2025年11月28日金曜日

「ウ・サギ」

                                
 「ウサギ」は「ウ」と「サギ」に分けられる――なんて思ったわけではない。逆である。鳥のウとサギを並べると「ウサギ」になる。で、いちおう間に「・」(中黒=なかぐろ)を入れて「ウ・サギ」とした。

 神谷の夏井川にハクチョウが飛来してから1カ月。朝晩、わが生活圏をハクチョウが鳴き交わしながら飛び交うようになった。

 いわきの夏井川では三島(小川町)、平窪(平)、新川合流部の塩~中神谷(平)の3カ所でハクチョウが越冬する。

 塩の場合は下流のサケのやな場がある調練場(平中神谷)まで、ばらけるようにしてハクチョウが見られる。

 今年(2025年)は10月17日に「孫」の父親が平窪への初飛来を確認した。私はそれから1週間ほどたった25日に調練場で初めてハクチョウを確認した。

 それまでが大変だった。今年はどういうわけかハクチョウの越冬地にダイサギやアオサギが何羽もいる=写真上1。白い大型のサギをハクチョウと見誤ることがたびたびだった。

 三島では9月後半から、三島橋の上・下流で複数のダイサギが見られるようになった。ここでも何度か、ダイサギをコハクチョウと誤認した。

9月28日は朝、早めに家を出て8時ごろに三島を通過した。驚いたことに、三島橋直下の浅瀬にダイサギの大集団がいた。どこか近くにねぐらがあって、朝の食事にやって来たのだろう。

 三島や中神谷ばかりではない。夏井川を渡って平市街に入るとき、常磐線と並行する平神橋を渡る。その下流には国道399号(旧国道6号)の平大橋がある。この橋もちょくちょく利用する。

どちらかの橋を渡りながら、チラッと夏井川を見る。ときには上流にも下流にもダイサギがいる。

カワウも負けてはいない。週末は堤防の改修工事が休みになる。11月2日の昼過ぎ、マチからの帰りに堤防を利用すると、並列する川岸の波消しブロックの上にカワウがずらりと並んでいた=写真上2。

8月31日の夕方。同じように国道399号を帰ると、黒い隊列が見えた。車と同じ東の方向に飛んで行く。62羽ものカワウの大集団だった。

福島県によると、夏井川河口の横川にカワウのコロニーがある。そこへ帰る途中だったか。そのとき以来の衝撃だ。

「ウ・サギ」と夏井川。川には魚がいっぱいいる、というサインなのかどうか。釣りをしない人間は、ただただ「ウ・サギ」と語呂遊びをするだけだが……。

サケはどうだろう。やな場づくりはいつもよりかなり遅かったようだが。サケがどのくらい上がっているのかも気になるところではある。

2025年11月27日木曜日

あったかソックス

                                 
 神谷地区の歩こう会が公民館から夏井川河口の公園まで往復約9.5キロのコースで行われた。

堤防のごみを拾いながら自然と触れ合うウオーキングは、子どもにとっても得難い経験になったことだろう。

歩くこと自体楽しいのだが、さらにもう一つ、公民館に戻れば抽選会が待っている。「はずれ」なしなので、何かは当たる。「完歩賞」としてクオカード(商品券)も付く。

 出発式に合わせて参加者が数字の印刷されたカードをもらい、あらかじめ同じ数字の半券を抽選箱に入れておく。折り返し地点でカードにスタンプを押してもらう。それが完歩した証になる。

 毎回、出発式であいさつをし、番号を引く係になる。景品は米やキッチンペーパーなどいろいろで、抽選する本人は「まるでこたつソックス」が当たった。

 靴下が入っていた袋には「冷え対策」「独自の温熱刺激設計。つま先からふくらはぎまであったか保温」とあった。

 裏面に詳しい「解説」が載っていた。「足首のはなし」として、「足首、手首、首といった“首”は血液が集中して流れるポイント。ここが冷えるとカラダ全体の冷えを呼んでしまう。冷えから守る秘密は“首”にある」。

 「リラックスしたい」「冷えたフローリングがつらい」といったときにはお勧めの靴下だという。

その日の夜、さっそく「あったかソックス」をはいて寝た。なるほど。足元の冷えを感じずに目が覚めた。

実はその日の前の晩、今季初めて湯たんぽを使った。2日目は「あったかソックス」をはいたので、湯たんぽは休んだ。しばらくは湯たんぽなしでいけそうだ。

私は末端の血流が悪い。子どものころから「手足が冷たい」といわれてきた。秋の終わりになると、手足の冷えを自覚する。

で、朝起きるとヒーターをかけ、部屋が暖まったら石油ストーブに切り替える。下着は長袖、そして下ズボンをはき、散歩には手袋とマフラーをして出かける。

後期高齢者は早めの防寒対策が必要――そう思っている人間には、「あったかソックス」は願ってもない景品だった。

区長仲間が解説にあるイラストを見て、「昔はやったルーズソックスだね」という。そういうはき方もOKらしい。

去年(2024年)夏、短期入院で「左心耳閉鎖」術を受けたとき、「弾性ストッキング」(ハイソックス)をはいた(はかされた)。

術後はベッドでじっとしていないといけない。人によっては下肢の静脈血やリンパ液の鬱滞(うったい)が起きるらしい。それを軽減・予防する靴下ということだった。

その経験があるので、夜だけでなく日中も「あったかソックス」を使ってみた=写真。とりあえず2日間使い続けて、日中は普通の靴下で過ごし、夜寝るときだけ、「あったかソックス」にはき替えることにした。

次は手か。手首を温めるバンドでもあれば、それを試してみたい。

2025年11月26日水曜日

2年ぶりの歩こう会

                                       
   未明の4時半には起きる。すぐ新聞を取り込む。ついでに庭に出て、まだ暗い空を見上げる。

11月23日の日曜日は、星は見えるが数えるほどしかなかった。夜が明けると曇天だった。

この日は「神谷市民歩こう会」が開かれる。雨天なら、延期ではなく中止である。雨でなくてよかった。

歩こう会を主催したのは青少年育成市民会議神谷支部(地域部会)で、参加者は神谷公民館から夏井川河口までの往復9.5キロを、ごみを拾いながら歩いた。

河口の沢帯(ざわみき)公園で一休みをし、記念撮影をしたあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開き、昼過ぎには解散した。

参加したのは市民会議の支部役員や各区長、公民館職員と家族連れなど40人余り。スタッフとして区長仲間と顔を合わせたとき、去年(2024年)の歩こう会の話になった。

「去年は来なかったね」と笑いながらいわれたので、「はて、なにがあったんだっけ」と一瞬考えた。

そうだった。発熱して急きょ、公民館に不参加の連絡をしたのだった。あとで去年の手帳を見て、そのへんの経緯を確認した。

歩こう会が行われたのは11月10日の日曜日。義弟が6日に緊急入院をして、翌7日に亡くなった。

そのあと私が、次いでカミサンが発熱した。近所の医院から薬を処方してもらい、家で静かにしていると回復した。

私にとっては2年ぶりの歩こう会である。出発式であいさつしたあと、河口の公園に車で先回りして一行を待った。公園はチェックポイントになっている。区長仲間が抽選会に必要なスタンプを押した。

歩こう会は長い間、吉野せい賞表彰式と日程が重なっていて、朝、歩こう会であいさつをすませると、草野心平記念文学館へ車を走らせる、ということを繰り返してきた。

 それが何年か前から、吉野せい賞表彰式が土曜日に変わったため、日曜日の歩こう会にも最後まで参加できるようになった。

 ただし、今年の歩こう会はいつもより開催時期が遅い。晴れれば冷たい北西の風が吹きやすい。曇天でも風があれば体が冷える。小春日ではないが、風のない曇天なのがなによりだった。

毎回、備忘録のために堤防を歩く一行の写真を撮る。今年はプラスアルファとして対岸からも狙ってみた=写真。

背景の山並みのうち、中央で三角にとがっているのは大久町の三森山(656メートル)である。

こちら側、右岸のサイクリングロードにもウォーキングを楽しむ人がいる。日曜日ならではの光景ではあった。

2025年11月25日火曜日

「草野の森」25年・下

                                                    
   国道6号の神谷ランプにある「草野の森」は広さが約800平方メートル。森としての歴史は25年とまだ浅い。

平成22(2000)年3月、勿来の四沢交差点から神谷ランプまで全長約28キロの常磐バイパスが完成したのを記念して、植樹祭が行われた。

植えられた苗木はタブノキ、スダジイ、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ハマヒサカキ、ネズミモチ、ウバメガシ、ウラジロガシ、モチノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイなど約25種。

いずれもいわきの平地の潜在植生で、植物生態学者の宮脇昭さん(1928~2021年)が指導した。

 ランプ内のスペースは、のり面が半月形の森になり、残りが広場になった。広場と草地の境には照葉樹(シラカシらしい)が植えられ、今では独立樹の風格を備えつつある。

「草野の森」の前に「未来の風の乙女」像が建つ=写真。四沢交差点にも、「クロソイドの乙女」と題するブロンズ像がある。起点と終点で乙女像が交通の安全と地域の発展を祈っているのだ。

 会社をやめたあと、朝晩、夏井川の堤防を散歩した。途中、「草野の森」に寄ってブロンズ像と対面した。森がつくられてまだ10年もたっていなかった。

震災後何年かたって散歩をやめた。そしてまた最近、この「草野の森」を目的地の一つにして「準散歩」を始めた。

広場に立って森をながめるのはおよそ10年ぶりである。木々もまたその歳月を加えて生長した。

時間とともに植生が変化しつつある様子をつづったブログがある。植樹祭からは9年後、現在からだと16年前である。それを抜粋して紹介する。

――まだまだ幼樹が目立つが、若いなりに緑濃く茂り、鳥たちがやって来ては歌い、休むようになった。秋の夕暮れ時のスズメ、朝のキジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、冬のアカハラ、そして今はウグイスが森の奥でさえずっている。

照葉樹だから、森は一年中あおあおとしている。カンツバキ、ヒラドツツジ、クチナシといった灌木を配置して、四季を通じて花も絶えないようにした。

それでもよく見ると、落葉樹が何本か混じっている。ヤマザクラの幼樹がある。ヤシャブシの幼樹がある。名前の分からない落葉樹もある。針葉樹のクロマツも人間の丈くらいに生長したのがある。

いずれも人間が植えたものではない。風が運び、鳥がフンと一緒に落とした種が芽生え、生長したのだ――。

ブロンズ像の周りにはツツジが植わってある。これも生長して乙女像を隠すようになった。

若い森にはびこっていたセイタカアワダチソウは、今は反対側の広場を埋め尽くしている。前に草刈りが行われたらしく、丈は低い。「セイヒクアワダチソウ」だ。

いずれにしても、と思う。「草野の森」は人間と鳥と風、そして太陽と雨との協働作業によって絶えず変化し続けていくのだろう。

2025年11月24日月曜日

「草野の森」25年・上

                                
   近所のコンビニへ行くのと同じ感覚で往復30分・2000歩程度の「準散歩」を始めてから間もなく1カ月。3つのコースを設けて週に2回繰り返す。

その日の気分で行き先を選ぶ。行き先は夏井川の堤防か「草野の森」、近所のコンビニだ。コンビニは近すぎるので大回りをして行く。

「草野の森」は旧常磐バイパス(国道6号)終点の「神谷ランプ」(本線車道への斜道)にある。

震災前は朝晩、夏井川の堤防を散歩した。今の時期ならコハクチョウが目的で、途中、必ず「草野の森」へ寄って広場で一休みした。

震災後も何年か散歩を続けた。が、やはり大災害のショックが尾を引いていたらしい。慢性の不整脈が亢進し、長い散歩にドクターストップがかかった。

以来、コンビニへも車で行く始末で、「これではいけない、フレイルの悪循環を断ち切らねば」と思いつつも、実行できずにいた。そんなとき、2000~3000歩ならいいらしいと知って、「準散歩」を始めたのだった。

夏井川の堤防は車でマチへ行った帰りによく利用する。コンビニへもしょっちゅう行く。「草野の森」へ歩いて行くのは、それこそ10年ぶりくらいだろうか。

平成12(2000)年3月、バイパスの全線開通を記念して植樹祭が行われた。当時、国際生態学会会長だった理学博士宮脇昭さんの指導で、地元の平六小、草野小の高学年生や長寿会などが「神谷ランプ」ののり面にポット苗を植えた。

ランプ内のエリアは「草野の森」と名付けられた。「草野の森」の苗木たちはその後順調に生育し、四半世紀がたった今ではうっそうとした森を形づくっている。

しかし、なかで1本、住宅地の小道から見ると、鳥か風が種を運んで来たと思われる松(クロマツ?)が枯れている。

まずその確認を――と、アスファルトで舗装された広場に立ったのだが、ほかの木々に遮られて枯れ松は見えなかった。

のり面を覆う若木群とは別に広場の中央に独立樹が立つ=写真上1。樹下にはベンチがある。

ベンチの周りにはどんぐりがいっぱい転がっていて、歩くたびに落花生の殻を割ったような音がする。

それを集めてカメラを向ける=写真上2。家に帰って、撮影データを見ながら樹種を調べたのだが、よくわからない。

で別の日、今度は落ちていた葉とどんぐりを持ち帰り、ネットでどんぐり図鑑などにあたって樹種を絞り込んだ。

どんぐりは形状と殻斗(かくと)から、スダジイではなくアラガシかシラカシらしい。そう見当がついたので、ダメ押しを兼ねて葉とどんぐりを拾いに行ったのだった。

結論は、シラカシ(らしい)。違っているかもしれないので、断定はしない。

2025年11月22日土曜日

大火の記憶がよみがえる

                                
  大分市佐賀関(さがのせき)で大規模火災が発生した。火が出たのは11月18日の午後5時40分ごろ。火は北西の強風にあおられて住宅密集地に燃え広がり、翌19日になっても鎮火には至らなかった。

惨状を伝える20日付の新聞=写真=によると、焼けた建物は170棟(うち住家は130棟)、焼失面積は約4万8900平方メートルに及んだ。

規模としては平成28(2016)年の糸魚川大火(焼損147棟、焼失面積約4万平方メートル)を上回る。

佐賀関は高級魚の「関さば」や「関あじ」で知られる漁師町。火災現場は漁港のすぐそば、周囲を山に囲まれたなべ底のようなところで、火元とみられる北西部から火の粉が吹きつけ、古い木造住宅に次々と飛び火して一帯を焼き尽くした。

6月に一度、佐賀関の情報を集めたことがある。「海藻クロメ」の惣菜が手に入り、ネットで検索したら、佐賀関ではクロメを食べていることがわかった。

この漁師町は大分市の東端にある。ちょっと先の対岸は愛媛県の佐多岬。「関さば」の「関」は「佐賀関」の「関」であることがやっと頭に入った。

新聞記事に載った被災者の言葉が生々しい。「火の回りが早かった。振り向くたびに火が近づいてきた」「空が真っ赤になっていた。急に風も強くなって、あっという間に山から火がおりてきた」「大きな火の粉が雨のように降ってきた」

あのときと同じである。私が生まれ育った現田村市常葉町も火災で通りが焼け野原になった。

小学2年生になって間もない夜。一筋町の西方から火の手が上がり、折からの西風にあおられて、火の粉が次々にかやぶき屋根を襲い、東端の坂の上の家まで焼き尽くした。

そのときの様子を手記にまとめ、いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に載せた。一部をブログで紹介している。それを再掲する。

――昭和31(1956)年4月17日の午後7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――

常葉大火は、焼失戸数が505棟、焼失面積が3万坪(9万9000平方メートル)。規模としては佐賀関大火の約2倍だった。

 あのときから来年で70年。艦砲射撃のような火の粉と火災旋風の映像は、後期高齢者になった今も忘れられない。被災住民の今とこれからが案じられる。

2025年11月21日金曜日

渓谷の「日の出」

                               
   日の出は、夏至から冬至まではおおむね1日に1分遅くなる。冬至から夏至までは逆に1分ずつ早くなる。日の入りも同様で、冬場は1分ずつ早くなり、夏場は1分ずつ遅くなる。周期が約29.5日の月は同じように1日1時間を目安にするといい。

 現役のころは、季節のニュースやコラムを書くのに「俳句歳時記」が欠かせなかった。夏井川渓谷の隠居で土いじりを始めると、太陽や月などの天体の動きを反映した農事暦も参考にするようになった。そこから「太陽は1分、月は1時間」という目安が生まれた。

11月16日の日曜日は朝8時ごろ、隠居に着いた。空は晴れているのに太陽はまだ尾根の陰にある。V字谷である。日が差さないので、庭に立っていると肌寒い。

隠居は、集落では一番下の道路端にある。山側の家はすでに朝日に照らされている。標高が高い分、早く太陽が拝めるのだ。

家々の裏山から始まって、田畑、線路、道路と尾根の影が消えるころ、入り組んだ対岸の尾根に日が差し始める=写真上1。

この日の小名浜の日の出は6時15分。渓谷の隠居に最初の朝日が差し込んだのは、それからざっと2時間後だった。

 風はない。庭にはまだ山の影が広がっている。その影が時間を追って川岸へと後退していく。

 時には朝日に背を向けて立つ。焚き火で背中を温めるのと同じで、風がない分、背中がゆっくりぬくもってくる。生きものたちもそうして体を温めているのかもしれない。

やがて不耕起栽培の辛み大根の畑も明るい光に包まれる=写真上2。まだ地面が凍り付くほどではない。

普通の大根を栽培していたときのことである。霜をかぶってペタッとなった葉が朝日に照らされ、霜が溶けるにしたがってピクン、ピクンと立ち上がる。うねのあちこちでピクン、ピクン。この葉っぱのダンスを見るのが冬の楽しみだった。

辛み大根の葉も霜をかぶるとペタッとなる。しかし、葉が小さいからか、はっきりわかるようなピクン、ピクンはまだ見ていない。

隠居では日の入りが早い。ほかの家ではまだ太陽が見られるのに、土地が低い分すぐ日が陰る。冬至のころは午後3時になると太陽が尾根に隠れる。

その時間に尾根に隠れる太陽を「夕日」というのははばかられる。太陽の姿が消えても、空は明るい。

同じ太陽でもマチ(平地)とヤマ(渓谷)では見方が異なる。その違いを知る。楽しむ。渓谷の自然には学ぶことがいっぱいある。