2009年2月18日水曜日

専称寺の梅の花が見える


いわき市平山崎の小高い丘に専称寺がある。かつては浄土宗名越派総本山の大寺院だった。山裾を、新川を飲み込んだばかりの夏井川が右に蛇行していく。そこも修行の場だった。山号の「梅福山」にちなんで、旧平市時代に梅の木が植えられた。その数ざっと500本。今は「名越派総本山」としてよりも「梅の名所」として知られる。

先日、ふもとの参道入り口に立つ石柱の文字を初めて読んだ。向かって右の石柱には「奧州總本山専稱寺」、左の石柱には「名越檀林傳宗道場」と刻まれてある。専称寺は浄土宗名越派の元締めで大学も運営していた――というところだろう。

この大学で学んだ高僧・名僧は数多い。名越派を研究する知人らの論文で知った中で記憶に残るのは、江戸時代前期の無能上人(1683―1718年)と貞伝上人(1690―1731年)。それに、私もいささか研究のまねごとをしている幕末の良導悦応上人こと俳僧一具庵一具(1781―1853年)だ。一具は出羽に生まれ、専称寺で修行し、俳諧宗匠として江戸で仏俳両道の人生を送った。

無能上人は今の福島県玉川村に生まれた。山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、31歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断する、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行する――そういったラディカルな生き方が浄土への旅立ちを早めたようである。

貞伝上人は津軽の人。今別・本覚寺五世で、遠く北海道・千島のアイヌも上人に帰依したという。そこまで布教に出かけたのだろう。太宰治が「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。貞伝上人が忘れ難いのはそれもある。

無能上人は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。今は岩波文庫で読むことができる。

行脚中に投宿した、若くハンサムな無能上人に家の娘が一目ぼれする。夜、忍び込んで後ろから無能上人を抱いたが、寝ずに座ったまま念仏を唱えていた無能上人は――。カゲロウが木を動かそうとするように、カが鉄牛を刺すように徒労に終わった。あとは文庫本で確かめてよ、だ。

朝晩、夏井川の左岸から対岸の専称寺を眺めながら散歩する。無能を、貞伝を、一具をちらりと思うときがある。いや、絶えず誰かを頭に思い浮かべている。

3日ほど前だったか、いつものように堤防の上を歩いていると、ほのかな梅の香りに包まれた。民家の梅の木が満開だった。川向こうの専称寺の山腹も肉眼ではっきり白く見えるほどに梅が開花していた=写真。ふもとと、日当たりのいい庫裏の後ろと。中腹の学寮(学生の学問・宿泊所)跡の梅林はまだだが、去年に比べると随分早い。

去年は春分の日あたりが見ごろだった。今年は2~3週間早く満開になりそうだ、と私はみている。専称寺を眺めながら、そこに蓄積してある四次元の文化に尊崇の念をいだく。檀徒ではないが、気になる寺だからこそ梅の開花にも一喜一憂をする。

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