2024年3月19日火曜日

ハクチョウは北へ

                      
   いわき駅前の大通りと交差する新川緑地の先端に、2本のシダレヤナギがある。先日通ると芽吹いていて、早緑色の点描画を見るようだった。信号待ちのひととき、いい目の保養になった。

 寒暖の波は相変わらず大きい。石油ストーブをつけずに過ごせる日があるかと思えば、冬型の気圧配置に戻って猛烈な西風が吹き荒れる日もある。とはいえ、季節は着実に冬から春へと変わりつつある。

 土曜日(3月16日)、隠居のある夏井川渓谷の小集落で寄り合いがあった。いつもの国道399号~県道小野四倉線を駆け上がった。

 平地の奥、加路川が本流の夏井川に合流するあたり、道路沿いにハクモクレンがある。それが半分開花しかけていた。

 その2日後、月曜日(3月18日)にいわき駅前へ行くと、街路樹のハクモクレンが開花していた。

では、市街地のソメイヨシノも……。平の街のソメイヨシノが咲き出せば、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)も咲き出す。春はすぐそこまできていることを、記憶=記録が教える。

 小川・三島地内の夏井川はハクチョウの越冬地だ。ここでは今年(2024年)1月28日、「白鳥おばさん」と再会し、翼を傷めて一時残留したコハクチョウの「エレン」とも再会した。

 エレンはやがて傷が癒え、仲間と一緒に北へ帰り、再び三島の夏井川へ戻ってきた。そのエレンも北へ帰ったのだろう。土曜日の昼前、隠居へ行く途中に見ると、残っているハクチョウはわずか3羽だった。

 人間と違って、野外で生きるハクチョウは日光や気温などに反応する「体内センサー」によって、北へ帰る時期を判断するらしい。今年は旅立ちが早いといってもいいだろう。

 2月25日の日曜日朝、そして3月10日の朝も、三島の夏井川のそばを通ると、ハクチョウの一部が水面から飛び立ち、空高く舞い上がった=写真。

 近くの田んぼへ向かうのだろうと、そのときは思ったが、北へ向かう一群だったかもしれない。

 3月になれば、北へ帰る個体が増える。それは当然だ。が、いわきでは3月の終わりごろまでとどまる個体もいる。

 わが生活圏(平・塩~中神谷地内)の夏井川では「3月11日」が目安になる、と前に書いた。

東日本大震災が起きたあの日、津波が夏井川を逆流してきて、驚いたハクチョウたちが一斉に飛び立った。あの年は、3月11日を境に塩~中神谷からハクチョウの姿が消えた。今年(2024年)はその前後、すでに姿がなかった。

 夏井川の堤防に生えている草も、いわゆる「菜の花」を咲かせ始めた。これも少し早いような気がする。

 姿を消したハクチョウ、街なかのハクモクレンの花、堤防の菜の花……。春を告げるのは、樹種でいえば、ソメイヨシノではなくてハクモクレン、なんてことになりかねない?

2024年3月18日月曜日

この冬最後の白菜漬け

                    
 直売所から白菜2玉を買って来たのはいいが、まれにみる大きさだ。2玉を漬けたら甕(かめ)からあふれる。

 漬けるのは1玉にとどめ、あとの1玉は半分を近所の知り合いに分け、残りをけんちん(豚汁)などにして食べた。

 いつもは中玉2個を漬ける。1玉を8つに割るから、葉に塩を振って4~5切れずつ、甕に交互に積み重ねて重しを載せ、階段下に置く。

 小玉もあったので、この冬はすでに3回漬け、大玉が4回目になった。大玉1個といっても小玉2個分はあるだろう。

 2月後半に漬けた大玉は3月半ばにはなくなる。で、もう1回、2玉を買って漬けないといけないか……。

ちょうど思いめぐらしているところへ、日曜日(3月3日)、夏井川渓谷の隠居へ出かけたときに、後輩からSNSを介してメッセージが届いた。

自宅の玄関前に、いただきものだが白菜を置いた、という。隠居でスマホをチェックしたら入っていた。ありがたい。5回目の白菜漬けが決まった。

 この冬最初に白菜を漬けたのは11月下旬。師走に入ると同時に食べ始めた。三和産の白菜で正解だった。根元が甘かった。

毎年、最初の白菜漬けは三和産で、と決めている。そのワケは、三和町がいわき市のなかでも山地に位置しているからだ。

白菜は寒くなると、凍るまいとして糖分を蓄える。これが甘さのもとになる。真冬になれば、山地(三和など)でも平地(平など)でも甘くなるので、場所は選ばない。

 三和の白菜は、雪が降る前に「ふれあい市場」から買ってくる。そのあとは平地の直売所を利用する。

 2回目はカミサンの親類と知人からのお福分け、3回目と4回目は平の直売所から買ってきた。

 穏やかな天気の朝、八つ割りにしたのを天日に干し、夕方取り込んで甕に漬け込む。ユズがあるときは皮をむいてみじんにし、さらに干しておいたミカンの皮や唐辛子、昆布を刻んで、段を重ねるごとに加える。

 白菜の重さがいくらだから食塩はいくらだ、などと量りで正確に割り出すようなことはしない。1枚1枚の葉にさらっと食塩を振りかける。

 最近はそれでいい塩梅(あんばい)に白菜が漬かる。この塩梅を手が、指先が覚えているので、漬け込み作業も簡単に終わる。

 この冬は、失敗らしい失敗はなかった。減塩気味ながら、白菜はいずれもほのかに甘かった。

 後輩から届いた白菜=写真=も漬け込んだらすぐ水が上がってきた。やや大きめのタッパーに4回目の残りを移して冷蔵庫に保管し、こちらを食べながら5回目が漬かるのを待った。

たぶん5回目もいい塩梅になっているはずだ、といいたいところだが……。1回目を試食したら、少ししょっぱかった。2回目は、まあまあだった。やはり、白菜にも大小がある。塩梅が難しい。

2024年3月16日土曜日

強い揺れに飛び起きる

                              
 ブログをアップして、再びふとんにもぐり込んだばかりだった。3月15日午前零時14分。地鳴りが迫ってくると思ったら、ガタガタ揺れ出した。

強い。飛び起きてベッドのそばの本棚を押さえた。カミサンも立ち上がった。と、次の瞬間には、揺れは去っていた。

テレビをつけて震源や震度を確かめる。こたつの上のスマホには「緊急地震速報」の文字と絵が表示されていた。

「ピャラン、ピャラン」と鳴り出したのだろうが、隣の寝室にいては聞こえない。鳴っても揺れと同時だったはずだ。

震源は福島県沖、深さは50キロ、最大震度は5弱、津波の心配はないというので、階段を見てから、ふとんに戻った。

階段の片側には本が積み重ねてある。5弱以上だと、これが崩れる。本は無事だった。

東日本大震災以来、いわきでは震度6弱を筆頭に、5強、5弱、それよりは弱い地震をたびたび経験してきた。

揺れからくる体感震度と気象庁の震度が、この13年の体験を通じてほぼ一致するようになった。階段に積み上げた本の落下具合が一番の目安になる。

いわき市が5強ないし5弱のとき、わが家では本棚や収納ダンスの上にある置物や写真額、平積みの本などが落下する。階段の本も崩れる。

今回、階段の本は無事だったから、最大震度の5弱ではない。朝になって、気象庁のデータを確かめると、震度5弱は楢葉町、いわきは4だった。

震度5弱は令和4(2022)年10月21日以来だという。そのときはどうだったか、ブログを見ると、記録が残っていた。

――(午後3時過ぎ、羽毛のような雲の写真を撮って)茶の間に戻り、画像をパソコンに取り込む。

と、ほどなく、庭の方からかすかな地鳴りが近づいてきた。時計を見ると、3時19分だ。来たな! 身構えた瞬間、ガタガタと家が揺れる。ん? 思ったより揺れは短い。すぐ通り過ぎていった。震度3か。体がそう判定する。

震源はいわき市の北方、双葉郡沖だ。最大震度は楢葉町の5弱で、いわきはやはり3。3レベルだと、「揺れたね」で終わる――。

 今回の揺れ方は1年半前の地震と似ている。サッと通過していったのも同じだ。震源も近い。

 その半年前の令和4年3月16日深夜の大地震は、震源が福島県沖、マグニチュードが7.4だった。相馬市、南相馬市で最大震度6強と、同じ浜通りでも北の方の被害が大きかった。

階段の本は無事だったが……。カミサンが朝、店に行くと、店頭に飾っておいたリーフレットや空き缶が落下していた=写真。

 店の飾りとして並べて置いたもので、軽すぎてずれ動いたようだ。2階は? 滑りやすい表紙のストックブックが1冊、畳に落ちていた。

2024年3月15日金曜日

僧侶は元鑑識官

                               
 毎年、東日本大震災が起きた3月11日に、犠牲者を追悼する式典や復興祈念の行事が行われる。

 今年(2024年)はその一つとして、いわき市泉町の「密厳堂」で、津波で亡くなった人々の慰霊法要が行われた。3月13日付のいわき民報=写真=で知った。

 密厳堂は元県警鑑識官の松井弘観(本名・利弘)さんが、平成30(2018)年、自宅に開いた高野山真言宗易行(いぎょう)派のお堂だ。

 松井さんの先祖に幕末の動乱期、泉藩の郡奉行だった松井秀簡(1826~68年)がいる。

奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦い、いわゆる「戊辰戦争」が起きると、藩論は二分され、秀簡は非戦論を唱えて自刃する。

 明治の世に変わり、新政府は「神仏分離令」を出す。その結果、泉藩内ではおよそ60あった寺院が「廃仏毀釈」によって姿を消した。

 それから150年。若い美術家たちが泉をフィールドに新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」を開いた。密厳堂が第二の会場になった。

 そのときの様子がブログに残っている。――入り口は竹林を思わせるデザイン。間にしめ縄を飾った竹の鳥居、出入り口付きの土壁がつくられた。これらも作品だ。奥の密嚴堂は軒が竹の笹で飾られている。竹林もそうだが、建物もいい雰囲気だ。

密嚴堂の内部は、居間が二つ。東側の部屋には「地獄」が描かれ、西の部屋には床の間に大日如来の掛け軸、つまり「密嚴」(浄土)が表現されている――。

 さて、その松井さんだが、震災では鑑識官として壮絶な体験をした。13日の新聞記事からそれをたどる。

長期休暇を取って四国の八十八カ所巡礼を続けていた最終日、故郷が災禍に見舞われた。なんとかいわきへ戻り、災害現場に入ると、毎日、津波の犠牲者の検死に当たった。

「津波犠牲者の多くは手がかりになる免許証や、携帯などもなく、身元特定は困難だった」。変わり果てた姿で見つかる犠牲者を「苦しかったろう、無念だったろう」と悼みつつ、警察官としての職務を全うした、という。

先祖の松井秀簡の生きざま、泉藩内の廃仏毀釈、そして津波犠牲者の検死……。仏教への思いは募り、定年退職後に高野山で修行し、戊辰戦争150年の節目の年に密厳堂を開いた。

 記事の中に、松井秀簡について触れた拙コラム(令和4年10月4日付「夕刊発・磐城蘭土紀行)が紹介されている。付け足しだろうが、それがあることで記事が急に身近なものになった。

 このコラムは、いわき地域学會の市民講座で会員の中山雅弘さんが「松井秀簡~非戦を貫いた泉藩士~」と題して話したのを紹介したものだった。

 会場で初めて、中山さんに紹介されて松井さんにあいさつをした。松井さんの生き方には、あらためて頭の下がる思いがする。

2024年3月14日木曜日

カフェーと林芙美子

           
   いわきの大正時代と昭和初期の文学を振り返るたびに、当時の新風俗としての「カフェー」が気になる。

大正時代、磐城平にやって来た山村暮鳥が詩の種をまき、それが芽生えて花が咲いた。暮鳥の盟友である好間・菊竹山の三野混沌が、北海道へ移住した猪狩満直にあててはがきを書いている(昭和2年1月9日推定)。

「詩人がうようよと出てきて、平はまるでフランスのどっかの町ででもあるかのやう」な状況になった。

地元紙には、「平二丁目のカフェータヒラ」で詩の会が開かれた(大正14年)、「平カフェー本店」で詩集の出版記念会が開かれた(昭和4年)、という記事も載る。

当時の文学青年、あるいは一般市民は「カフェー」をどう受け止めていたのか、何か新しい資料が出るとすぐ読む癖がついた。

いわき総合図書館の新着図書コーナーに篠原昌人『女給の社会史』(芙蓉書房出版、2023年)があった=写真。「女給」と「カフェー」は切っても切れない関係にある。すぐ借りて読んだ。

私が客として飲み屋へ行くようになったのは、むろん就職してからだ。それでも「ママ」ひとりのスナックがほとんどで、「ホステス」がたくさんいるキャバレーやクラブとは縁がなかった。

『女給の社会史』によると、「女給」が「ホステス」と呼ばれるようになるのは、昭和30年代後半。東京オリンピックが節目になったようだ。その前後に高級クラブや大きなキャバレーが開業する。

で、まだ「女給」時代の大正・昭和の話だ。『放浪記』で知られる作家の林芙美子(1903~51年)は上京したあと、食べていくためにカフェーに勤める。

作家仲間の平林たい子や佐多稲子も、同じように女給をやりながら、文学修業を続けた。

芙美子は詩を書いていた。「大正十三年の春、芙美子は本郷にある南天堂という書店兼レストランを度々訪ねた。そこはアナキスト詩人の溜り場であった」

南天堂については、寺島珠雄『南天堂――松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社、1999年)が詳しい。ここに芙美子に関する記述が少なからずある。それも合わせ鏡のようにして読んだ。

南天堂は2階がレストランだった。そこに出入りしていた詩人は岡本潤・壷井繁治・萩原恭次郎・宮崎資夫・辻潤・小野十三郎・野村吉哉・五十里(いそり)幸太郎らで、大杉栄が殺されたことに怒りと興奮を抱く人間もいたという。

芙美子は最初、俳優で詩人の田辺君男に連れられて南天堂を訪れる。その後は田辺と別れ、ひとりで南天堂に現れ、詩人の間を遊弋(ゆうよく)した。

一方は東京、一方は磐城平。レストラン、あるいはカフェー、バー。女給がいた時代の空気を想像する。

平林たい子や佐多稲子の作品はまだ読んでいない。100年前の夜の世界を知るためにものぞいてみようか。そんな思いがわいてきた。

ついでながら、アナキスト詩人草野心平は、南天堂にはほとんど縁がなかったようである。

2024年3月13日水曜日

ペットボトル

                      
 3月11日は、日付が替わったばかりのころ、一度目が覚めて合掌をした。さらに午後2時46分、テレビの映像に合わせて黙祷をした。

 もう13年がたつ。といっても、年寄りの日常はそう変わらない。13年前にやっていることを、今もやっている。

 その同じことがしかし、おぼつかなくなったり、こたえたりするようになってきた。私もカミサンもまだ60代だった。それが後期高齢者の仲間入りをした。

 「まだ60代」と書いても違和感がないほど、体力的に「老衰」を自覚する場面はまずなかった。

 それから13年。家の中にあるちょっとした段差につまずく。玄関から居間へ上がるのに「ヨイショッ」となる。

わが家の隣に住む義弟も古希を迎えたころ、玄関から茶の間へ上がるのが難儀そうだった。玄関のたたきに高さ15センチくらいの踏み台を置くと、義弟ばかりか、私も上がり下りが楽になった。

それまでできたことが、できなくなる。あるいは一時的に、だれかに手助けしてもらわないといけなくなる。

カツオの刺し身が残るようになったのもそうだろう。若いころはマイ皿(径20センチほどの中皿)にいっぱいあっても平気だったが、このごろはわれら夫婦と義弟の3人で食べても、3分の1以上は残る。

「フレイルの悪循環」を意識するようになった。フレイルとは「か弱さ」とか「こわれやすさ」を意味する言葉だという。平成26(2014)年に日本老年医学会が提唱した概念、とネットにあった。

加齢や病気で筋肉量が低下する。足の筋肉量低下により歩行速度が落ちたり、疲れやすくなったりするため、全体の活動量が減少する。

全体の活動量が減少すると、エネルギー消費量が減り、動かないとお腹が空かないので食欲もなくなる。

慢性的に栄養不足の状態になると、筋肉量がさらに低下し、全体の活動量が減る。この悪循環を断ち切らないと、要介護状態になる可能性が高くなるという。

 ペットボトルのキャップ=写真=もフレイルの目安になるらしい。まだ開けられる。とはいえ、きつくて開栓に手間取るものが出てきた。

この開栓と老衰の関係をネットで検索すると、伊藤園と鹿児島大学医学部による共同研究の結果が載っていた。

 キャップの開け方には4つある。「側腹つまみ」「筒握り」「3指つまみ」、そして「逆筒握り」だ。

 逆筒握りは、ボトルを片手で持ち、片手(利き手)でこぶしを下にするようにして、キャップを回すやり方だ。

 研究結果では、前記3つはフレイルについて有意な関係は見られなかった。が、逆筒握りは筋力低下と関係があることがわかった。

大半の人間は逆筒握りでキャップを開ける。握力が低下すると開栓が困難になる。13年前はペットボトルの水の差し入れがありがたかった。今はその開栓ができるかどうかが問題だ。 

2024年3月12日火曜日

渓谷の雪

                      
 きのう(3月11日)の続き――。夏井川渓谷に住む友人が金曜日(3月8日)の朝、フェイスブックに雪の写真をアップしていた。わが隠居の手前の小集落に家がある。

 無事に冬をやり過ごしたと思ったら、春の雪だ。日曜日には隠居へ行くが、道路はどうだろう。雪が残っているようだと、出かけるのは控えた方がよさそうだ。

 とはいえ、平地の市街地では雨だった。ヤマとマチの違いだが、渓谷はヤマといっても階段の踊り場、つまりマチとヤマの中間のようなところだ。標高は200メートルほど。その先のヤマになると、積雪は格段に多くなる。

 毎週金曜日、川内村の「獏原人村」から卵が届く。8日の朝、スマホに連絡が入った。「今日は大雪で出られないので(卵の配達を)を休みます」「電波が悪くて通話できないのでメールで失礼します」

 渓谷より標高の高い山里は、川内からの情報でもわかるように、かなり雪が積もったのではないか。

 平地の雨は、午後にはやんだ。翌9日は午前中、小川町のいわき市立草野心平記念文学館で集まりがあった。

 朝、阿武隈の山並みを見ると、それほど白くはない。文学館までの山道もほとんど日陰はない。

 行けるところまで行こう。道路に雪が残っていたら、そこで連絡をして引き返す。そう決めて出かけたが、雪は道路にも、周りの林床にもなかった。

 そして、日曜日。隠居へ出かけるとして、渓谷を縫う県道小野四倉線には、要注意ポイントが3~4カ所ある。

平地から段丘に移り、さらに渓谷へと進むあたり、南側に杉林があって日がささない「地獄坂」が待つ。ここが最初のポイントだ。さいわい雪はなかった。

次のポイントは江田の手前のS字カーブ。隠居へ通い始めて29年、あまり日がささない場所でもあり、何度か圧雪状態を経験している。

当時は4輪駆動、タイヤは全天候型だった。道端には滑り止めの砂箱がある。というわけで、そのころはゆっくりだが、なんとか通り抜けることができた。

3月に入るとすぐ、全天候型タイヤを理由に、隠居の奥、川前の「いこいの里鬼ケ城」へ出かけたことがある。

山里だから一面、銀世界だ。帰りにゆるい下り坂のカーブで車が滑り、側溝にタイヤがはまってしまった。

JAFを呼ぼうと近所の農家へ行くと、主人がトラクターを出してタイヤを引っ張り上げてくれた。

3月のヤマの雪は怖い。それを体験しているので、ヤマに雪が降ったあとはいつも引き返す覚悟で渓谷へ向かう。

地獄坂は無事だったから、その先も……。S字カーブにも雪はなかった。あとは籠場の滝の前後のカーブだが、ここも道路は乾いていた。

降らなかったわけではない。すぐ消えたのだ。その証拠に、籠場の滝から隠居までの対岸、北向きの森は、林床に雪が残っていた=写真。

隠居の畑には、もう白いものはなかった。融けきる寸前の雪の残骸がほんの少しあったが、色はすでに透明だった。