2011年12月7日水曜日

お休み、糠床


やや硬めになったモチに包丁を入れて食べやすい大きさにする。モチはおよそ1キロずつナイロン袋に詰められてある。少し長方形だ。袋ごと長辺に沿って真ん中で2つに割り、次に長辺に対して直角に9~10回包丁を入れる。これで18~20個のモチ片ができる。

日曜日(12月4日)、カミサンの実家(米屋)でモチをつくった。マキ釡でモチ米をふかす「釜じい」をした。初日、モチはやわらかいまま。2日目、まだやわらかさの残るモチをお得意さんなどに配った。わが家の分もある。包丁を入れたら、まだやわらかすぎてモチがうまく切れない。包丁にねばりつく。

3日目、つまりきのう(12月6日)、朝からまな板に板状のモチをのせて包丁を入れた。ちょうどいい硬さになっていた。

モチを持参したが、留守の家がある。4日目以降では硬くなりすぎて切れないだろう。贈答用のモチにも包丁を入れた。それらを再ラッピングして届ければいい。結構な数になった。包丁の峰を押さえ続けたので、左手のひらにしばらく痛みが残った。今も指で押すと痛い。

厨房の仕事を始めたついでだ、モチを切ったあと糠床を冬眠させた。甕の糠床に食塩を5センチほどの厚さで敷き詰めた=写真。来年4月末までおよそ5カ月、家の片隅でお休み、である。

去年初めて、冬も白菜漬けと並行して糠漬けを続けた。3・11のあと、「原発難民」になったために10日ほど糠床の手入れができなかった。帰宅して糠床を見たら、表面が緑色のアオカビに覆われていた。アオカビは1ミリほどの層にとどまっていたので、胞子を飛ばさないよう慎重に5センチほど糠床をカットした。糠床は生き延びた。

そんな“事件”があったので、この冬は静かに眠らせることにした。漬物は白菜漬けで十分だ。つなぎの漬物は直売所から買えばいい。漬物にする白菜もそこで手に入れる。

2011年12月6日火曜日

信号復活


先週の土曜日(12月3日)、カミサンが小名浜へ行くというので、車で送り届けた。海岸寄りの県道小名浜四倉線を通ったら、平豊間の信号が復活していた=写真。沿線に鋼鉄製の電柱が立っている。沼ノ内のボンコボンコの道路も応急措置がなされたのか、少しデコボコが収まったような感じ。仮復旧といったところか。

きのうは内郷へ、その帰りに常陽銀行平支店へ寄った。平長橋の国道6号と駅前大通りの亜理茶ビル前の歩道でタイルを敷き詰め直す工事が行われていた。いわき駅前のペデストリアンデッキ下の歩道でも、工事が行われた。生活行動圏内だけでも修繕・修復が目に見えるかたちで行われるようになった。

同時に、古い家が解体されて更地になる例が散見される。わが中神谷でも「郷宿(ごうしゅく)」といわれる旧家が取り壊された。カミサンの実家(平・久保町)の隣の家も姿を消した。見慣れてきた街並みの景観が、櫛の歯が欠けるように壊れていく――それも復旧への一過程だが、幼いころから景観を記憶に刻んできた人間には、寂しいものがあるようだ。

身近な場所での修繕・修復が進めば進むほど、つまり世の中が前進しつつあるようにみえればみえるほど、まわりから「取り残されていく」と感じる人がこれから増えるのではないか。

「仮設住宅から一歩も外へ出ようとしない人がいる」。双葉郡の同じ町から避難して来た人が仲間を心配する。その状態が解消されるような支援、つまり心のケアを考える時期にきたような気がする。それが一つ。

もう一つ。ボランティアにも心的疲労が蓄積されつつあるのではないか。「取り残された」と感じる人にも、「取り残さない」と考えて活動している人にも、心のケアが必要になった。このごろ、そんな感じがする。

2011年12月5日月曜日

釜じい


今年もきのうの日曜日、カミサンの実家(米屋)へ行ってもちづくりの「釜じい」をやった。もちはお得意さんや親類に贈る早めの「歳暮」だ。冬特有の暴風が吹き荒れる中、私が関係するいわき地域学會は東京への巡検を実施し、夏井川渓谷の牛小川では放射線量の除染作業が行われた。(これは一種の追記=8日夜、連絡がきた、牛小川の作業は強風で1週間延期になった、と)。それを頭におきながらの「火の番」だ。

まき釡である。ドラム缶を半分に切って釜をかけ、その上に蒸籠を二段ないし三段に重ねる=写真。蒸籠のなかにはもち米が入っている。釜の水を沸騰させ、蒸気を蒸籠に通してもち米をふかす。いいあんばいになったもち米を電気もちつき器にかける。白もち、豆もち、のりもち、ごまもちをつくった。

廃材をかまどに突っ込みながら、つらつら思った。原発も原理は同じ。蒸気機関車もそう。要するに、蒸気を利用してなにごとかをするための「やかん」。産業革命の原動力となった蒸気機関を最大化・最強化(最恐化)したのが原発だったのではないか。去年までは持ち得ようもなかった発想だ。

哲学者内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書)を読んだことが大きい。カバーの惹句。「産業革命以来、『発展』のため進歩させてきた末の技術が、いま暴走している。(略)私たちが暮らしたかったのは、システムをコントロールできない恐ろしい社会ではない。『新しい時代』は、二百年余り続いた歴史の敗北を認めることから始めることができるのである」

まき釜は私でもコントロールできる。絶えずまきを補給する。釜の水量を確認する。それでも、ヒヤッとすることが起きる。

釜の水が減って「空焚き」になりかけた。「メルトダウンだな」と私。「ほんとうに釜の底がとろけて落ちるところだった」と義弟。身の丈の技術であっても注意を怠ると痛い目に遭う。

2011年12月4日日曜日

自由への脱走


早朝7時前のことだ。散歩コースの夏井川堤防を下り、国道6号を渡ろうかというあたりで、前方から三本足の白い犬がやって来た。見覚えがある。近くの動物病院に飼われている何匹かのうちの一匹だ。

ワン公は横道に入ったかと思うと、また戻ってきては国道6号を四倉の方へ遠ざかって行った=写真。歩き方も、駆け方も四本足とそう変わらない。

このワン公には思い出がある。2年前の初夏、暑い日が続いたためか、顔とかかと、背中の一部をのぞいて、きれいに毛が刈られた。背中の毛はハート状に残され、かかとは白い長靴ないしは靴下をはいているようなあんばい。格好の被写体になった。(2009年5月29日付小欄「長靴をはいた犬」に写真があります)

その後、手術で左の後ろ足を切断したのだろう。三本足になってつながれていた。犬は犬なりの運命を受容して生きてきた。

動物病院に飼われている犬は、ある意味では幸せな境遇にある。飼い主が飼育を放棄したため、やむなく獣医さんが世話をしているのだと聞いた。その幸運を振り払って白いワン公は脱走した。自由の身になった。

が、長続きはしないぞ、腹が減ったら戻るしかないではないか――その思いが現実になった。

動物病院は夏井川の堤防のそばにある。車で街へ出かけた折、堤防からワン公の小屋を見た。ワン公が戻っていた。ほんのひとときの「自由への脱走」だった。

でも、でも、と二回も「でも」を言いたくなるほど感情移入が過ぎるかもしれないが、ワン公は十分に満ち足りたようなやさしい表情をしていた。

2011年12月3日土曜日

「ぶらっと通信」創刊号


いわき市で暮らす被災者のための情報紙「ぶらっと通信」創刊号=写真=が出た。いわき駅前再発ビル「ラトブ」2階に交流スペース「ぶらっと」を開設した、NPO法人シャプラニール=市民による海外協力の会が月1回のペースで発行する。これまでに創刊準備号、創刊準備第2号を出した。

交流スペースの活動報告(1面)、被災自治体の各種情報(2面)、子どもの遊び場情報、健康コラム(3面)、12月の交流スペースのスケジュール(4面)などが載る。A4判4ページで、利用者の声、被災者を支援する店の紹介コーナーもある。シャプラのスタッフと編集ボランティアが取材・執筆した。

先日、その発送準備作業が行われた。ボランティアのほかに「ぶらっと」利用者も加わり、封筒へのあて名ラベル張り作業が短時間で終わった。主に民間借り上げ住宅で暮らす被災者約1200人に郵送された。ほかに、施設や店舗などに置いてもらう分を手分けして配布する。

カミサンが久之浜の「あみ屋」へ届けるというので車を出した。ちょうどお昼の時間。ボリューム満点のてんぷら定食が頭にちらついたが、火曜「定休日」だった。裏に回って奥さんに「ぶらっと通信」を渡したという。そのまま久之浜一小校庭の一角にある「浜風商店街」へ直行してラーメンを食べた。

帰ったら、次は平作町にできた楢葉町の応急仮設住宅だという。集会所に「ぶらっと通信」を置いてもらう。新聞販売店に新聞を届ける輸送車の運転手といった趣である。

きょうは夕方、交流スペース「ぶらっと」で編集ミーティングがある。顔を出すつもりでいる。

2011年12月2日金曜日

除染作業完了


わが中神谷南区内で日曜日(11月27日)、除染作業が行われた。区の役員と子供を守る会の役員、住民など40人近くが参加した。通学路を高圧洗浄機で除染し=写真、県営住宅集会所・公園周辺の清掃を行った。集会所・公園周辺では前日、業者に委託して剪定・草刈りを実施した。その片付けが主な作業になった。

翌日には、保健委員(私)が事後の線量調査をした。併せて、区長さんの協力を得ながら、マニュアルにしたがって「補助事業完了届」「補助金等実績報告書」「生活空間環境改善事業実施報告書」「生活空間環境改善事業作業報告書」をつくった。基本的には数字を記入するだけだが、計算にうとい人間にはそれがスイスイとはいかない。

二日くらいかけて書類をととのえ、きのう(12月1日)、市役所に提出して全作業を終えた。訂正を指摘されたところがある。2カ所、二本線を引き、数字を書き直した。やはり、事務は苦手だ、である。住民には同じ日、事後調査と10月に行った事前調査の数値を回覧した。

区の新米保健委員として8月に平地区の総会に出席し、県が補助する「線量低減化支援事業」の説明を聴いて以来、4カ月弱。長い取り組みに一区切りがついた。

「傍観者」の記者から「当事者」の市民になって学んだことは、当たり前のことながら住民の考えは一つではない、ということだ。作業中にごみを一カ所に集めすぎるという苦情が出た。自然災害と異なる放射能被害の、底なしの恐ろしさ。その場所を一時立ち入らないようにし、翌日朝、区長さんが役所に電話を入れて、即日、ごみを撤去してもらった。

朝、子どもが集団登校をするための集合場所へ向かうのに、ごみの集積場所のそばを通る。どうしてくれるのだ――保護者の苦情はもっともだ。すぐ撤去するよう役所に連絡する、それまで自衛してほしい、という以外に「解」はなかった。

その延長で思うのだが――。高圧洗浄・剪定・草刈り・コケ除去でそれなりの効果はあった。が、薄く散らばっていたのを集めてしまったり、かたまっていたのを散らしたりしたのではないか、という疑問がぬぐいきれない。

なによりかにより洗浄に使った水は側溝を伝って川へ流れ、やがて海へ至る。「除染」とは言いながら、放射性物質を「移動」させたにすぎないのだ。下流の人間と自然に対してすまない思いを抱きながらの作業となった。

2011年12月1日木曜日

白鳥おじさん


平・塩地内で行われていた夏井川の河川拡幅工事が終わった。中洲が消え、ヤブや畑が消えて、見晴らしのいい空間が広がる。昼は主にここでハクチョウやカモたちが羽を休めている。

そのハクチョウたちに毎朝、「白鳥おじさん」ことMさんがえさをやる。自宅は対岸の山崎。奥さん同伴で軽トラでやって来る。

朝7時前、私が夏井川の堤防天端を歩いていると、向こうからえさやりを終えたMさんが戻って来る。すれ違う段になって軽トラを止め、Mさんが“報告”する。「まだ落ち着かない」「呼ぶと寄って来るんだ」「100羽ぐらいかな」「多くなってきた」。短いフレーズながら、ハクチョウたちの様子がよくわかる。

Mさんがハクチョウにえさをやるようになってから10年はたつのではないか。途中からは、翼をけがして飛べなくなったコハクチョウのために、毎日、えさやりに通った。1羽の残留コハクチョウが2羽になり、やがて3羽になって、3羽とも何かに襲われて姿を消すと、また冬場だけのえさやりに戻った。

鳥インフルエンザが取りざたされ、市役所から「ハクチョウにえさをやらないで」と言われたことがある。Mさんは怒った。残留コハクには名前が付けられていた。「左助」「左吉」「左七」。「左助」らに手のひらを返すようなことはできないと、「いのちがけ」でえさやりを続行した。

きのう(11月30日)、用を済ませた帰り、夏井川の堤防に出て、新川との合流地点で休んでいるハクチョウたちをウオッチングした。北からやって来たマガモも、留鳥のカルガモも交じっている。

と、カルガモが悲鳴を上げた。コハクチョウがカルガモの尾羽をくわえて水に引き込もうとしている=写真。カルガモはたたまらず羽をばたつかせ、逃げようとするのだが、コハクは簡単には放さない。気性の荒い個体らしい。そばにいる仲間もつついて追い払おうとする。

これだけ寄り集まっていると、ストレスをためる個体もでてくる。毎日見ているMさんには、どれが荒々しくてどれがやさしいのか、よくわかるのではないか。