2025年9月13日土曜日

家電のホームドクター

                                 
    わが家のテレビはこの14年でいうと3台目だ。東日本大震災の直前と2016年、そして2022年に取り換えている。

そのテレビがおかしくなった。一日に何回も画像が止まり、音声が途切れて、画面が暗くなる。

同時に、「BCASカードとのアクセスが成立しません カードを抜き差ししても直らない場合はカスタマーセンターに連絡してください」という文字が現れる。

カミサンの親友の家が震災で解体されることになり、「欲しいものはどうぞ」というので、洗濯機や食器などとともに引き取ったテレビだ。よく持ったというべきだろう。

「家電のホームドクター」がいる。やはりカミサンの同級生で、前の取り換え時にも世話になった。今度も連絡して来てもらった。

テレビは2006年製。使っていたのは震災までの5年間。そのあとはわが家で眠っていたから、使用期間は実質8年というところか。2007年に開局したBS11イレブンは、当然見られない。

前も中古だった。3台目も古かった。5年持つかどうか――。3年前の春に書いたとおりに早く寿命が尽きた。そのときのブログを再構成する。

【2011年3月初旬】新しいテレビがわが家にやってきた。前のテレビがダメになった。修理が可能なら直して。しかし、新品より高いなら買い替える。

で、買い替えたとたん、大地震がやってきた。台所の食器棚から皿などが落下してガチャガチャ激しく音を立てた。

庭に飛びだして、いったん揺れが収まったところで家の中に戻ると、テレビが台から落下し、ノートパソコンが飛んでいた。そのあと、テレビが伝える大津波の映像に息をのんだ。

【2018年10月中旬】テレビがダメになって、「家電のホームドクター」から中古のテレビを手に入れたのが2016年ごろ。

そのテレビがおかしくなった。人間の顔が土気色だ。画面も全体に青っぽい。リモコンで調整しても変わらない。

量販店だと通りいっぺんの対応に終始し、結局は買い替えとなったのだろうが、ここはホームドクターががんばった。

メーカーのサービス部門の人が来て、テレビのカバーをはずし、本体を取り換えた。カバーをしてスイッチを入れると、人間の顔に生気が戻っていた。正常な色が復活した。

【2022年4月初旬】テレビの色がだんだん悪くなる。いよいよ更新時期か。買い替える前に、11年前に引き取ったテレビが映るかどうか確かめることにした。

ホームドクターがやって来てカードを差し込み、コードをつなぐと鮮明な画像が現れた。買い替えないですんだ。

――そして2025年の9月11日、ホームドクター経由で4台目が来た=写真。今回は手ごろな中古がないので新品にした。

家計的にはきついが、BS11イレブンが見られる。エンタメを見る楽しみが増えた。老夫婦にはやはりオールドメディアのテレビが欠かせない。

2025年9月12日金曜日

お笑いタレントの本

 「これ、おもしろかったよ」。カミサンが移動図書館から借りた本を差し出した。著者は若林正恭。「聞いたことないなぁ」。内心いぶかりながら手に取る。

 本のタイトルが変わっている。『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(KADOKAWA、2018年7版)=写真。

 口絵写真をめくっていたら、テレビでおなじみの顔が現れた。お笑いコンビ「オードリー」のツッコミ役ではないか。

 相方は春日俊彰。髪型は八二分け、服装は半そでのワイシャツにピンクのベスト、そしてネクタイと、窮屈なくらいにきちっとしている。

 それに比べたら若林正恭は、見た目は地味だ。が、テレビ番組ではMCを務めることが多いようだ。

 ちなみに、MCとは「メイン・キャスター」とばかり思っていたが、バラエティー番組の場合は「マスター・オブ・セレモニー」(進行役)の略らしい。

 お笑いタレントが書いた本である。同じお笑いタレントの又吉直樹は小説『花火』で芥川賞を受賞した。

矢部太郎は、漫画の『大家さんと僕』がベストセラーになり、手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。

彼の『マンガぼけ日和』(かんき出版、2023年)は、やはり移動図書館~カミサン経由で読んだ。認知症のことを、英語では「ロンググッドバイ」という。このくだりが特に印象に残っている。

さて、本業からすれば余技。余技でも作家や漫画家として高い評価を得ているので、どちらも本業といってもいいくらい、最近のお笑いタレントは、二足も三足もわらじをはいている。

若林正恭もそうだったのか。とはいえ、読んでみないことにはわからない。パラパラやり始めると、目に飛び込んできたフレーズがある。

アラフォーだというのにニュース番組が理解できない。で、東大の大学院生を家庭教師に雇う。その彼に経済や歴史、社会について感じた疑問をぶつける。

バブル崩壊以後、終身雇用や年功序列が前近代的なものになる。それに代わって、成果主義の時代がやってくる。その象徴が「新自由主義」だ。

「新自由主義に向いてる奴って、競争に勝ちまくって金を稼ぎまくりたい奴だけだよね?」

というところまで思いが至り、ではこのシステム以と無縁の国はどこか、しかも陽気な国は――となって、がぜんキューバに興味を持つ。

ある年、夏休みが5日間取れることがわかった。すると、念願のキューバ旅行を思い立ち、スマホひとつで航空券とホテルを予約する。

そんな問題意識から訪れたキューバ紀行エッセーだ。内容は省略するが、本のタイトルも新自由主義をキーワードにすると、「なるほど」となる。

「表参道のセレブ犬」は勝ち組、キューバの「カバーニャ要塞の野良犬」はそれを超越した自由な魂といったところか。

    同じタイトルの本が文春文庫にもある。こちらは、キューバのあと、やはり一人で訪れたモンゴルとアイスランドの旅行記を収録している。これも図書館から借りて読んでいる。 

2025年9月11日木曜日

1カ月ぶりの「エリー」

                                
   9月7日の日曜日はいわき市長選の投開票日だった。朝7時には投票所(地元の小学校体育館)へ出向き、5番乗り(カミサンは4番乗り)で投票を済ませたあと、夏井川渓谷の隠居へ直行した。

 途中、稲刈りの終わった田んぼがあった。雨まじりの風で稲穂がなぎ倒された田んぼも目に付いた。

 8月31日の日曜日は地区の市民体育祭が開かれ、隠居へは行けなかった。その前の日曜日10、17日は、カミサンの足の具合がイマイチだったので、やはり行くのを断念した。8月は、つまりは3日と24日の2回しか行っていない。

小川町三島の夏井川に残留したコハクチョウ(えさをやっている「白鳥おばさん」は「エリー」と名付けた)は、どうしているだろう。

 というのは、3日にはいたが24日には姿を見なかったからだ。行きも帰りもいなかったのは、この春に残留してから初めてだ。

 このまま姿を見せないとしたら、どこか下流へ流されたか。あるいは獣に……。前の「エレン」の場合は、大水のあとに下流で見つかっている。

 今年(2025年)はカラ梅雨以降、9月に入っても酷暑が収まらない。そのため、隠居へは早朝に出かける。9時前後の二番列車が通過するころには、土いじりを終えて隠居で休む。

 そして、昼前にはマチへ戻る。どこかで昼食をとることもあるが、たいていはサンドイッチなどを買って帰宅する。

 7日もそうやって平地へ下ると、三島の夏井川の浅瀬に白いかたまりが見えた。縦に長いサギではない。ごみ袋でもなさそうだ。とすると、朝はいなかったエリーか。

車を止めてガードレール際からパチリとやり、撮影データを拡大すると、そうだった=写真。大水にも流されずに生きていた。

三島のハクチョウたちは、3月後半にはあらかた北へ帰る。それが1羽、4月中旬になっても残留している。日曜日に通るたびに、浅瀬を歩いていたり、河原に上がって休んでいたり……。それで飛べずにとどまったハクチョウだとわかった。

「ダウンジャケット」を着たまま、日本の蒸し暑い夏を過ごさなければならないのだぞ、おい。姿を見るたびに心配が募った。

 それに、真夏は日差しを遮ってくれるはずの岸辺の竹林も、河川改修工事で消えた。あることはあるが、水辺からは遠い

 日曜日ごとの定点観測が8月は崩れた。カミサンの体調、地域の行事、そして異常な暑さ。7月も、20日は参院選の投・開票が行われ、地元の投票所の管理者になったために、隠居へは行けなかった。

それもあって、エリーへの思いがいつもより過剰になっていたらしい。1カ月ぶりに姿を見たときには心底ホッとした。

仲間がやって来るまであと1カ月。それまでなんとかがんばれよ。念力で言葉を送りながら車に戻った。

2025年9月10日水曜日

シン・習慣

                               
   この1カ月ほど、朝食が1時間ほど早まって6時過ぎになった。カミサンが早朝に対応してくれる接骨院へ行くためだ。併せてこまごまとした家事も一部引き受けることになった。

腰痛を抱えているカミサンがある日、足にしびれと痛みがあるといって、起き上がれなかった。指示に従って家事の一部を代行した。

今は前のように動いているが、ビフォー・アフターでいえば、あれもこれもおまかせ、というわけにはいかなくなった。

早朝を中心に新しい家事が増えた。「シン・ゴジラ」にならって、「シン・習慣」なんて言ってみる。前からの習慣に、ごみ出しや買い物、ネコのエサやりなどが加わったのだ。

月曜日早朝、家の前のごみ集積所にごみネットを出すことから1週間が始まる。これは長年のルーティンだ。

わが地区では月・木曜日が「可燃ごみ」を出す日で、それ以外に隔週の火曜日は「缶・ビン・ペットボトル」、水曜日は「容器包装プラスチック」などと決まっている。

そのため月~木曜日は、ごみネットを歩道に出したままにしておく。木曜日に収集車が来たあと、カミサンがネットを取り込む。

週末も出しっぱなしにしておくと、違反ごみを置かれることがある。生ごみを出された日には、すぐカラスがかぎつけ、袋を破って食い散らかす。

後始末をするのはごみネットを管理している私とカミサン。ごみネットがなければ、「ポイ置き」にはブレーキがかかるはず。金~日曜日は「ごみ回収はなし」というサインでもある。

で、ごみネットは私、ごみ出しはカミサン――だったが、今はネットも、ごみ出しも――に変わった。

すると、生け垣に巻きついたアサガオが咲いているのに気づく=写真。シン・習慣のおかげで家の周りをウロチョロする時間が増えたからだ。

朝晩、交代で「さくらネコ」のゴンとシロにえさをやる。昼は毎日ではないが、近所のコンビニからサンドイッチと飲み物を買って来る。

朝一番でカミサンを接骨院へ送ったあとは、ガラス戸の内側に立て掛けてあるカーテン代わりの発泡プラスチック断熱材を片付けて店を開ける。

それが終わると7時になる。あとはテレビをつけながら、パソコンを開いてキーボードを打ち続け、調子が良いと9時までには翌日のブログを仕上げる。

7時半にはBSプレミアムにチャンネルを変えて、30分ほど早く朝ドラの「あんぱん」を見る。

というのは、接骨院でマッサージを終えたカミサンから連絡が入って、迎えに行くのが地デジの朝ドラの時間帯だからだ。

連絡なしで歩いて戻って来るときもあるが、連絡がくればすぐ行けるように、BSで一足早く見ることにしている。

ということで、早朝5時前に起きて、あれこれやって、その日に予定が入っていなければ、9時以降は「自由時間」になる。

シン・習慣で変わったことといえば、家庭内歩行が増えたことだろうか。家事とは歩くこと、でもあるらしい。

2025年9月9日火曜日

カワウの群飛

もう10日近く前になる。日曜日(8月31日)に地区市民体育祭が行われた。関係者の一人として早朝から会場に詰めた。

帰宅したのは午後1時ごろで、すぐぬるま湯につかって汗を流し、しばらく横になっていた。

夕方、マチへ刺し身を買いに行った帰りのことである。斜め右上空に黒い隊列が姿を現した。車と同じ東の方向に飛んで行く。

水鳥のウだ。飛んでいる姿を見ただけで、ウミウなのか、カワウなのか、わかるわけではない。

単純に、川の上流にいるのがカワウ、海や川の下流にいるのがウミウ――で分けているだけだ(ここではカワウということで話を進める)。

あるとき、夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、合間に対岸の滝を見に行ったら、下流中央に露出している岩の上で3羽のカワウが日光浴をしていた。

3羽は時々、首を傾げたり、振り返ったりして警戒を怠らない。1羽が近くの岩場に飛び移る。くちばしを開き加減にして、盛んにのどを震わせる。

デジカメのレンズを最長にしてカシャカシャやり、モニター画面で拡大すると、目やあごの黄色い皮膚の裸出部はあごで終わっているもの、のどまでいっているものと個体差があった。色にも濃淡がある。カワウの若鳥らしかった。

そんな体験もあって、内陸でえさをあさっていたカワウたちが、ねぐらへ戻るために少しずつ合流し、最後は大編隊になった。そう推測したのだがどうだろう。

助手席のカミサンが何回かカメラのシャッターを押した。あとで撮影データを確かめ、パソコンに取り込んだが、隊列はかすかに写っているだけだった。

データを拡大すれば、1羽1羽がカワウのシルエットだとわかる。が、ポイントは横一列に並んだその長さだ。

とにかく長い。こんな長いカワウの隊列は初めて見た。それを部分的に拡大(切断)して分かりやすくしたとしても、長さは伝わらない。

が、スマホでブログを読む人は、何が写っているんだ、何も写っていないではないか、となる。

全体では横に長い62羽の隊列だが、それではやはりわからないので、半分の35羽程度まで拡大したのをアップした=写真。なんだ、空しか映っていないではないかといわれたら、もう「ごめんなさい」である。

これはだいぶ前に聞いたことだ。いわきの夏井川でウの姿を見ることはまれだった。野鳥の研究者も「いわきにいるのはウミウ」という判断だった。

が、夏井川を毎日見ていると、その常識が通用しない、という思いが強くなっていた。

毎年、ウの数が増えている。カワウではないのか。野鳥の会の「参考調査」でカワウが増えていることがわかった。

これだけの大群である。福島県のデータによると、いわき市内では北部の夏井川河口横川にカワウの「コロニー」がある。南部は鮫川御宝殿に「ねぐら」がある。

 コロニーもねぐらも一緒だろう。とすれば、カワウは横川のコロニーへ戻る途中だったか。 

2025年9月8日月曜日

『熊になったわたし』

                                           
 このところ連日のように熊のニュースが流れる。山で熊に襲われた。熊が住宅地に現れ、生ごみをあさった。家の中にまで入って来た。

 北海道のヒグマにとどまらない。本州のツキノワグマもまた人間の領域に、ひんぱんに出没する。

 いわきでも8月29日、田人町の休耕畑で熊とみられる足跡が発見され、警察が注意を呼びかけた。

9月5日には平田村に隣接する上三坂(三和町)で目撃情報が寄せられたと、防災メールが告げていた。

 図書館の新着図書コーナーに、ナスターシャ・マルタン/高野優訳『熊になったわたし――人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる』(紀伊國屋書店、2025年)があった=写真。

 本の見返しに張られた帯には「熊に顔をかじられ九死に一生を得た人類学者の変容と再生の軌跡を追ったノンフィクション」と書かれてある。

 「変容」とは傷を受けた顔の「変貌」のことではあるまい。精神的な「変化」のことだろう。「再生」はそれを踏まえたうえでの「現場復帰」のことにちがいない。

熊と遭遇した場所は、人類学者としてフィールドワーク(民族誌学の調査研究)を行っていた、ロシアのカムチャツカ半島だ。

今年(2025年)の7月30日朝、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。その半島での出来事だ。

地震がおきた場所からは北方の火山と氷河の山中、西の海岸部へ流れ出るイチャ川の流域がその現場らしい。

「解説」の力を借りて熊に出合うまでの経緯を頭に入れる。著者はフランス人で、カムチャツカ半島に住む先住民族のエヴェン人の集落に入ってフィールドワークを続けていた。

次第に打ち解け、冗談を言い合うような仲になる。そこで先住民族が驚愕するような事件が起きる。

エヴェンの人たちは狩猟を生業にしており、シベリアのほかの民族同様、動物の中では熊(ヒグマだろう)を特別な存在とみなしている。

なかでも、熊に襲われて生還した人間は「ミエトゥカ」と呼ばれる。エヴェン語で「熊に印をつけられた者」という意味だそうだ。半分人間で半分熊。これがこの本の核心部分だろう。

病院を見舞ったエヴェンの友人が言う。「熊は君を殺したかったわけじゃない。印(しるし)をつけたかったんだよ。今、君はミエトゥカ――二つの世界の狭間で生きる者になったんだ」

やがてフランスに帰って再手術をし、癒えるとまたカムチャツカ半島の土を踏む。その間の心の揺れや家族とのやりとり、現地での様子などが、人類学者としての客観ではなく、「熊になったわたし」の主観でつづられる。

現代文明のただ中で暮らし、イノシシしか視野に入ってこない人間からすると、熊は非日常の存在だが、その熊と人間が濃厚にかかわる世界では、内面にまで熊が入り込むような感覚になるらしい。変容と再生。なかなか理解しがたい心のありようではある。

2025年9月6日土曜日

看板建築

                                
   通るたびにチラッと見上げる建物がある。何軒か並んで「レトロモダン」な雰囲気を醸し出している。

そこはいわき市の中心市街地、いわき駅前のラトブ西側・銀座通り。建物はそのままでも、昔からの商店は減り、飲食店が増えた。

北側の「仲田町通り」と南側の「新田町通り」の間にその建物がある。それが「看板建築」なのかどうかはわからない。が、建物のファサード(正面)を見る限り、3階建ての造りになっている。

窓の配置や周りのデザインがおもしろくて、通るたびに眺める。だれがデザインし、だれが建築を請け負ったのだろう。

水戸市の常陽藝文センターから毎月、「常陽藝文」が届く。唯一の定期購読誌だ。2025年9月号は、茨城県石岡市の「看板建築」を特集している=写真。それからの連想で銀座通りのレトロモダンな建物のファサードを思い出した。

特集記事からの抜粋――。石岡には戦前に建てられたレトロな看板建築が多く残る。そのなかで6件が登録文化財に指定された。

2017(平成29)年には全国で初めて、同市で「全国看板建築サミット」が開かれたという。

1929(昭和4)年3月14日の夜、通りで火災が発生し、折からの強風にあおられて市街の4分の1が焼失した。その後、通りは看板建築群が並ぶ街並みに一新した。

建築史家・堀勇良氏が提案し、建築家・建築史家の藤森照信氏が日本建築学会で発表した看板建築の「定義」が紹介されている。三つある。

一つは、大正から昭和初期に造られた木造の商店・民家、あるいは双方を併せ持つ店舗用住宅。

二つ目は、街路に面したファサードを銅板、モルタル、タイルなどの不燃材料で被覆している。ただし、建物の四囲を被覆したものは含まない。

三つ目がファサードのデザインで、擬洋風商店建築の流れをくむ西洋建築風のもの。あるいは江戸小紋などの伝統的な文様を取り入れたもの。

1945(昭和20)年の終戦直前、旧平市街は西部地区、一小校舎、駅前地区と3回、空襲に見舞われた。

その意味では、銀座通りの建物群は戦前のものではない、古くても戦後に造られたことになる。

しかし、レトロモダンの趣が色濃いファサードの建物は、どこか石岡の看板建築群と通じるものがある。

3軒に分割されているファサードの建物は、鳥の目(グーグルアース)では、どうも屋根が一つのようにしか見えない。

看板建築とはいえないかもしれないが、その流れを受け継ぐものとみなすことはできるだろう。

いずれにしても大工・左官・石工といった職人技、これがなければ看板建築はありえなかった。それは確かなようだ。