2018年2月25日日曜日

「石城ネギ」の時代があった

 ある記事を探しているうちに、別の記事が目に留まる。古い新聞をめくっていると(デジタル化された新聞だから、スクロールしていると、か)、そんなことがよくある。
これもそうだった=写真。昭和30(1955)年12月22日付いわき民報に、「石城ネギ驚異の収穫/品評会で一等に加藤氏」という記事が載っていた。

 石城ネギの産地である平市(現いわき市平)北白土に農事研究会があって、同地で栽培されている石城ネギの「坪掘り」による品評会が行われた。北白土のネギ栽培農家は56戸。そのなかで一等に選ばれたのは加藤邦広さん(47)。平均の2倍の収量をあげた。同研究会は宣伝のため東京の市場に石城ネギを送った――記事の要旨はこんなところだ。「坪掘り」とは一坪当たりの本数と重さのことか。
 
 加藤邦広さんにはうろ覚えながら記憶があった。20年以上前、夏井川渓谷の隠居で「三春ネギ」の栽培を始めた。いわきのネギ栽培の歴史も調べた。『いわき市史』に、「昭和25年いわきネギを相(注・会?)川一さんとはじめ、品種改良、30年夏系キュウリのトンネル栽培とハウストマトの研究に着手」したことで、昭和44(1969)年、加藤さんは福島県農業賞を受賞した、とある。篤農家の一人だ。
 
 昭和30年といえば、いわき市合併の11年前だ。その土地と結びついた名前、たとえば「川中子(かわなご)ネギ」とか「白土ネギ」とかと呼ばれていた時代から、いわき地方をくくる郡の名前「石城」を冠して東京などへ売り込む時代に変わり、ネギの収量増大が求められるようになったのだろう。
 
 記事には、「石城ネギは日本一の折り紙がつけられているが量が少ないので加藤さんの驚異的な栽培方法は各方面の注目の的になっている」ともあった。ネギ栽培のわが師匠、塩脩一さんも若手としてこの研究会に入っていたのではないか。
 
「石城ネギ」が「いわきネギ(いわき一本太ネギ)」になるのは、いわき市合併後だろう。とはいえ、「いわき一本太ネギ」と今の「いわきネギ」は別物だ。

 塩さんは、私の取材にこんなことを明かしている。「一括出荷するようになったことと、機械定植、風折れ対策のために、きめの細かく硬い品種が求められるようになった。太くて硬い、いかにもテカテカ輝いている、見た目のいいものを――。その結果、昔からの『いわきネギ』は出荷する人が減り、自家消費に追いやられた」
 
 塩さんが東京・神田の市場への出荷をやめると、取扱業者から連絡が入った。「宮内庁に納めているのだから、出荷を続けてほしい」。記事にある日本一の評価は、オーバーではなかった。「石城ネギ」は日本一だから宮内庁に納められていたのだ。

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