ちょっとした感覚の差だが、めくったときに紙が厚く感じることがある。2枚かな? 間違いない。紙をはがすように分けると2枚ある。これがしょっちゅうだ。

前は右肩を下にして右手で本を支え、左手の指で1枚1枚めくりながら本を読んだ。今はその逆をやっている。

別の本を積み上げた上にクッションを置き、それに左腕を載せる。本を左に持って、左の手の親指でこするようにページをめくる。

右手はまったく使わない。いや、正確には使えない。掛け布団の下の毛布を首までかける。右手で端をつかんで左手を覆うからだ。手の指の防寒を意識したらそうなった。

2枚めくりになる原因をあれこれ推測する。まずは空気の乾燥。冬は空気が乾燥し、指先もその影響で乾く。

隣組、あるいは隣組の世帯数ごとに回覧資料を分けたり、数えたりするとき、冬場は舌で指をなめながらやる。そうしないと数え間違って最後に紙が足りなくなり、一からやり直すことがある。この乾燥が原因の一つだろう。

老化もある。高齢者は指紋が薄くなってツルツルしている。皮膚の乾燥も進む。それで紙の引っ掛かりが弱くなり、ページがめくりにくくなるのではないか。ネットで探ると、AIがそんなことを言っていた。

大活字本の紙質はどうか。いや、それはない。日中、普通の新書本を読んでいてもそうなる=写真。

日中は左手に本を持ち、右手の親指でページをめくっている。それでも2ページをめくるときがある。カミサンに聞くと「私もそうだ」という。本も冬は乾燥するのだ。

本と違って新聞はめくりやすい。なかなかめくれないときは、紙をこするようにしながらずらす。すると、はがれる。これができるのは紙がペラペラしていてコシがないからだろう。

それにスパッと裁断された左右の端と違って、新聞は天地がギザギザしている。高速輪転印刷と高速裁断を同時に行うために、ギザギザの刃による裁断が行われる。このギザギザもページをめくりにくいときに役に立つ。指に引っ掛かりができるからだ。

本の2ページめくりを防ぐには――。部屋の加湿だけでなく、指先を保湿する。そのためにクリームを塗る。指先を冷やさないようにすることもいいらしい。クリームは毎日塗っている。

科学的に推測すると、冬の乾燥が主因、老化が副因というところだろうか。老化にとらわれ過ぎるのもよくないが、年を取ったからこそわかる「発見」でもあった。

若い人はこんな経験はできないだろう。年を取ると「初体験」が増える。「経験知」でいえば、やはり年寄りにはかなわない(ま、2ページめくりはしない方がいいけど)。

2026年2月7日土曜日

刺し身とひな人形

                                
 厳寒期の日曜日は、夏井川渓谷の隠居へ行ってもやることがない。滞在時間はグッと短くなる。

 2月1日は午前10過ぎにいわき駅前のラトブで期日前投票をしてから出かけた。隠居に着くと、私は下の庭でフキノトウを採り、カミサンは上の庭でスイセンを摘んだ。

 それからすぐマチへ下り、家に戻って昼食をとった。ヤマからハマの中之作へ直行するつもりでいたが、どうにも頭が重い。

 早寝早起きが習慣になって、早朝4時半には起きる。正午過ぎには動き出して8時間もたっている。年寄りには「脳休め」が必要だ。

しばらく横になっていると、頭もすっきりした。海岸道路へ出て、海を見ながら薄磯~豊間~江名を通り過ぎ、中之作漁港に車を止めた。

 港の真ん前の清航館を会場に、1月31日から2月5日まで「つるし雛飾り」の祭りが開かれた。混雑を避けて、外から飾りをながめたあと、近くを散策した。

小さな店(菊屋)の軒下につるし雛が飾ってあった。駐車スペースには野菜(ネギ・大根・白菜)が何袋か。紙に1袋600円と書いてある。

すぐガラス戸が開いて、店主が中に招き入れる。元は遠洋漁業相手の薬屋だったという。

中には商品の衣類のほか、つるし雛とひな壇があった。ひな壇の一番上には古い男雛(おびな)と女雛(めびな)が飾られていた=写真。

店主が説明してくれる。「うちのひな人形で、ドラム缶に入れて保管していた。東日本大震災では腰まで浸水した。雛人形はドラム缶に入っていたので、プカプカ浮いていて無事だった」

それがよかったのだろう。「沈まない」(落ちない)人形として、受験期になると拝みに来る人がいるという。

店の前の野菜は? 「私がつくった。ネギは九条ネギに赤ネギ」。九条と赤とは珍しい。1袋を買う。

さて、そのあとどうするか。日曜日で、夕方も近い。「小名浜で刺し身を買って帰ろう」。カミサンもうなずいて、「道の駅いわきら・ら・ミュウ」へ向かう。

やはり海の見える道路を利用し、下神白に入ると三崎公園経由で港に出た。海が西日を反射してまぶしかった。

ら・ら・ミュウでは「海鮮市場通り」を巡った。が、ブロック(柵)は売っていても、刺し身は見当たらない。聞けば「刺し身はない」という。

そうか、小名浜の道の駅は遠来の観光客が相手だから、家で食べるころには鮮度が落ちる。干物かブロックなのは食中毒予防の意味もあるのだろう。これは私の勝手な解釈だが、妙に納得した

しかたない。小名浜のマチの魚屋さんはよくわからない。海岸道路を戻って四倉の魚屋さんを目指す。小名浜から四倉まで長い海岸ドライブだ。

目当ての店に着くと「改装休業中」だった。では、前の週と同じスーパーへ。今度も同じ刺し身の盛り合わせを買った。

午前は期日前投票をしたり、隠居へ行ったり。午後はひな人形の物語に感動したり、刺し身を求めて右往左往したり。日曜日なのに走り回ってくたくたになった。

2026年2月6日金曜日

今年も「エア豆まき」

                                 
   2月3日は節分、翌4日は立春。その前、2日は満月だった。

立春はもちろん、待ちに待った節気の一つである。いわき地方は1月末の極寒を経て、寒暖を繰り返しながら春に向かう。

その区切りの行事が3日の節分、豆まきだ。今年(2026年)も福升(ふくます)にピーナッツを入れ、戸を開けて、庭に向かって「福は~内、鬼は~外」とやった。ただし、ピーナッツはまくまねだけ、「エア豆まき」だ。そのために一度神棚に供えた。

子どもがいたころは青豆を炒(い)ってまいた。青豆がやがて落花生に替わり、2階を省略して茶の間だけになり、老人2人だけの今は、落花生がピーナッツに化け、庭に向かって声を出すだけになった。

落花生にしたのは、青豆だとあとで拾い集めるのが大変だからだ。庭にまいた青豆は拾うわけにもいかない。

で、内も外もエア豆まきになった。戸を開けると、「さくら猫」のゴンがこちらを見て「ニャー」と鳴いた。唯一の観客である。

そのあとは福升をそばに置いて晩酌を始める=写真上1。もともとピーナッツは酒のつまみ用に買っておいたから、切り替えは早い。

福升は神棚に置いて毎年使う。平の飯野八幡宮製で、25年ほど前にカミサンの実家から届いた。

升には「福」と「壽」の文字、巴太鼓の図柄、そして「平成十一年節分祭」と墨書してある。1年に1回はこの福升を使い、エア豆まきが終われば、すぐチビリチビリとやる。

この日は早朝にも心がときめいた。カミサンを接骨院へ送って行った帰り、西空に丸い月が輝いていた=写真上2。

前日が満月だった。真夜中にいったん起きてブログをアップする。茶の間へ行くと、玄関のガラス戸がほんのり明るい。

茶の間のカーテン越しに庭を見る。車がよく見える。影もできている。日影ならぬ月影だ。「月影」という言葉をすっかり忘れていた。

立春がきたらあれをやろう、これをやろう……。といっても、自治会の仕事が優先される。年度末の行事と年度初めの行事が連続する。その準備を今から進めないといけない。

自然の移り行きで言えば、冬至を迎えるとホッとする。一陽来復である。人間の世界では、立春を過ぎると年度末のあわただしさが待っている。

2日の満月は早朝7時9分にピークを迎えたという。それからほぼ24時間後の姿を見たことになる。朝日に照らされてほんのり赤みがかっていた。これも眼福である。

2026年2月5日木曜日

青馬と赤馬

                         
   今年(2026年)の干支(えと)は午(うま)。動物でいうと馬=写真=が主役だ。

いわき市消防本部と同居する平消防署には、国道399号沿いに干支をあしらった看板が掲げられる。    

ところが、今年はまだない(1月末現在)。なぜないのか。市役所などへ行った帰り、同署前の交差点で信号待ちをする。そのたびに掲示板を見て不思議に思う。何か理由があるのだろうか。

思い浮かぶのは「アカウマ」。知る人ぞ知る「放火」の隠語だ。例年、干支の動物をあしらったイラストがかかるのだが、まさか「赤い馬」は描けない。火を消すのが仕事なのに、たきつけることになってしまう。

ま、そんなことが理由のはずはないが、何とも気になって仕方がない。それがきっかけで馬が頭の中を走り回っている。

高専の学生だった10代後半、同級生とセットで馬のあだ名をつけられた。

学校ができて3年目。1、2年生は学生服に坊主頭(長髪は3年生から)だが、運動着は自由だった。

似た体格の同級生がいた。彼の運動着は青色、私のは赤色。彼とは、部活(陸上競技部)が一緒だった。

体育の授業でも、部活でも運動場を一緒に走る。色の対比がはっきりしていたのだろう。級友から「青馬」「赤馬」と言われた。そのころは未熟な少年だから、「アカウマ」が放火の隠語だとは知らなかった。

文学にも引かれて本を乱読した。ヒロシマの原爆を体験した原民喜の「夏の花」に被爆して死んだ馬が出てくる。

「苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。(略)さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである」

小2になったばかりの4月のある夜、町が大火事になった。巨大な胴を投げ出した馬はいなかったが、家畜小屋のあったあたりには、超現実的な家畜の焼死体が転がっていた。わが家のあったところからは、とろけて曲がった十円玉が出てきた。

15年前の大津波のあと、通行が解禁されて見た風景もまた超現実的だった。

干支の馬の話に戻る。今年届いた年賀状に「馬」の字が入ったことわざを記したものがあった。

「馬の耳に念仏」「馬耳東風」。こちらも思いつくままに文字をメモしてみた。「馬齢」に「馬脚」、あるいは「下馬評」。

戯文も二つほど。「天高く馬が肥える秋、人馬一体で牛飲馬食をすれば、人は馬面になり、馬は駄馬になる」「泣いて馬謖(ばしょく)を切るか、生き馬の目を抜くか、竹馬の友ならわかるだろう」

年明け早々、どこかの大学で飼われている馬が厩舎を抜け出し、通りを闊歩して厩舎に戻ったというニュースには馬鹿笑いをした。

そして、立春の日。仙台に住む級友から電話がかかってきた。陸上競技部の後輩の死を告げるものだった。級友だけでなく、3歳下の後輩とは馬が合った。駆け抜け方が早すぎるぞ、おいS君。

2026年2月4日水曜日

専称寺の梅林

                                
   常磐の梅林寺は主に紅梅。では、白梅は? もちろん、平の専称寺だ。

梅林寺の梅の花を見に行って以来、専称寺の白梅が頭から離れない。専称寺の梅林は例年、3月中旬が見ごろという。

専称寺は山号が「梅福山」だ。それで、昔から梅で有名だったかというと、そうでもない。

磐城平藩の中老、鍋田三善(1788~1858年)は自著『磐城志』で、専称寺についてこう記す。

山門の外、坂の中段左右に寮舎が5軒並んでいる。また南側、横に入り組んで5軒がある――。

寮舎は学僧が寝泊まりして修行するところ。それが江戸時代には10軒あった。

同寺はそのころ、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た学僧200人余が修学に励む「大学」(名越派檀林)でもあった。

 この名刹が近代になってさびれる。そこで旧平市時代、市の観光課長だか誰だかが音頭を取って梅の苗木を植えたのが名所の始まり、と聞いたことがある(それが正確ではなかったことが今はわかる)。

寺によると、数は白梅・紅梅合わせて500本。世間的には「名越派総本山」の「大学」より寮舎跡の「梅林」がすっかり有名になった。

「梅の寺」の始まりが知りたい――若いときからそう思ってきたが、いかんせん手がかりがなかった。

図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。いわき市で発行された地域新聞がデジタル化されて読める。

そこから情報を探ろうとしても、あまりにも茫漠としている。「情報の海」をどう泳いでいいのかわからない。

思いあぐねていたところへ、若い仲間から自身が組み立てた「いわき文献案内」の利用法を教えられた。

デジタル化された図書館の新聞記事を、グーグルを使って簡単に検索できるという。

さっそく「いわき文献案内」の検索欄に「専称寺 梅林」と入力したら、関連する記事が一覧で表示され、知りたい情報がすぐ見つかった。

まずは昭和48年1月26日付のいわき民報。小川町の中條実さんが「専称寺の梅林と箱崎昇吾翁」と題して寄稿していた=写真上1。

 それに、同36年2月20日付の常磐毎日新聞=写真上2。1面トップで専称寺の梅の開花を伝える。見出しに「春を呼ぶ一千本の梅林/箱崎氏の悲願実る/市も観光誘致に本腰」とある。

 2つの記事を合わせると、国鉄を退職した中神谷の箱崎昇吾さんが昭和8年から専称寺の境内に梅の苗木を植え続け、足かけ27年をかけて同34年、悲願の1千本を達成した。戦争をはさんでの偉業である。

箱崎さんは地元も地元、わが家と同じ字(あざ)の人だった。身近なところに、そんな志を持って行動した人がいた。

というわけで、まずは翁の存在に驚き、「いわき文献案内」の威力に感心したことを伝えたくて、速報的に紹介した。ちゃんとした調べはこれから、おいおいと。

2026年2月3日火曜日

情報革命

                                         
 いわき総合図書館の新着図書コーナーに珍しいテーマの本があった。こばやしあやな著『世界浴場見聞録』(学芸出版社、2025年)=写真=で、著者はフィンランドに住む。

 北欧のフィンランドと言えば、サウナ文化の国だ。10代半ばで見た映画に、サウナ小屋で体を温めた女性がそばの湖に飛び込むシーンがあった。

これが60年たった今もありありと思い浮かぶ。映画は確か、ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」、あるいは「続世界残酷物語」だった。

本のなかごろにサウナ文化が紹介されている。著者はフィンランドの大学院に入学後、中部のユヴァスキュラで暮らした。街は湖水地方のど真ん中にある。

「風光明媚なこのエリアには、多くのフィンランド人が家族用のサマーコテージを所有し(別荘は決して贅沢の象徴ではない)、湖畔のあちらこちらに、愛らしい木造サウナ小屋とそこから伸びる桟橋が覗いている」

映画のシーンと現実が重なり、「世界」あるいは「続世界」残酷物語をいつ、どこの映画館で見たか、確かめたくなった。

高専の1年か2年のときだった。日曜日に洋画専門の映画館で見た記憶がある。仲間が一緒だったかどうかははっきりしない。

図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を開き、デジタル化されたいわき民報の「映画案内」と映画館の広告を逐一チェックした。

それで、昭和39(1964)年11月、ひかり座で上映された「続世界残酷物語」らしいことがわかった。

後日、「パソコンのホームドクター」である若い仲間が来て、デジタル化された図書館の新聞記事を簡単に検索できる方法を教えてくれた。

彼が組み立てたネットの「いわき文献案内」がある。それを利用すると、過去記事を簡単に引っ張り出せる。

ためしに「世界残酷物語 映画」で検索すると、「続世界残酷物語」「ひかり座」「昭和39年11月13~23日上映」が瞬時にわかった。たぶんこれだろう。としたら、高専1年の冬休み前に見たことになる。

新聞の中身を逐一チェックしたときには何時間もかかった。「いわき文献案内」だと、知りたいことにすぐたどり着ける。

実は、前から「郷土資料のページ」を利用しながら、「キーワード検索ができないものか」と思っていた。それが現実のものになった。

図書館は過去の新聞記事(いわき民報は昭和56年まで)をPDF形式で公開している。グーグル検索を使うと、とても簡単に目的の記事を探せる、と「いわき文献案内」にあった。

かねがね望んでいたことが可能になったという意味では、私の中では大きな「情報革命」だ。

さっそく「いわき文献案内」を介して、思いつくテーマの情報を集め出した。以前に比べて、飛躍的に情報の質量が増した。

それでわかったのだが、専称寺が梅林として知られるまでには一人の人間の悲願があった。あしたにでもそのことに触れたい。