2011年10月7日金曜日

吉田礼次郎と川崎文治


きのう(10月6日)の「いわきの地域新聞と新聞人」の続きです。

いわき地方初の民間新聞「いはき」は明治40(1907)年5月に創刊される。発行人は平の吉田新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)。創刊号には平町長弾劾の遊郭設置反対論が載る。クリスチャンとしての思想がそうさせたのだろう。

礼次郎はいわきの新聞史上、特筆されるべき人物と言ってよい。「いはき」を創刊しただけでなく、明治中期から新聞販売業を営み、「関東北にその人あり」と称されるほどの影響力を持っていた。昭和8年6月25日未明、脳溢血で急逝する。享年63。

彼の死を悼んで各紙・誌が死亡記事を載せた。いわき総合図書館の今年度後期常設展示「いわきの地域新聞と新聞人」に、礼次郎の死亡記事と死亡広告の切り抜きを張った吉田家のアルバムが展示されている=写真。月刊雑誌「ジャーナリズム」7月号。口語文に意訳・抄訳すると――。

氏は旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行して一家をなした。早くから政治に奔走し、郡会議員・郡会議長を務めたあと、新聞販売業に専心。特に、東京日日新聞(現毎日)の主義方針に共鳴して同紙の増紙拡張に力を入れ、関東・東北新聞販売会の革新運動に奮闘した。新聞販売界に尽くした一生だったと言っても過言ではない。

業界では大久保彦左衛門として信頼され、尊敬されていた。半面、非常な陰徳家で、歳末には年末貧困者救済のため、匿名で100円を平町役場に寄付した。これを4年続けた。

――礼次郎が亡くなるとすぐ、町長が匿名寄付の事実を公表した。それで陰徳がわかった。当時の100円は米価換算で15万~20万円の間か。

地域紙・常磐毎日新聞の死亡記事から補完する。礼次郎と同じ日に孫娘が亡くなった。「柴田靜嬢はマルトモ書店主柴田徳二氏の令嬢で吉田氏の令孫に當(あた)り然(し)かも同時に両家の不幸は非常に気の毒がられてゐる」。同じ地域紙・磐城新聞には死亡広告が並んで掲載された。今読んでも胸が痛む。

販売業者としての吉田礼次郎に対して、編集発行人としての人物で興味深いのが川崎文治(1895~1967年)だ。日本児童文学大事典などによって略歴を記す。平生まれ。中央大中退。巌谷小波に師事して童話を書いた。いはらき新聞平支局に勤務後、常磐毎日新聞を創刊した。いはらき平支局時代には山村暮鳥と交流があった。

地域新聞は読者の文芸作品の発表の場でもあった。常磐毎日新聞は創刊号で作品投稿を呼びかけ、さっそく第2号から1面右肩に「常磐文藝」欄を創設、投稿作品を掲載している。

詩を書き、短歌や俳句をつくる若者が、当時勃興しつつあった地域新聞の記者になる。あるいは有力な投稿者になる。石川啄木や野口雨情がそうだったように、文治もまた文筆に生きるべく新聞界に飛び込んだ。読者の文芸作品掲載に力を入れたのも自然の成り行きだったろう。

たとえば寄稿家の一人、すでに著名な存在だった歌人・童謡詩人・天田愚庵研究家島田忠夫(1904~45年)は、常磐毎日新聞に短歌や童謡詩、随想などを寄せ、磐城新聞には愚庵に関する論稿をたびたび発表している。新聞によって中身を分別していたフシがある。一種のすみわけだが、それも複数ある地域新聞活用法のひとつには違いない。

常磐毎日新聞はほかの日刊紙4紙とともに、昭和15年10月31日をもって廃刊する。文治は「本紙を国家に奉献す」といった一文を載せて廃刊の辞とした。戦前のいわきの文化振興に果たした功績は小さくない。

2011年10月6日木曜日

いわきの地域新聞と新聞人


いわき総合図書館は毎年度、前期と後期で常設展示の中身を変える。10月1日からの今年度後期は「いわきの地域新聞と新聞人」だ。

いわき地方の民間新聞として初めて、明治40(1907)年に発行された「いはき」から、戦後に産声を上げ、唯一現在も発行が続くいわき民報までの、いわきの新聞史をコンパクトに概観している。

いわき総合図書館が収蔵する地域新聞は相当の数にのぼる。明治・大正・昭和の新聞などを個人で収集した諸橋元三郎の「三猿文庫」資料が市に寄託されたことが大きい。草野心平記念文学館が新聞・雑誌など3万点余の三猿文庫資料を整理し、目録を作成して、平成13(2001)年に企画展「三猿文庫――諸橋元三郎と文庫の歩み」を開いた。

いわきの新聞史はこれによってくっきりとした骨格を与えられた。三猿文庫の資料はその後、総合図書館が力を入れる郷土資料の目玉として、オープン以来、広く市民に活用されている。常設展示の解説文も、文学館の企画展段階より精緻になった。

個人的に興味・関心があるのは、大正ロマン・昭和モダンの時代。新聞はその時代の空気を反映するから、大正から昭和初期の地域新聞には特に注意を払うようにしている。

戦時体制下の昭和15(1940)年10月31日、「国論統一と同一職種の集約化」という国策にしたがって、いわき地方の日刊紙5紙が廃刊の共同声明を出す=写真。当時、磐城時報、磐城新聞、常磐毎日新聞、新いわき、常磐新聞の5紙が、日刊紙として競り合っていた。地域新聞繚乱の時代に戦争がとどめを刺した。

磐城時報は大正4(1915)年5月、磐城新聞は前身の磐城興信日報を含めると大正10(1921)年3月、常磐毎日新聞は大正12(1923)年11月、新いわきは昭和5(1930)年3月、常磐新聞は前身の磐城水産新聞を含めると昭和3(1928)年6月の創刊だ。

磐城新聞がブランケット判のほかはタブロイド判、常磐新聞が小名浜のほかは平で発行された。最初に日刊紙へと踏み切ったのは磐城時報で、大正8(1919)年3月のことである。

県紙と呼ばれる福島民報、福島民友新聞は本社が福島市にある。交通事情のよくなかった大正・昭和初期、いわき地方では県紙よりも隣県茨城のいはらき、東京の各紙が多く読まれた(今も基本的にこの構図は変わっていない)。

そこに地域新聞が割拠する。商業の中心地としての平を軸に、ハマの水産業、ヤマの石炭業の興隆が背景にあった、つまり5紙もの日刊紙の発行を支えるだけの地域経済力があった、ということだろう。

そのころの地域新聞と文芸の関係を追っている。山村暮鳥のまいた文学の種がいわきの詩風土に芽を出し、花が開いた時代と重なる。道を歩けば詩人に当たる、そんな平のマチで発行される新聞に地元の詩人たちが盛んに寄稿する。

そういった点は、今度の常設展示からははずされた。スペースが限られているから仕方がないが、いわきの地域新聞を語るとき、忘れてはならない役割の一つだ。

というわけで、きょう(10月6日)はここまでにして、あすは興味をそそられる新聞人2人(吉田礼次郎と川崎文治)を紹介する。

2011年10月5日水曜日

山で迷う


キノコ採りに夢中になるあまり、オレはどこにいるのだろう――山の中で戻る方角を見失い、不安に陥ることがある。これまでに二度あった。平市街地の郊外、石森山での経験だ。里山でさえそうだから、奥山ではますますパニックになる。

尾根から沢へ下りる。沢から尾根へ上がる。別の尾根へ、別の沢へ――となると、よほど東西南北を頭に入れておかないと、自分の位置がわからなくなる。行きと帰りの景観がまるで違うからだ。迷ったら冷静ではいられない。

キノコ観察会が閼伽井嶽で行われた。20分ほど迷ってしまった。道路から混交林に入り、仲間とつかず離れずしているうちはよかったが、だんだんばらばらになる。ある人は棒で木をたたき、ここにいるよというサインを送っている。ある人は声を掛け合っている。それが、途中から聞こえなくなった。たまにカケスが鳴くほかはコソリともしない。

さて帰るか――。“キノコ屋”の習性で単独行動をとり、キノコの少なさに見切りをつけて来た道を戻ったら、まるで知らないところに出た。閼伽井嶽の頂上だ。標高604.9メートル。標識があるので分かった=写真

あらかじめ観察場所の地図を渡されていた。それによると、北側の道路から林内に入り、尾根付近を南へ、南西へと林床をなめまわしたが、成果は少なかった。とぼとぼ“そま道”を戻る。道なりに進んだら、北東へ、途中から下って北へとなるところが、東にある頂上へ着いたのだった。地図を見て迷ったことを知った。ずいぶん逸脱していた。

さあ、どうするか。たまたま磁石を持っていたので、地図と方位を組み合わせて歩く方角を修正する。

磁石を持っていたのはほんの偶然だった。夏に骨董店で売っていたのを、軽い気持ちで買った。山に入ることがあれば方角を確認するために使いたい――初めて胸ポケットにひそませたら、たちまち役に立った。

あとで集合場所に参加者が戻ってきた。一人がつぶやいた。「道に迷って閼伽井嶽の頂上まで行っちゃった」。同じではないか。途中で左に下りなければならないところが、道なりにまっすぐ進んでしまったのだ。北へ――。それが東へ、になった。たかだか1キロ四方程度なのに、同じ尾根筋で迷ってしまう。キノコ採りの怖さをあらためて知った。

2011年10月4日火曜日

青い目の白馬


閼伽井嶽で行われたキノコ観察会のついでに、目の前にそびえる水石山(標高735メートル)へ足を延ばした。

平地から見ると牛が寝そべっているような山容だが、山頂は広大な芝生と草原だ。見晴らしが利く。眼下には好間、平の市街地が広がる。四倉も、小名浜も見える。その先には太平洋が展開する。船まで見える。何年ぶりだろう、水石山からのパノラマを楽しむのは。

平地がまだ暑い盛りに水石山へ来ると、ススキの穂が揺れている。一足早く秋が来るのだ。今回もススキの穂が「おいで、おいで」をしていた。草むらに散在するワレモコウも赤黒い萼(がく)をつけていた。

山頂へと続く道の途中で白毛(しろげ)の仔馬に出合った。ある人は放牧馬だと言い、ある人は野生馬だと言う。何頭かいるらしく、いわきキノコ同好会の仲間は私よりちょっと前に、同じ道で親子に遭遇した。仔馬は私が見た白毛。親馬は体がグレーだったという。

仔馬が道端にじっとしていたのでパチリとやった=写真。アップしたら、たてがみに草の実がついていた。黒目の周りが青い。肌はピンク色だ。アルビノ(白化現象)ではないかと思ったが、アルビノなら目は赤い。青いのは白毛の証拠だそうだ。

季節限定の放牧馬であれ、野生馬であれ、かれらは一日中放射線にさらされている。山頂近くにある駐車場わきの草むらを測ったら、0.35マイクロシーベルト/時だった。野生馬だとしたら、年間3ミリシーベルト強を被曝することになる。鳥・獣・虫・魚・植物・菌類、土壌その他、地中の微生物も含めて放射性物質の被害者には違いない。

地震の影響もある。9月29日夜7時すぎ、福島県沖を震源地とする震度5強(三和)の地震が起きた。そのあとに、水石山・閼伽井嶽エリアを震源地とする地震が発生したと、同好会の仲間から現地で教えられた。

赤井断層、水石山断層、どっちが動いた? わからない。が、このへんで動いたのは確か――震源地がだんだんそばまできている、震源地が個別・具体的になりつつある、という感じをぬぐえない。

2011年10月3日月曜日

キノコ観察会


いわきキノコ同好会のキノコ観察会がきのう(10月2日)、閼伽井嶽で開かれた。

国は9月中旬、県を通じて福島県内の浜通り、中通りの全42市町村と会津地方の猪苗代町で野生キノコの摂取・出荷停止を指示した。

中通り南部で採取されたチチタケから暫定基準値を超える放射性セシウムが検出されたことから、まず2町で野生キノコの出荷が停止された。同時に、県は野生キノコの採取を控えるよう呼びかけた。それが、浜通りと中通り全域、そして会津地方では唯一、猪苗代町にまで拡大された、というわけだ。

東日本大震災に伴う原発事故以来、ウミも、マチも、ヤマもあまねく放射性物質の影響を受けている。そのために活動を休止したキノコの会があるという。

いわきキノコ同好会は食菌採取だけを目的にしているわけではない。キノコの学術研究も大きな柱だ。その観点から観察会を実施した。

場所は、国道49号・三和町合戸からの閼伽井嶽登山道と平赤井からの登山道が合流し、水石山へと延びる三差路付近の混交林。モミや赤松などの針葉樹とクリ、コナラなどの広葉樹が交じり合った、なだらかな林だ。11人が参加した。

薄曇りの朝で、緑の葉が屋根になっている林内はほの暗い。「花眼」になった年寄りには、林床の落ち葉も、キノコも区別がつかない。「暗くてキノコが見えない」。そんな声が飛びかった。

キノコ観察とは別に、林内の放射線量をところどころで測定する。閼伽井嶽は標高604.9メートル。そう高い山ではない。

関東森林管理局が実施した国有林内の環境放射線モニタリング調査結果によると、磐域森林管理署管内では、相馬市、南相馬市でやや高く、いわき市はそれほどでもない。小川の上戸渡で唯一、1マイクロシーベルト/時を超える国有林があった。

私が測定したところでは、閼伽井嶽は0.35前後だった。山の高さ、原発からの方角、そんなものが関係しているのだろう。

夏キノコが終わって秋キノコに移る端境期のうえ、台風15号以来、雨がないためにキノコは期待できなかった。結果的にはその通りになったが、不明菌もいくつか採取された。いわきキノコ同好会では、こういうキノコが研究対象になる。会長の富田武子さんが詳しく調べる。

寒かった。この秋初めて寒さを感じた。タオルを首に巻くとようやく首筋のひんやり感がとれた。林内を歩き回れば温かくなる――と思ったが、そう変わらなかった。

少ないキノコに代わってイノシシのフンを見つけた。乾きかけていた。何時間か前に排出されたのだろう。吻(ふん)で土壌をラッセルしたあともあった。林から出て道路を歩いていたら、急斜面のササヤブが切れているところがあった。“シシ道”だ。イノシシたちはこの道を行き来しているのだ。

さて、観察された菌は――。マンネンタケ、ヒラタケ、ホコリタケ=写真(幼菌)、カノシタ、シャカシメジ、オオゴムタケなどで、これらは周知のキノコ。モミタケ、キウロコテングタケ、ミヤマトンビマイタケは初めて見た。初めて名前を聞くキノコ(たとえばヤブレベニタケ)も含めて30種弱のキノコが確認された。今までで一番少なかった。

去年までなら種類を鑑別したあとは、食菌であれば持ち帰り、ありがたく胃袋におさめたものだが、今年は手ぶらでの帰還となった。それでもかまわない。森に入り、森を感じ、森に抱かれたのだから。

2011年10月2日日曜日

砂に埋もれた車


3・11以後、初めていわきの砂浜を歩いた。

平豊間の合磯(かっつぉ)、いや海水浴場でいうと豊間分、あるいはその境あたりか。北に湾曲した先、断崖のてっぺんに塩屋埼灯台が見える。断崖の向こう側・薄磯も、手前・豊間も津波で壊滅的な被害を受けた。防波堤が破壊され、堤防のすぐそばまで密集していた民家が押し流された。

9月30日付小欄に書いた「民具救出作戦」、それが始まる前のちょっとした時間。知人(大工)の家の庭から、道路と病院の駐車場をはさんですぐそこに海が見える。水平線が異常に高い。膨らんで押し寄せてくるのではないか、そんな不安が募る。家並みが消えたのと、地盤が沈下したのとで、そうなったのだろう。

その海を見に行った。一部残っている防波堤の高さに合わせて黒い土嚢が南に、北にびっしり並んでいる。コンクリートの堤防をすぐに――そんな余裕も、計画もない。当座の波よけだ。

防波堤の海側、すぐ近くに波消しブロックが並ぶ。並ぶ? 並んでいたのかもしれない。が、並んでしまったのかもしれない。そんな集まり具合だ。

防波堤の階段からブロックのすき間を縫って砂浜に下りる。貝殻がいっぱい打ち上げられていた。砂浜は黒みがかっていて、狭く小さくなっていた。目の前で波が寄せては引いていく。住民ではないが、住民の気持ちがなんとなくわかる。陸地と海が接近しすぎている。

ざっと30年前、この海岸の南、二ツ島の近くに仲間が集い、海水浴を楽しんだことがある。わが子2人は小学校の低学年だった。2人とも浅い磯で遊んでいた。と、突然、上の子が駆けこんできて下の子がおぼれていることを告げた。見ると、磯で浮いたり沈んだりしている。走って行って引き上げた。さいわい無事だった。

そんなことも起きるくらいに、多くの人が海水浴に来ていた砂浜が、今はどうだ、渚まで歩くと足の裏がやけどしそう、というほどではなかったが、歩けばすぐ海水につかる。

波消しブロックのそば――。白い車が砂に埋まって赤さびていた=写真。引き波で流されたか。渚には漁船と思われる船も埋まっている。とすると、砂の中にすっぽり埋まってしまったものたちもあるのではないか。そう考えると、だんだん気持ちが重くなってくるのだった。

2011年10月1日土曜日

ヒガンバナ満開


朝晩散歩する夏井川の堤防がところどころ、真っ赤に染まっている=写真。ヒガンバナが満開になったのだ。

去年、今年と残暑が厳しかった。そのせいか、ヒガンバナは咲きだすのが遅かった。一昨年は逆に夏の天候不順から、9月の声を聞くとヒガンバナの花が見られるようになった。

堤防近くの農家の人が時々、土手の草刈りをする。きれいに刈り上げられた土手に野生化したニラの花が咲き、スルボが咲く。夏井川の秋の植物図鑑がこうして始まる。

草を刈るとき、ヒガンバナの花茎も刈られてしまうのかどうか。花茎が地上に現れる前に草刈りが行われるため、きれいに刈り上げられた土手にヒガンバナの花茎が群れ生えるのかどうか。前者だとしたら、ほどなく花茎が再生するのだ。そんなに丈の高くないヒガンバナがあることが、それを物語る。

いずれにせよ、葉をもたない真っ赤な花のかたまりが点々と、延々と緑の土手に燃えているさまは圧巻だ。胸の血が騒ぐような感じさえ受ける。

タマスダレと思われる白い花も1カ所に群れ咲いている。アマナの花に似るが、アマナは春の花。なんだろうと毎年、ネットで調べているうちにタマスダレにたどり着く。ニラは花を終え、実を熟しつつある。

そばの夏井川では先日、鮭増殖組合の手で遡上するサケを捕獲するためのやな場が設けられた。きのう(9月30日)はわが家の近所で、今年初めて、キンモクセイの香りをかいだ。

秋が少しずつ深まっている。汚染された春が過ぎ、夏が過ぎて、暦は9月から10月に変わった。