2018年5月15日火曜日

奄美の田畑家と西郷どん

「安政の大獄」と薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の急死で追いつめられた西郷隆盛は、僧月照とともに錦江湾に身を投げる。月照は死に、西郷は生き残った。「一度死んだ男」は藩から「潜居」を命じられて奄美大島へ――。
 おととい(5月13日)の大河ドラマ「西郷(せご)どん」に続き、きのうは朝ドラ「半分、青い。」のあと、衆議院予算委員会中継までの15分間、「西郷どん」などの番組宣伝が行われた=写真。

 西郷を世話するのは島の豪農・龍佐民。ドラマでは、柄本明が演じている。ネットで検索したら、西郷の「島妻」の愛加那は佐民の姪っ子だそうだ。

 テレビを見ながら、奄美出身の故田畑金光いわき市長を思い出していた。東京帝大を出て満州国官吏になり、将校(陸軍主計少尉)に任官、戦後は縁あって勿来の大日本炭砿に就職した。労働運動に生きがいを見いだしたあと政界に転じ、福島県議、参議院・衆議院議員を歴任した。

 龍佐民は田畑氏の祖父の兄だという。「田畑」姓なのに、「龍」と名乗らなければならなかったのはなぜか。平成19(2007)年、会津の歴史春秋出版から田畑金光著『私の半生』が発刊された。そのなかの<田畑家の出自と西郷隆盛>の項に理由が書いてある。
 
「田畑家の先祖は笠利姓を名乗っていた。琉球王から奄美大島の笠利(現・奄美市)に派遣された家系である」。最初は「笠利」姓だった。正徳2(1712)年、薩摩藩命により、当主が鹿児島で土木の技術を学び、帰島して新田開発に従事する。「五百町歩の開墾を実現する。その功で郷士に列せられ、田畑姓と屋敷五畝歩」を賜った。「笠利」から「田畑」姓に替わった由来が語られる。

「天明五(一七八五)年正月、藩命により龍姓に改めた。城下士二字姓、地方士は一字姓とされたのである」。一種の身分差別だろう。「田畑」姓に復するのは明治8(1785)年。「龍」姓の時代は90年に及んだ。

 西郷は安政5(1858)年からまる3年間、田畑氏のふるさとでもある龍郷(たつごう)で蟄居生活を送った。西郷を世話した佐民は、島妻・愛加那との結婚の媒酌人も務めた。西郷と愛加那の間に2人の子が生まれる。長男・菊次郎は西南戦争で重傷を負ったが、のちに京都市長になる。「愛加那の墓は田畑家歴代の墓所の片隅にひっそりと立っている」そうだ。

 市役所担当の記者になって2年目の昭和49年、田畑氏が市長選に出馬し、現職を破って革新市政が誕生した。それから3期12年のうち前半の6年間、田畑氏をウオッチした。今はないが、大黒屋デパートではときどき奄美大島の物産展も開かれた。

 哀切極まる「島唄」に替わった大河ドラマ「西郷どん」のテーマソングを聞きながら、田畑氏を介していわきと奄美が最も近かった時代にタイムスリップしていた。

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