2025年10月16日木曜日

カニノツメ

                               
 10月最初の日曜日は昼前、夏井川渓谷の隠居で過ごした。カミサンは薄磯海岸にあるカフェ「サーフィン」の駐車場で開かれたフリーマーケットに出店したため、朝のうちに送り届けてハマから直行した。

 畑に生ごみを埋め、ネギの苗床に肥料をすき込むと、予定の作業は終わる。あとは自由時間だ。ゆっくり、じっくり、なめるように庭を観察することにした。

9~10月には道路との境界にあるモミの木の根元にアカモミタケが出てくるのだが、ここ2~3年はさっぱりだ。

 境界の木が生長して電線に触れるため、電力会社に頼んで幹と枝を切ってもらった。「モミは枯れるかもしれない」。それが2021年12月のことで、懸念された通り2本のモミが立ち枯れた。

 アカモミタケは菌根菌で、モミと共生している。モミが枯れたらアカモミタケも……。やはり、というべきか。一昨年(2023年)からアカモミタケを見なくなった。今年も期待はできない。

 ほかのキノコは? ヒラタケやアラゲキクラゲが発生する立ち枯れの木がある。腐生菌のヒラタケは晩秋のキノコである。梅雨に採れたマメダンゴ(ツチグリ幼菌)も、近年は現れない。

記憶にあるキノコを思い浮かべながら巡っていると、木々に囲まれた庭の東端に、上部が赤く染まった黄色い「爪」が点々と生えているのに気づいた。

高さは2センチほど。形状からして「カニノツメ」に違いない。既にしおれかかった菌のそばには、幼菌を内包する径1センチほどの白球が7個=写真上。

まだ元気な爪を見ると、白球を破って皺しわの筒が2本伸び、先端でくっつきながら濃褐色のグレバ(ここに胞子がある)を抱えている=写真下。

グレバはハエの好きな悪臭を放つ。ハエがそれをなめに来ると、胞子もハエとともに運搬・拡散される。

シメジやマツタケをキノコの正統派とすれば、こちらは異端派だ。ある図鑑では、菌類を①ハラタケ類②ヒダナシタケ類③腹菌類④キクラゲ類⑤子のう菌類――と、大きく5つに分類して945種を収録している。

腹菌類は56種で、そのなかのツチグリ、ノウタケ、ホコリタケ、サンコタケ、スッポンタケ、キツネノタイマツは、隠居の庭でも見られる。平や小川の山で見たオニフスベ、アカイカタケ、カゴタケも腹菌類に入る。

いずれもおかしな形状と色彩の「珍菌」が多い。人間の世界で展開される美術とはまた違った自然の造形美。

画廊や美術館で作者が心血を注いだ絵画や彫刻を見るのも好きだが、それと同じくらいに山野で人知れず展開される美の競演も捨てがたい。

食毒を超えてキノコに引かれるのは、この腹菌類の多様さゆえかもしれない。隠居の庭だけでも「キノコの世界」の奥深さが実感できる。

1週間後の10月12日にはその数70以上。高さが5センチほどに生長したものもあった。一角がカニノツメだらけ、というのも壮観だ。

2025年10月15日水曜日

クリタケが食べられる?

                               
   フェイスブックに「いわき市魅せる課」の広告が載った。いわきの農産物と、それを支える人々をつなぐポータルサイト「いわきのめぐみNAVI」をPRするもので、画面を開くと新着情報に「出荷制限の緩和」があった=写真。

野生キノコの話に違いない。記事を読むとそうだった。原発震災以来、福島県内では会津の一部を除き、野生キノコの出荷制限(いわきは摂取も)が続く。

それが一部緩和されたという。リンク先の福島県のホームページの記事も含めて整理すると、次のようなことらしい。

野生のマツタケ、ナメコ、ナラタケ、ムキタケ、クリタケのうち、県の非破壊検査で基準値(キロ当たり100ベクレル)を超えなければ、検査を受けたものは出荷が可能、という内容である。

制限が一部緩和された時期は種類によって異なる。時系列でみると、マツタケは2021(令和3)年9月10日、ナメコ・ナラタケ・ムキタケは2023年11月28日。そして今回、クリタケが9月25日に同じ内容で緩和された。

マツタケはシロを持っていないので、採ったことはない。ナメコもいわき地方では難しい。ナラタケは普通に、ムキタケはたまたま、といった感じで採ってはいた。

狙って採りに行くのはクリタケだ。しかし、今はもうシロ(採れる倒木)はない。が、一部制限緩和となればキノコ採りに光がともったことは確かだろう。

水野仲彦著『山菜・きのこ・木の実フィールド日記』(山と渓谷社、1992年)は、写真のわきにメモ欄があって、採取日と場所を書き込むことができるようになっている。

原発震災の前、夏井川渓谷の隠居にこの本を置いて、採取のたびに書き足していった。その一部を紹介する。

ウラベニホテイシメジ(10/10)、アカモミタケ(10/11)、ナラタケ(10/23)、ヒラタケ・ハナビラニカワタケ・クリタケ(10/24)……。

なかでもクリタケは、10月25日を目安にシロへ行くと、はずれたことがなかった。腰のかごからあふれるほど採れた年もある。それを汁の実にしたり、おろしあえにしたりする。その楽しみが原発震災で断たれた。

2012年10月に書いたブログの一部を引用する。――キノコの「旬」は「瞬」。人知れず森の中に現れ、消えていく。

だからこそ足繁く森へ通っていたのだが、それにブレーキがかかった。図鑑をめくってキノコを追憶するだけになった。東電は「自然享受権」をどうしてくれるのだ、という思いが膨らむ――。この気持ちは今も変わらない。

あれから15年目の秋である。いわき市の「見える化」プロジェクトも、放射性物質の有無を徹底して「見せる」から、いわきの農産物のおいしさを「魅せる」に変わった。

「いわきのめぐみNAVI」はその発展形だろう。農産物や生産者、直売所などの情報がまとめられている。ときにはここを訪れて、キノコの情報を「最新化」しなくては――やっとそんな気持ちになってきた。

2025年10月14日火曜日

続・梨木香歩の本

                                          
 久しぶりに作家梨木香歩の本を読んだ。小説『冬虫夏草』と、エッセー集『歌わないキビタキ――山庭の自然誌」』の2冊で、10月2日のブログでこれらの本について触れた。

 梨木香歩は鳥類や植物だけでなく、菌類にも関心が深い。しかも、「糠床小説」まで書く。

――その昔、駆け落ち同然に故郷の島を出た私たちの祖父母が、ただ一つ持って出たもの、それがこのぬか床。戦争中、空襲警報の鳴り響く中、私の母は何よりも最初にこのぬか床を持って家を飛び出したとか」 (小説『沼地のある森を抜けて』)

こういう表現に引かれて梨木香歩が頭に住みついた。といっても、ずっと本がそばにあるわけではない。

引いたり満ちたりする波と同じで周期がある。同時代の作家では数少ないネイチャーライティングの書き手でもあり、『歌わないキビタキ』を図書館に返したあと、また3冊を借りた。

その中の1冊、『渡りの足跡』(新潮社、2010年)=写真=は、「ときに案内人に導かれ、知床、諏訪湖、カムチャツカ」などへと、渡り鳥の足跡を追ったエッセー集である。つまりはバードウオッチングを続ける作家自身の足跡の記録でもある。

冬鳥のオオヒシクイを見に新潟県の福島潟へ出かけた「コースを違える」には、コハクチョウも出てくる。

この本を読み始める前の10月9日、猪苗代湖に去年より3日早くコハクチョウの第一陣52羽が飛来した、とテレビが報じていた。

いわきのコハクチョウを見てきた経験からいうと、猪苗代湖の初飛来からおよそ1週間後には夏井川にコハクチョウが現れる。明15日に飛来してもおかしくない。

で、頭は既にハクチョウに占領されている。10月12日の日曜日はマチからの帰りに夏井川の堤防を利用した。コハクチョウは新川合流部でも越冬する。

この日は、小川・三島には残留コハクチョウの「エリー」がいるだけだった。新川合流部にも姿はなかった。

代わりにというわけではないが、堤防に出るとすぐ上空でホバリングしている大きな鳥がいた。

鳥はそのあと急降下し、水面をかすめながら急上昇した。足には獲物の魚はなかった。狩りに失敗したのだ。

車の真ん前を横切ってそばの電柱のてっぺんに止まるとき、白い顔に目を横断する黒い線が見えた。タカのミサゴだった。ミサゴは電柱に止まったと思ったらすぐ、カラスに追い払われた。

梨木本に戻る。この本で特に興味を持ったのは、ロシアのウラジオストク経由でサハリンを越え、カムチャツカ半島に飛んで、エトピリカやツノメドリ、オオワシ、オオセグロカモメなどをウオッチングしたくだりだ。

「案内するもの」の章で、「秋になれば、カムチャツカのほとんどすべての鳥は、渡りを始める。体重十グラムも、五千グラムも。群れになって、あるいは単独で」。

この最後の文章から、かの地の極寒ぶりが想像できた。カムチャツカ生まれの冬鳥がいわきに来ていても不思議ではない。

2025年10月11日土曜日

案ずるより……

                                 
   1、10、20日と月に3回あった広報資料の配布が、この4月から1、15日の2回に替わった。

が、年間を通じた配布件数と量は変わらないはず。それどころか、新たに季刊の「アリオスペーパー」が加わった。

 世帯配布の「アリオスペーパー」が発行される7、10、1、4月のうち、10、4月はやはり世帯配布の県の広報「ゆめだより」(偶数月発行)が加わる。

 毎月の「広報いわき」を軸にすると、10、4月は各隣組に配る資料がぐんと増える。その最初の「試練」が10月1日だった。

 広報資料は世帯数分をまとめて、前日までに袋に詰めておく。ざっと30袋だ。それを、戸建て住宅の役員さん宅の場合は担当分をレジ袋にまとめて玄関の軒下に置き、集合住宅の班長さんの場合はそのまま1階の郵便受けに差し込む。

回覧袋はわが家に届く郵便物の封筒を再利用する。だいたいはA4サイズ用の角形2号封筒だ。

ところが、これでは間に合わないときがある。その場合、ある班長さんから提供されたB4サイズ用の角形0号を利用する。

7月1日に初めて「アリオスペーパー」が配布資料に加わったとき、「10月は全体のボリュームが気になる」と書いた。

 まずは先日、近隣の区長さんが集まったときの感想。「10月1日付の『広報いわき』が遅かった」「1袋では収まらなかった」

 世帯配布が「広報いわき」など4種類、隣組に各1枚の回覧が2種類。これが行政から届いた配布資料だ。

 ほかに、10月19日に実施される「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」で使用するごみ袋(わが区の場合は各世帯1枚)と土のう袋(各隣組に1枚)を別袋で用意し、隣組によっては区独自の回覧も加えた。

 10月は年度後半の始まり。集合住宅の場合、大半の隣組で班長が交代する。そのために9月末締め切りで世帯数と新班長を把握するための調査表を配るのだが、どうしても抜けるところがある。その補正もしないといけない。

まずはいつもの封筒より大きい封筒を使い、2袋にしたのを班ごとにくくる=写真。集合住宅では1階の郵便受けにカギがかかり、封入口から入らない場合は新班長さんの戸口まで持っていく。

2階はともかく3、4階となると息が切れる。持病もあって階段の上り下りはきつい。で、何日も前からあれこれ考えて、①2袋に分ける②集合住宅の3、4階はカミサンに頼む――ことにした。

幸い今回も郵便受けが開いて、2袋の回覧資料をなんとか入れることができた。案ずるより産むが易(やす)し、だった。

とはいえ、集合住宅の場合、特殊詐欺などが横行していることもあって、緊急連絡用と断っても、プライバシーを理由に班長さんの電話番号を教えてもらえないケースがある。

「共助」さえ信用してもらえないのか。むしろ、こちらの「つながり」が希薄になっていくことが心配だ。

2025年10月10日金曜日

「サーフィン」フリマ

                                 
 もうこれは完全にアッシー君、そして「ついでの客」としての話だ。10月5日の日曜日、薄磯海岸のカフェ「サーフィン」駐車場で、初めてフリーマーケットが開かれた。

 その1週間前、ヤマ(夏井川渓谷の隠居)からハマ(サーフィン)へ移動して昼食をとった。

 そのとき、カミサンがママさんからフリーマーケットの話を聞いて、即座に参加を決めた。

 カミサンは古物商の許可を取っている。これまでにも何度かフリーマーケットに参加しており、今回も「フェアトレード&ブロカント(美しいがらくた)」という名前で、主に古裂(こぎれ)を並べた。

 当日は朝、カミサンと荷物をサーフィンに送り届け、その足で隠居へ向かった。隠居では、10月12日に三春ネギの種をまく。その直前の準備として、苗床に肥料をすき込まないといけない。

 それを終えると家に戻って昼食をとり、役所に出す書類をつくって一休みしたあと、再びサーフィンへ迎えに行った。

 アッシー君だから、フリマの様子は全くわからない。駐車場に着くと、出店者だけだった。が、昼ごろはけっこうにぎわったそうだ。

フリマの出店者を紹介された。一人は「孫」の母親の同僚だった女性で、古本を売っていた。文庫本の『マルドロールの歌』があった。

若いころ、フランスの詩人ランボーと同時代を生きたロートレアモン(本名/イジドール・デュカス=1846~70年)に興味を持ち、散文詩集『マルドロールの歌』(栗田勇訳、思潮社)を買って読んだ。

 ランボーもそうだが、ロートレアモンも謎の多い人物である。南米のモンテビデオで生まれ、作家を志してパリへ赴いたが、『マルドロールの歌」を残して無名のまま急逝した。

 その栗田訳詩集は箱入り、新装改訂版の第4刷(1971年)で、新聞記者になりたてのころ購入した。今も手元にある。

 文庫本の方は、訳者が前川嘉男で、奥付には2006年第3刷とある。第1刷は1991年。栗田訳本からすると、一世代は過ぎている。

今はどう訳されているのか、訳自体を比較検討したくて、文庫本を買った。値段はなんと100円! 本棚の飾りにするにしても安い。

 それだけではなかった。サーフィンは2階にある。その2階の上、屋根裏部屋のような3階で、近所に住む陶芸家箱崎りえさんが一日限りの個展を開いていた。

彼女は母親の関係で区内会の役員をやったこともある。旧知の間柄だ。その縁でいくつか、彼女の作品を持っている。

作品の特徴は自由奔放な線と色彩、形だろう。大きな壺から豆皿まで、ネコを中心にした絵柄の焼き物が並んでいた。

その中から1個、三日月と自転車をこぐネコの絵が描かれた三角形の豆皿を買った。絵柄がなんとも軽やかで明るい。こちらは400円。

文庫本と豆皿を並べてみた=写真。皿の下にあるのは10月18日から田人町のギャラリー「昨明(かる)」で開く箱崎さんの個展の案内はがきである。お近くの方はどうぞ。

2025年10月9日木曜日

ハクチョウではなくサギだった

                               
 10月に入るといわきの鳥見人(トリミニスト)の頭の中には、冬鳥のハクチョウが舞い始める。

 夏井川の飛来地は、下流から平・塩(新川合流部)、平・平窪(愛谷堰上流)、小川・三島(磐城小川江筋の斜め堰上流)の3カ所で、日曜日、渓谷にある隠居への行き帰りに三島で必ず飛来の有無を確かめる。

 三島にはハクチョウが1羽残留している。毎日えさをやっている「白鳥おばさん」は「エリー」と名付けた。

 夏の暑い盛りはエリーがどこにいるか心配になり、10月に入った今は、エリーの仲間がいつやって来るか気にかかる。

 10月5日の日曜日は、朝9時ごろ三島を通過した。三島橋を過ぎるとすぐ多段式の斜め堰が目に入る。その上流、右岸の浅瀬に白い鳥が10羽ほどかたまっていた。

 おっ、ハクチョウの第一陣か! 最初はそう思ったが、どうも様子がおかしい。ハクチョウにしては体が縦に伸びていて、首も長い。ハクチョウではなくサギだった(撮影データを拡大すると、くちばしが黄色い。で、ダイサギとして扱う)。

三島橋の上下流でなぜか9月後半から、単体ではなく集団でダイサギが見られるようになった。

驚いたのは9月28日の朝8時前。三島橋を横目に通過しようとしたとき、直下の浅瀬にダイサギの集団がいた=写真。

堰の下だから水量は少ない。石がゴロゴロしていて中洲が伸びている。以前、この下流でアユ釣りをしている人がいた。ダイサギたちもアユを狙っているのだろうか。

アユであろうとなかろうと、食べ物があればダイサギはねぐらから直行する。で、その浅瀬が朝の「集団食堂」になったのかもしれない。

ずっと下流、夏井川の堤防を散歩していたころ、サギたちの集団ねぐら入りを見たことがある。

夕刻、数羽あるいは十数羽が四方八方から現れる。と、急にキリモミ状態になりながら舞い降りる。

夏井川の対岸、広い河川敷を背後にもつ水辺の竹林(平・山崎)がねぐらだった。少し様子を見てから数えたら200羽を超えていた。

三島の夏井川でも左岸側(小川・上平)に竹林があったころ、サギがそこをねぐらにしていた。早朝5時ごろ、隠居へキュウリを摘みに行ってわかった。

夏井川水系は令和元年東日本台風で大きな被害に見舞われた。河川敷の土砂除去と立木伐採などが行われた結果、山崎でも、上平でもサギのねぐらが消えた。

さて、ハクチョウの第一陣かと誤認したダイサギたちは、集団食堂で朝食を終えた中の一派にちがいない。

以前からアオサギに混じって何羽かダイサギがいた。彼らはそうしていつも三島の夏井川の岸辺にいるようだ。

三島には、早ければ10月10日には最初のハクチョウが飛来する。エリーが仲間と再会するのももうすぐ。再会が実現してやっと鳥見人の気持ちが落ち着く。

2025年10月8日水曜日

仲秋の名月

                     
 いわき市暮らしの伝承後で澤田仲子となかまたちのパッチワークキルト展「古裂(こぎれ)と色の遊び」が開かれた。

 10月3日から6日までの4日間で、最終日(月曜日)に突然、アッシー君を頼まれた。知り合いから観覧を勧められたのだという。

 ちょうど朝のうちに予定の作業を終えたので、時間的に問題はない。かえって息抜きになる。

 女性が大勢いる中で男はたった一人。大きく鮮やかな色彩のキルトを見たあと、カミサンと民家ゾーンを巡った。

 園内にイノシシの足跡がある。見かけてもそっとしておいて――受付に張り紙があったので、かえってそちらに興味を持った。

 民家ゾーンの奥、里山と接してお祭り広場がある。足跡があるとすればそこだろう。真っ先に見に行くと、地面にところどころラッセル痕があった。

白水阿弥陀堂の入り口の手前、駐車場に続く広い芝生の広場がイノシシに掘り荒らされているのを見たことがある。ものすごいラッセル痕だったが、それに比べたらかわいいものだ。

 民家ゾーンでは必ず旧猪狩家(詩人猪狩満直の生家)をのぞく。そこの縁側にお月見の供え物が飾られてあった=写真。

 ハギの花とススキ、お月見だんご、サツマイモと栗などのほかに、「お月見どろぼう」のためのお菓子も用意されていた。

 そうか、きょう(10月6日)は「仲秋の名月」だったんだ――。前に確かめていたのだが、入力作業に没頭しているうちに忘れてしまった。

 家に帰ると、カミサンがお福分けの丹波栗をゆで、夕方にはサツマイモや丹波栗、ブドウを皿にのせて縁側に飾った。

サツマイモもブドウもいただき物だ。同じころ、カミサンの友人が自家製の「お月見まんじゅう」を持って来た。

お月見まんじゅうは、ネコが飛びつくかもしれないので、ほかの供え物と分けて床の間に飾った。

問題は天気だ。この日は朝から雲が多かった。伝承郷の行き帰りには、車のフロントガラスが小さな雨粒でぬれた。

夜になっても天気は回復しそうにない。「月よりブドウ」「月より丹波栗」で、いつもよりは晩酌がはかどった。

丹波栗はとにかく大きい。中身をどう取って食べるか。一つ一つやっていたのではまどろっこしい。

二つに割って、細いスプーンで中身をかき取る。それをしばらく続けると、茶わんにいっぱいになった。

ただし大半が崩れてパウダー状になる。これをどうするか。スプーンですくって食べたが、ほかに利用法は?

ネットで調べると、「栗スープ」があった。牛乳やコンソメ鶏ガラスープの素でつくる。これは簡単かもしれない。というわけで月は見えなかったが、供え物の栗の新しい食べ方は見えた。

「栗名月」は仲秋の名月からほぼ1カ月後の十三夜(旧暦9月13日)とかで、それはそれで、もうすませた気分でもある。

翌7日がほんとうの満月だが、これもやはり雲に遮られて見るのをあきらめた。まあ、あれこれ食べて満腹になったからよしとしよう。