2025年12月2日火曜日

さわやかな日本晴れ・上

                                
 さわやかな日本晴れだった=写真上1。午前中こそ風があったものの、午後になるとほとんど凪(な)いで、出歩きたい気分になった。

 11月29日、土曜日の午後。いわき市文化センターへ出かけた。泉彩華会絵画展と、同サークルの指導者だった故冨田武子さんの遺作展が30日まで開かれた。

たぶん最後の遺作展である。冨田さんの作品をこの目に焼き付けておこう、そんな思いもあった。

 冨田さんが指導してきたもう1つの絵画サークル、「ボタニカルアート泉」の作品展でも遺作展が開かれた。

冨田さんのボタニカルアート作品はいわき民報紙上でなじんできた。画家であると同時に、いわきキノコ同好会の会長でもあった。

泉彩華会展でも、キノコと植物を組み合わせた作品や、子どものころから親しんできた馬の絵が展示された。

冨田さんにはキノコ同好会で指導を受けた。やはり、キノコの作品に目がいく。「9月の森は忙しい」と題された大作は、中央にタマゴタケが配されていた。

ほかに、ムラサキシメジらしいもの、オチバタケの仲間らしいものが描かれた作品もあった。

なかで、強くこちらに迫ってくる作品があった。枯れ木に張り付いたカエルの卵塊のようなキノコで、実見したことはない。

年末の同好会の総会・勉強会で、会員がこのキノコを紹介した。拙ブログから、勉強会(2018年)の中身を抜粋・再掲する。

 ――勉強会は、橋本和昭さん(須賀川市)が担当した。主に観察会でのキノコを写真とともに紹介した。

阿武隈の山々では除染名目で森林の改変が行われた。それで、ある村では福島県で絶滅危惧Ⅰ類のセンボンキツネノサカズキ=写真上2=が消滅の危機にある。

橋本さんたちは緊急避難的にセンボンキツネノサカズキが発生した倒木を別のところへ移した。

その倒木の養分を食べつくしたら、センボンキツネノサカズキはどうなるのか。除染か保存かの二者択一ではなく、除染も保存も、の折り合いのつけ方はできなかったものか――。

このセンボンキツネノサカズキを描いたと思われる作品が2点あった。ミズナラなどの倒木に発生する美しい珍菌で、主に北海道で見つかっていることから、北方系のキノコなのかもしれない。

人知れず生まれて消えていくものがある。そうした菌類をいとおしむ冨田さんの思いが作品から伝わってきた。

ついでながら、ウィキペディアでは阿武隈の発生地を「川内村」と具体的に表記している。

2025年12月1日月曜日

指が生えかわる?

                                           
   図書館で、寝床で読む大活字本を探していたら、田部井淳子さんのエッセー集『山の頂の向こうに』が目に止まった=写真。

田部井さんは女性として初めてエベレスト登頂に成功した。田村郡三春町がふるさとだ。私は同じ田村郡の常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育った。「田村郡」のくくりでいえば、同郷の大先輩である。

大活字本は、小説だとページを繰る回数が多くなる。エッセーはその点短いので、1つひとつ読み切るのにそう時間はかからない。いいところで睡魔がやってくる。で、この本を借りた。

なぜ田部井さんの本か。田部井さんをモデルに、吉永小百合さんが主演した映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」が公開された。それで、ネットを含むメディアの情報が脳内にインプットされていたようだ。

田部井さんが女性だけでエベレストに遠征し、登頂に成功したのは1975年。今年(2025年)はそれからちょうど50年に当たる。

とりあえず寝床で読み始めると、これがおもしろい。本を持つ手の力がスーッと抜けるときもあれば、読み続けて1時間が過ぎ、2時間がたつこともある。

 映画の原案は田部井さんの別の本、『人生、山あり“時々”谷あり』である。ネット情報だけでいうのもなんだが、『山の頂の向こうに』の続編とでも呼べるエッセー集のようだ。

 『山の頂の向こうに』でも触れているが、「“時々”谷あり」は、たとえば子どもの成長に伴う行動の振幅の大きさなどを指しているのだろう。

『山の頂の向こうに』で最も強烈な印象として残った出来事を紹介する。田部井さんは1981年、チベットのシシャパンマ(8012メートル)を登頂したあと、左足の指が凍傷にかかる。その顛末がすさまじい。

キャンプに戻って足をお湯につける。「凍った指がだんだん解凍していく時の痛さは、とても言葉には表現出来ない」。これだけでも驚きだが、さらに事態は深刻化する。

 北京の病院は切断するかどうかという判断だった。「切るのは嫌だ」とそのまま帰国して、日赤病院で1本1万5千円の注射を2回打ってもらう。もしかしたら、これが効いたか。

 自宅で走り回る長男をつかまえ、おむつを取り換えようとして、田部井さんは転ぶ。そのとき、凍傷の足を包んでいた包帯がポロリととれる。

「キャーッ黒い指がない。なんと黒い部分だけ包帯にくっついているではないか。なかから生まれたばかりの赤ちゃんの指のような、赤い細い指が現われている。爪はない」。ドクターに電話すると、「よかったですね。切らずにすましたね」。

 指が再生した? それから足の指を鍛えるためにジョギングを始める。それを知った知人の世話で翌年、青梅マラソンに出場し、30キロを完走する。青梅マラソン出場の裏にはこんな奇跡と努力があったのだ。

2025年11月29日土曜日

豹変いや猫変

                                 
 大活字本の動物エッセー、群ようこ『ネコの住所録』は、2匹の近所の猫について書いた「二重猫格」から始まる。

人間の「二重人格」になぞらえて、通行人と飼い主とでは態度をガラリと変える猫のことを「二重猫格」と表現した。

首輪をした黄色いオス猫の「ゴン」は道路に突っ伏して死んだふりをする。通行人はびっくりするが、飼い主が声をかけると「ニャーン」としっぽを振って家の中に入る。

大きな家の立派な門の中にミカン箱のベッドを置いてもらい、ドテッと横になっている「ブタ夫」(キジトラのオス=「チャーリー」という名前が付いている)は、通行人が声をかけても「ブニャー」と押しつぶした憎たらしい声で鳴くだけだが、飼い主が声をかけると「ニャー」と言って起き上がる。

このエッセーを読みながら、わが家の「さくらネコ」の「ゴン」(キジトラ)と「シロ」(全身が真っ白)のふるまいを思い出した。

飼い猫ではない。地域猫で、カミサンがキャットフードをやると、まずゴンが縁側にすみつくようになった。

最初は段ボール箱、ついで「えじこ」(人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)をベッドとして用意した。

あとから来たシロは最初、どこかのお嬢さんみたいにとりすましていたが、ゴンよりは年かさらしく、なにかというとゴンを威嚇する。

カミサンはそれでゴンを応援することが増えたのだが、猫同士の力関係を変えるまでにはいかない。

シロは、人間に対しても横柄なところがある。ゴンは玄関のたたきにある踏み台にお座りをして、時折、物欲しそうに「お手」をしてこちらを見る=写真。

シロはそんなことはしない。ちょっと目を離したすきに茶の間に上がり込む。「コラッ」。一喝すると、脱兎のごとく庭に走り去る。

それだけではない。シロはゴンのベッドを奪った。カミサンは新たにゴンのベッドをつくってやった。

カミサンが足の神経痛に見舞われた時、私が代わってえさを与えた。今も時々、代行する。

すると、私を避けて突っ走り、少し先からこちらを振り返って見ていたシロが、だんだん距離を縮めて、今では「ニャー」と鳴くまでになった。11月に入ると足元にすり寄って一周までした。

君子は豹変する。その「豹変」と「二重猫格」から思い浮かんだ言葉が、シロの「猫変」ぶりである。

えさをやるのは朝と夕方の2回だ。夕方は特に「えさ、ちょうだい」の鳴き声が玄関先で繰り返される。

それだけではない。先日も縁側の方からうなり声が聞こえた。やはりシロである。ゴンを縮み上がらせている。なんだか白雪姫をいたぶる王妃みたいだ。

2025年11月28日金曜日

「ウ・サギ」

                                
 「ウサギ」は「ウ」と「サギ」に分けられる――なんて思ったわけではない。逆である。鳥のウとサギを並べると「ウサギ」になる。で、いちおう間に「・」(中黒=なかぐろ)を入れて「ウ・サギ」とした。

 神谷の夏井川にハクチョウが飛来してから1カ月。朝晩、わが生活圏をハクチョウが鳴き交わしながら飛び交うようになった。

 いわきの夏井川では三島(小川町)、平窪(平)、新川合流部の塩~中神谷(平)の3カ所でハクチョウが越冬する。

 塩の場合は下流のサケのやな場がある調練場(平中神谷)まで、ばらけるようにしてハクチョウが見られる。

 今年(2025年)は10月17日に「孫」の父親が平窪への初飛来を確認した。私はそれから1週間ほどたった25日に調練場で初めてハクチョウを確認した。

 それまでが大変だった。今年はどういうわけかハクチョウの越冬地にダイサギやアオサギが何羽もいる=写真上1。白い大型のサギをハクチョウと見誤ることがたびたびだった。

 三島では9月後半から、三島橋の上・下流で複数のダイサギが見られるようになった。ここでも何度か、ダイサギをコハクチョウと誤認した。

9月28日は朝、早めに家を出て8時ごろに三島を通過した。驚いたことに、三島橋直下の浅瀬にダイサギの大集団がいた。どこか近くにねぐらがあって、朝の食事にやって来たのだろう。

 三島や中神谷ばかりではない。夏井川を渡って平市街に入るとき、常磐線と並行する平神橋を渡る。その下流には国道399号(旧国道6号)の平大橋がある。この橋もちょくちょく利用する。

どちらかの橋を渡りながら、チラッと夏井川を見る。ときには上流にも下流にもダイサギがいる。

カワウも負けてはいない。週末は堤防の改修工事が休みになる。11月2日の昼過ぎ、マチからの帰りに堤防を利用すると、並列する川岸の波消しブロックの上にカワウがずらりと並んでいた=写真上2。

8月31日の夕方。同じように国道399号を帰ると、黒い隊列が見えた。車と同じ東の方向に飛んで行く。62羽ものカワウの大集団だった。

福島県によると、夏井川河口の横川にカワウのコロニーがある。そこへ帰る途中だったか。そのとき以来の衝撃だ。

「ウ・サギ」と夏井川。川には魚がいっぱいいる、というサインなのかどうか。釣りをしない人間は、ただただ「ウ・サギ」と語呂遊びをするだけだが……。

サケはどうだろう。やな場づくりはいつもよりかなり遅かったようだが。サケがどのくらい上がっているのかも気になるところではある。

2025年11月27日木曜日

あったかソックス

                                 
 神谷地区の歩こう会が公民館から夏井川河口の公園まで往復約9.5キロのコースで行われた。

堤防のごみを拾いながら自然と触れ合うウオーキングは、子どもにとっても得難い経験になったことだろう。

歩くこと自体楽しいのだが、さらにもう一つ、公民館に戻れば抽選会が待っている。「はずれ」なしなので、何かは当たる。「完歩賞」としてクオカード(商品券)も付く。

 出発式に合わせて参加者が数字の印刷されたカードをもらい、あらかじめ同じ数字の半券を抽選箱に入れておく。折り返し地点でカードにスタンプを押してもらう。それが完歩した証になる。

 毎回、出発式であいさつをし、番号を引く係になる。景品は米やキッチンペーパーなどいろいろで、抽選する本人は「まるでこたつソックス」が当たった。

 靴下が入っていた袋には「冷え対策」「独自の温熱刺激設計。つま先からふくらはぎまであったか保温」とあった。

 裏面に詳しい「解説」が載っていた。「足首のはなし」として、「足首、手首、首といった“首”は血液が集中して流れるポイント。ここが冷えるとカラダ全体の冷えを呼んでしまう。冷えから守る秘密は“首”にある」。

 「リラックスしたい」「冷えたフローリングがつらい」といったときにはお勧めの靴下だという。

その日の夜、さっそく「あったかソックス」をはいて寝た。なるほど。足元の冷えを感じずに目が覚めた。

実はその日の前の晩、今季初めて湯たんぽを使った。2日目は「あったかソックス」をはいたので、湯たんぽは休んだ。しばらくは湯たんぽなしでいけそうだ。

私は末端の血流が悪い。子どものころから「手足が冷たい」といわれてきた。秋の終わりになると、手足の冷えを自覚する。

で、朝起きるとヒーターをかけ、部屋が暖まったら石油ストーブに切り替える。下着は長袖、そして下ズボンをはき、散歩には手袋とマフラーをして出かける。

後期高齢者は早めの防寒対策が必要――そう思っている人間には、「あったかソックス」は願ってもない景品だった。

区長仲間が解説にあるイラストを見て、「昔はやったルーズソックスだね」という。そういうはき方もOKらしい。

去年(2024年)夏、短期入院で「左心耳閉鎖」術を受けたとき、「弾性ストッキング」(ハイソックス)をはいた(はかされた)。

術後はベッドでじっとしていないといけない。人によっては下肢の静脈血やリンパ液の鬱滞(うったい)が起きるらしい。それを軽減・予防する靴下ということだった。

その経験があるので、夜だけでなく日中も「あったかソックス」を使ってみた=写真。とりあえず2日間使い続けて、日中は普通の靴下で過ごし、夜寝るときだけ、「あったかソックス」にはき替えることにした。

次は手か。手首を温めるバンドでもあれば、それを試してみたい。

2025年11月26日水曜日

2年ぶりの歩こう会

                                       
   未明の4時半には起きる。すぐ新聞を取り込む。ついでに庭に出て、まだ暗い空を見上げる。

11月23日の日曜日は、星は見えるが数えるほどしかなかった。夜が明けると曇天だった。

この日は「神谷市民歩こう会」が開かれる。雨天なら、延期ではなく中止である。雨でなくてよかった。

歩こう会を主催したのは青少年育成市民会議神谷支部(地域部会)で、参加者は神谷公民館から夏井川河口までの往復9.5キロを、ごみを拾いながら歩いた。

河口の沢帯(ざわみき)公園で一休みをし、記念撮影をしたあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開き、昼過ぎには解散した。

参加したのは市民会議の支部役員や各区長、公民館職員と家族連れなど40人余り。スタッフとして区長仲間と顔を合わせたとき、去年(2024年)の歩こう会の話になった。

「去年は来なかったね」と笑いながらいわれたので、「はて、なにがあったんだっけ」と一瞬考えた。

そうだった。発熱して急きょ、公民館に不参加の連絡をしたのだった。あとで去年の手帳を見て、そのへんの経緯を確認した。

歩こう会が行われたのは11月10日の日曜日。義弟が6日に緊急入院をして、翌7日に亡くなった。

そのあと私が、次いでカミサンが発熱した。近所の医院から薬を処方してもらい、家で静かにしていると回復した。

私にとっては2年ぶりの歩こう会である。出発式であいさつしたあと、河口の公園に車で先回りして一行を待った。公園はチェックポイントになっている。区長仲間が抽選会に必要なスタンプを押した。

歩こう会は長い間、吉野せい賞表彰式と日程が重なっていて、朝、歩こう会であいさつをすませると、草野心平記念文学館へ車を走らせる、ということを繰り返してきた。

 それが何年か前から、吉野せい賞表彰式が土曜日に変わったため、日曜日の歩こう会にも最後まで参加できるようになった。

 ただし、今年の歩こう会はいつもより開催時期が遅い。晴れれば冷たい北西の風が吹きやすい。曇天でも風があれば体が冷える。小春日ではないが、風のない曇天なのがなによりだった。

毎回、備忘録のために堤防を歩く一行の写真を撮る。今年はプラスアルファとして対岸からも狙ってみた=写真。

背景の山並みのうち、中央で三角にとがっているのは大久町の三森山(656メートル)である。

こちら側、右岸のサイクリングロードにもウォーキングを楽しむ人がいる。日曜日ならではの光景ではあった。

2025年11月25日火曜日

「草野の森」25年・下

                                                    
   国道6号の神谷ランプにある「草野の森」は広さが約800平方メートル。森としての歴史は25年とまだ浅い。

平成22(2000)年3月、勿来の四沢交差点から神谷ランプまで全長約28キロの常磐バイパスが完成したのを記念して、植樹祭が行われた。

植えられた苗木はタブノキ、スダジイ、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ハマヒサカキ、ネズミモチ、ウバメガシ、ウラジロガシ、モチノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイなど約25種。

いずれもいわきの平地の潜在植生で、植物生態学者の宮脇昭さん(1928~2021年)が指導した。

 ランプ内のスペースは、のり面が半月形の森になり、残りが広場になった。広場と草地の境には照葉樹(シラカシらしい)が植えられ、今では独立樹の風格を備えつつある。

「草野の森」の前に「未来の風の乙女」像が建つ=写真。四沢交差点にも、「クロソイドの乙女」と題するブロンズ像がある。起点と終点で乙女像が交通の安全と地域の発展を祈っているのだ。

 会社をやめたあと、朝晩、夏井川の堤防を散歩した。途中、「草野の森」に寄ってブロンズ像と対面した。森がつくられてまだ10年もたっていなかった。

震災後何年かたって散歩をやめた。そしてまた最近、この「草野の森」を目的地の一つにして「準散歩」を始めた。

広場に立って森をながめるのはおよそ10年ぶりである。木々もまたその歳月を加えて生長した。

時間とともに植生が変化しつつある様子をつづったブログがある。植樹祭からは9年後、現在からだと16年前である。それを抜粋して紹介する。

――まだまだ幼樹が目立つが、若いなりに緑濃く茂り、鳥たちがやって来ては歌い、休むようになった。秋の夕暮れ時のスズメ、朝のキジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、冬のアカハラ、そして今はウグイスが森の奥でさえずっている。

照葉樹だから、森は一年中あおあおとしている。カンツバキ、ヒラドツツジ、クチナシといった灌木を配置して、四季を通じて花も絶えないようにした。

それでもよく見ると、落葉樹が何本か混じっている。ヤマザクラの幼樹がある。ヤシャブシの幼樹がある。名前の分からない落葉樹もある。針葉樹のクロマツも人間の丈くらいに生長したのがある。

いずれも人間が植えたものではない。風が運び、鳥がフンと一緒に落とした種が芽生え、生長したのだ――。

ブロンズ像の周りにはツツジが植わってある。これも生長して乙女像を隠すようになった。

若い森にはびこっていたセイタカアワダチソウは、今は反対側の広場を埋め尽くしている。前に草刈りが行われたらしく、丈は低い。「セイヒクアワダチソウ」だ。

いずれにしても、と思う。「草野の森」は人間と鳥と風、そして太陽と雨との協働作業によって絶えず変化し続けていくのだろう。