2025年11月6日木曜日

みんなの食堂

                                
  「こども食堂」にはちがいない。が、「子どもも、大人も」なので、「みんなの食堂」だ。正式には「いいのみんなの食堂」という。

    NPO法人が毎月第2・4火曜日、地元の旧フランス料理店を会場に開いている。最初に訪ねたのは9月の第4火曜日、秋分の日だった。

旧知のスタッフから連絡が入った。「よかったら食べに来て」。カミサンの実家に顔を出し、墓参りをしたあと、午後3時に「みんなの食堂」を訪ねた。

 会場は「レストラン シェ 栗崎」。いわき市平南白土の葬祭場「ラポール平」の裏手にある。

 わが家からは夏井川の向かい側、山崎(平)を過ぎて新川を渡り、葬祭場手前を左折するとほどなく店に着く。感覚的には「川向こうの『みんなの食堂』」だ。

 月に2回、午後2時にオープンし、2時間ほどは子どもの宿題と交流タイムに充てる。4時から7時までは大人もOKの食事タイムになる。

 調理を担当するのはシェフの栗崎さん。奥さんが若年性認知症と診断された。それで南白土の店を閉じて、いわき駅前に小さな店を開いた。

そうしたなかで、地域住民の要望を受けて、空き店舗が「みんなの食堂」として利用されることになった。栗崎さん自身もNPOの副理事長としてかかわっている。

食事は、子どもは無料、大人は「投げ銭」という。この日はカレーライスが出てきた=写真。

お代は?となると、通常のレストランを基準にする人ばかりではない。一般論だが、困窮している大人もいる。となれば、自分のふところと相談すればいい。そこは福祉的な性格の店だから自由(投げ銭)、ということなのだろう。

10月は14日と28日。10月も「みんなの食堂」を利用した。理由は二つ。一つはおいしいこと。もう一つは、この日の夕食はカミサンがつくらなくてもいいからだ。つまり、「カミサンが夕食をつくらなくてもいい日」として利用する。

それと、スタッフの友人のダンナさんもこの日はここで夕食をとる。ダンナさんとも付き合いは長い。

私が会社を辞めて家に引っ込む。それと同じで、彼も現場から離れて家に引っ込む。

で、なにかあるときは電話で話し、その電話も間遠になって、今はすっかり会うことがなくなった。それが「みんなの食堂」で再びおしゃべりをするようになった。

10月28日は、行ってびっくりした。ハロウィンのイベントが行われていた。店の外も中も扮装した子どもたちでいっぱいだった。

孫のような子どもたちが脇を行ったり来たりするなかで、彼と私ら夫婦と3人でシチューライスを食べた。

子どもたちのにぎやかさも加わり、食事が終わるころにはいちだんとくつろいだ気分になった。

2025年11月5日水曜日

渓谷の露地売りオープン

                                
   夏井川渓谷も紅葉のシーズンに入った。カエデはこれからだが、尾根から谷筋までツツジのアカヤシオやヤマザクラその他の落葉広葉樹が赤や橙、黄色に染まり、アカマツとモミの緑に混じって「錦繡(きんしゅう)」をまとっている。

10月26日の日曜日は朝、雨から曇天になったものの、渓谷の隠居へ行くのを断念した。

翌週の日曜日(11月2日)は、平六小体育館で開かれた神谷公民館まつりのオープニングセレモニーに出席したあと、いつもよりは遅い時間に渓谷へ向かった。

この時期になると、磐越東線江田駅前には食べ物を出したり、野菜を売ったりするテント村ができ、渓谷の錦展望台では小野町のNさんが直売所を開く。

Nさんの直売所はパイプを組み立て、ブルーシートをかけただけの簡素なものだが、自分の畑から掘って来たとろろ芋やゴボウ、曲がりネギなどが並ぶ。

Nさんは江田駅近くの背戸峨廊(せどがろ)入り口向かい、県道小野四倉線沿いの空き地にも直売所のスペースを借りている。

既にパイプで小屋の骨組みができていたが、朝10時前にそこを通ると道端にロープが張られていた。

錦展望台には来ているかな? 隠居の手前にある展望台を見ると、Nさんの直売所に行楽客が何人かいた=写真上1。江田の方は休んでこちらに張り付いたようだ。

Nさんはもう何年も前から、紅葉シーズンになると背戸峨廊入り口の空き地で自産のとろろ芋などを直売する。で、まずは曲がりネギを、次いでとろろ芋を買うのが習いになった。

1年ぶりの再会である。顔を出すと、「ああ」といった表情ですぐ曲がりネギと大根、白菜、ゴボウを手渡される。そのあと、とろろ芋を手に入れた。それらをトランクに詰めるといっぱいになった=写真上2。

江田では直売所の近くにある江田川橋の改修工事が始まった。Nさんには、これは想定外だったようだ。江田川は夏井川の支流で、別名・背戸峨廊。本川に合流する手前で県道と交差する。

最近、橋の前後の道端に工事を告げる看板が立ち、欄干の外側にも足場が取り付けられるなどした。直売所前にも工事の看板が立った。これでは車は止めづらい。展望台で今シーズン最初の露地売りをしたのもそのためだろう。

曲がりネギを手に入れたら、まずはネギとジャガイモの味噌汁である。翌4日朝、今季初めてネギジャガの味噌汁を味わった。

ジャガイモと曲がりネギのやわらかさが混じり合い、ネギの香りと甘さが口内に広がる。ふるさとの味噌汁の味である。これは毎日出てきてもいい。

白菜は夜、鍋にした。しゃぶしゃぶ用の豚肉を買って来て、鍋で湯がいて、タレにつけて食べた。すぐ満腹になった。寒い晩はけんちん汁が一番だが、準備の簡単な鍋もいいものである。

2025年11月4日火曜日

題48回吉野せい賞表彰式

                        
 第48回吉野せい賞表彰式が11月1日、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた=写真。

 今年(2025年)の正賞(せい賞)は該当作品がなく、準賞に良川十鵜(よしかわとおう)さんの「凪(な)ぐ」、奨励賞に伊関鉄也さんの「ファミリー(The Family)」、中山孔壹(こういち)さんの「未完の器」、高校2年渡部綾音(あやね)さんの「くぐる」が選ばれた。

 中学生以下の青少年特別賞は中学2年小林礼依(れい)さんの「ステップ」が受賞した。

4人の選考委員を代表して、毎年、選評と総評を述べる。何年も作品を読んでいると、その年の特徴のようなものが見えてくる。今年は「奇妙な物語」が多かった。

ずっと先の未来の話や、過去と現代の間を自在に行き来するタイムトラベルの物語、あるいは心霊、輪廻転生を取り入れた作品などが目立ったことによる。文学を取り巻く環境がなにか新しいステージに入ったような印象を受けた。

そうした時代の反映なのか、選考過程で直接議論したわけではないが、一般論として「AI小説」があらわれたらどうすべきか、選考委員の間で話題になった。そんなことを総評のなかで述べた。

コロナ禍前は受賞者と会食する機会があったが、今はどちらも壇上からの話を聞くだけだ。それでもあとで2人の受賞者と話すことができた。

驚いたことがある。準賞受賞者と奨励賞受賞者の一人が知り合いだった。片方がペンネームだったために、会場で顔を合わせるまで知らなかったという。こんな偶然はせい賞の表彰式では初めてだろう。

表彰式のあとは、仙台在住の芥川賞受賞作家佐藤厚志さんが「地方で小説を書く」と題して記念講演をした。以前は「書店員作家」だったが、今は作家業に専念しているという。

佐藤さんが心のよりどころとしてきた言葉がある。ネットで確かめたら、詩人高村光太郎が、宮沢賢治が死んだとき、岩手日報に寄せた追悼文だった。

「内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺縁に居ても常に一地方の存在から脱する。内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心に居ても常に一地方的な存在に終る」

地域に根差して普遍に至る。それが賢治文学である。いや、吉野せいもそうだ。今も賢治が、せいが読まれるのは、作者が「内にコスモス」を持っていて、作品が独自の光を発しているからだろう。

若いとき、賢治をむさぼり読んだ。今はもう「卒業」したつもりになっていたが、そうでもなかった。

賢治作品に立ち返ることがある。せいの作品についても、あれこれ調べを続けている。コスモスを内包した文学にはやはり引かれる。

2025年11月3日月曜日

夏井川の岸辺へ

                                
   コロナ禍も手伝って、茶の間にこもっていたら、足の筋肉が衰えてきた。「在宅ワーク」とは言ってみたものの、なにも体を動かさないから運動不足になる。

それでトイレに立ったときには足踏みをしたり、階段を使って足の屈伸をしたりする。「フレイルの悪循環」を意識しないわけにはいかない。

ここまで年を重ねると、体力の回復・維持よりは減退をできるだけ抑えることが目標になる。

ラジオ体操は、体を動かすのには効果的だろう。それは経験的にわかっている。しかし長続きしない。ならば、やはり散歩だ。散歩ならなんとか毎日続けることができる。

長い散歩ではなく、昔の3分の1(2千~3千歩、時間にして30分程度)の「準散歩」を始めた。

以前は夏井川の堤防まで出かけて、朝晩2回、それぞれ1時間は歩いていた。その経験から片道15分程度の距離を2コース、さらに遠回りをしてコンビニに買い物に行くコースを加えて、週に3コースを日替わりで2回繰り返すことにした。

最も歩きやすいのは旧道のわが家から国道へ、さらにそこから堤防へと直線的に生活道路を往復するコースだ。首には以前そうしていたようにカメラをぶらさげて。

ちょうどハクチョウが飛来したばかりだから、タイミングが合えば着水・飛び立ち・群飛を狙える。

朝食をはさんで未明からの「朝活」を終えた午前9時前、ジャンパーにマフラー、マスクといういでたちで出かける。

歩き慣れているコースのはずだが、家が新築されたり、アパートに代わったりして、時間の経過を感じないわけにはいかない。それほど歩くのを休んでいたということである。

堤防に立つとすぐ夏井川を見る。「つ」の字になって流れてくる。浅瀬にはダイサギとアオサギ、対岸の水辺にはマガモをはじめとするカモたちが点々と泳いでいる。

広い河原(調練場)に下り、岸辺に近づくとダイサギが、次いでマガモが飛び立った。別の日には川に沿って下流へと飛ぶハクチョウを見た。

また別の日には、サケのやな場のすぐ上流に27羽のハクチョウが羽を休めていた。しばらく見ていると、声の掛け合いが始まった。飛ぶかも――。カメラを構えていたら羽ばたきを始め、一気に飛び立ち始めた=写真上1。

上流へ向かったと思うと、上昇しながら右に旋回し、今度はこちらへ向かって来る。上空に来たところを連写した=写真上2。

群れは二つに分かれたあと、四倉方面へ飛んで見えなくなった。ハクチョウをウォッチングするためだけの「準散歩」。週に2回はこれが目的。

2025年11月1日土曜日

地中の林檎

                                           
 フランスではジャガイモ(馬鈴薯)のことを「ポム・ドゥ・テール(地中の林檎)」というそうだ。

 それぞれの月をテーマに文学作品(小説・童話・詩・エッセーなど)を集めた「12カ月の本」シリーズの1冊、『10月の本』(国書刊行会、2025年)=写真=に出てくる。

 具体的には石川三四郎(1876~1956年)のエッセー「馬鈴薯からトマト迄(まで)」で、末尾のカッコ書きから、「我等」という雑誌の1923年5月号に発表されたものらしい。

 石川三四郎は、名前は聞いたことがあるが、作品は読んだことがない。私にとっては昔の人、歴史上の人物である。

『10月の本』の著者略歴によれば、三四郎は思想家・翻訳家で、幸徳秋水や大杉栄と並ぶ日本のアナキズム運動の先駆者だそうだ。

 大逆事件後に渡欧し、帰国後はアナキズム思想の啓蒙に努め、世田谷で半農生活を営んだ。

 半農生活の原点はヨーロッパでの「百姓体験」だった。知り合った人物の家の留守番をしながら、空いている畑で野菜を栽培した。

 現地の人に教わりながら、種をまき、育て、収穫した。そのときに初めて栽培したジャガイモについての「発見」がエッセーのテーマになっている。

 三四郎は最初、ジャガイモもナスやキュウリのように地上に生(な)るものだと思っていた。

 ところが、秋になって花も落ち、葉も枯れ、茎も腐ってしまった。これは失敗した。そう思っていたが、家主の夫人がパリからやって来て畑を見回り、三四郎に告げる。

「石川様(モシュ・イシカワ)、馬鈴薯(ポム・ド・テエル)を取入れなくては、イケませんよ」

三四郎は腹を立てながら答える。「オオ、ポム・ド・テエル! 皆無です! 皆無です!」

すると、夫人がさとすように言う。「掘ってみたのですか」。連れのお手伝いがうねの土を掻くと、立派な馬鈴薯が現れた。

三四郎はびっくりする。馬鈴薯が土の中でできることを知らなかったと告白すると、夫人もお手伝いも大笑いした。そして夫人が言う。

「地の中に出来るからこそ、ポム・ド・テエル(地中の林檎)と言うのじゃありませんか」

もうひとつ、別の土地での経験。馬鈴薯の花にトマトのような実がなった。寄宿していた屋敷のマダムに告げると、こう言われる。

「馬鈴薯もトマトも本来同じファミリイに属する植物で、根元に出来る実が、茎上の花の跡に成るとそれはトマトと同形同色の実になる」。それはもしかしたら近所のトマトの花粉を受胎したからではないか、とも。

さて、石川三四郎はヨーロッパでの百姓体験を基に、「デモクラシー」を「土民生活」と訳すようになった。社会主義思想家エドワード・カーペンタ―の本も訳している。

カーペンターと言えば、作家吉野せいの夫、吉野義也が心酔した人物である。そのへんの時代の思潮を、つながりをいずれ探ってみたい。

2025年10月31日金曜日

土産物の「じゃんがら人形」

                                                     
 いわき駅前の総合図書館で10月28日、令和7年度のいわき資料常設展「デザイナー鈴木百世(ももよ) 知る人とぞ知るいわき人」がスタートした。来年(2026年)5月24日まで。

 鈴木百世(1901~42年)についてはこれまで3回、拙ブログで取り上げている。それを再構成したうえで、常設展で得た「じゃんがら人形」の「新情報」を紹介したい。

鈴木百世は平で生まれ、豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学んだあと、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年には再び教壇に立ち、2年後に倒れて暮れには亡くなった。

 その孫が市立図書館と暮らしの伝承郷に遺作を寄贈した。図書館の常設展では、 「常磐炭田」や四倉などの鳥観図(ちょうかんず)、地酒のパッケージの原画と作品、平七夕祭りのポスターなどが展示されている。

鈴木百世は、素焼きの人形に着色した「じゃんがら人形」の売り出しにも力を入れたという。

関係資料として、「じゃんがら人形」(13人組)のモノクロ写真が展示されていた。写真の解説には、没後10年の昭和27(1952)年、郷土の土産物として「じゃんがら人形」の制作が再開され、平駅(現いわき駅)前の「いづみや」で販売された。昭和50年代の終わりごろまで制作された――とある。

写真を見て驚いた。義弟が持っていた「じゃんがら人形」とそっくりではないか。ふっくらとした顔に細い眉と目、頭髪、鉢巻、浴衣、太鼓、鉦、ちょうちんなどもちゃんと描かれている。

実際の人形は高さが7センチ強=写真=で、写真の人形もたぶん同じだ。ちょうちん持ちのほかに、太鼓打ち(たいこぶち)が3人、鉦切(かねきり)が9人で、義弟が持っていた5人組(ちょうちん持ち、太鼓打ち2人、鉦切2人)に比べると、フル編成といえるだろう。

翌々日、細部を見比べるため、人形をスケッチした紙を持って図書館へ出かけた。義弟の人形のちょうちんには「いわきじゃんがら」と書かれているが、写真の方は「若連」のみで、ケースの奥に「平名物 じゃんがら人形」とある。

写真の方の浴衣には、たすきは描かれていない。が、浴衣の波模様と千鳥はそっくりだ。13人組が5人組に、「平名物」が「いわき平名物」になっただけで、少なくとも鈴木百世の「じゃんがら人形」と同じ系譜にあるものとみてよさそうだ。

ただし、だれが制作を引き継ぎ、再開したのかまでは、解説からはわからない。筆さばきはいたって繊細なので、制作者は女性?と前に書いたが、それに関しては撤回しないといけない。かえってわからなくなったからだ。

 戦前・戦中に活動したいわきのグラフィックデザイナー、鈴木百世。その作品を、人となりをもっと知りたい。そんな思いが、「じゃんがら人形」を介していちだんと強まった。

2025年10月30日木曜日

「豆皿9個」のお膳

                                 
   夕方、飛び飛びに1週間かかった「仕事」が終わって、せいしせいした気分で晩酌の準備に入った。

すると、カミサンがプラ容器に細かく盛られたおかずを座卓に出した=写真。「酒のつまみに」と、楢葉町の知人が焼酎とともに持って来たのだという。

タイミングがいい。「心置きなく飲めるぞ」と思っている人間には、またとない「ごほうび」だ。

9個の豆皿を模した容器に、煮豆や煮物の野菜、サラダ、豆腐のおからなどが盛られている。高級料亭のもてなし膳(食べたことはないが)のような雰囲気を漂わせている。

いちおう説明しておくと、10月中~下旬には行政区内の事業所を訪問して、区費協力金をいただく。行政区の区長と会計が担当する。区にとっては欠かせない仕事だ。

行政区の大きな行事としては、大字(旧村=8行政区)の地区対抗球技大会(初夏)と体育祭(初秋)、夏と秋の市民総ぐるみ運動(一斉清掃)がある。

それらの活動資金やごみ集積所のネット購入費用、防犯灯電気料金などに充てる区費は、隣組の班長~担当の役員経由で区の会計が集約する。これは新年度に入ってすぐ実施する。

同じ目的の区費協力金は、区内会には入っていないが、行政区内で活動をしている事業所にお願いしている。前からの慣例で、秋に区長と会計の2人が事業所を回る。

まず1週間前に依頼書を届ける。夕方でないと会えない事業所がある。月極駐車場は、事務所は区外というところが多い。2人で手分けをして、区外も含めて1週間をかけて集金する。区長と会計にとっては1年で一番神経を使う仕事でもある。

集金がすむと、年度末の総会まで大きな行事はない。8行政区対象の行事(例えば、地区市民歩こう会)以外は平穏な日々が続く。

せいせいした気分になったのは、担当の集金が全部終わったからだ。そこへきれいに彩られたお膳が届いた。おいしくいただいたのはいうまでもない。

豆皿のお膳は、昔、テレビで見た覚えがある。拙ブログを確かめると、2014年5月下旬の「美の壺」だった。

「てのひらで愛(め)でる豆皿」を見て、わが家でも食事のときに使っているしょうゆ皿や取り皿が、なんだか遊び心に満ちた美の小宇宙に思えてきた。

――番組の圧巻は、9つの豆皿に9種類の料理を盛り付けたお盆だ。料理で見せ、豆皿で楽しませる。小さい世界なのにぜいたくで華やかな雰囲気に満ちていた。

豆皿の懐石料理に目がくぎ付けになっていると、裂(きれ)や陶磁器が好きなカミサンが、『楽しい小皿』『まめざら』といった“豆本”を持ってきた。染付や色絵、印判の豆皿が満載されている。絵柄の多彩さ、手びねりのぬくもりに俄然、興味がわいた――。

その興味は今も消えない。「豆皿9個」のプラ容器は捨てずにとっておき、後日、カミサンがこれにおかずを盛り付けて、酒の肴として出した。プラ容器でも「器で食べる」雰囲気は十分味わえる。