2012年5月31日木曜日

『いわきの味』


知人の三回忌法要のあと、寺から結婚式場へと場所を変えて精進あげが行われた。テーブルに知人ともう一人の知人の共著『ふるさといわきの味あれこれ』=写真=が置いてあった。この日のためにもう一人の知人が編んだ友情の一冊だ。非売品である。

歴史研究家の小野一雄さん(小名浜)と故佐藤孝徳さん(江名)は四十数年来の友。「はしがき」に冊子をまとめた経緯を記す。平成8(1996)年、朝日新聞福島版に佐藤、小野さんが「ふるさとの味 いわききから」を連載した。冊子にはそのときのハマの味37編が収録されている。佐藤さんが28編を、小野さんが9編を担当した。

アンコウの共和(あ)え・マンボウのかす漬け・サンマのぽうぽう焼きなど、ヤマ育ちの人間には想像もつかない食べ物が次々に出てくる。小野さんの佐藤評を紹介した方が手っ取り早い。食材と調理法、味わい方にとどまらず、「その食材にまつわる歴史とエピソードを織り交ぜ、さらに独自の意見を披歴した記述は、正に佐藤氏の得意とするところだった」。

読み進むごとにいわきのハマの豊かな食文化に魅せられていく。いわきの誇る食材と味。佐藤家で仲間とともにマンボウの刺し身その他をふるまわれたこともある。珍味としか言いようがなかった。が、原発事故がこの伝統郷土食を奪った。食材が借り物になった。「無念さが昂ぶってくるのを禁じ得ない」と小野さんは言う。

そのことを胸底に置きつつ、小野さんは佐藤さんと二人だけの共著を霊前にささげることにした。友情と悲憤に裏打ちされた、小さいけれども重い冊子だ。

2012年5月30日水曜日

梨の木が消えた


わが家から夏井川渓谷の無量庵へと出かける道沿いに梨畑が何カ所かある。そのうちのひとつ、徒長枝まで花が咲いた、梨畑ではなくなったのか――ということを書いたのが5月の初め。次に無量庵へ出かけたとき、ざっと2週間後だが、徒長枝はそのままながら梨の木の幹が消えていた=写真。やはり梨畑ではなくなっていたのだ。

車を運転しながら、ちらりと見て“異変”に気づいただけだから、それが梨畑再生のための準備なのか、やめた後始末なのかはわからない。いずれにしても17年間、その梨畑を視野におさめて往来してきた人間には劇的な変化だった。

詩人の田村隆一の影響か、「梨の木」には詩的なイメージをいだいてしまう。「梨の木が裂けた」という1行にとらわれているのだろう。詩のタイトルはとっくに忘れたが、その言葉だけは40年あまりたった今も頭の中に浮遊している。

田村隆一自身も梨の木にはこだわっていたのではないか。亡くなる直前の詩集『1999』の冒頭が<梨の木>だ。

第一連「第一次世界大戦後/新潟小千谷の超自然主義者が呟いた/『梨の木が曲がりくねっている』」。超自然主義者は西脇順三郎。第二連「第二次世界大戦後/痩せた青年が叫んだ/『梨の木が裂けた』」。青年はむろん田村隆一。

<十三秒間隔の光り>という詩では、「新しい家のちいさな土に/また梨の木を植えた/朝 水をやるのがぼくの仕事である/せめて梨の木の内部に/死を育てたいのだ」と書く。

梨の木の幹は根元とワイヤを張った棚の2カ所で切り取られた。残っているのは支柱とワイヤの棚にからまった徒長枝。行きずりのドライバーとしては再生を祈るのみだ。

2012年5月29日火曜日

ネギの花


ネギ坊主をつぶさに見ると、黄色く小さな花がびっしり咲いている。ネギ坊主は小花の集合体だ。チョウが来る。ミツバチが来る。ハナアブが来る。夏井川渓谷の無量庵。三春ネギの花と虫たちの協働作業=写真=のあとに種子が形成される。花が咲いて実がなるゆえんだ。

原発事故に負けて栽培をやめたら、種子が絶えてしまう。人間が介在して初めて種子のリレーが可能になる。去年はその一念で栽培を続けた。

春まき品種と違って三春ネギは秋に種をまく。翌年、定植・栽培・収穫し、さらに次の年に残ったネギから採種する――足かけ3年がかりのサイクルだ。

もっと細かく言うと――。秋に苗床をつくって種をまき、越冬して苗が育つのを待つ。一方で、種を採るためにネギを何本か溝(菜園)に残して越冬させる。定植を終えたあと、越冬した古いネギから採種する。種は秋まで冷蔵庫に入れておく。5月に苗を植える、6月に種を採る、10月に種をまく、というのが夏井川渓谷での“ネギ暦”だ。

地元・牛小川の知人が放射能市民測定室で自家栽培の野菜を測ったら、問題がなかった。別の場所でも自家栽培食材の放射能測定が行われている。関係する知人によれば、市場で出荷停止になっている食材はやはり数値が高い。生のままの野菜よりは洗ってゆでた野菜の方が数値は低い、ともいう。

近々、ネギ苗を溝に植え、6月に入って自家採種をすませたら、一度、三春ネギの放射能を測ってもらおうと思う。自家消費野菜の放射能については、いわき市も公民館など21カ所で簡易検査を実施している。近所の公民館もその一つ。状況証拠ではなく、数値を知って、さわさわしている心を穏やかにさせたい。

2012年5月28日月曜日

三回忌法要


きのう(5月27日)、いわき市江名の真福寺=写真=で知人の三回忌法要が営まれた。江名は海辺の集落だ。寺からは(急斜面に設けられた墓からもそうだが)、海は見えない。3・11に寺の本堂は「倒壊するかもしれないほど揺れた」(住職)。が、左右からせり出した枝状の小丘が自然の防波堤になって、津波被害は免れたようだ。

江名港周辺ではそのとき――。住宅に車が突っ込み、大型トラックが半分横転しながら道路をさえぎった。崖が崩れた。漁業関連施設も大打撃を受けた。いわき民報社発行の震災写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』が伝える惨状だ。

知人の家は港の近くにある。家並みが続き、少し奥まっていたために、家屋への浸水は免れた。「庭に波がサワサワやって来て、沼のようになった。水は黒くて、ブクブクしてね。江名に(嫁いで)来て80年、初めて津波を経験した」と99歳の故人の母上。

寺の本堂は安政元(1854)年=嘉永7年に焼失し、安政4年に再建された。ざっと150年前の古い建物だ。

法要に先立ち、住職が“余震避難”のための心得をのべた。そのときは本人の判断で外へ出てください。でも瓦には気をつけて――。本堂の屋根は独特の勾配をなしている。上部の瓦は滑り台よろしく遠くまで落下するという。確かに一部、屋根瓦が壊れていた。

知人は歴史研究の第一人者だった。野にあって研究を続け、やがていわき市文化財保護審議会の委員になり、晩年は会長を務めた。2年前の5月30日、共通の知人の通夜へ行った深夜、帰宅直後に急死した。本来なら、一回忌の法要に友人・知人を呼ぶところだが、3・11でそれができなかった。

3・11を経験しないでよかった。いや、歴史家だから生きて3・11の惨状を見てほしかった。両方の声がある。

私はこの1年余、何度知人に問いかけたことだろう。歴史上、いわきにはどんな地震・津波があったのか。ちゃんとした「災害史」があれば、犠牲者を減らすことができたのではないか――知人からの答えはむろんない。文字化せずに頭脳にしまわれたままだった膨大な史的知識の喪失をだれもが惜しむ。今もそれは変わらない。

2012年5月27日日曜日

野良ガモ?


野良犬、野良猫。それと同じ野良ガモ?=写真。アイガモだと思う。散歩コースが一部、三面舗装の水田の排水路と並行する。「三夜川」という。田植えどきの今は水がたっぷり流れている。そこを3羽、ときに4羽がガアガアいいながら泳いでいる。人間が姿を見せても飛び立たない。いや、アイガモだから飛べないのだろう。

大きく夏と冬とに分けると、冬場は姿を見ない。三夜川は底が見えるほど水量が下がる。アイガモはそんなところではよたよた歩くしかない。水のない冬場はいったいどこで過ごしているのか。誰かが飼っていて夏場だけ放す? ないわけではないが、そういう人は寡聞にして知らない。

昨年の7月早朝、陸の上で彼らを目撃した。マンションと三夜川の間の草むらで夜を過ごしたのだろう。マガモの雄の羽毛をしたのが3羽、地味な雌の色合いをしたのが1羽、計4羽が座り込んでいた。

両岸には金網、マンションの敷地境界にも金網が張られ、すぐそばの小さな橋には鉄柵が設けられている。いわば屋根のないケージの中で休んでいるようなものだ。橋の下へと空堀がもぐりこんでいる。そこを利用して川へ降りたり、陸へ上がったりしているのだろう。脇を車が通る。たまに人が通る。灯台下暗し。人間は4羽に気づかない。

4羽はこの1年近くを無事に生き延びた。にしても、三夜川は三面舗装の大きな側溝のようなものだ。上がって来られる石段があるわけではない。夜は陸の上で休むとすると、少しは飛べるのだろう。

彼らの移動範囲は相当広いようだ。この二、三日は川をのぞいても、どこにも姿がない。ともあれ、昨年会い、今年また会って、少し愛着がわいてきた。この4羽もわが区内の「隣人」にはちがいない。

2012年5月26日土曜日

宮沢賢治展


いわき市立美術館で「宮沢賢治・詩と絵の宇宙――理想郷イーハトーブを夢みて」展が開かれている。6月17日まで。ついつい図録=写真=を買ってしまった。絵本作家や画家が賢治ワールドに挑んだアンソロジーだ。

20歳前後から賢治にとりつかれ、「雨ニモマケズ」に共感と反発を抱き続けてきた。反発しながらも、賢治を“卒業“できない。「雨ニモマケズ」は自分の生き方を考えるときに、真っ先にわきにおきたいフレーズだった。<「ジブンヲカンジョウニ入レズニ>生きられるのか。生きられない、と。

それよりもっと反発したのは、<農民芸術概論・序論>にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。いよいよダメだな、オレは賢治についていけないな。

賢治の全集を二回買った。『校本宮沢賢治全集』がそろったときに、古い全集を友人の娘にプレゼントした。中学生になるかならないかだったか。娘は大学と大学院で賢治をテーマにした。

で、今度は『校本宮沢賢治全集』だ。息子・娘の世代は父・母になった。つまり、その次の世代、孫たちに賢治を伝えよう。今年中学生になった疑似孫がいる。小学5年か6年生のときに全集の1冊をあげた。読みこなしているようだ。

賢治について書かれた評論・エッセーなどのたぐいも手元にかなりある。“卒業“ではなく、“バトンタッチ“をしたい。少しずつ疑似孫にあげよう――と思っていたときに、東日本大震災がおきた。原発が事故を起こした。

世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実になった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は時折、この言葉を思い出しながら、非常な1年を過ごした。

「雨ニモマケズ」は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からきているのだろう。病の床に就いた賢治の、死への自覚がもたらした「雨ニモマケズ」の根源に、圧倒的な死をもたらした大災害を経験してやっと触れ得た、という思いがする。

2012年5月25日金曜日

水稲苗


5月はいわきの田植えどき。大型連休後半に始まった田植えは、5月下旬になってようやくピークを過ぎたようだ。で、あの稲苗はなんだったのか、なぜそこにあったのか、という思いが募る。早朝の散歩ルートに育苗箱が落ちていたのだ=写真

私の住む中神谷と隣接する下神谷(いわゆる草野)はもともと田園地帯だ。田畑が広がっていた。今は宅地開発が進み、住宅と田畑が混在するようになった。

歩道に水稲の育苗箱が置かれていたところは下神谷分だ。中神谷であれば、知り合いが軽トラに稲苗を積んで田んぼにむかう――それをしばしば目撃している。隣の地区も軽トラで運搬というのは変わるまい。が、どこの家が農家なのかなどということはさっぱりわからない。

高速バスの駐車場がある。目の前は国道6号常磐バイパスの終点。土手が半円状になって本線に接続する。つまり駐車場の前の道路は急カーブだ。とにかく、その急カーブで苗箱のひとつが落っこちたのだ。

そのあとの散歩者の動きを想像する。ある人が車道から苗箱を歩道に寄せた。そのあと、苗箱は歩道から草むらの方へ移された。誰かがやはりそうした。歩道の上では見るにしのびなかったのだろう。

秋の実りを約束する稲苗だ。なぜそこにあるのか、なぜ取りに来ないのか。あれこれ考えたものの、結論は出なかった。苗は余分につくっている。田んぼの一角ががらんとしている、なんてことはないだろう。想像を超える不思議な落とし物ではあった。