2020年4月4日土曜日

車中からの花見

 きのう(4月3日)の続き――。小雨の降る日曜日(3月29日)、夏井川渓谷の隠居の庭で、傘をさして地面とにらめっこした。ツクシが生えていた。雨粒が頭と茎に付いている=写真下。デジカメでパチリとやった。
 山では雪になり、渓谷から平地にかけては雨、ときにみぞれになった。ツクシと雨粒を見ていると、金子みすゞの詩「積もった雪」が思い浮かんだ。「上の雪/さむかろな。/つめたい月がさしていて。//下の雪/重かろな。/何百人ものせていて。//中の雪/さみしかろな。/空も地面(ぢべた)もみえないで。」

 雨粒がツクシの頭を直撃する。ツクシは痛くないか。頭にも茎にも雨粒が付いている。重くないか。雨粒は、早く地面に降りたいのに、宙ぶらりんになっている。風よ、振り落としてやってくれ――。つい擬人化したくなるのは、還暦を前にみすゞの詩を知り、集中して読んだことがあったからかもしれない。

みすゞの詩からは、弱く、小さく、遠くにあるものたち=「エン・ジャク・ショウ(遠・弱・小)」の世界の物語が見えてくる。小さなツクシと雨粒にも宇宙が宿っている。
  そんな感傷にひたったあと、平地へ戻った。渓谷を抜けると、扇状地が広がる。その山岸に小川諏訪神社がある。シダレザクラが満開だった。カミサンが見たいというので寄り道したが、雨が降っている。新型コロナウイルスの問題もある。駐車場に車を入れて、車中から本殿前の花を見て終わりにした=写真上。

例年なら行楽客でごった返しているのだが、地元でも受け入れ態勢を整えているのだが、新型ウイルスという「見えない敵」には、密閉・密集・密接を避ける“ダンミツ(断・密)”で自衛するしかない。

すべては「一期一会」。生身の脳ではもう記憶の賞味期限が短くなっている。それをカメラが代行する。記録することで、かろうじて記憶がよみがえる。先日アップした渓谷のカモシカは、車を運転するとき、必ず助手席にカメラを置いておくので、撮れた。

助手席にカミサンがいたり、孫がいたりするときには、撮影を頼む。日常こそ最高の被写体。カミサンと孫が撮った写真をブログに使ったこともある。この年(71歳)になって写真撮影が面白くなってきた。ダンミツの楽しみでもある。

きょうも未明に雨が降った。これから庭に出て雨粒を抱いた花でも眺めてみるか。

2020年4月3日金曜日

根元で泡を噴くカエデ

 日曜日(3月29日)に夏井川渓谷の隠居へ出かけた。目的は対岸のアカヤシオ(岩ツツジ)の咲き具合を確かめることと、庭で春のキノコを探すこと。
小雨が降っていたので、縁側からアカヤシオの写真を撮ったあと、傘をさして庭の木を見て回った。シダレザクラの樹下には春、アミガサタケが出る。半分立ち枯れた木(名前がわからない)の幹にはアラゲキクラゲが発生する。どちらもまだだった。

では、玄関前の庭にあるツチグリの残骸は――風に吹き飛ばされて消えていた。代わりに、目に入ったのが道路際のカエデの根元にできた白い泡のかたまり=写真上。家のそばのカエデの根元にも白い泡が噴いていた。葉はまだ展開していない。

雨が濡れた幹を筋になって流れている。小さな泡も連続して下りて来る=写真右。カエデの裸木に降った雨が枝を伝い、幹に集まり、かすかなへこみを伝って地面に泡を残し、地中に浸み込んでいく――そういう流れのようだった。

ネットで検索すると、「樹幹流」という現象らしい。文字通り、木の幹を流れる雨のことだ。しばしば木の根元に白い泡ができる、とあった。

なぜ泡を噴くのだろう。森に降り注ぐ雨は空中を浮遊しているチリやホコリを取り込む。木の枝や幹にもいろんな物質が付着している。それらが雨に溶け込み、幹を伝い、地面に浸み込む過程で、化学的・物理的な変化が起きるらしい。

たとえば、杉の周辺の土壌はかなり酸性化している。オオヤマザクラやコバノヤマハンノキなども酸性を強めるが、ブナやヤマナラシ、オニグルミなどは逆に酸性が緩和される――そんな樹幹流の分析結果もアップされていた。

東日本大震災に伴う原発事故では、場所によっては放射性物質が雨や雪に含まれて降下した。芽吹き前だった落葉樹は枝・幹に、常緑樹は枝・葉に放射性物質が付着し、雨とともに幹を伝って根元に堆積した。住宅の雨樋の排水口の線量が高くなったのと原理は同じだろう。

昔、平の里山(雑木林)で、「樹液酒場」に群がるオオムラサキやスズメバチを観察したことがある。たまたま虫たちがいないときに樹液をなめてみた。わりと冷たくて甘酸っぱかった。その連想で樹幹流も甘いのではと思ったが、どうも違うようだ。

雨の日には雨の日の“発見”がある。傘をさして森を巡ったこともあるが、今は「家(隠居)から半径10メートル」が日常になった。それでも、レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」(不思議さに目を見張る感性)を体験することはできる。

森の訪問者に草木や動物のことを解説する人を、インタープリター=自然案内人という。インタープリターまではいかずとも、雨の日、森はどうなっているのか――くらいは知っておかないと、と思った次第。

2020年4月2日木曜日

「今年一番のカツオです」

 日曜日(3月29日)の宵に息子一家が顔を出した。ちょうどカツオの刺し身で晩酌を始めたところだった。「刺し身、どうだ」。間もなく中学1年生になる上の孫に勧めると、ためらわずに一切れを口にした。醤油の小皿にはおろしにんにくとわさびがたっぷり入っている。にんにくに顔をしかめるかと思ったら、「うまい!」とうなった。
 毎週日曜日、マイ皿を持って孫が通う小学校の近くの魚屋へ、刺し身を買いに行く。今年(2020年)は、2月最後の日曜日からカツ刺しが続いている(カツオがある限りはカツ刺しにする)。なかでも29日の刺し身は、若ダンナが「今年一番のカツオです」と胸を張るほどイキがよかった。

 にんにくとわさびにまみれた一切れを口にする。かむとすぐ、天然の甘みと旨みが口腔に広がる。嚥下したあとも旨みが残る。旨みの余韻――そんな言葉が脳内に浮かんだ。

上の孫に続いて、下の孫、親たちも一切れを口にした。「うまい!」。だれもが「旨みの余韻」にひたった。草野心平なら、こういうときには「幸福」に「口福」の字を当てるだろう。

 日常レベルの庶民の「幸福」は食欲に直結している。フェイスブックには、食べ物の写真がこれでもかこれでもかとアップされる。私もそれは同じ。毎週、なんという刺し身を食べた、味はどうだった、といった「週記」を手元に残す。いちいちブログには上げない。が、今回のカツ刺しは特別だった。

 上の孫が最初にカツ刺しを食べて「うまい!」とうなったのは、小4のときだ。日曜日、たまたま晩酌の時間に来て、カツ刺しをつついた。にんにくとわさびも平気だった。去年も、3月末の日曜日にやって来て、下の孫と競うようにカツ刺しを食べた。

 いわきの港への水揚げは晩春から初夏になるが、食生活の面では春先からカツオが市中に出回る。それなりの、ときには今度のような絶品のカツ刺しが早い時期から食べられる。

 いわき市議会は今年2月、議員提案で、毎月7日を「魚食の日」とする魚食推進条例を可決した。毎年3月7日には、市・事業者・市民が協力して魚食の日にふさわしい取り組みをすることも決まった。第1回の3月7日には、スーパーなどで割引販売などが行われたという。

 わが家では7日にいっぺん、毎週日曜日が魚食(刺し身)の日。孫と一緒にカツ刺しで酒が飲めるまであと8~10年。それができるかどうかはともかく、うまいカツ刺しを提供してくれる魚屋があることを、孫たちは脳裏に刻んだにちがいない。

2020年4月1日水曜日

ぼんやりとした不安

 きょうは4月1日。行政区の新年度が始まった。月に3回の回覧資料配布は続けるが、区の役員会その他の集まりや行事は当面、延期ないし中止を検討するしかなさそうだ。
 きのう、福島市で初めて2人(70代男性と20代女性)の新型コロナウイルス感染者が出た。午後4時からの県知事会見をテレビで見た=写真。どこで感染したか、がわからない。ということは、市中感染? 

福島県の感染者はこれまで2人だった。1人は「ダイヤモンド・プリンセス号」に乗ったいわきの70代男性。もう1人はエジプト旅行帰りの郡山の70代女性。おおよその感染経路が特定できたから、市中感染を警戒しても恐れるほどではなかった。ところが、今回はそんなわけにはいかない。いつでも、どこでも、だれでも――というところまで感染が広がりつつあることを示す。

先日、東京から里帰りした大学生の“孫娘”が母親とやって来た。いつもそうするように、カミサンがカレーライスを作った。母親はハンドルキーパー。20歳を過ぎた“孫娘”と、焼酎の田苑を飲みながら話した。

「ほんとうは(ジイバアには)近づかない方がいいんだろうけど」。年寄りに気を遣いながらも、東京での様子を報告して、こう自分の気持ちを口にした。「ぼんやりとした不安」――。芥川龍之介が自殺する前、同じことを言っていたのを思い出す。

確かに、今回はパンデミック(世界的大流行)になった。世界が「ぼんやりとした不安」に覆われている。

 おおよそ1カ月前、こんなことを書いた。「あさイチ」が番組冒頭で、休校になった子どもたちのために自衛策を解説した。そのなかに「高齢者のいる家は避ける」があった。解説者は「なるべく」と付け加えたが、孫にジイバアの家には行くな――といっているようなものではないかと、腹が立った。

そのころはまだ、新型コロナウイルスの怖さが理解できていなかった。高齢者はかかりやすい、高齢者から感染するので近づくな――そう解釈した。ところが、ほんとうはこうだったのかもしれない。子ども、あるいは若者はかかっても軽症、自覚がないまま新型コロナウイルスをばらまいてしまう、年寄りは感染すると重症化しやすい、だからなるべく高齢者の家は避けるように――。

今週中には持病の薬がなくなる。新型コロナウイルスが大騒ぎになってから、かかりつけの医院へ薬をもらいに行くのは二度目だ。前回はたまたま、患者が集中する朝の開院時間を避けて、10時半くらいに行ったら誰もいなかった。今度もそうするか。いや、電話して薬だけもらうようにするか。若者も年寄りもコロナを避けるための想像力が試されている。

2020年3月31日火曜日

イタリアからの電話

 イタリアの新型コロナウイルス感染が深刻だ。3月28日付の朝日新聞=写真=によると、3月27日現在で死者が約8200人、それから2日ほどしかたたないのに1万人を超えた。(30日現在、1万1591人という報道も)
 おととい(3月29日)の夜9時前、国際電話がかかってきた。イタリアに住むカミサンの同級生からだった。3月25日付の拙ブログで「カミサンの同級生がミラノの東、『ロミオとジュリエット』で知られるベローナに住んでいる。向こうの日中の時間に合わせて電話をかけているのだが、まだつながらない」と書いた。

イタリアで拙ブログの唯一の読者である彼女が、それを読んでカミサンに連絡してきた。まずは無事だったことにホッとする。

 冒頭の新聞記事は、イタリア北部パドバに住む日本人漫画家ヤマザキマリさんに現地の様子を聞いたものだ。記事では、なぜイタリアで死者(高齢者が多い)が急増したのか、についても触れている。イタリアの国民性、文化と習慣はさておき、ヤマザキさんは日本の若者の危機感のなさに警鐘を鳴らす。「高齢者に感染させるリスクをもっと意識してほしい」

 記事を読んだあと、ネットでイタリアの情報を集めた。原則外出禁止だという。薬局と食料品店以外の店は閉鎖、宅配はOK、外出許可書には「感染していない」という申告項目が追加された――。

 カミサンのメモによれば、同級生はベローナの山の上の村に住んでいる。人口は約2500人。スーパーはない。代わりに移動販売が来る。予約すると品物を届けてくれる。食料品の買い物だけは許されている。小麦粉30キロを買いだめして、自分でパンをつくっている。散歩に出ればパトカーに止められ、外出許可書の提示を求められる。牧師も医師も亡くなっている。

同級生は最後に、こう忠告したという。「新型コロナウイルスを甘く見てはいけない」

「志村けん!」。若いころ、実家に帰省すると、姪たちが私の頭を見てはやしたてたものだ。最初は長髪の加減から、その後は髪の毛の減り具合から。いわきの知人の娘も、遊びに行くたびに「志村けん!」と、同じことをいった。それで、「いわきの志村けん」を自称することもあった。

ご本人が3月29日、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。報道によると、17日に倦怠感があって自宅で静養し、19日発熱・呼吸困難となり、20日に肺炎と診断されて入院、23日に新型コロナの陽性と判明、人工心肺装置などを付けたが、意識は戻らなかった。自覚症状からわずか13日目、あまりにもあっけない死だ。

アメリカの俳優トム・ハンクスはオーストラリアで感染したが、無事退院した。「日本の喜劇王」も頑張って退院してほしい、そう願っていたのだが、かなわなかった。享年、70。私より1歳小さい。「新型コロナウイルスを甘く見てはいけない」。イタリアからの言葉が脳内で残響する。

2020年3月30日月曜日

みぞれのアカヤシオ

 きのう(3月29日)は朝、いわきの平地(平)では雨だった。予報では、午前9時~正午が雪。夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)は、谷側の“前山”が満開にちがいない。雨でも雪でもいい、それを確かめねば――。
この冬は暖かかった。タイヤはノーマルのままだった。極寒期を過ぎ、春を迎えたと思ったら、今の時期に特有の、南岸低気圧による春の雪だ。しかし地温が高いから、雪でも道路には積もらないはず――そう考えて、早く出かけて早く戻ることにした。

 渓谷に入ると、すれ違う車の屋根に雪が載っている。「いわき」ナンバーだから、渓谷沿いの川前(標高280メートルほど)ではなく、山地から下りて来た車だろう。桶売(同500メートルほど)や小白井(同650メートルほど)は銀世界に違いない。

 渓谷の隠居までは雨、やがてみぞれに変わったが、周囲の山も家も道路も白くなることはなかった。

対岸のアカヤシオは思っていたとおり、満開だった=写真上1。その“奥山”は、稜線がおぼろに見えるだけ。縁側からアカヤシオの写真を撮ったあと、傘をさして、庭のシダレザクラの樹下に発生するアミガサタケを探した。半分立ち枯れた庭木の幹にはアラゲキクラゲが発生する。それもチェックしたが、どちらもまだだった。

近くの小流れにはコゴミ(クサソテツ)が出る。例年、4月下旬に摘む。いくらなんでも早すぎる。そこはノーチェック、となれば、あとはやることがない。カミサンがせっつくので、1時間もたたずに街へ戻った。図書館へ寄って本を借り、家に帰って一休みしているうちに雨(みぞれ)が上がった。
4時過ぎ、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。「今年一番のカツオです」。うれしい気分で戻ると、西の山並みがうっすら白くなっている。ひとつ山寄りの道へ入って、神谷耕土から湯ノ岳を写真に収めた=写真上2。この雪も太陽が顔を出せばすぐ消える。

フェイスブックにアップされた写真を見ると、同じいわきの平地でも、高台、あるいは沿岸部では白くなったようだ。いわきでは、雪は非日常、格好の被写体になる。

2020年3月29日日曜日

磯の味、土の味

 きょう(3月29日)は3月最後の日曜日。例年、行政区の総会を開く日なのだが、新型コロナウイルスの問題が起きたために、一堂に会するやり方は中止した。代わりに、4月1日付で総会資料を回覧し、電話で質疑を受けることにした。規約にはない緊急・例外的な措置だ。
 東京方面への移動だけでなく、地元いわきでも静かにしていた方がいい――。年寄りなので、「週末外出自粛」の呼びかけに応じて、きのうは家で本を読んで過ごした。

そんな日の夕暮れには、なにかうまいものを食べたくなる。といっても、「レストラングルメ」ではない。山菜・キノコの「サバイバルグルメ」。

 先日、カミサンが近所の故伯父の家の庭からフキノトウを摘んで、油で炒めて「ふき味噌」にした。「食べる」というよりは「なめる」に近い春の味だ。ご飯のおかずにも、晩酌のつまみにもなる。強い香りが鼻腔をくすぐり、ほろ苦さが舌を喜ばせる。これが、サバイバルグルメには「うまいもの」になる。

焼酎と「ふき味噌」をなめながら、3月に口にした「磯の味」と「土の味」に思いをめぐらせる。

 3月初旬、いつもの魚屋さんへ行くと、「茎ワカメの味噌漬け」=写真上1=があった。ワンパック200円。カツオの刺し身と一緒に買い求めた。「魚を買いに来る人から話を聞いて試作してみた」という。

 さっそく晩酌のつまみにする。湯がいてあるからやわらかい。キュウリみたいに中まで味噌の味が浸透しているわけではない。さっぱりした味がおもしろい。酒のさかなとしては珍味の部類に入るだろう。
 それからしばらくたって、夏井川渓谷の隠居の庭から辛み大根=写真上2=を引っこ抜いてきた。こぼれ種から芽生えた“ふっつえ大根”だが、根は鉛筆程度と未熟で細い。おろさずに刻んで食べたら、味も素っ気もなかった。これは失敗。おろし器で細胞を破壊するからこそ辛みが発揮される。それがない辛み大根はタダの草の根に近い。

 けさは起きると雨。このあと、夏井川渓谷の隠居へ出かけるが、南岸低気圧の影響で、9時からお昼にかけては雪の予報が出ている。いわきに多い春の雪だが、テレビの気象情報ではみぞれの可能性もある。アカヤシオの花の咲き具合を確かめたあと、傘をさして春の土の味を探す。