2009年2月7日土曜日

「調練場」の字名の由来


会社から自宅に仕事場が変わって以来、少しずつ地域(いわき市平中神谷)のことが気になりだした。「会社人間」から「社会人間」になった、などとはまだまだ言えない。が、移り住んで30年余。初めてじっくり地域の歴史に目を向けるようになった。単純な話、この地の夏井川で越冬するコハクチョウへの関心から、そんな気持ちが生まれたのだ。
 
「南・北鳥沼」という地名が足元を掘るエンジン役になった。いまだに中神谷の地名と実際の場所が一致しない。コハクチョウを介して少しずつ分かってきた、といった感じだろうか。「調練場」という奇妙な字名をもった夏井川の砂地=写真=がある。それもコハクチョウを介して知った。

「調練場」はどうやら江戸時代の地名らしい。藩政時代、磐城平藩を治めていた内藤侯が延岡へ移ったのち、中神谷村は磐城平藩から分かれて笠間藩に組み入れられる。この分領の庶務をとるために神谷陣屋が置かれた。夏井川の河原が陣屋藩士の兵式調練場になり、それがそのまま字名になったと、志賀伝吉著『神谷村誌』にはある。

近代になって誕生した夏井川左岸の旧神谷村のうち、鎌田・塩村は磐城平藩として残り、上神谷村、上・下片寄村は中神谷村同様、切り離されて笠間藩に属した。戊申戦争では最初、中立を保っていた神谷陣屋だが、それに怒った奥羽越列藩同盟軍に攻められる。となれば、あとは本藩にならって官軍に付くしかない。神谷陣屋は一時、四面楚歌の憂き目をみた。

明治維新後はほかの村と同じく米・麦中心の単純経済だった。明治30(1897)年に常磐線が開通すると、平町はめざましく発展する。神谷村から平町の企業に、官公庁に、国鉄に勤める人間が増えた。やがて炭鉱が栄えると野菜作りも盛んになった。神谷村はいわば「兼業農家」のハシリの地。それで経済的には随分豊かな村になった、ということである。

神谷陣屋の処刑場は中神谷の「川中島」にあった。ここは文字通り、今も夏井川の流れに重なる。「調練場」の少し上流だ。「川中島」の処刑場といい、「調練場」といい、神谷陣屋でも河原は村のはずれの生と死を分かつ場所、川は此岸と彼岸を隔てる境界だった。その歴史を知らずに、朝晩、鳥だ、花だとのどかに歩いていたのだった。

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