2019年1月18日金曜日

オーロラと「氷窒素」

 20歳前後からしばらく、宮沢賢治にハマった。今も片足くらいはハマっているかもしれない。新婚旅行はイーハトブ(岩手県)だった。還暦に始めた高専同級生との“海外修学旅行”では、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得た樺太(サハリン)を訪ねた。
 それとは別に、賢治の詩に出てくる「氷窒素」がオーロラに関係する、と知ってからは、いつかは“輝く窒素”を見たいと思うようになった。2009年に仲間と北欧を旅行した。ノルウェーのフィヨルドに感動した。しかし、北極圏までのしてオーロラも、という発想には至らなかった。オーロラは“極北”の現象という思い込みがあった。

 賢治の「氷窒素」は詩集『春と修羅』の<序>に出てくる。「……気圏のいちばん上層/きらびやかな氷窒素のあたりから/……」。新聞記者になりたてのころだった。全国紙の文化欄にオーロラの研究者が随想を寄せ、賢治の「きらびやかな氷窒素」をオーロラにからめて論じていた。<氷窒素はオーロラのことか>と納得した。

先の3連休2日目(1月13日)、いわき芸術文化交流館アリオスで「オーロラ上映&トークライブ」が開かれた。この日は日中、二つの用事があって見に行くことはできなかった。映像を見た知人がフェイスブックで感動を伝えていた。

実は年末の12月25日、つまりクリスマスの晩、NHKが「天空のスペクタクル~オーロラ・四季の絶景」を放送した。カナダの夜空におどるオーロラに息をのんだ。

さっそく、オーロラの本を図書館から借りてきて読んだ。太陽から勢いよく飛び出してくるプラズマ(太陽風)が地球の磁気圏に入ると加速し、大気中の酸素や窒素と衝突する。そのとき、発する光がオーロラ、ということだった。

色は下から紫・緑・赤。それにも理由がある。紫やピンクは窒素との衝突によって生じる。窒素は酸素より重い。オーロラに紫色の部分があらわれたら、下層で窒素とぶつかった証拠だ。酸素の密度が濃ければ緑色、プラズマのエネルギーが小さいときには酸素の薄い上層では赤くなるという。

クリスマスのテレビでは、「世界・ふしぎ発見」でミステリイー・ハンターをしている白石みきさんがリポーターになった。現地で先住民からオーロラにまつわる話を聞く。「オーロラは死者の魂。先祖の魂がわれわれを守ってくれる」。それを行く先々で聞かされる。

何度目かのオーロラを見て、彼女は2年前に亡くなった母親を思い出して涙ぐむ=写真。「お母さんが会いに来ているように感じる」。オーロラには、人の魂をゆさぶる力と美しさがあるようだ。

師走の初旬、Eテレ「日曜美術館」でノルウェーの画家ムンクの「叫び」を見たときから、脳内にオーロラが出現していた。あの背景の流動的な色合い、あれはオーロラではないか。オーロラではないにしても、ムンクはオーロラを意識していたからこそ、ああいう流動的な背景になったのではないか――。「きらびやかな氷窒素」を、一度はこの目で見たいものだ。

2019年1月17日木曜日

「長生きしてね」

「今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく」。きのう(1月16日)昼前、たまたまテレビをつけたら、NHKが歌会始を中継していた。皇后さまの歌に引かれた。今しばらく生きよう――そう、年寄りにはこの気概が大切なのだと、平成最後の歌に元気づけられた。天皇退位後は、お二人とも歌会始に歌を寄せることはないらしい。
 前日、皇后さまと同年齢という“お姉さん”がやって来た。去年(2018年)秋、ご主人が亡くなった。ドクターだった。入・退院を繰り返し、最後に入院したときには、自分の症状を“診断”して「もう退院はない」、亡くなるときには「『あと2~3時間だな』といって、そのとおりに息を引き取った」そうだ。

「最後まで医者だった。(妻としては、それが)つらかった」。そのうえ、「(夫が亡くなった今は)寂しいものよ」。そういうと、突然、「長生きしてね」と、視線をカミサンからこちらに向けた。「えっ? まあ」。“お姉さん”の激励が身にしみた。

 ドクターの通夜へ出かけた晩、夏井川渓谷の隠居で高専時代の仲間とミニ同級会を開いた。飲み過ぎて足を取られ、ろっ骨を折った。“お姉さん”の娘の夫が開いている整形外科医院へしばらく通った。全治50日だった。

 通院中、古希祝いを兼ねた中学校の同級会が郡山市の磐梯熱海温泉で開かれた。そのときの記念写真が年末、福島民報の折り込み情報紙に載った=写真。ずいぶん年を重ねたものだと思っていたが、“お姉さん”にハッパをかけられ、美智子さまの「今しばし生きなむ」の覚悟に触れて、あらためて「19歳の老少年」でいこう、と力がわいた。

きょうは平成7(1995)年に発生した阪神・淡路大震災の日。美智子さまが皇居のスイセンを花束にして、ガレキの上にそっと置かれた映像が思い出される。あとで読んだ本によると、スイセンの数は17本。1月17日にちなんだものだったのだろう。

2019年1月16日水曜日

「光の春」と「寒さの冬」

 夏井川渓谷の隠居のスイセンは、暮れのうちに咲き出した=写真。暖冬気味とはいえ、ちょっと早いのではないか。
冬至から1カ月弱。心なしか日脚がのびてきたが、来週あたりからいわきでも厳寒期に入る。きのう(1月15日)は小名浜で最低気温が氷点下2.8度だった。しばらくは「光の春」と「寒さの冬」の綱引きが続く。

 図書館から新着図書=永澤義嗣『気象予報と防災――予報官の道』(中公新書、2018年)を借りて読んでいる。「光の春」の由来が記されていた。ロシア語からきているという。「気象キャスター」で知られた元鹿児島地方気象台長・倉嶋厚さんが日本に紹介した。ロシアに限らず、「厳冬期、伸びはじめた日あしに最初に春の兆しを感じる2月頃の季節感をよく表している」言葉だ。

この言葉はすっかり日本人の暮らしのなかに溶け込み、俳句の季語にもなった。私も毎年、年明けから春がくるまで、冒頭のように綱引きに例えて使う。まだ小名浜測候所に職員が常駐していたころ、職場に届く広報資料を愛読しているなかで「光の春」を知り、「寒さの冬」との綱引きを知ったように記憶している。「熱帯夜」も倉嶋さんの造語だそうだ。

本には気象予報官の仕事や天気予報の実際などがつづられている。予報はなによりも言葉の「定義」から始まる。その定義(言葉)と、一般市民の言語感覚がずれている場合もある。

基本の基本は、朝や日中、夜といった時間の定義と呼び方だろう。気象庁は一日24時間を3時間ごとに8区分する。その呼び方は、0~3時:未明、3~6時:明け方、6~9時:朝、9~12時:昼前(11~13時:昼頃)、12~15時:昼過ぎ、15~18時:夕方、18~21時:夜のはじめ頃、21~24時:夜遅く、となる。日中は9~18時、夜は18~24時だ。

真夜中、日が替わっても暗いうちは「未明」、明るくなりかけたら「明け方」とざっくり認識している人間からすると、明け方が3時から、夕方が15時からというのは、なじみにくい。本には書いてないが、「西の風」と「西よりの風」の区別も難しい。「西より」は「西から」ではなく、北西から南西まで45度の角度内で風がばらついているときに、おおむね「西に寄った」風という意味で使うらしい。

で、さっそくきのう「夜のはじめ頃」の18時台に、ローカルテレビの気象情報をチェックした。NHKは8区分に従った予報、TUFは未明と明け方を省略した6区分の予報だった。なるほど、この本を咀嚼すれば気象情報番組を“批評”することもできそうだ。

本はまだ半分しか読んでいない。が、いわきにも関係するくだりを紹介する。

「天気を支配する気象現象のエネルギー源は太陽である。地球が太陽から受け取るエネルギー量は緯度によって差があり、季節によっても異なる。このため地球上では、エネルギー分布にアンバランスが生じている。このアンバランスを解消するために起きる現象こそ『気象』にほかならない。(略)収支がバランスする緯度は(略)30度から40度あたりである」

いわき市は北緯37度あたりに位置している。気象上のエネルギー収支が安定している地域だ。住みやすいワケがこれか。

2019年1月15日火曜日

タジキスタンの“野生ネギ”?

 土曜日(1月12日)の夜、BSプレミアムの「シルクロード 謎の民 大峡谷に生きる」を見て、うなった。ただし、本筋ではなくキノコと“野生ネギ”に、だが。
 3000メートル級の山々に囲まれた中央アジアの大秘境で暮らす人間を追ったドキュメンタリー番組だ。昔、シルクロード交易を支配したソグド人の末裔といわれる「幻の民」だそうだ。父親は羊を飼っている。大きい子ども2人はまちの学校へ行っている。その2人が休みで帰って来る。家の仕事を手伝う。自給自足に近い暮らしだから、自然の恵みを最大限に利用する。

父子が斜面を歩いていると、草むらに白いキノコがあった。食菌らしい。子どもがそれを採る=写真上1。地面からニョキッと生えている。柄は短い。写真を拡大すると、傘がゴツゴツ・ギザギザしている。傘裏は管孔かもしれないが、ひだのような“筋”にもなっている。日本の図鑑には載っていないキノコだ。ネットでも確認できなかった。
父子は次に、“野生ネギ”を刈り取る=写真上2。丈は短い。切り口は空洞になっている。“葉ネギ”だ。映像を見る限りでは、“野生ネギ”は株になって群生していた。斜面一帯が“野生ネギ”で覆われている。その場面でテロップが流れた。「もう十分採れたから終わりにしよう」=写真下。
 ネギの原産地は中国西部・中央アジアとされている。NHKはいとも簡単に“野生ネギ”というが、それがほんとうに野生ネギだったら、大ニュースではないか。

野生ネギの存在を裏付ける情報はないものか――。20年近く前、同じNHKの取材班に、解説者として同行した藤木高嶺大阪女子大教授(元朝日新聞記者)=当時=を紹介する文章に出合った。“野生ネギ”の話が出てくる。

 まだ現役の記者だった1981年、藤木さんはある登山隊に同行取材をした。4200メートルのベースキャンプに近い草原で寝転んでいたら、ネギの匂いがした。「10センチを越える野生のネギが群生していた。引き抜くと、白いところが10センチぐらい」あった。

 藤木さんは帰国して、新聞に「秘境のキルギス――シルクロードの遊牧民」と題する連載記事を書いた。パミール高原=中国名は「葱嶺(そうれい)」=のネギの話も紹介したのだろう。「蔬菜(そさい)に詳しい植物学者K氏から、『ネギは中国西部が原産地といわれているが、野生種のネギは未発見だ。葱嶺のネギが野生種だったら、植物学上の大発見だ』という連絡を受ける。(パミールが「葱(ねぎ)の生える嶺」とは、イミシンだ)

 藤木さんはその後、再び現地を訪れる機会があった。同じ場所に“野生ネギ”が群生していた。紫紅色の美しい花までつけていた。標本を集めて持ち帰り、K氏とともに植物学の権威(東大名誉教授)を訪ねて調べてもらったら……。中国名「太白韮(たいはくにら)」に最も近いということだった。つまり、ネギではなく、ニラ。

その伝でいうと、BSプレミアムの“野生ネギ”も、ニラの仲間、かもしれない。ネギ坊主のかたちを見ると、チャイブに近いような……。チャイブもネギの一種には違いないが。

現地の人たちにとっては、ネギでもニラでもかまわない。身近なところで得られる自然の食材だ。が、ネギのルーツを知りたい人間には、「おおっ!」と「そうかな?」の間で揺れ動く番組だった。

2019年1月14日月曜日

映画「喜びも悲しみも幾歳月」

 映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」は、昭和32(1957)年に公開された。阿武隈高地の山里で見たのは、公開から1年ないし2年たってからではなかったか。
 昭和30年に小学校に入学した。年に1回か2回、「映画鑑賞教室」(たぶんそういう名称だった)が開かれた。児童が隊列を組んで町の映画館へ出かけ、映画を見た。ディズニーの漫画映画「空飛ぶゾウ ダンボ」は低学年のときに、「喜びも悲しみも幾歳月」は高学年のときに見た記憶がある。

町に映画館が2館あった。実家は床屋で、知り合いの映画館主から頼まれて店にポスターを張っていた。おかげで、学校の映画鑑賞教室とは別に、小学校の高学年のときには、ちょくちょく映画を見に行った。東映時代劇の若いスター、中村錦之助のファンになった。

「喜びも悲しみも幾歳月」は別の映画館で上映された。主演の高峰秀子・佐田啓二と、錦之助の弟で息子役の中村賀津雄の名前を脳裏に刻んだ。

 映画の原作は、田中きよさんの手記「海を守る 夫とともに二十年」。夫がいわきの塩屋埼灯台長だった昭和31年、雑誌「婦人倶楽部」に掲載された。これが映画監督木下恵介の目に留まった。田中さん夫妻は退職後、いわきをついのすみかに選んだ。各地の灯台を勤務したうちで、いわきが一番住みやすかったからだった。

 その映画がきのう(1月13日)、いわきPITで上映された。劇場へ出かけてこの映画を見るのは、それこそ60年ぶりだ。いわきロケ映画祭実行委員会が「イワキノスタルジックシアター」第3弾として企画した=写真(チラシ・チケットなど)。第1弾「洟をたらした神」のときに実行委員会に加わった縁で、詩人山村暮鳥と塩屋埼灯台の小文を書いた。招待を受けて夫婦で見に行った。

 夫婦愛、家族愛の究極の姿を描いているだけではない。戦時下の総動員体制を描写することで逆に平和の大切さをも説いている――今度、それを痛感した。先の太平洋戦争で殉職した職員を、灯台の映像とともに追悼するシーンがある。塩屋埼灯台がこのときだけ、空撮で映し出された。映画の最後のシーンのような記憶があったが、違っていた。2部構成のうち、1部の終わりのころのシーンだった。

塩屋埼灯台は明治32(1899)年12月15日に初点灯をした。今のようにまっ白い「一本の指」(暮鳥)ではなくて、下から白・黒・白の縞模様だった。

 この灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体される。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20(1945)年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。

 そして、東日本大震災。大地震でガラスが全壊するなどの被害に遭い、応急的にLED灯器で小さな光を届けていたのが、およそ9カ月後の11月30日夕に復旧した。

初点灯をしてから、今年(2019年)でちょうど120年。偶然にも、ノスタルジックシアターで「喜びも悲しみも幾歳月」の上映企画がかたまった段階で、灯台を管理する福島海上保安部とコンタクトがとれたという。

 上映会では冒頭、同海保の次長氏があいさつを兼ねて灯台の色や「埼」という字のミニ解説をした。

塩屋埼灯台の「埼」が、なぜ「岬」や「崎」の字ではないのか。海図では「埼」に統一されている。呼び方も濁らない。つまり、「塩屋埼灯台」は「しおやさきとうだい」と呼ぶという。灯台の色が縞模様だったりするのも濃霧のときにわかりやすくするためだとか。塩屋埼灯台は確かに夏場、霧に包まれることが多い。初代の灯台が縞模様だったわけが理解できた。この“豆知識”だけでも見に行ったかいがあったというものだ。

田中さん夫妻の三女、作山葉子さんが塩屋埼灯台の受付をしている。映画終了後、作山さんにインタビューした特別映像「ロケ地の今を巡る“イワキノスタルジックリポート”」が流された。この映像で、映画が、田中さん夫妻がよりいっそう身近なものに感じられた。

2019年1月13日日曜日

白菜栽培は失敗

 自分でつくった白菜を漬ける――。そうもくろんで、去年(2018年)8月最後の日曜日(26日)、「耐病黄芯耐寒性大玉80日」の種をまいた。「師走には白菜漬けにしたい」と言ったら、種屋さんが薦めてくれた品種だ。
ところが、結球した、いやしかかったのは2玉だけ。外葉の先端が凍って変色し始めたので、1週間前の日曜日(1月6日)、根元から切り取り、外葉をはがして収穫した=写真。

 東北地方太平洋沖地震の大津波で原発事故がおき、放射性物質が飛散した。2013年初冬、夏井川渓谷にある隠居の庭が全面除染され、代わって山砂が敷き詰められた。長年かけてつくった菜園の土がはぎとられ、砂浜のように白くなったとき、家庭菜園を続ける気が失せた。

でも、昔野菜の三春ネギだけは種を切らしたくない――その一点だけで土と向き合っているうちに。また小規模・多品種栽培に挑戦してみよう、という気持ちがわいてきた。二十日大根から始まって、2016年にはキュウリの栽培を再開した。2017年にはキュウリのほかに、ナスとトウガラシをつくった。

で、去年、白菜を――という気になった。白菜はこれまでに3、4回つくっている。前に栽培したのは2009年だ。震災をはさんで9年ぶりに種をまいた。「耐病黄芯耐寒性大玉80日」というからには、11月下旬には結球していいはずだが、肥料が足りなかったのか、さっぱり育たない。師走になって白菜らしくなったのは2玉だけだった。

しょうがない。白菜漬けはあきらめる、ヒヨドリのえさと菜の花をつくっているのだ、と観念した。これまでの経験だと、1月後半にはヒヨドリが襲来してやわらかな葉をつつく。それで残ったものが春に花茎をのばして菜の花を付ける。これはぜいたくな食材だ。

収穫した白菜は押さえてもやわらかい。しまりがない。カミサンが白菜鍋にするという。その日、スーパーへ買い物に行った。ナメコ・マイタケ・ブナシメジ・キクラゲを買った。どうせなら、キノコ汁に――。醤油味の白菜鍋になった。

うーん――。白菜はやわらかい。未熟だから、それはそれでいい。しかし、キノコたちはどうだ。歯切れはいいが、味が淡白すぎる。野生の濃さがない。同級生が集まったときにつくった天然のキノコ汁が懐かしく思い出された。

2019年1月12日土曜日

永崎の「へそ石」

 いわき市の永崎海岸に「へそ石」があるのを知ったのは、故草野日出雄さんの『写真で綴るいわきの伝説』(はましん企画、1977年)を手にしたときだったか。
それからだいぶたって、へそ石にまつわる昔話を読んだ。いわき地域学會草創期のメンバーのひとり、故佐藤孝徳さんが『昔あったんだっち――磐城七浜昔ばなし300話』(いわき地域学會、1987年)を出した。校正を担当した。「へそ石」の話が3編収められていた。第59話の「甲石(かぶといし)の角(つの)」を除いて2話を紹介す

「大鮑(おおあわび)と弁慶」(第39話)――。「昔だかんね。弁慶が永崎のへそ石とこさ来た時だっち。大鮑あんので、取っぺぇとしたんだと。そんなわけだから、脇さ甲おいて、草鞋(わらじ)ばきで大鮑つかんでふんばったとね。なんぼ引(しっ)ぱっても取れなくって、草鞋の足跡だけ残ったと。脇さ置いた甲も石になっちゃったわけだ」

それで、へそ石のあるところへ行くと、「鮑石」も「弁慶の草鞋の跡」も「甲石」もある。もうひとつ、へそ石が銚子まで行ってしまった話。

「へそ石」(第53話)――。銚子で「この石拾(ひら)った人、草鞋つくっときの藁打ち石にしたんだそうだ。そんでへそ石の罰で、はやり病になったと。(略)神さまさ、拝んでもらったら、『永崎のへそ石、草鞋つくる藁打ち石にすんのは、どういうわけか』と、神さまに言わったからねえ。/そんでへそ石、親船さ積んで、永崎さ持って帰し(ママ)にきたんだと」

今年(2019年)の正月2日、年始にやって来た孫にお年玉をあげたら、時間ができた。カミサンを乗せて薄磯から小名浜まで、海岸道路をドライブした。へそ石は見たことがなかった。永崎海岸北端の龍ケ崎に寄って、へそ石と対面した=写真上1(石碑の手前の丸い石)

へそ石は砂に埋まって姿を消していた。それが、東日本大震災に伴う防波堤の復旧工事中、およそ10年ぶりに見つかった。で、地元ではへそ石が動いて悪いことが起きないように、龍ケ崎の「龍神様」のそばに固定した。

相模ナンバーの先客がいた。正月で帰省した地元出身者らしく、小さいころに見たへそ石その他の石の話をしてくれた。
それからの連想。テレビなどで見たトルコのカッパドキアの“キノコ岩”群を思い出す。実地に見たものでは、台湾・基隆の北方、野柳地質公園の“キノコ岩”が忘れられない=写真上2(奇岩のひとつ「女王頭(クイーンズヘッド)」)同公園は海に突き出た人さし指のような岬にある。長い間の地殻変動、海食・風食などの影響を受けてできた奇岩が林立している。

へそ石も鮑石も弁慶の足跡も甲石も、奇妙な石の形に地元の人間が想像力をかきたてられて付けた呼び名だろう。この永崎の奇石群は、へそ石以外は砂に埋まっていてよくわからなかった。