2025年11月25日火曜日

「草野の森」25年・下

                                                    
   国道6号の神谷ランプにある「草野の森」は広さが約800平方メートル。森としての歴史は25年とまだ浅い。

平成22(2000)年3月、勿来の四沢交差点から神谷ランプまで全長約28キロの常磐バイパスが完成したのを記念して、植樹祭が行われた。

植えられた苗木はタブノキ、スダジイ、アカガシ、アラカシ、シラカシ、ハマヒサカキ、ネズミモチ、ウバメガシ、ウラジロガシ、モチノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイなど約25種。

いずれもいわきの平地の潜在植生で、植物生態学者の宮脇昭さん(1928~2021年)が指導した。

 ランプ内のスペースは、のり面が半月形の森になり、残りが広場になった。広場と草地の境には照葉樹(シラカシらしい)が植えられ、今では独立樹の風格を備えつつある。

「草野の森」の前に「未来の風の乙女」像が建つ=写真。四沢交差点にも、「クロソイドの乙女」と題するブロンズ像がある。起点と終点で乙女像が交通の安全と地域の発展を祈っているのだ。

 会社をやめたあと、朝晩、夏井川の堤防を散歩した。途中、「草野の森」に寄ってブロンズ像と対面した。森がつくられてまだ10年もたっていなかった。

震災後何年かたって散歩をやめた。そしてまた最近、この「草野の森」を目的地の一つにして「準散歩」を始めた。

広場に立って森をながめるのはおよそ10年ぶりである。木々もまたその歳月を加えて生長した。

時間とともに植生が変化しつつある様子をつづったブログがある。植樹祭からは9年後、現在からだと16年前である。それを抜粋して紹介する。

――まだまだ幼樹が目立つが、若いなりに緑濃く茂り、鳥たちがやって来ては歌い、休むようになった。秋の夕暮れ時のスズメ、朝のキジバト、ヒヨドリ、ムクドリ、冬のアカハラ、そして今はウグイスが森の奥でさえずっている。

照葉樹だから、森は一年中あおあおとしている。カンツバキ、ヒラドツツジ、クチナシといった灌木を配置して、四季を通じて花も絶えないようにした。

それでもよく見ると、落葉樹が何本か混じっている。ヤマザクラの幼樹がある。ヤシャブシの幼樹がある。名前の分からない落葉樹もある。針葉樹のクロマツも人間の丈くらいに生長したのがある。

いずれも人間が植えたものではない。風が運び、鳥がフンと一緒に落とした種が芽生え、生長したのだ――。

ブロンズ像の周りにはツツジが植わってある。これも生長して乙女像を隠すようになった。

若い森にはびこっていたセイタカアワダチソウは、今は反対側の広場を埋め尽くしている。前に草刈りが行われたらしく、丈は低い。「セイヒクアワダチソウ」だ。

いずれにしても、と思う。「草野の森」は人間と鳥と風、そして太陽と雨との協働作業によって絶えず変化し続けていくのだろう。

2025年11月24日月曜日

「草野の森」25年・上

                                
   近所のコンビニへ行くのと同じ感覚で往復30分・2000歩程度の「準散歩」を始めてから間もなく1カ月。3つのコースを設けて週に2回繰り返す。

その日の気分で行き先を選ぶ。行き先は夏井川の堤防か「草野の森」、近所のコンビニだ。コンビニは近すぎるので大回りをして行く。

「草野の森」は旧常磐バイパス(国道6号)終点の「神谷ランプ」(本線車道への斜道)にある。

震災前は朝晩、夏井川の堤防を散歩した。今の時期ならコハクチョウが目的で、途中、必ず「草野の森」へ寄って広場で一休みした。

震災後も何年か散歩を続けた。が、やはり大災害のショックが尾を引いていたらしい。慢性の不整脈が亢進し、長い散歩にドクターストップがかかった。

以来、コンビニへも車で行く始末で、「これではいけない、フレイルの悪循環を断ち切らねば」と思いつつも、実行できずにいた。そんなとき、2000~3000歩ならいいらしいと知って、「準散歩」を始めたのだった。

夏井川の堤防は車でマチへ行った帰りによく利用する。コンビニへもしょっちゅう行く。「草野の森」へ歩いて行くのは、それこそ10年ぶりくらいだろうか。

平成12(2000)年3月、バイパスの全線開通を記念して植樹祭が行われた。当時、国際生態学会会長だった理学博士宮脇昭さんの指導で、地元の平六小、草野小の高学年生や長寿会などが「神谷ランプ」ののり面にポット苗を植えた。

ランプ内のエリアは「草野の森」と名付けられた。「草野の森」の苗木たちはその後順調に生育し、四半世紀がたった今ではうっそうとした森を形づくっている。

しかし、なかで1本、住宅地の小道から見ると、鳥か風が種を運んで来たと思われる松(クロマツ?)が枯れている。

まずその確認を――と、アスファルトで舗装された広場に立ったのだが、ほかの木々に遮られて枯れ松は見えなかった。

のり面を覆う若木群とは別に広場の中央に独立樹が立つ=写真上1。樹下にはベンチがある。

ベンチの周りにはどんぐりがいっぱい転がっていて、歩くたびに落花生の殻を割ったような音がする。

それを集めてカメラを向ける=写真上2。家に帰って、撮影データを見ながら樹種を調べたのだが、よくわからない。

で別の日、今度は落ちていた葉とどんぐりを持ち帰り、ネットでどんぐり図鑑などにあたって樹種を絞り込んだ。

どんぐりは形状と殻斗(かくと)から、スダジイではなくアラガシかシラカシらしい。そう見当がついたので、ダメ押しを兼ねて葉とどんぐりを拾いに行ったのだった。

結論は、シラカシ(らしい)。違っているかもしれないので、断定はしない。

2025年11月22日土曜日

大火の記憶がよみがえる

                                
  大分市佐賀関(さがのせき)で大規模火災が発生した。火が出たのは11月18日の午後5時40分ごろ。火は北西の強風にあおられて住宅密集地に燃え広がり、翌19日になっても鎮火には至らなかった。

惨状を伝える20日付の新聞=写真=によると、焼けた建物は170棟(うち住家は130棟)、焼失面積は約4万8900平方メートルに及んだ。

規模としては平成28(2016)年の糸魚川大火(焼損147棟、焼失面積約4万平方メートル)を上回る。

佐賀関は高級魚の「関さば」や「関あじ」で知られる漁師町。火災現場は漁港のすぐそば、周囲を山に囲まれたなべ底のようなところで、火元とみられる北西部から火の粉が吹きつけ、古い木造住宅に次々と飛び火して一帯を焼き尽くした。

6月に一度、佐賀関の情報を集めたことがある。「海藻クロメ」の惣菜が手に入り、ネットで検索したら、佐賀関ではクロメを食べていることがわかった。

この漁師町は大分市の東端にある。ちょっと先の対岸は愛媛県の佐多岬。「関さば」の「関」は「佐賀関」の「関」であることがやっと頭に入った。

新聞記事に載った被災者の言葉が生々しい。「火の回りが早かった。振り向くたびに火が近づいてきた」「空が真っ赤になっていた。急に風も強くなって、あっという間に山から火がおりてきた」「大きな火の粉が雨のように降ってきた」

あのときと同じである。私が生まれ育った現田村市常葉町も火災で通りが焼け野原になった。

小学2年生になって間もない夜。一筋町の西方から火の手が上がり、折からの西風にあおられて、火の粉が次々にかやぶき屋根を襲い、東端の坂の上の家まで焼き尽くした。

そのときの様子を手記にまとめ、いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に載せた。一部をブログで紹介している。それを再掲する。

――昭和31(1956)年4月17日の午後7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――

常葉大火は、焼失戸数が505棟、焼失面積が3万坪(9万9000平方メートル)。規模としては佐賀関大火の約2倍だった。

 あのときから来年で70年。艦砲射撃のような火の粉と火災旋風の映像は、後期高齢者になった今も忘れられない。被災住民の今とこれからが案じられる。

2025年11月21日金曜日

渓谷の「日の出」

                               
   日の出は、夏至から冬至まではおおむね1日に1分遅くなる。冬至から夏至までは逆に1分ずつ早くなる。日の入りも同様で、冬場は1分ずつ早くなり、夏場は1分ずつ遅くなる。周期が約29.5日の月は同じように1日1時間を目安にするといい。

 現役のころは、季節のニュースやコラムを書くのに「俳句歳時記」が欠かせなかった。夏井川渓谷の隠居で土いじりを始めると、太陽や月などの天体の動きを反映した農事暦も参考にするようになった。そこから「太陽は1分、月は1時間」という目安が生まれた。

11月16日の日曜日は朝8時ごろ、隠居に着いた。空は晴れているのに太陽はまだ尾根の陰にある。V字谷である。日が差さないので、庭に立っていると肌寒い。

隠居は、集落では一番下の道路端にある。山側の家はすでに朝日に照らされている。標高が高い分、早く太陽が拝めるのだ。

家々の裏山から始まって、田畑、線路、道路と尾根の影が消えるころ、入り組んだ対岸の尾根に日が差し始める=写真上1。

この日の小名浜の日の出は6時15分。渓谷の隠居に最初の朝日が差し込んだのは、それからざっと2時間後だった。

 風はない。庭にはまだ山の影が広がっている。その影が時間を追って川岸へと後退していく。

 時には朝日に背を向けて立つ。焚き火で背中を温めるのと同じで、風がない分、背中がゆっくりぬくもってくる。生きものたちもそうして体を温めているのかもしれない。

やがて不耕起栽培の辛み大根の畑も明るい光に包まれる=写真上2。まだ地面が凍り付くほどではない。

普通の大根を栽培していたときのことである。霜をかぶってペタッとなった葉が朝日に照らされ、霜が溶けるにしたがってピクン、ピクンと立ち上がる。うねのあちこちでピクン、ピクン。この葉っぱのダンスを見るのが冬の楽しみだった。

辛み大根の葉も霜をかぶるとペタッとなる。しかし、葉が小さいからか、はっきりわかるようなピクン、ピクンはまだ見ていない。

隠居では日の入りが早い。ほかの家ではまだ太陽が見られるのに、土地が低い分すぐ日が陰る。冬至のころは午後3時になると太陽が尾根に隠れる。

その時間に尾根に隠れる太陽を「夕日」というのははばかられる。太陽の姿が消えても、空は明るい。

同じ太陽でもマチ(平地)とヤマ(渓谷)では見方が異なる。その違いを知る。楽しむ。渓谷の自然には学ぶことがいっぱいある。

2025年11月20日木曜日

あれもこれもセルフ

                                              
 朝晩どころか、日中もあまり気温が上がらない。秋の深まりとともに、暖房が欠かせなくなって、10月下旬に石油ストーブを引っ張り出した=写真。灯油は車のトランクにポリ容器を積んでガソリンスタンドから買って来る。

車のガソリンを補給しに行ったとき、スタッフからセルフになったことを教えられた。「えっ!」。前に工事をしていたのはそのためだったか。とりあえず最初なので、スタッフが代わって給油をしてくれた。

 ガソリンがそうなら灯油も――。後日、案じながら行くと、そうだった。ガソリンのときと同じスタッフがそばにいて、イチから教えてくれた。

まず給油機の画面を見ながら、支払い方法と給油量を指定(72ℓ=4缶は表示にないので、数字を入力)して紙幣を入れる。

次に、車のトランクに積んだポリ容器のふたを開け、給油機からノズルをはずしてポリ容器に差し込み、トリガーを引いて給油する。

 ノズルが灯油面に触れると自動で給油が止まる。数字がほぼ18ℓを指すあたりでノズルを少し上げ、カチャカチャとトリガーを引き続ける。それを36ℓ、54ℓと繰り返し、最後は72ℓになるのを待つ。

 それからだいぶ日がたち、また灯油が必要になった。今度はガソリンも補給することにした。

まずは灯油である。前回とは別のスタッフが立ち会ってくれた。おさらいを兼ねていわれたとおりにタッチパネルを押す。給油を開始する。そこまではなんとかできた。

最後の精算方法を忘れていた。給油機からレシートが出てくる。その末尾にバーコードが記されている。それを別の場所にある精算機に差し込む。教えられたとおりにして、やっとおつりが出てきた。

ガソリンも原理は同じ。満タンにしてレシートを精算機に差し込み、おつりを回収した。「セルフの時代だな」。思わず口の中でつぶやく。

「慣れるまで何度でも立ち会いますから」。そりゃそうだ。そうしてもらわないと年寄りは困る。

マルトへ行く。ここも精算機に商品のバーコードを読み取らせて支払うセルフレジに変わった。

規模の大きなところは2本立て、完全セルフと、会計だけセルフとがあって、いつも人間が対応するレジを選ぶ。

身近なところではコンビニ。ここも最後は本人がタッチパネルを操作して会計をすませる。

少子高齢化時代になって働き手が減った。人手不足をカバーし、人件費も削減するには、レジのセルフ化が有効ということなのだろう。

しかし、それは日本に限らない。むしろ海外の方が先行しているようだ。セルフレジの先にあるのは、現金ではなくカードのキャッシュレス社会なのかもしれない。

もう16年前になる。同級生で還暦記念の北欧修学旅行をした。コンビニのレジはカード決済だった。

買い物はカードを持つ同級生に頼み、あとで精算した。そのとき思ったのが、やがて日本でも、である。少しずつだがそちらの方向に向かっている。とにかく慣れるしかない。

2025年11月19日水曜日

「空飛ぶ微生物」

                                          
   昔、見えないキノコの胞子を想像して、こんな文章を書いた。

――キノコは子孫を残すために胞子を飛ばす。その胞子が目の前の空中に漂っている。キノコの胞子は空を行き交う旅人。南からの台風が、西からの季節風が、東風が、北風が、海を、森を越えて胞子を運ぶ――。

 台風はシイタケ胞子の運搬人。それをイメージしてのことで、「胞子は空を行き交う旅人」という思いは今も変わらない。

胞子を飛ばす前のキノコも、比喩を用いるとわかりやすい。キノコは森の清掃人。枯れ木や落ち葉を分解し、栄養を土に返して森を清浄に保つ。

同時に、菌根菌として森の植物と共生し、木々の生長を助ける。食用としても重宝される。もちろん、毒キノコもある。それを含めて、知れば知るほどまた興味がわく。

 先日、またまた「ええっ」となった。「空を行き交う旅人」には別の役割もある。キノコの胞子を含む「大気微生物」が雲をつくり、雨を降らせるというのだ。

 牧輝弥『空飛ぶ微生物――気候を変え、進化をみちびく驚きの生命体」(ブルーバックス、2025年)=写真=で知った。

 本は「です・ます」調で書かれている。これを「である」調に替えて、印象に残った比喩的な表現を紹介する。

・人は大量の微生物を肺で吸い込んで吐く「人間ポンプ」である。呼気を通じて体内を通過する微生物は一日に約125万個。

・生物に由来する大気粒子は総じて「バイオエアロゾル」と呼ばれる。「人間ポンプ」は微生物だけでなく、バイオエアロゾルの発生装置でもある。

 ・春には黄砂が日本に届く。黄砂は、もともとは砂の鉱物粒子だが、中国都市部で汚染大気にまみれ、日本海で海塩を巻き込むので、鉱物やスス、海塩の混合粒子になる。その意味では、黄砂は「微生物の空飛ぶ箱舟」である。

 ・シイタケは広葉樹であれば種にかかわらず宿主として繁殖できる。動物の死骸や植物の枯死体にも生息できる腐生菌なので、胞子をまき散らし、長距離輸送で生息域を拡大できる。

 なるほど。南方生まれのシイタケが日本列島のみならず、北海道の先のサハリン(樺太)でも採れるワケがこれか。

ちょうどこの本を読み進めているとき、「あさイチ」(11月17日)がキノコ特集を組んだ。冒頭で『空飛ぶ微生物』を書いた牧輝弥・近畿大学教授の研究が紹介された。キノコが雨を降らせる。そこから番組が始まった。なんという偶然。

もう一つ。魚介類に関しては「さかなクン」がいる。そのさかなクンも出演していた。本筋はしかし、「坂井きのこ」というキノコ愛がいっぱいのタレントだ。

長野県在住の35歳で、キノコのすばらしさを伝えるためだけに芸人活動をしているという。

50歳のさかなクンを尊敬しているらしく、感激の対面となった。魚介類はさかなクン、キノコは坂井きのこクン。キノコの分野でも特異な才能を発揮するタレントがいることに驚いた。

2025年11月18日火曜日

置き干し柿

                                 

   「西高東低」の冬型の気圧配置になって冷たい西風が吹き荒れたあとは、庭に渋柿の葉が散乱し、見事に色づいた柿も2~3個は落ちている。

 柿の実はあおく未熟なうちからよく落ちる。今年(2025年)は「生(な)り年」らしく、いっぱい実をつけた。落柿が直撃するのを避けるため、夏には柿の樹下から車を離しておいた。

 秋の深まりとともに、柿の実の表面が鮮やかな朱赤色になってきた。色に引かれて実を回収し、整理ダンスの上に飾った。

 1個が2個になり、3個が6個になって、風が吹き荒れた翌朝には5個を加えて11個に増えた。

このまま飾っておくわけにはいかない。1カ月ほど前、落っこちた1個の皮をむいて4つ割りにし、小皿に並べて台所の窓辺に置いた。それを思い出して試食すると、渋みが抜けて甘い。それなりに干し柿になっていた。

若いころ、この渋柿を長い棒のはさみでもぎり、皮をむいて2つずつテープで結んで軒下につるしたことがある。

見事に失敗した。ヒヨドリにやられ、カビも生えた。以来、干し柿はお福分けを食べるだけになった。

つるさなくても、ざるに並べて室内干しをする。それもあり、ではないか。小皿の干し柿からひらめいた。

11個の柿の皮をむき、大きく平たいざるに並べて、日が当たる2階の窓際に置いてみた=写真。

裸になった柿の実は、傷ついたところはやわやわになっている。ざるに接するとくっついてしまって、実が崩れる。

そうならいないように毎朝、様子を見に行く。ちょっとした振動、たとえば地震、あるいは家の前の道路を大型車が通ると、すぐコロリとなる。で、毎日、置き場所を探りながら並べ直す。

揺れを感じなかった日でも、なにかが影響するのか、1個か2個はコロリとなっている。

小さな泡を吹いている傷口もあった。果肉がとろけそうになっている。これがざるにくっつくと厄介だ。

ざるも時々、半回転させる。曇りガラス越しとはいえ、光がまんべんなく当たるようにする。

この「柿の実」のお守(も)りは、水分が抜けて表面が焦げ茶色になるまで続く。焦げ茶色になれば、もうざるにくっつくこともないだろう。

そうなるのは師走の半ばかもしれない。それでいい。目標は正月だから。正月三が日の食べ物の一つにする。

むいた皮は捨てずに干して白菜漬けの風味用に使う。これはヒヨドリもつつかないので、軒下の台の上に新聞紙を広げて、そこに並べた。こちらはすぐ水分が抜けるので、使うまでそのままにしておく。