2025年5月29日木曜日

街の本屋がまた消える

                     
    いわき市平字二町目のヤマニ書房本店が6月30日で閉店する。5月27日、同店の「お知らせ」がネットを駆け巡った。フェイスブックでそれを知り、絶句した。

 もう60年前になる。15歳で阿武隈の山里を離れ、浜通りの旧平市(いわき市)にある高専に入って、寮に住んだ。

 日曜日には仲間とバスで街へ繰り出した。駅前で下りると、本屋があった。ヤマニ書房だった。

 そこでよく本を買った。今でも覚えている本がある。大ベストセラーになり、歌も映画もヒットした『愛と死をみつめて』。相愛の若い女性が病気で死ぬ純愛ノンフィクションだった。

 地元紙の記者になってからは、さらにつながりが深まった。二町目に6階建ての本店ビルが建つと、そこへ通い続けた。

 1階から3階まで本が並んでいる。ジャンルの異なる本の背表紙をながめるだけでも豊かな気分になった。

まだちゃんとした図書館がなかった時代、街なかへ昼を食べに出たあとは、ほぼ毎日、本店へ足を運んだ。

いつからか店長や従業員と顔見知りになり、月末払いのツケで本を買うようになった。結婚したあとも本代が月4~5万円になり、カミサンが渋い顔をした。

 仕事柄、ヤマニ書房の沿革や経営者の来歴を知るようになった。秋田生まれで、好間で炭鉱を経営して財を成した小田吉次の遺族が始めたのが、平駅前のヤマニ書房だった。

小田吉次については、いわき市が1993(平成5)年に発行した『いわきの人物(下)』に詳しい。

 同書は、いわき地域学會が市から受託して執筆・編集を担当した。私も校正に携わった。

 小田吉次には「炭鉱王・篤志家」という肩書が付いている=写真。篤志家の部分だけをピックアップすると、1936(昭和11)年、磐城高女(現磐城桜が丘高)に「小田講堂」を、1952(同27)年には磐城高校に図書館を、さらに1957(同32)年には遺言によって好間中に体育館を寄贈した。

 『いわきの人物』では、遺族は書店の経営に身を入れているとして、ヤマニの名前の由来が記されている。

小田吉次が経営した炭鉱の印が「ヤマイチ」だったので、本屋の名前を「ヤマニ」にしたのだそうだ――と。

 平商事がヤマニ書房を経営している。同社は、いわき駅前のラトブ店とイオンいわき店の2支店はこれまで通り営業を続けるとしている。

 いずれにせよ、わが家の本の大部分はヤマニ書房本店を介してそろえたものだ。今では処分に困るほどでも、現役のころは絶えず本が血、いや知の一滴になった。お世話になりました、ヤマニの本店さん。 

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