2014年8月7日木曜日

夕涼みに海へ

 連日の酷暑にげんなりしてばかりもいられないと、きのう(8月6日)夕方、四倉海水浴場へ涼みに出かけた。

 夏井川河口へと車で向かったあと、海岸線に沿って黒松の防潮林の中を北上した。海風が車内に入り込んできた。沿岸から5キロくらいの内陸なのに、家が建て込んだために熱気がこもるようになったわが家とは段違いだ。

 海水浴場の駐車場は、夕方ということもあって、すいていた。はだしになって砂浜を歩く。波に足を濡らす。3・11後、砂浜に立ったのは豊間、新舞子に次いで3度目、海水に足をつけたのは初めてだ。

 東日本大震災で地盤が沈下した。いわきの砂浜もそれで狭まった。四倉はそれでも、いわきのなかでは一番砂浜が広く大きい。

 少年たちがつくった“アジト”のような監視塔がある。その近くで若者が車座になってぺちゃくちゃやっていた。浅瀬で遊んでいた若い女性とカミサンがいつのまにかおしゃべりをしている=写真。会津から来たのだという。
 
 そうか、磐越道~常磐道四倉ICを利用すれば、四倉海水浴場まではすぐだ。昔は常磐線の四ツ倉駅がその役目を果たしていた。県内の中通り、会津地方からみると、四倉海水浴場は交通に便利なところにある。
 
 久しぶりの潮風、砂浜、海水、水鳥、夕日、……。海辺で涼みながら、何日かぶりに生き返ったように感じた。わが家へ帰ると、やはり熱気がこもっていて、息苦しさが戻ったが。

2014年8月6日水曜日

わが家は「猛暑日」

 よりによって、きのう(8月5日)は午前10時から1時間、もう1人の区の役員と一緒に近所の事業所回りをした。9月に地区の市民体育祭が開かれる。種目の最後に景品が当たる抽選会が行われる。そのための協賛金を集めるのが目的だ。

 1週間前にも2人で趣意書を渡しながらお願いして回った。暑かった。きのうはそのときよりさらに暑かった。清涼飲料水をバッグに入れ、首筋を冷やすグッズをぬれタオルに包んで首に巻き、炎天下の道路を歩いた。照り返しがまぶしかった。私ら2人のほかに道を歩いている人はほとんどいなかった。

 ドクターストップで朝の散歩を休んでから1年半以上がたつ。めまいや立ちくらみ、手足のしびれといった熱中症の症状はなかったが、ハァーハァーいいながら帰宅した。すぐぬるま湯に入り、水分を補給したあと、茶の間の北隣にある寝室で一休みをした。

 時折、吹き込む涼しい風に当たっているうちに眠り込んだ。遅い昼食(水飯)をとり、庭の照り返しで熱のこもる茶の間の電波時計を見ると、午後2時36分、室温35.1度と表示されていた=写真。扇風機をかけているのに「猛暑日」になった。とても茶の間にいられる状況ではない。西日が射すまで寝室で本を読んで過ごした。

 冷蔵庫から何度も氷を取りだした。コップに細かく分割された会津の梅漬けを入れ、水を注いで氷を加える。きのうは何度そうして水分を補給したことだろう。

 このまま暑さが続くようでは、家では仕事ができない。総合図書館へ避暑に行くしかないか。(けさ6時25分のわが家の室温は28.9度。また酷暑の一日になりそうだ)

2014年8月5日火曜日

平七夕まつりの起源

 明8月6日から8日まで、平七夕まつりが開かれる。平七夕まつりは仙台七夕まつりの流れをくむ。新聞報道によれば、今年はいわき市内事業所の協賛を得て、仙台の業者に七夕飾り22本を特注した。震災と原発事故で七夕飾りが減ったことから、本場の飾りを導入してまつりを盛り上げる。

 平七夕まつりの起源には諸説がある。それを、当時の新聞記事などにあたり、大正年間ではなく、昭和初期としぼりこんだのが、いわき地域学會の小宅幸一さん。同学會の会報「潮流」(2014年4月刊)に発表した論考を基に、7月19日の同学會市民講座で「平七夕まつり考」と題して話した=写真。

 江戸時代には伊達模様の派手な七夕飾りがみられた仙台だが、明治6(19873)年の新暦採用で七夕まつりが衰退し、第一次世界大戦後の不況下でますます寂しくなった。それを吹き払おうと、仙台の商人有志が七夕まつりを復活させたのが昭和2(1927)年。

 その意味では大正時代、仙台の七夕まつりは「風前の灯」だった。そうした状況下で、仙台に本店のある七十七銀行が大正8(1919)年、平支店を開業する。その開業と平七夕まつりの起源が歴史を積み重ねるなかでごっちゃになったのだろう。
 
 小宅さんが注目したのは、昭和2年の仙台の七夕復活劇だ。翌3年、仙台商工会議所などが七夕飾りつけコンクールを実施する。その流れを受けて、同5(1930)年、七十七銀行平支店が店頭に七夕の飾り付けを実施する。翌年には仙台出身の難波医院長夫人が自宅前に仙台風の七夕飾りを実施して評判になった。
 
 これに合わせて地元の動きが活発になる。昭和7(1932)年・平三町目の商店有志が中心となって七夕飾りを実施。同9年・本町通り舗装により盆行事の「松焚き」が中止になる。同10年・平商店街全体で七夕まつりを実施。同11年・平商工会、平町などがまつりを支援――となって、「松焚き」に代わる集客イベント「七夕まつり」ができあがった。

「~といわれる」「~とされている」ことを鵜のみにすることなく調べてみる。と、違った姿が見えてくる。「平七夕まつり」の歴史も、小宅さんの調査でより正確なものになった。

2014年8月4日月曜日

箱崎りえ陶芸展

 箱崎りえ陶芸展が8月9日まで、いわき市平のギャラリー界隈で開かれている=写真。第13回いわき地域学會美術賞受賞記念展で、2日の受賞レセプションに合わせて見に行った。

 いわき市民美術展などで単品は目にしていたものの、まとまった数の作品と向き合うのは初めてだった。花器・食器・鉢など、陶芸には違いないが、絵付けが独特だ。水彩画もある。かたちと色が溶け合って、踊っている、歌っている。見ていて楽しくなってくる。

 画家でいわき地域学會副代表幹事・芸術部会長の峰丘さんが、昨年度の地域学會総会で選考理由を述べた。「この数年(特に震災後)は年に4、5回の個展をこなしている。制作への情熱とその集中力には驚かされる」「膨大な数の作品に粗さがなく、旺盛な造型への追求は面白い」「自由奔放な線と色彩の遊びに今後の期待を感じさせる」。この「自由奔放な線と色彩」が箱崎さんの特徴だろう。

 実は、彼女は私の近所に住む。お母さんが私と一緒に行政区の役員をしていた。そのお母さんが亡くなったあと、役員を引き継いでくれた。担当する班(隣組)に月3回、回覧物を届けたり、区費その他を会計さんに届けたりするのが仕事だ。

そういう雑事をこなしながら、「自由奔放な線と色彩」を展開している。ままならない現実を踏まえたうえでの軽やかさ、明るさ……。いわき地域学會の人間としてだけでなく、同じ地域に住む仲間の一人として、彼女のアートがより身近なものになった。

2014年8月3日日曜日

海岸のオニユリ

 野生のユリといえばヤマユリ、そして帰化植物のタカサゴユリ。この二つしか思い浮かばなかった。オニユリ=写真=も身近なところにあった。

 タカサゴユリはとにかく目立つ。旧知の植物研究者によると、「タカサゴユリは8月の下旬頃から9月にかけて開花する。翼を持つ種が風にのって多数飛散し増え続け、飛んできた種子が根をおろして球根を形成し何年もその場所で咲き続ける。広範囲に一斉に開花し見事な景観を呈する」。
 
 間もなく常磐自動車道や国道6号常磐バイパス、その他の切り通しがこの花で覆われる。民家の庭にも咲く。

ただし、タカサゴユリといっても、テッポウユリとの交雑種なのかもしれない。いずれも園芸種として移入され、あるいは交配されて野生化した。
 
 きのう(8月2日)、新舞子の防風林を貫く海岸道路を車で通って驚いた。オニユリが松林の内外で延々と、点々と群生している。平地から低山まで普通に見られる、とウィキペディアにあるが、群生状態を見たのは初めてだ。大津波をかぶっても、ユリ根は生きていたのだろう。
 
 単純な話、ずっといわきで暮らしながら、海岸の黒松林にオニユリが群生しているのを知らなかった。この年になっても、まだまだ知らない「いわき」がある。

2014年8月2日土曜日

焼酎をなめるハチ

 きのうはセミの話、きょうはハチの話――と書きだして、「あれっ」と思った。確かにセミの話を書いた。それはしかし、月に1回、古巣の新聞(いわき民報)に載せている「あぶくま、星の降る庭」の原稿で、このブログの文章ではない。セミの話は8月4日に掲載される。

 セミの話――。わが家の庭で鳴くセミはニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ。ところが、阿武隈の山里にはさらに南方系で森林性のエゾゼミが生息している。ある夜、開けっぱなしにしているわが家の茶の間にアブラゼミが飛び込んできた。ハチもたまに迷い込んでくる、といったことを織りまぜながら、夏休みのエゾゼミ採集の思い出をつづった。
 
 以下はハチの話。アブラゼミと同様、ときどき茶の間にハチが飛び込んでくる。茶の間は南の庭と接している。夏には戸という戸、窓という窓を開け放つ。夜も寝るまでそうしている。

夜は明かりに引かれるのだろう。茶の間で晩酌を始めたら、ハチが「黒じょか」の注ぎ口に止まって、内側をなめ始めた=写真。
 
 昼の雑木林に行くと、クヌギの幹からしみ出した樹液に昆虫が群がっている。オオムラサキやオオスズメバチがいる。あるとき、樹液をなめてみた。わりと冷たくて甘酸っぱかった。夜、子どもを連れて出かけたこともある。カブトムシが目当てだった。虫たちにとっては、夜昼にぎわう「樹液バー」だ。
 
 樹液の成分と似ている食品はなにか。ネットで検索したら、焼酎・酢・食パン・ヨーグルト・バター・チーズ・イチゴなどがそうだという。ハチはにおいに誘われて「黒じょこ」の注ぎ口に止まり、樹液とまちがって焼酎の痕跡をなめたのだろうか。

2014年8月1日金曜日

「災害といわき」

「広報いわき」に2014年度の新企画として<災害といわき>が載る。いわき地域学會の会員が執筆している。<其の五・関東大震災といわき>(8月号=写真)は、小宅幸一会員が担当した。関東大震災がいわき地方に及ぼした影響、いわき地方からの支援の様子を平易な文章でつづる。

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分32秒、関東地方を大地震が襲う。小宅氏によると、いわき地方は小名浜測候所で震度5の強震だった。ネットで「福島で5」ということはわかっていたが、「小名浜で5」までは絞り込めていなかった。

 そのとき12歳の四倉の少年の記憶。「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」(吉野熊吉著『海トンボ自伝』)。少年はのちに、東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる。

 最近の例でいえば、去年(2013年))9月20日未明に発生した、いわき市南部を震源とする直下型地震が「5強」だった。階段の本が崩れ、2階の本棚が倒れた。ついでながら、去年の朝ドラ「ごちそうさん」では、大阪での関東大震災の揺れが描かれ、きのう(7月31日)の「花子とアン」では、「そのとき」と「その後」の様子が描かれた。

 小宅氏によると、関東大震災の影響でいわき地方では1人が死亡し、3~4人が負傷した。いわきから常磐線で首都圏へ運ばれていた石炭・鮮魚・木材・農産品などの輸送も滞った。

 その一方で、いわき地方の自治体などが支援活動を展開した。四倉町では631人の寄留者(本籍地以外に住む人)が帰郷し、その都度救援の手が差し伸べられた。錦村では消防組員3人が20日間にわたって救護活動に派遣された。山田村では青年団が白米を購入し、被災地に送った。
 
 いわきに限ったことではないが、その土地その土地の災害史に触れる機会はめったにない。寡聞にして知らないだけでなく、研究成果も少ない。過去の災害を未来に向かって学ぶ大切さをかみしめている。