2026年8月8日土曜日

緑の塔

                                           
 「日本の夏」から何を連想するか――。若いときはヤマユリと青空にわく入道雲だった。

 40代で夏井川渓谷にある隠居の庭を「開墾」し、家庭菜園を始めてからは「暴力的な緑の繁殖」が真っ先に思い浮かぶ。

 わが生活圏のはずれ、住宅密集地から離れた一角にケータイの無線塔が立つ。塔の下半分はクズの葉で覆われている=写真。

 夏井川渓谷にある隠居までの道筋でも、クズがからまり、葉をまとった電柱や標識柱が何本もある。

 自分の暮らしと直接かかわりがないから、「すごいなー」で通り過ぎるだけだが、わが家の庭や隠居の庭、そして菜園となると、そんなゆとりはない。

 日曜日のたびに隠居の菜園で草むしりをする。草をむしって土が見えるようになったと思っても、すぐ緑に覆われる。

 小さな面積だが、「三春ネギ」のうねが畳3枚分くらいある。そこはがんばって草をむしり、ネギの根元に日光が当たるようにしている。

夏場は朝の1時間が限度だ。曇ってはいても気温は高い。すぐ汗みどろになる。2時間も、3時間も外にいると、熱中症になりかねない。

 そんなあんばいだから、草たちはまた競うように生えてくる。刈り残した風呂場の前のギボウシと、ミソハギが花をつけ始めた。酷暑のなかの一服の涼である。

 そうしたなかでも「収穫」はある。「ふっつぇ」のジャガイモの葉が、ほかの草にまぎれて枯れかかっている。草にまぎれて茎をむしると、小イモが転がり出る。7月には2回、それぞれ5~7個を「収穫」した。

 「こんなちっちゃなイモ、どうすんの?」。カミサンになじられながらも、私には決まった食べ方がある。

 「みそかんぷら」は同じ小イモでも、もうちょっと大きいものを使う。そこまではいかない、まさに豆イモだ。

 三春ネギの苗と豆イモの味噌汁。「ネギジャガの味噌汁」は秋以降が本番だが、夏も間引いた三春ネギと、この豆イモで「ネギジャガの味噌汁」にしてもらう。

三春ネギは、冬場には糖分をためて甘くなる。今は夏。甘くはないが、ネギジャガの味噌汁にすると、やわらかくて香りが立った。三春ネギの個性は夏でも健在だ。

東北地方は8月4日、ようやく梅雨が明けた。近年では2013年と2017年、東北南部の梅雨明けが8月にずれ込んだ。

2013年は8月3日、これがあとで8月7日に修正された。2017年もあとで修正が入った。8月2日に梅雨が明けたが、あとで「特定できなかった」に変わった

7日は立秋。暦の上では「残暑」に入る。新聞の「暑中見舞い」広告は「残暑見舞い」に変わった。

秋になったといっても暴力的な緑の繁殖は変わらない。日曜日の草むしりはしばらく続く。

2026年8月7日金曜日

七夕と機織り伝説

                                
   カミサンのアッシー君をして、いわき市暮らしの伝承郷を訪ねた。開催中の企画展「いわきの民俗芸能」は前に見ている。カミサンの用がすむまで館内で待つことにした。

ロビーに七夕飾りがあった。そばの壁面には何枚かに分けて七夕の起源やいわきの七夕祭り、七夕がらみの人と水の関係、なかでも機織り伝説などを解説する文章が張られていた=写真。

それに関連して、いわきの伝説を3つ紹介している。鮫川の「御前淵(ごぜんぶち)」(勿来地区)、夏井川渓谷の「籠場の滝」、そして沼ノ内の「弁天沼」である。

「籠場の滝」の伝説と七夕の風習がどうつながるのか? ここはじっくり読んでみなければ、という気になった。

「籠場の滝」は渓谷の隠居の手前にある。毎日曜日、そばの県道を通る。車から必ず滝の水量と勢いを確かめる。

地元の古老によると、「籠場の滝」の「籠」は、「磐城平藩の殿様の籠」ではなく、「魚止めの滝の籠漁」からきている。その話を聞いたとき、頭の霧がサッと晴れたような気がした。

そのことに触れているかどうか。まずは解説文をチェックする。「殿様が籠から降りて滝に見とれた」という説のほかに、「滝つぼに大きな籠をしかけて魚をとっていたことに由来する説」もあることを付け加えていた。

調べがアップデート(知識の最新化)されているのに安心した。以下は、解説文を下敷きにしている。

日本では、機織りは女性の重要な仕事だった。機織りの技術は信仰とも結びつき、日本に中国由来の七夕文化が定着するきっかけにもなった。

昔は、年中行事は旧暦で行われていた。新暦では季節感などとずれることから、七夕は旧暦に近い8月の6~8日、お盆は13~15日に行われている。

水の中から機織りの音が聞こえる、水底(みなそこ)に機織りをする女性がいる――この「機織り伝説」は、養蚕との関連が指摘されている。

福島県から宮城県を中心とした阿武隈川沿いの地域と、長野県を中心とした地域に機織り伝説が集中している。これらの地域には養蚕が盛んなところが含まれている。

養蚕にはきれいな水が必要だった。養蚕が盛んな地域では沼や淵が神聖な場所として重要視され、七夕伝説と結びついた可能性があるという。そうしたことを踏まえて、水に絡んだいわきの伝説が紹介される。

 「御前淵」では、青年が淵に鉈(なた)を落とす。「籠場の滝」では、長者・江田の伴四郎が脇差を滝つぼに落とす。「弁天沼」では、木こりが沼にマサカリを落とす。

 それを取りに潜った青年(御前淵)、若者(籠場の滝)、木こり(弁天沼)が見たものは――。

 淵の底で機織りをするお姫様(御前淵)であり、水中の御殿(籠場の滝)であり、御殿で三味線や琴を引く弁天様(弁天沼)だった。

七夕にまつわる昔話をひも解くことは、人と水との関係を追求する手がかりとなりうる、という。(折から「いわき七夕まつり」が開かれている。なにかの参考になれば)

2026年8月6日木曜日

夏ネギも軟らかい

                                             
   7月前半のこと。家庭菜園でキュウリの収穫がピークを迎えたらしく、あちこちからお福分けが届いた。

生(な)るときには一斉に生る。作る方も、もらって食べる方も、核家族だから食べきれない。

5本、7本とまとまって届く。まずは晩酌時に生で味噌をつけて食べる。採りたてなのでみずみずしい。

残りは1日2本をめどに糠床に入れる。といっても、キュウリは日を追うごとに水分が飛んで、中身が白っぽくなる。こうなると、漬けてもうまくないので、3~4本まとめて漬けることもある。

漬けている時間は糠床の塩分によって異なる。温度でも変わる。なにかでいちいち測って決めるわけではない。キュウリや大根の漬かり具合、味、そして色を見て判断する。

暑くて乳酸菌の活動が活発なら、12時間にとどめる。これだと、朝入れて夕方には取り出すことになる。今はだいたい24時間漬けておく。

私が手本にしているのは、先日、101歳で亡くなったネギの師匠、塩脩一さん(平北白土)宅でいただいたキュウリの糠漬けだ。

採りたての緑色、シャキシャキとした食感、絶妙な塩味――。キュウリの糠漬けとしては絶品だった。

塩さんにはネギのことをいろいろ教えてもらった。それで、夏井川水系だけでも、下流域の平地は千住系、渓谷あたりから上流では加賀系が栽培されていることを知った。

私が夏井川渓谷の隠居で栽培している「三春ネギ」は加賀系らしい。田村郡からいわきの川前を経由して、小川の渓谷の小集落へと種が伝わった。

現在、スーパーなどで売られている太くて白いネギは、塩さんのいう「いわき一本太ネギ」かどうか、私にはわからない。見た目はきれいで、白くて太い。が、どうにも硬くて味噌汁には不向きだ。

それはともかく、千住も、加賀も秋冬ネギである。夏に買って来て食べるのは根深でも細く小さいものが多い。

先日、高久に住む知人から電話があった。「夏ネギを持って行く」という。翌朝、夏ネギとキュウリ、インゲンが届いた=写真。

キュウリはイボイボが目立つ。すぐ3本を糠床に入れた。夏ネギはその晩、焼いて食べた。軟らかい。葉の部分には蜜があった。地ネギだろうか。

味があっさりしているのは、夏で、寒くて凍らないように糖分をためる必要がないからだろう。

いずれにしても、私はネギとジャガイモの味噌汁を、ネギの味を測る目安にしている。

翌朝、カミサンがこの味噌汁を出してくれた。焼いたときと同じ食感だった。夏ネギもジャガイモとの味噌汁にいいことがわかった。またひとつ、ネギ栽培の根深さを知った。

2026年8月5日水曜日

2人がかりの特殊詐欺電話

               
 予兆は前の晩にあった。カミサンが電話を受けると、「息子」が「同窓会のハガキが届いていないか」という。

 「息子」にしてはガラガラ声である。「風邪で38度の熱を出した」という。その日はそれで終わった。

 翌朝また「息子」から電話がかかってきた。同窓会のハガキの話になったので、「まだ届いてない」。すると、「ところでさぁ、お願いがあるんだけど」と切り出して別の話を始めたという。

 「内緒で株をやっていた。株の配当金が野村証券から振り込まれるから、何時に振り込まれるか、聞いてくれ」

「息子」の症状を心配し、話をすっかり信じたカミサンが、直後にかかってきた「野村証券の担当者」から200万円を振り込むという話を聞いて、「むむむ」となった。

怪しい。こちらの住所、名前を聞いている。すると、次は口座番号か! パソコンですぐ検索すると、似たような手口の特殊詐欺例がヒットした。埼玉県警のホームページにあった=写真。

「特殊詐欺予兆電話情報(7月21日分)オレオレ詐欺に注意!」というタイトルで、「息子や証券会社を名乗るものからの電話」を紹介していた。2日がかりの犯行である。

最初の電話はカミサンが受けた第一報とまったく同じだ。「もしもし俺だけど、実家に同窓会のハガキが来てないか」

翌日、また「息子」から電話が入って、ハガキの話をする。そのあと詐欺の本題に入る。

「お金を預かってほしいんだ。野村証券から300万円が振り込まれるから、口座番号を教えてほしい。野村証券の担当者から家に電話があるから、その人の指示に従ってね」

で、直後に「証券会社の担当者」から電話が入って、うんぬん――という流れになる。

だましのシナリオは何パターンかあるらしく、金額が300万円ではなく、200万円だった。「俺」の状態も風邪だ、なんだと変わるのだろう。

子どものこととなると理性より母性が前に出てしまうのか、ふだんは何かにつけてクールなカミサンも、すっかり思い込んでしまったようだ。

私がネットで検索し、すぐ息子に電話すると、ガラガラ声ではない、風邪もひいていない。電話中のカミサンにすぐメモを渡して詐欺であることを伝える。

それでようやく「警察には連絡したから」とカミサンが相手に言って電話を切った。危なかった。

 ホンモノの息子の忠告に従って、カミサンがいわき中央署に電話を入れて顛末を伝えた。

すると、管内ですでに数十件の電話例があるという。いい対応だった、みんなに声をかけてほしい――そう言われたとか。

埼玉県警が広報したのは7月21日の出来事だった。このところ一斉に電話をかけまくっているらしい。それを信じて口座番号を教え、被害に遭った例もあるにちがいない。

わが家は未遂に終わったが、住所とカミサンの名前はアンダー世界に広がった。今後は、そう覚悟して対処するしかない。

8月4日は特殊詐欺電話にひっかかりそうになった日。このことをしっかり胸に刻むことにしよう。

2026年8月4日火曜日

災害とライフライン

                                 
 最大震度7の「令和8年熊本地震」以来、報道と連動して15年前の東日本大震災・原発事故、そして令和元年東日本台風の被災状況を思い出している。

 被災―避難―再建という流れはたぶん熊本でも同じだろう。統計的な数値は災害の全体像を知る上で大切だが、被害の度合いは1軒1軒、1人1人違う。

鳥の目(全体)から虫の目(個別・具体)へ、虫の目から鳥の目へと視点を絶えず切り替えながら、現在の熊本の状況を想像する。

15年前の大地震では、グラッときた直後は自分の命を守るのに精いっぱいだった。茶の間の本棚とテレビが倒れ、台所の食器棚から皿などが落下した。

庭に飛び出すと大地が波打ち、車の屋根につかまっていないと立っていられなかった。

揺れが収まってから、家の内外を見て回る。2階は惨憺たる状態だった。ブログに掲載した当時の記録を抜粋すると――。

【3月12日】電気は大丈夫だが、水は出ない。11日の夕方、水が細くなったなと思ったら、宵には止まった。

カミサンがコンビニに駆けつけ、氷を買ってきた。融かせば水になる。トイレも水洗ではないので問題はない。

夜10時24分ごろ、震度5弱の横揺れがきた。最初で最大の一撃に比べたら、時間も短く、揺れ方も弱かった。とはいえ、絶えず余震が続いている。

ケータイがかからない。固定電話は「込み合っています」。外からはかかってくる。息子とはそれで連絡が取れた。カミサンの実家からも電話がかかってきた。

【3月13日】知人から「井戸水ならあります」という連絡が入ったので、あるかぎりの容器を持って夫婦で出かけた。

飲むためには一度煮沸しなくてはならない。息子の家の水洗トイレには十分。二度往復して、ひとまず洗い水、飲み水にはめどをつけた――。

12日にはブログの最後にこう記した。「ただただ原発が怖い」。その通りになった。電源喪失をして、建屋が水素爆発を起こし、私らも含めて十数万人が原発避難を余儀なくされた。

沿岸部は大津波に襲われ、多数の死者が出た。いわき市災害対策本部のまとめ(同年7月1日付)では、県の定めた統一基準に合わせて死者が424人になった。

内訳は①直接死293人②関連死94人③死亡認定を受けた行方不明者37人――だった。

 それから8年後、いわき地方は夏井川水系を中心に、「令和元年東日本台風」による水害に見舞われる。

 平窪にある平浄水場が冠水したために、約4万5400戸が断水した。これはこたえた。

 他自治体からすぐ応援の給水車が来た=写真(2019年10月20日撮影)。マチですれ違ったのは草加市の車だった。ありがたかった。

 災害時に最も困るのは水、そしてトイレ。これが、被災者としての実感だ。地震や台風で避難所が開設されたというニュースに触れると、反射的に2つのことが思い浮かぶ。ネットにはいまだ改善されていないという声が多い。政治は何をしているのだろう。

2026年8月3日月曜日

ムカデに咬まれる

                                 
 夏井川渓谷の隠居に着くと、すぐ菜園に生ごみを埋める。そのためにハンドカバーと手袋をはめ、長靴をはく。首にはタオルを巻く。

 暑くても体の露出部をできるだけ少なくする。理由はすり傷・切り傷の予防。もう一つは、ブユと蚊から手足を守るためだ。

 手袋とハンドカバーは玄関の上がりかまちに置いてある。長靴は必ずひっくり返して、中にカメムシが入っていないことを確かめる。

 ある日曜日、いつものようにハンドカバーをはめようとしたら、右手のひらに激痛が走った。なんだ、これは!

 すぐハンドカバーを外すと、上がりかまちにムカデが落ちた。これが中に潜んでいて、急に現れた肉のかたまりにびっくりして、身を守るためにチクッとやったのだろう。

 何年か前、同じ隠居の茶の間で昼寝をしていたとき、手の甲に痛みを感じて目を覚ました。やはりムカデだった。

 そのときの比ではない。痛みが引かないどころか増すようだ。痛みの原因はムカデの毒、とネットにあった。

 台所で水を流しながら、咬まれた周りを指で押し続けた。それで毒成分がしみ出て流れ落ちたかどうかはわからない。キンカンを塗って湿布を張ったあと、急いで生ごみを埋めた。

 痛みはしかし、時間がたっても収まらない。ちょっと不安になって、早々に隠居を離れ、マチで虫刺され用のクリームを買って塗ることにした。

 渓谷からだと平窪が近い。いや、小川町にもドラッグストアがある。渓谷を下っているうちに、カミサンが「小川のコンビニでも薬を売っているよ」という。

 この日朝、そこで飲み物を買った。コンビニの薬のコーナーをのぞくと、虫刺され用のクリームがあった。

毛虫やムカデにも効く、とある=写真。すぐ買って、車の中で患部に塗り込んだら、気持ちが落ち着いた。

そういえば……。隠居で出合った、害虫を含む生き物たちが思い浮かぶ。筆頭はキイロスズメバチだ。

カミサンが草むしりをしていて刺され、時間を追うごとに痛みが増したので、磐城共立病院(現いわき市医療センター)の救急外来へ駆け込んだ。「今度刺されたら、ためらわずに救急車を呼ぶように」と言われた。

 咬まれたら危ないマムシも、隠居の庭に何度か現れた。マムシはその後、姿を見なくなったが、スズメバチは今も時折、庭を飛び回っている。

 なによりうっとうしいのはカメムシだ。秋も更けると外の寒さを避けて屋内に入り込み、雨戸の溝、衣服、靴、手袋、押し入れのふとんと、場所もモノも選ばずにもぐりこむ。

 それを知らずに手を入れると、強烈な臭いを噴射される。で、カメムシとスズメバチには注意がいくが、ムカデは想定外だった。

 同じ日、隠居の玄関前にアオダイショウの抜け殻があった。カミサンはそれだけで5メートルも離れて、「始末して!」と叫ぶ。

小さな生き物だが、現れればいつもこちらの神経をとがらせる。人間は自然の中で間借りをしているにすぎない。虫の一撃を受けるたびにそんな思いがわく。

2026年8月1日土曜日

大事な罹災証明書

                                    
 「罹災証明書」の申請受付が始まったというニュースに触れて、思い出した。15年前、わが家も申請したんだっけ――。

令和8年熊本地震の続報から目が離せない。どうしても東日本大震災と原発事故の記憶がよみがえる。その経験から被災地の今とこれからに思いがめぐる。

罹災証明書は被災者の生活再建支援に欠かせない。これがあると支援金をはじめ、家の応急修理、税金・公共料金の減免など、各種の公的支援が受けられる。

罹災証明は、申請を受けると行政が現場を見て発行する。しかし、その判定に納得できないときがある。その場合は再申請ができる。わが家もそうした。その記録が2011年の秋のブログに残っている。参考のために要約・再掲する。

――屋根の瓦が1枚割れ、コンクリートの基礎に亀裂が入っている話を書いたら、匿名さんから「被災申請を出して判定を受けてください」というコメントが入った。

それにしたがって「罹災証明」の申請をしたら、いわき市から人が調査に来た。家は「一部損壊」の判定だった。

その後、知り合いの建築士に話すと、「再申請をしたら」という。不服申し立てである。

それをしたら、東京から応援に来ている公務員氏と判定員の建築士2人の計3人が再調査にやって来た。

水平・垂直を測る道具を使い、家の内外をこまかく見たあと、目の前でマニュアル化されたチェック項目に点数を書きこんだ。「半壊」の判定だった。

判定した建築士さんの話では、基礎のコンクリートが割れて家の北西側が少し沈んだ。

それで2階北側の床が2センチ近く下がったために、壁と梁との間にすきまができた。

道路に面した北側1階の床にボールを置くと、コロコロ転がっていく。推測していたとおりの結果になった。

台所の外壁、戸のすきまなど、専門家に指摘されるまで知らなかった亀裂、ひずみもある。

「半壊」の証明書が出るのはざっと3週間後。応援の公務員氏は支援・減免など利用できる制度の説明をする一方で、「一部損壊」の証明書を持ち帰った。

ここはありがたく制度を利用することにした。夜、知り合いの建築士に電話で点数を告げたら、「大規模半壊に近い半壊ですよ」といわれた。思っていた以上に家は傷んでいた――。

最初は見た目だけの判断だったといってもいい。屋根の瓦は、秋に施工業者が見回りに来て、残しておいた未使用の瓦と取り換えてくれた。

しかし、どうもトイレの雨漏りが止まらない。支援金制度を利用して、すぐ2階のテラスを改修したら、雨漏りが止まった。

縁側のコンクリートのたたきも手つかずのままだ。15年たった今は、その亀裂が少し広がったような気がする=写真。

この15年の間にも何度か大きな地震を経験している。それで亀裂が少しずつ広がったのかもしれない。

メディアの震災報道がなくなれば終わりではない。むしろ、そのあたりから個別・具体の問題がのしかかってくる。しかも、それがずっと尾を引く。

2026年7月31日金曜日

津波警報時は通行止め

                               
   7月30日のいわき民報に、カムチャツカ半島沖の地震からちょうど1年を伝える記事が載った=写真。

1年前のこの日朝、カムチャツカの沖合でⅯ8.7の巨大地震が発生し、いわき市の沿岸部にも津波警報が出された。拙ブログによると、わが家では当日、こんな具合だった。

――故義伯父の家の庭でオニユリが咲いた。カミサンは植えた記憶がない。自然に根付いたらしい。

では新舞子海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波特番に切り替えた。15年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた。その記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。やがて鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになったことを伝える。

新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである――。

30日付のいわき民報は、当時の国道6号の渋滞と、その後、平・草野地区に「津波警報時通行止め」の看板が設置されたことを、写真付きで伝える。

このごろは日曜日の夕方、四倉までカツオの刺し身を買いに行く。行きはロッコク(国道6号)、帰りは旧道(浜街道)を利用する。

実は先日、ロッコクと山麓線(主要地方道いわき浪江線)の交差点に、「ここから先津波警報時通行止」の看板が設置されたのに気づいた。

で、7月26日、交差点を通過する際にカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。残念ながらピンボケだった。

「走ってる車から、急に『撮れ』っていわれたって」。確かにその通りだろう。信号待ちで止まったときならともかく、移動中にピントの合った写真を撮れということ自体、無理な注文だ。次回また撮影をと考えていたところに、記事が出た。

交差点の先、クリナップ井上記念体育館前の脇に津波標識がある。「津波避難場所/クリナップ体育館駐車場/避難場所の海抜4.0m」

さらに行くと、四倉の市街地だ。JR四ツ倉駅に向かう交差点と歩道橋の反対側、海側に右折すると、右手に四倉図書館がある。図書館は公民館に併設されている。近くには鉄筋コンクリート造りの中学校と病院。

海岸に近いので、東日本大震災では一帯が津波に襲われた。海岸堤防のすぐそばでは家が流失し、図書館周辺では浸水被害に遭った。

 歩道橋をくぐった先には、「東日本大震災/津波浸水区域/ここから」と書かれた標識が立つ。ロッコクも津波に沈んだということだろう。

 海岸道路の電柱や標識柱にも、すぐそばの海水面からの高さ(海抜4mとか5m)を知らせる表示がある。

いずれも津波への注意喚起を目的にしたものにはちがいない。そういう標識を日常的に見ながら、いわき市民は暮らしている。

2026年7月30日木曜日

令和8年熊本地震

                                  
 7月28日の夕方、熊本地方で大きな地震があった。第一報をテレビで知ったあと、「いいのみんなの食堂」へ出かけた。帰ってテレビをつけると、NHKは地震特番に切り替わっていた。

 発生から1時間半後、イオンモール熊本で爆発――といった衝撃的なニュースが流れた。

 「東日本大震災」での体験、「阪神・淡路大震災」の映像を思い出して、脳内が震えたのか、真夜中に目が覚めたあとは眠れなくなった。

 未明の3時前には新聞が届く。1面のトップはベタ黒白抜きで「熊本で震度7」とあった=写真。それを見てまた胸が苦しくなった。

「阪神・淡路大震災」、そして「東日本大震災」がそうだったように、時間がたつごとに被害が拡大する。原発は? 「異常なし」の見出しに、ひとまずホッとする。

気象庁が地震名を「令和8年熊本地震」と命名した。熊本では10年前にも同じような場所で大きな地震が起きている。「平成28年熊本地震」である。

何気なく「阪神・淡路大震災」と書き、「令和8年熊本地震」と書いたが、厳密にいうと、前者は「災害名」、後者は「地震名」である。

いわき明星大学(現・医療創生大学)で、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)の非常勤講師をした最初の年に、東日本大震災が起きた。

大震災の影響で開講が1カ月遅れた。原発事故も起きた。それに合わせて講義の内容を替えた。

そのとき、地震名と災害名があることを知った。私が調べて知ったことを伝える講座でもあった。

このブログも、「令和8年熊本地震」の犠牲者を悼み、被災者に思いを寄せるための情報の一つとして受けとめてもらえるとありがたい。自分自身のおさらいの意味もある。

「阪神・淡路大震災」は政府が閣議決定をした災害名。気象庁が命名した地震名は「兵庫県南部地震」だった。

気象庁は自然現象のひとつとして地震をとらえる。その結果、圧死・負傷・家屋倒壊などの災害が甚大だったことから、政府が災害名を決めた。

それと同じく、「東日本大震災」は津波による溺死が多く発生したための災害名で、地震名は「東北地方太平洋沖地震」である。

気象庁の前身は東京気象台。それが中央気象台になり、戦後の昭和31年、気象庁に昇格する。

大正時代には、まだ中央気象台だった。そのなかで「関東大震災」が発生する。これは災害名で、世間一般の通称が定着したようだ。地震名は「大正関東地震」である。

あのとき(東北地方太平洋沖地震のとき)、宮城県栗原市では震度7、いわきでは6弱だった。

震度階級は7止まりだという。理由は、防災上の対応が8でも、9でも変わらないため、だとか。どれほど揺れが強くてもすべて「震度7」となるのだという。

いわきで震度7の地震が起きたら、「大規模半壊に近い半壊」だったわが家はまちがいなく倒壊する。

そのことを思いながら、熊本地震のニュースを追う。そのつど、「あああ」となる。時間が経過するたびに、ライフラインの寸断が明らかになってきた。

2026年7月29日水曜日

真空チルド

                               
   7月も残すところあと2日。東北南部の梅雨明けは秒読み、というより遅すぎではないか、そんな思いもよぎるが……。

関東甲信は7月20日に梅雨が明けた。いわきは北関東と同じ気象環境である。いわき地方も、山田では前日の19日から5日連続、真夏日を記録した。

日曜日の19日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。すぐ汗でシャツがぐしょぐしょになった。

このあと、マチへ戻って総合図書館へ行き、市立美術館の企画展を見る予定でいたが、「年寄り半日仕事」である。図書館で本を探したら、もう家で横になりたくなった。

 美術館で開催中の「20世紀北欧デザインの巨匠 スティグ・リンドベリ展」は、翌日行くことにして帰宅した。

3連休最終日の「海の記念日」)も朝から暑かった。美術館の駐車場に車を止めて1時間もしないで戻ると、運転席の計器盤は外気温37度を示していた。

 猛暑である。アスファルト舗装の駐車場とはいえ、37度とは! 海へ行こう。海風が冷たいはずだ。

 いわきのハマは俗に「いわき七浜」といって、海水浴場が10カ所前後はあった。東日本大震災、そしてコロナ禍の影響を受けて、現在では北から久之浜・波立(はったち)、四倉、薄磯、勿来の4海水浴場が開いているにすぎない。

美術館から海へ――。目的は「道の駅よつくら港」で売っているソフトクリームだ。

平市街を離れ、海岸道路に出ると、車の外気温は28度に下がった。9度の差である。マチよりは低いが、それでもやはり暑い。

暑いだけでなく、空気が湿って重い。スペイン生活が長い友人の画家の話を思い出す。

向こうは暑くても空気が乾燥している。ところが、日本は暑いうえに湿って重い。なんだか空気をかき分けるようにして歩いている感じだという。加齢のせいか、湿って重い空気に似た感覚を抱くようになった。

人間だけではない。糠床も湿潤と暑さの影響を受ける。表面が短時間で白い膜に覆われる。産膜酵母である。

異臭(シンナー臭)も加わるようになった。それで、朝晩だけでなく、暑い日には昼も糠床をかき回す。さらには食塩を加え、穴の開いた細長いグラス状の容器も入れて水を抜く。

それを続けていると、異臭が収まった。と思ったのも束の間。糠漬けをパックに入れて冷蔵庫で保管していたら、またかすかに異臭がする。冷蔵庫でも異臭のもとの菌は抑えられないのか。

糠味噌を洗い落としても同じだった。じゃあ、どうすればいいんだ――悶々としていたら、カミサンがパックを冷蔵室の「真空チルド」=写真=に入れた。

ここに保管していた糠漬けを食べたら、異臭がしない。偶然かもしれないが、真空チルドで菌の活動が抑えられたようだ。

それからは、糠漬けはチルドで保管し、そのつど出すようにしている。それで今のところ問題はない。これはこれで「黴雨(ばいう)」と高温がもたらした発見、ということもできる。

2026年7月28日火曜日

ウバユリとバショウ

                                              
   日記は手書きと決めている。ノートではなくカード方式で、新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」(チラシ=A4判コピー)の裏面を利用する。

先ごろ、県紙の販売店がこのチラシを廃止した。用紙が入らなくなった。が、これまでの分が残っている。ここしばらくは大丈夫だろう。

ふだんの日記のほかに、生物季節的な事象はあとで別の用紙にまとめておく。

特別な用紙ではない。若いときに特注し、未使用のままだった俳諧用の調査カードだ。死蔵するよりはまし、ということで始めた。「マイ歳時記」のようなものができれば御の字だ。

 夏のシンボルはヤマユリ。私はそう思っている。7月12日の日曜日、隠居のある夏井川渓谷の手前、段丘の高崎地内で今年(2026年)初めて、野生のヤマユリの花を見た。その1週間後、渓谷は「ヤマユリ街道」になった。

 ヤマユリはもちろん、チェックシートにも事細かく書き留めておく。併せて鳴き声を聞いたウグイスやガビチョウ(中国産のかごぬけ鳥)もシートに記録する。

 渓谷を縫う県道小野四倉線は、茂った青葉で緑のトンネルになっている。その薄暗い県道のガードパイプに寄り添うように、ウバユリが咲いていた=写真上1。

東日本大震災の前は、隠居へ行くと必ず対岸に渡り、遊歩道を巡った。するとこの時期、緑陰の中で緑がかった白い花が横向きに咲いている。

冬は冬で、立ち枯れた茎の先端に蒴果が丸く膨らんでいる。これもまた凛々しい雰囲気をかもしていた。

ウバユリのことをすっかり忘れていた。県道の花を見て記憶がよみがえった。そのくらい森を巡っていないということだろう。

いやいや、花自体が地味で、あまり興味を引かないのも一因ではないか。日記には書き留めている。が、ブログには一言も出てこない。

 逆に、夏も冬も毎回、気になってしようがない植物がある。平地の集落を流れる川岸で、バナナのような大きな葉を伸ばしている。

高崎に入る直前、「裏二ツ箭」から流れて来た加路川が夏井川に合流する。そばの県道には橋が架かり、その上流側にバショウらしい草本がある。

晩秋には枯れ、冬の間、ボロボロの枯れ草色になっていたのが、春を迎えて枯れ葉の間から新しい緑の葉をのぞかせ始めた。

と思ったら、どんどん緑が増え、今は長い羽のような葉をいっぱい伸ばしている=写真上2。

バショウは、和ジュロと違って野鳥由来とは考えにくい。だれかが植えたのだろうか。このバショウだけでも自然と人間、鳥と植物の交通について考えさせられる。渓谷までの沿道で見かける不思議の一つではある。これもチェックシートには事細かく記録する。

2026年7月27日月曜日

トマト記念日

                                
 首都圏で働いていた「孫」がUターンし、双葉郡内に再就職した。実家ではなく、わが家から車で5分ほどのアパートに住む。山梨県出身のパートナーも一緒だ。

 7月25日に婚姻届を出すというので、父親とともに証人になった。「孫」の両親が婚姻届を出したときにも証人になっている。

 父親から証人になってもらえ、といわれたそうだ。両親とは家族同然の付き合いをしてきた。そのなかで「孫」が生まれ、「孫」の妹が生まれた。

 婚姻届を出す日に、パートナーと一緒にやって来た。2人のなれそめは両親から聞いている。書類に署名・押印したあとは、しばらく雑談をした。

 2人とも本好きである。その点では、私ら夫婦―両親―本人たちと、世代が2回り違っていても、話題には事欠かない。

 私たちは「孫」たちのいう若い作家の名前に「ほー」となり、「孫」たちは老いた作家の名前に「へー」という表情をした。

 推理小説を好むパートナーが江戸川乱歩の名前を口にしたときには、シャーロック・ホームズは読んだ、エルキュール・ポワロはテレビドラマで見た、あの女警部ヴェラのドラマも……と盛り上がった。

 カミサンは自宅で地域図書館(かべや文庫)を運営している。移動図書館が月に1回巡って来て、貸し出す図書を取り替える。

 その中から俵万智の『牧水の恋』を引っ張り出してきて、『孫』に読むことを勧めた。前日の朝、藤間(平)の直売所から買って来たミニトマトその他を持たせることにして、テーブルに添えた。そばには婚姻届がある=写真。

 その組み合わせに脳内のセンサーが反応した。「きょうはトマト記念日だな」。いうまでもない、俵万智の有名な短歌に触発されてのことだ。

 「『この味がいいね』と君が言ったから六月七日はサラダ記念日」。それをもじって、2人が帰ったあと、胸の中でつぶやいてみる。「入籍の日に『食べな』とあげたから七月二十五日はトマト記念日」

 この日に入籍することを決めたのは、2人の間にトマトとは違う何か記念になる出来事があったかららしい。

ひそかな記念日には違いない。が、私にはそのおまけとして「トマト記念日」もいいのではないか、「孫」の婚姻届を記憶するにはぴったりだと思った。

後期高齢者になったとはいえ、ときに50代と意気投合をし、20代とこうして「今」を話し合うこともできる。

 「孫」の両親の婚姻届、『孫』自身の婚姻届と、親子2代にわたって証人になることができたのは――生きていたからこそ、である。

   そして、これはめったに経験できない「栄誉」でもある。そのことを「孫」に教えられた。

2026年7月25日土曜日

いわきの民俗芸能展

                                                  
   民俗写真家芳賀日出男さん(1921~2022年)のネガフィルム46本がいわき市暮らしの伝承郷に寄贈された。いわき民報で知った。

いわきゆかりの写真家である。いわきの民俗・芸能に関する写真もいっぱい撮っている。会ったことはないが、ときどき耳にはしていた。その意味では懐かしい名前だ。

いわきの歴史と民俗に詳しい故佐藤孝徳さんの家は江名の網元だった。確か佐藤家の正月飾りを取材して写真に収めている。その話を孝徳さんから聞いたのは、私が40代のころだ。

 いわき民報の記事によると、芳賀さんの父親は今のいわき市常磐藤原町の出身である。本人は中国・大連で生まれた。

民俗写真家として国内外で活躍し、1970年の大阪万博では世界の祭りのプロデューサーを務めた。

 ネットで情報を探ると、遺族(長男の日向さん)は奄美大島博物館や福島県立博物館にも、今回と同様、亡父の撮影したネガフィルムを寄贈している。

 折から暮らしの伝承郷では企画展「いわきの民俗芸能」が開かれている=写真(解説資料)。寄贈された写真の一部が展示されているという。

 カミサンが事業懇談会の委員をしているので、伝承郷へはアッシー君としてちょくちょく出かける。

 懇談会が終わると、展覧会場で担当学芸員が企画展の内容を解説する。委員に混じってそれを聞くのが習いになった。

 いわきの民俗芸能といえば、じゃんがら念仏踊りである。笠踊りやヤッチキ踊りもある。

それらのほかに、獅子舞、御宝殿の稚児田楽・風流、大和舞(山外舞)、奴振り・長持などを紹介している。

じゃんがら念仏踊りのコーナーには「じゃんがら人形」が展示されていた。1961年、現在の上皇・上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、郷土工芸品の「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上された。

じゃんがら人形は戦前、図案家の鈴木百世(ももよ)が考案した。戦後の1952年、百世の妻恭代さんが人形の制作を再開した。

旧平市が、皇太子と美智子さまの来市の折、「じゃんがら人形」の献上を決め、恭代さんに特注した。伝承郷に寄贈されたのはそのスペアだろう。

いわき総合図書館では去年(2025年)秋から、常設展「デザイナー鈴木百世 知る人ぞ知るいわき人」が開かれている。

当初は今年5月24日までだったが、好評のために8月30日まで延期された。常設展としては異例のことである。

じゃんがら念仏踊りのコーナーは、この人形ケースと解説文があるためにいちだんと中身が濃いものになった。

そして、これは余談。別の学芸員と芳賀日出男さんの話になった。冒頭で紹介した佐藤家の取材例を伝えた。

具体的な話はそれしか知らない。が、市内各地に似たような話が埋もれているはずである。

裏付け調査をするとしたら、長く困難な道が待っている。それだけにやりがいのある大仕事にはちがいない。

2026年7月24日金曜日

これからはふるさとで

                                 
 家の向かいに故義伯父の家がある。そこに画家阿部幸洋の小品だけでなく、個展の案内はがきをまとめた額がある=写真。それはそれで「作品」になっている。カミサンが額装した。

 その画家が自転車でわが家へやって来た。自宅(実家)はいわき市平の夏井川河口右岸域にある。歩けば40分というところだろうか。

 結婚と同時にスペインへ渡って半世紀近く。定期的に帰国してはいわき、東京、その他の都市で個展を開いてきた。

 今回もそうだと思っていたら、違った。スペインを引き揚げてきたという。これからはふるさとで絵描きとしての人生の仕上げをするわけだ。

 スペインはラ・マンチャ地方のトメジョソに住んでいた。妻のすみえちゃんは2009年9月末、向こうで急逝した。

生前、臓器提供の意思を明確にしていたため、心臓と肝臓がそれぞれスペインの市民に提供された。その意味では、彼女の魂はずっとスペインの大地で生きている。

すみえちゃんは妻であると同時に、阿部のマネジャー・通訳・運転手でもあった。毎年、個展を開くために帰国すると、夫婦でわが家へやって来た。

キャンバスが相手の夫に代わって現地の人たちと交流した。それで、すみえちゃんを母のように慕ってきた子どももいる。ラサロという。

すみえちゃんの死後、阿部が青年のラサロを伴ってわが家へやって来た。ラサロの弟も後年、パートナーとともにわが家を訪れた。今年(2026年)も来る。先日、連絡が入った。

私は50年以上も前、阿部と草野美術ホールで出会った。23歳だった。いわき民報社に入って2年目の駆け出し記者で、阿部は20歳ながら同ホールの広い壁面を使って個展を開いた。すぐ意気投合した。

 スペイン生活46年。今度は自分の絵かき人生の原点でもある実家で、ふるさとの風景の中でキャンバスに向かうことになる。

スペイン生活の集大成ともいうべき「帰国展」を考えているという。問題は、いわきのギャラリーではスペースが限られることだ。

トメジョソにアントニオ・ロペス・トーレス美術館がある。同美術館で2014年秋、阿部の個展が開かれた。

いわき市立美術館の佐々木吉晴館長(当時)がプライベートで個展を見に行った。彼によると、アントニオ・ロペス・ガルシア(1936~)というスペインの現代美術を代表する画家・彫刻家がいる。トーレスはその叔父さんだ。

スペイン現代美術の世界で阿部が画家として評価されたからこその、現地での個展だった。

それに匹敵するくらいの規模を考えているのではないだろうか。規模的には文化センターがいいのだが、借りるにはいろいろ制約がある。となれば、複数の会場で同時開催をする。そんなことを考えているという。

いずれにしても人生の区切りとなる回顧展には違いない。若いときから彼の作品を見続けてきた身としては、ふるさとに戻ってからの作風の変化もまた楽しみではある。

2026年7月23日木曜日

中洲の土砂除去へ

                               
   新年度に入って間もない4月下旬のこと。マチからの帰り、いつものように夏井川の堤防を通っていると、対岸・山崎の広い河川敷で作業員が2人、背の高い枯れ草に埋もれるようにして草刈り機を動かしていた。

 新しい予算がついて、また河川敷の土砂を撤去するのだろう――まずはそんなことを思った。

 場所は新川が夏井川に合流する、すぐ下流の山崎地内。合流部では冬、シベリアからハクチョウが渡って来る。せり出した山の中腹には専称寺がある。

 鎌田から塩に入るあたり、蛇行による流量・流速の違いからか、工事のあとに川中島(中洲)ができた。そこだけ緑に覆われている。

 夏井川は流路が短く、水量が少ない。そのためか、改修を重ねるたびに川中島と浅瀬ができる。この何十年か、夏井川ウォッチングを続けてわかった自然のメカニズムである。

新川との合流部も事情は同じ。ここではたびたび重機が入って川の土砂をかき集め、ダンプカーが運んでいく。川砂採取地でもある。

 そのくらい堆砂が多い。そこから下流にも中洲ができた。草が繁茂すると、やがてヤナギが生える。その緑が氾濫の要因になるかもしれない。

 なんとかならないものかと案じていたら、川を管理している福島県いわき建設事務所が地元の要望を受けて動いた。

 6月になると対岸の県道甲塚古墳線に沿って重機が入り、上流の新川合流部まで立木の伐採が行われた=写真。

 後日、県道を通ったときに道路沿いの立て看板を確かめた。「洪水被害を防ぐため/土砂を撤去しています」。この大文字の下に「いのちとくらしをまもる防災減災/国土強靭化対策工事」とあった。

そのための草刈りだったのだろう(いや、そうではなかったかもしれないが、場所といい、作業の流れといい、ここでは事業の一連の準備だったとみておく)。

 重機が入ると見るみるうちに対岸の景色が変わった。立木だけでなく、枯れ草が刈り払われて堆砂が見えるようになった。

中洲の土砂を撤去するためには、重機とダンプカーが行き来する作業路を確保しないといけない。それが県道に沿って設けられるようだ。

草刈りが行われた山崎の広大な河川敷では、「令和元年東日本台風」のあと、堆積土砂の撤去が行われた。

その前には、専称寺のふもとから同じ浄土宗の古刹・如来寺までの間で、田んぼの中に県道甲塚古墳線を付け替える工事が行われた。

その結果、古い道路は河川敷に組み入れられた。広い河川敷がより広くなった、というわけだ。

そこにまた重機が投入された。某政党のチラシによると、中洲の掘削工事は今年(2026年)5月に着工し、来年3月に竣工する予定という。

ほかの中洲もいずれヤナギが生え、大水のときには流れを阻害する要因になる。このことは頭に入れておかないといけない。

2026年7月22日水曜日

夏こそ朝活

                                 
 夏至から1カ月。冬至の「一陽来復」をもじっていえば、「一陰来福」。「一陰」に「来福」はそぐわないが、冬至に向かって日は短くなる一方だ。そのなかで、暑さはすでにピークを迎えている。

 朝の涼しいうちに――というのは、夏の過ごし方の定番でもある。サラリーマンにも出勤時間の前に「朝活」をする人が増えている。中身は人それぞれだろう。瞑想、ヨガ、読書会、ランニング、散歩、ラジオ体操、写生……。

 年寄りは一日の暮らしのサイクルからいって朝活型だ。夜は早めに寝る。すると、まだ暗いうちに目が覚める。

59歳から77歳へ。出・退勤時間の決まったサラリーマンをやめて18年。早寝早起きがすっかり定着した。

ほかの後期高齢者も同じらしい。半世紀もつきあっている人間が遊びに来て、寝起きする時間が早くなった、と言っていた。

彼は9時に寝て3時に起きる。私は8時に寝るが、日が替わったのを確かめてブログをアップするため、夜中に一度起きる。二度寝を含めると睡眠時間は6時間。その点では友達と同じだ。

毎日が日曜日で月曜日の人間には、朝活が一日の質を決める要素になる。たとえば、ブログの作成。これを毎日の「仕事」としているので、早朝に仕上げれば、以後の時間は行事が入っていなければフリーになる。

ルーティンの家事もある。起きるとすぐ風呂をわかす。朝風呂である。現役のころから、帰宅するとすぐ晩酌を始めた。風呂は寝て起きて、酔いがさめてから――が習慣になった。これは今も変わらない。

それから糠床をかき回す。キュウリなどが漬かっていれば取り出して刻み、器に盛る。

先日はキュウリだけでなく、ニンジンと大根があったので、イタリア国旗をもじって、「糠漬けトリコローレ」)と名付けて食卓に出した=写真。

毎日のルーティンに遊びを取り入れると少し楽しくなる。今度はナスを入れてフランスの三色旗、「糠漬けトリコロール」を出してみようか、なんて考えている。

朝活の順序からいうと、風呂・糠床のあとにブログを作成し、合間に接骨院へ行って腰をもんでもらう、戻ってすぐ朝食をとる、という流れだ。

夜明け前はシーンとしている。鳥も鳴かない。キーボードをたたく音しか聞こえない。頭もすっきりしている。

このごろの楽しみは接骨院での同世代との会話だ。「同病相憐れむ」気持ちがあるのか、配偶者のこと、プロスポーツの結果、時事ネタと話は尽きない。新しいコミュニティができた感じだ。

朝ドラが終わるころには、ザワザワした空気に包まれる。通りを車が、人が行き交う。庭に鳥がやって来る。目の前では蚊が羽音をたてながら飛び回る。そのころにはあらかたブログの作成を終え、自由な時間に入る。

自由過ぎるとタガが緩んで予定の「仕事」まで忘れてしまうことがある。自由にも緊張が必要だと、たまには自分に言い聞かせる。

2026年7月21日火曜日

よかった、いた!

             
   日曜日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。そこまでは車で40分ほど。ドライブ中に必ずチェックする生きものがいる。

小川の平地・三島の夏井川にいる残留コハクチョウの「エリー」だ=写真(7月5日、カミサンが撮影)。

エリーは、早朝はやや上流の中洲かそば(右岸)の砂地で休んでいる。7月19日は少し増水して、中洲が水没していた。姿がなかった。流されたか? そう早とちりする「伏線」が実はあった。

家を出るとすぐ市庁舎の駐車場へ行った。駐車場の西端にリサイクルボックスがある。家に届いた古着をそこへ運んだあと、国道399号(途中で県道小野四倉線と重複)を北上した。

平市街を抜け、平窪へと接続する磐城橋を渡りながら、上流をチラ見すると右岸の浅瀬に白く大きな鳥がいた。

シラサギなら体は縦に長い。脚も、首もそう。ところが、その鳥は横に長く、増水した浅瀬に浮かんでいるような感じだった。首も長い。つまりはハクチョウ体形。まさかエリーではないだろうな?

半信半疑で小川に入り、川と並走する三島でエリーを探したら、いない。それで、10分ほど前に見た平窪の白い鳥がエリーに重なった。

5年前、やはり三島に残留したコハクチョウがいた。白鳥おばさんは「エレン」と名付けてエサをやり続けた。このエレンが大水で下流に流されたことがある。それを思い出した。

エリーの名前も白鳥おばさんが付けた。私ら夫婦も白鳥おばさんにならってエリーと呼んでいる。エレンを思い出して、これから大変だぞ――夫婦でエリーを案じたのだった。

1時間ほど隠居の菜園で草むしりをし、汗でぐしゃぐしゃになったシャツを着替え、一休みしてから隠居を離れた。

 帰りは三島に車を止めて川をチェックし、エリーがいなければ平窪でも探すことにした。

 磐越東線の跨線橋を過ぎると、川の流れに沿って道は大きく右にカーブする。そのカーブが終わって道路と夏井川とが並走するあたり、眼下の右岸に白く大きな鳥がいるのが目に入った。

道路の山側にある100円野菜の無人販売所に車を止めて、ガードレール越しに川を見る。

エリーだ。よかった、いた! 流されたわけではなかった。朝は草にまぎれて姿が見えなかったのだ。

すると、平窪のあの大きな白い鳥はシラサギか? 水中の魚を狙うとき、サギは胴体を水平に保ち、首を曲げて水面に近づける。そんな狩猟中の一瞬を見誤ったのかもしれない。

 なんであれ、エリーは三島にとどまっていた。これからも大水と暑さの試練は続くだろうが、なんとか頑張ってくれよ。

勝手にエリーを案じていたジイサンは、昼前、いつもの浅瀬で一休みするエリーに、勝手に安心してヤレヤレとなった。

2026年7月18日土曜日

減る庭の土

                                
   これは今年(2026年)、急にそうなったということではない。庭の表土が少しずつ、少しずつ流れ、地中の玉砂利が現れてきた――そんな感じだ=写真。

ちょうど頭上から青柿が落ちてくる時期。車の屋根にボコボコ当たるので、そばの離れの跡に車を止めている。で、むき出しの地面に落ちた青柿も集めて写真を撮った。

梅雨に入って、たびたび雨が降る。すると、車の轍(わだち)を中心に水たまりができる。

家の東側には表の車道へと続く砂利の小道、西側には雨水を流すコンクリートの排水路。家の前の歩道には側溝があって、コンクリートの蓋で覆われている。庭の雨水は、雨樋とは別に、地面を伝って蓋のすき間に流れ込む。

土砂降りになった7月17日の朝、傘をさして様子を見る。庭は湖、庭の草地は中島、砂利道は二筋の川になっていた。

浸食・運搬・堆積の「川の3作用」は庭でも起きる。浸食されるのはもちろん「水源」である庭の土だ。

車のタイヤは土をえぐるだけでなく、草が生えるのを抑える。しかし、一方の草には土をとどめておく役割がある。

草が生えているところは少し土が盛り上がっているように見える。草は天然の土留めシートだ。

ある日、板状の土を持ち上げるようにしてヤブガラシが芽を出した。ほかのところでは芽だけが針のように突き出ている。同じ庭でも場所によって土の質が違う?

そこから、たまたま読んでいた本を思い出した。藤井一至著『土と生命の46億年史――土と進化の謎に迫る』(ブルーバック)。

「土とは岩石が崩壊して生成した砂や粘土と生物遺体に由来する腐植の混合物」と土の研究の第一人者はいう。

この定義に従えば、板状に結びついていた庭の土は、ほかの土よりは粘土分が多かったのだろう。

藤井さんは原発事故で汚染された農地の再生のために、大熊町の農地で土壌分析の協力をしている。それを新聞記事で知って、先日、以上のことを含めて、ブログに書いた。

ごく普通の家の庭でも、足元に目を凝らすと地球史にも通じる自然の不思議が見えてくる――。

ブログの文章はそこで終わっている。それからわずか2カ月。また庭の土について考えさせられた。

夏井川渓谷にある隠居の庭(とりわけ下の庭)も何十年という間に、表面の土が雨で流出したためか、埋め立てに使った砕石が露出するようになった。

 土の定義を当てはめれば、生物遺体の腐植量が少ないうえに、粘土や砂の流出が続いたために、埋まっていた砕石が露わになってきた、ということなのだろう。

マチ場のわが家の庭も原理は同じ。表土が減って、地固めに使った砕石が露出するようになった。そういうことらしい。

かといって、庭をコンクリートで覆うようなことはしない。土を買ってくるか、どこからかもらってくるか。いずれにしても「土不足」を補う必要がありそうだ。