2012年1月31日火曜日

立ち木剪定


日曜日(1月29日)に夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。午後2時前には帰宅しなければならない。区内会の役員の新年会が近くの中華料理店で開かれる。お昼までのわずかな時間、堆肥枠に生ごみを埋め、雨戸を開けて空気を入れ替えるだけのあわただしい滞留となった。

平地には、雪はなかった。溪谷へと駆け上がる地獄坂の手前、スポット的に存在する杉林が日陰をつくっている。うっすら雪が残るが、タイヤが滑るほどではない。地獄坂を越えると、道路が白くなっていた。

アスファルトが見えるから積もっているわけではない。吹っかけた雪が、気温が上がらずにそのまま融けないでいる――そんなあんばいだ。

溪谷のど真ん中はすっかり木々が葉を落として林床にまで初春の陽光が降り注いでいる。道路はあらかた乾いている。そこが、地獄坂の近辺とは違う。地形が北向きか、南向きかの違いだろう。ノーマルタイヤで行き来できるのも、しかし無量庵のある牛小川あたりまでではないか。

その先、川前は川沿いのほかに、いちだん高くなった山中に集落がある。そちらは銀世界のはずだ。ノーマルタイヤでは道交法違反になる。その道を利用してふるさとの田村市常葉町へ行くのは、ほんとうの春まで断念するしかない。

いわきはこの時期、春(平地)と冬(山地)とが同居している。その中間にあるのが、南の鮫川、北の夏井川などの渓谷だ。雪の有無・程度からそれがわかる。

さて、無量庵へ出かけたのは家と道路との境にある立ち木がどの程度剪定されたかを見るためでもあった。モミやカエデ、梅、桑の木が育って枝葉が電線に引っかかるようになった。ついては剪定の許可を――。先日、電力会社から作業を受託した事業所の担当者が、わが家に来て説明した。

立ち木が生育しすぎて“いがかり”になっている(屋根にかかっている)ので、「ばっさりやってもらって結構です、切りすぎても文句は言いません」と、承諾書に喜んでサインした。

確かに、ばっさりやってくれた=写真。せいせいした。春のアカヤシオ、秋の紅葉と、列車からの眺めも少しはよくなるだろう。なによりも放射線量が減る。

2012年1月30日月曜日

昔野菜


昨年秋にいわき市川前町のブドウ園で「フジミノリ」を買った。屋根に覆われているから放射能は検出されない。半分を冷凍庫に入れておいた。正月三が日に食べようという魂胆だ。忘れていて、中旬になってから口にした。

冷凍ブドウ=写真=は皮がつるりとむける。果肉はシャーベット状。ひんやりして甘い。「種なし」がみそだ。

川前出身の人が大阪でブドウを栽培し成功した。ふるさとへの恩返しを兼ねて川前にブドウ園をつくった。そのブドウだ。新しい「地産地消」である。

昔からの「地産地消」もある。伝統野菜(在来作物)といわれるものだが、これは個々の家庭で自家採種(あるいは株分け)をし、栽培し、消費をする「自産自消」が大半だろう。いわき市は一昨年、初めて伝統野菜の調査をし、その成果を昨年、『いわき昔野菜図譜』にまとめた。21種の「昔野菜」が紹介されている。

昨年1月下旬に「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれた。今年も先日、同じ会場(中央台公民館)で2回目のフェスティバルが開かれた。

3・11で大打撃を受けた農林水産業だが、昔野菜はかろうじて生き延びた。事業2年目。種・株を確保し、栽培・消費を拡大するための施策が行われたからだ。

たとえば、ワサビダイコン。川内村に近い川前町で栽培されている。いわき市内で唯一、高い放射線量が検出された。「自産自消」から「地産地消」へ――という流れのなかで市が事業を展開したために株が残った。結果的に保存のバックアップができた。

昨年のフェスティバルは、とにかく味わってください――だった。今年は種をさしあげます――である。

昨年食べたものはなんだったろう。自分のブログで確かめた。試食に供されたのは、おかごぼう(まぜごはん)・白じゅうねん(ぼたもち)・むすめきたか(小豆=おはぎ)・昔きゅうり(どぶ漬け)・千住一本ねぎ合柄(いわき一本太ねぎ=焼きねぎ)など14品。そのうち9品を口にした。

『いわき昔野菜図譜』に前文を書いたこともあって、今年も昼、生産者と直売所のスタッフが持ち寄ったおかずのお相伴にあずかった。大久・日曜市のおこわ、三和町の昔きゅうりのどぶ漬け、その他。たまたま隣にはメーンの講演会講師、江頭宏昌山形大准教授がいた。学者・生産者と話をしながら食べるという、しあわせな時間をすごすことができた。

2012年1月29日日曜日

気流を読む


いわきフォーラム’90の第359回ミニミニリレー講演会「かもめの視線――いわき沿岸津波被害の記録」が1月26日、いわき市文化センターで開かれた。講師は空撮家の酒井英治さん。塩屋埼灯台の再点灯にからめてその話を27日に紹介した。

酒井さんが3・11前と後に空撮したいわきの沿岸の映像を見ながら、気分はすっかりカモメのジョナサンになっていた。「山飛び」と言われる、上昇気流を利用したパラグライダーの話ではトビの気持ちになった。

パラグライダーがなぜ空を舞えるのか。トビと同じく上昇気流を利用するからだという。上昇気流にのってらせん状に高く舞い上がり、降下が始まると次の上昇気流を見つけてまた、らせん状に舞い上がる。ベテランは、見えないけれどもそこにある上昇気流を次々につかんで、長く飛び続ける。初心者はそれができないからすぐぽしゃる。

酒井さんはパラグライダーから入って、今はモーターパラグライダーを操る。気流を読む――とにかくそれが最も大切なことらしい。

ぽっかり雲が浮かんでいるとする=写真。それは上昇気流のなれの果てだ。雲の下に上昇気流がある。山にぶつかった気流は山の三倍の高さまで上昇して下降する。危険だ。そんな視点で雲を、気流を考えたことがあったろうか。雲底は平ら、といったことも含めて、想像力が刺激された。

美しかったいわきの海、津波で壊滅的な被害を受けた浜、更地と化したその後の浜……。カモメやトビでさえ眼下の風景の激変を悲しみ、嘆いたことだろう。忘れてはならないいわきの海の「原風景」を、ちゃんとした映像として残してくれた。貴重なことだ、ですますレベルではない。それ以上に大切ないわきの財産(記録)になった。

そして、もう一つ忘れてはならないこと。いわきの北端・久之浜の一部は福島第一原発から30キロ圏内に入る。久之浜の上空から見ると、事故の起きた原発はすぐそこにある。「危機感を持ってほしい」。鳥の目が見た空からの警告である。

2012年1月28日土曜日

空の目


10代後半に、「青空のへそ」がどこかにあるはずだ、そんな妄想にとらわれたことがある。青空のどこか、夜空なら北極星のようなもの、肉眼では見えないけれども「へそ」を示すなにかがあるはず――たぶん、地球を包む大気圏を風船、いや子宮にみたてて、外側の母体(宇宙)と内側の胎児(地球)の結びつきを考えていたのかもしれない。

いわきの夏井川でハクチョウたちが越冬する場所は、大きく三つ。飛来した歴史でいえば、平・中平窪、同・塩~中神谷、小川・三島。このごろ、塩の夏井川にやって来たハクチョウやカモ類の動きが活発だ。

早朝、堤防を散歩していると、ハクチョウが数羽、頭上を通過して海の方へ向かう。カモたちがワラワラ飛んできて着水する。撮った写真をパソコンに取り込んでチェックしたら、
遠ざかるオナガガモの後ろ姿が「こけしの目」に見えた=写真。それがいくつも宙に浮かんでいる。「青空のへそ」ならぬ「空の目」だ。

カメラのいたずらでも、そういうふうに見えるところが面白い。消去するわけにはいかない。

塩~中神谷のハクチョウは朝、1月前半までは塩だけだったのが、下流の中神谷でも羽を休めるようになった。ハクチョウとつかず離れずのカモたちも群れをなして飛び交っている。日中もそうかどうかはわからない。が、早朝は壮観だ。

ハクチョウにえさをやっているMさんとの、堤防上での会話。「(ハクチョウが)増えてきた」「小川の三島も(1月18日昼前に)400羽くらいいましたよ」「平窪は田んぼにいるようだ」「冬水田んぼですね」

きのう(1月27日)の朝は台所の水道管が半分凍結した。この冬一番の冷え込みだった。午後には風が強まった。会津と中通りは雪。今朝は、水道管は大丈夫だった。

極寒期に入った。日本の北にとどまっていた冬鳥たちがたまらず南下してきた。それで夏井川でもハクチョウやカモたちの数が増えたのだろう。「空の目」の次にはどんな絵をみせてくれるのか。いよいよカメラが手放せない

2012年1月27日金曜日

豊間の灯台


ら・ら・ミュウ(小名浜)や鹿島ブックセンターからの帰りは、たいがい海岸部の道路を利用する。県道小名浜四倉線と江名常磐線が交差するT字路の先、合磯(かっつぉ)トンネルを抜けるとはるか前方に豊間の海が見えてくる。3・11前は家もあり、地盤ももっと高かったから、見える領域は小さかった。今は水平線が長く、高くなった感じがする。

合磯の坂を下ると兎渡路(とどろ)。大津波の直撃を受けた一角だ。道路から海側がほぼ更地になったため、断崖の上に立つ塩屋埼灯台が丸ごと見える=写真

灯台を管轄する福島海保のHPによれば、灯台の高さはざっと27メートル、海面からの高さは約77メートルだから、ほぼ50メートルの高さの断崖の上に「白い一本指」が立っていることになる。新聞は、大地震でガラスが全壊するなどの被害に遭い、応急的にLED灯器で小さな光を届けていたのが、昨年11月30日夕に復旧したことを伝える。

「白い一本指」の比喩は、山村暮鳥の「岬に立てる一本の指」からの連想。大正初期、磐城平で過ごした詩人がこの灯台をそう見立てたという。ところが、灯台を紹介する海保の文章を読んで少し疑問がわいた。

塩屋埼灯台が点灯したのは明治32(1899)年12月15日。円形のレンガ造りで、昭和3年の写真には「一本指」の真ん中に「黒いバンドエイド」が張ってある。下から色が白・黒・白、だ。この外観から、はたして暮鳥は美的、いや詩的インスピレーションを受けただろうか、わからない――そういう思いがわいてきた

「岬に立てる一本の指」は白一色がいい。と考えると、この詩句のモデルは必ずしも「豊間の灯台」でなくていい。

初代の灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体された。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。完全復旧は昭和22年5月5日だったという。

そして、3・11からの復活。いわきの空撮家酒井英治さんが12月7日宵、点灯を待って旋回しながら撮影した灯台の光に神々しいものを感じた。宵闇の迫る灯台から発せれた一筋の光を上空からとらえた、初めてのカメラアングル。素直に心が打たれた。

きのう(1月26日)の夜、その酒井さんを講師に市文化センターでミニミニリレー講演会が開かれた。演題は「かもめの視線――いわき沿岸津波被害の記録」。通常は聴講者が10人いるかどうか。空撮動画に引かれたか、50人前後が詰めかける盛況ぶりだった。

酒井さんは、もとの光に戻った塩屋埼灯台の撮影秘話も語った。点灯復活の11月30日は風速10メートルで、モーターパラグライダーを飛ばせなかった。それで、12月7日に延期された。講演全体の感想はいずれ整理して紹介したい。

2012年1月26日木曜日

救急車


いわき市南部、もしくは北茨城市へ行くときには国道6号常磐バイパスを利用する。常磐バイパスは全長28キロ。起点が勿来町四沢、終点がわが家の近くの平下神谷で、バイパスを利用すれば一気に目的地へ近づくことができる。

平面交差点は、小名浜と勿来地区に合わせて5カ所くらいか。そこでは信号が待っているが、あとは立体交差なので車の流れはスムーズだ。スムーズすぎて高速道路を走っているような錯覚に襲われる。車の流れに従うと、そうなる。

日曜日(1月22日)、北茨城の茨城県天心記念五浦美術館へ出かけた。帰路もバイパスを利用した。時折、雨がぱらつく中、救急車が後ろから迫って来た。さっと道を譲って救急車のあとにつく=写真(撮影したのは助手席のカミサン)。車の数が多く、流れも速いから、救急車と同じ速度で進んだ。

赤色の警光灯が点滅し、「ピーポー、ピーポー」の電子サイレンを鳴らしながら、段差のあるところではブレーキを踏み、平面交差点ではもちろんスピードを落としてそろりそろり通過する。こちらも青信号だったのでつかず離れず走行する。

一般国道では普通車両を追い越してあっというまに遠ざかる。それで、救急車は速いというイメージがあったが、「準高速」ではみんなが速い、救急車も並みの速度だ。道路状況に応じて慎重に運転している。病人やけが人を乗せて走るのだから、むやみに飛ばせるわけがない。

救急車はこのあと国道49号平バイパスに入り、内郷と平を結ぶ市道内郷駅平線に下りて内郷方面へ左折した。近くの磐城共立病院か福島労災病院へ向かったのだろう。こちらは逆方向、平方面へ右折する。緊急車両といってもパトカーとは違う走りが「追っかけ」をしてわかった。

パトカーも通常の巡邏中はゆっくり走っている。きのう(1月25日)夜の新年会の帰り、乗ったタクシーがパトカーを追い越した。パトカーは追い越してもいいのだ。

2012年1月25日水曜日

萩原朔太郎展


草野心平記念文学館で1月21日、萩原朔太郎展が始まった(3月18日まで)。翌日曜日に、朔太郎の孫の映像作家・多摩美大教授萩原朔美さんが講演するというので、出かけた。萩原さんは小説家萩原葉子の子でもある。「祖母と母から聞いたこと」と題して話した。

祖父は詩人、母は小説家。そういう血系のなかでエッセーを書いている。が、母葉子は詩・小説・評論は認めても、エッセーは「雑文」だとして認めなかった。そのあたりのやりとりがおかしかった。

「66歳になっても自分の仕事が見つからない。エッセーしか書けない。なんにもしないで死ぬのか」。文章表現についてのコンプレックスを語り、小説に挑戦する気概を吐露した。

20歳になるかならぬころ、仲間と語り合ったことの一つに次のような文学の“格付け”がある。一番ランクが上なのは創造(詩や小説を書くこと)、次が分析(評論すること)、3番目は伝達(教えること)。エッセーは範疇外だった。文章表現としては当然のことながら、創造的な営みが尊重される。その気持ちは今も変わらない。

母葉子が朔太郎と三好達治について「世紀の出会い」と書いたら、達治からこっぴどくしかられたという話も面白かった。空疎で、手あかにまみれた言葉だったからだろう。

その延長で「山々」とか「花々」とかも使ってはいけない。「富士山」や「ヒマワリ」といったように固有名詞を使え――という話は、よくわかる。できないから悩み、調べる。いわき総合図書館が自分の書斎であり、本棚であるのはそのためだ。

「鳥が飛んでいる」ではなく、なんという鳥が飛んでいるのか。「花が咲いている」ではなく、なんという花が咲いているのか。文章は個別・具体であれ――言葉に対する厳密な態度はしかし、こういう「雑文」にも言えることだ。

萩原さんは若いころ、寺山修司の主宰する「天井桟敷」で演出家をつとめた。講演の冒頭、朔太郎展についての文学館の“演出”について触れた。

文学館に入るとすぐ右手、アクリルの窓というか壁というか、透明な仕切り越しに中庭が見える。真ん中に岩と竹が配されている。そのアクリルパネルに朔太郎の9行の詩「竹」が張られた=写真。「ますぐなるもの生え/するどき青きもの地面に生え、/凍れる冬をつらぬきて、/……」。朔太郎と心平の詩の比較も含め、学芸員の発想のよさをほめた。

前も同じような張り出しがあったが、なんの展覧会だったか忘れた。ただニクイ演出だと思った記憶がある。カネのない文学館はチエを出すしかない。