いわき出身の漢詩人大須賀筠軒(1841~1912年)の二男、績(いさお=1881~1920年)は長じて俳人になった。俳名・乙字(おつじ)。明治・大正期の俳論家としても名を残した。「季語」という言葉は、乙字が初めて使ったとされる。ということは、乙字の造語だ。父親が漢詩人、漢文的素養は人並み以上だ。造語はわけもなかったろう。
その乙字について、急に調べることになった。あるところから連絡を受けたのが、8日の夕方。3日後の11日必着で600字にまとめて、という。
フリーになって2年弱。俳諧・俳句関連の本に乙字の名前が出てくれば、そのつどコピーしてきた。といっても、ごくわずか。乙字は、一般にはほとんど忘れられた存在だ。連絡のあった次の日は資料のチェックに充て、その翌日、言われた字数にして送った。
送った先とのやりとりで、“再取材”をした。「生地」に疑問があるという人がいるが、というのだ。その人にすぐ連絡を取った。旧知の歴史研究家だ。
角川書店発行の『近代俳句集』(日本近代文学大系56)に〈大須賀乙字集〉が収載されている。乙字研究の第一人者が「作者略伝」を書いている。一番信頼できるテキストと思っていたが、「生地」と「続柄」の2点についてきちんと調べる必要がある、ということが分かった。
「生地」は「中村町」(現相馬市)、「続柄」は「二男」。旧知の歴史研究家は、乙字の父親・筠軒は確かにそのとき、行方・宇多の郡長をしていた(中村町にいた)。が、当時のしきたりとして、妻は実家に帰って子を産んだはず。中村ではなく久之浜(大須賀家の本拠)、正確にいえば妻の実家の平で乙字は生まれた可能性が高いという。
筠軒にとっては、ウメは二番目の妻だ。死別した先妻・茂登との間には、子供はなかった。したがって乙字は長男。――というわけで、生地についての記述をカットし、続柄を直して原稿を再送した。 (このブログをアップすると間もなく、乙字に詳しい別の知人から誤りを指摘する電話が入った。乙字は二男だという。乙字が生まれる前年に長男が生まれ、間もなく死んだ。墓は相馬にある。というわけで、先方と連絡を取り、再送原稿の訂正をしてもらった)
その乙字について、急に調べることになった。あるところから連絡を受けたのが、8日の夕方。3日後の11日必着で600字にまとめて、という。
フリーになって2年弱。俳諧・俳句関連の本に乙字の名前が出てくれば、そのつどコピーしてきた。といっても、ごくわずか。乙字は、一般にはほとんど忘れられた存在だ。連絡のあった次の日は資料のチェックに充て、その翌日、言われた字数にして送った。
送った先とのやりとりで、“再取材”をした。「生地」に疑問があるという人がいるが、というのだ。その人にすぐ連絡を取った。旧知の歴史研究家だ。
角川書店発行の『近代俳句集』(日本近代文学大系56)に〈大須賀乙字集〉が収載されている。乙字研究の第一人者が「作者略伝」を書いている。一番信頼できるテキストと思っていたが、「生地」と「続柄」の2点についてきちんと調べる必要がある、ということが分かった。
「生地」は「中村町」(現相馬市)、「続柄」は「二男」。旧知の歴史研究家は、乙字の父親・筠軒は確かにそのとき、行方・宇多の郡長をしていた(中村町にいた)。が、当時のしきたりとして、妻は実家に帰って子を産んだはず。中村ではなく久之浜(大須賀家の本拠)、正確にいえば妻の実家の平で乙字は生まれた可能性が高いという。
筠軒にとっては、ウメは二番目の妻だ。死別した先妻・茂登との間には、子供はなかった。したがって乙字は長男。――というわけで、生地についての記述をカットし、続柄を直して原稿を再送した。 (このブログをアップすると間もなく、乙字に詳しい別の知人から誤りを指摘する電話が入った。乙字は二男だという。乙字が生まれる前年に長男が生まれ、間もなく死んだ。墓は相馬にある。というわけで、先方と連絡を取り、再送原稿の訂正をしてもらった)
それはさておき、〈乙字俳句集〉を読む限りでは、「冬」や「月」といった、冷たく冴え渡る世界を表現するのが乙字の真骨頂らしい。いわき出身の皆川盤水さんは乙字を「月の俳人」と呼んでもいいくらいだと評している。
この季節に合った代表的な句に「妙高の雲動かねど秋の風」がある。静の雲、動の風。乙字らしい「大観」の世界だという。自然詩人だ。妙高はともかく、平の近辺ではどんな雲が動かないのか。こんな雲=写真=もゆっくりゆっくり動く。これからは「動かない雲」も意識して見るようにしようか。
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