2008年6月18日水曜日

桐の木を切ってもらう


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)にある無量庵の隣――。古い家が取り壊され、杉の木が伐採されて昔の景観を取り戻した話を、昨日(6月17日)書いた。その続き。

ある日の夕方、私が無量庵へ着くと、その日の伐採作業を終えて帰り支度をしているオヤジさんがいた。早速、あいさつをして話を聴く。私が無量庵に初めて泊まったのは35年以上も前のこと。当時、既に谷側の斜面には杉の木が植えられていた。

「(樹齢は)45年くらいだっぺね。長いのは用材、短いのはチップにすんだ。ところで、お宅の家(無量庵のこと)のどっかに太い桐の木があったね。息子が枯れた桐の木を探してんだ、ハチミツ盆(?)にするって」
「あります、あります。枯れて太いのが。見ますか」

無量庵の庭へ案内し、
「この木です。枯れてキツツキ(コゲラ)がつついてます。大風でいつ倒れるかと気が気でないんですよ。息子さんが見てよかったら、どうぞ。私がいなくても結構です、切ってください。かえって助かりますから」
「では、息子に話してみっから」

1週間後に無量庵へ行くと、桐の木がなくなっていた。大風で幹が折れたら、隣家(解体された家)の屋根を壊す、水力発電所へ通じる電力会社の私道をふさぐ――いつも案じていたので、のどに刺さったトゲが取れたようにスカッとする。

ただし、気にいるような大きさと空洞だったかは分からない。余った幹が刻まれて道のはたにあった=写真。こんなのが台風や低気圧が通過したときに折れたらオオゴトだ。

桐の木がなくなってせいせいすると、今度は「ハチミツ盆」なるものが気になり始めた。よく分からない。具体的なイメージが浮かばない。というより、「ハチミツ盆」という言葉でいいのかどうか。

オヤジさんと話した翌日、たまたま近くのTさんの家の前を通ったら、それらしいものがあった。養蜂箱、というより養蜂桶。ミツバチの巣箱は四角いイメージがあるが、Tさんのそれは円筒形だ。その連想で中が空っぽになった太い桐の木なら、同じ円筒形の巣箱になる。なるほど、これか。

絶えずなにかを試みるTさんのおかげで、中が空洞の桐の木がこういうふうに利用されるのだということが分かった。それを「盆」というかどうかは分からないが。

山里で暮らすとは、そういうことだろう。目の前にあるものを利用し、工夫し、役に立てる。これがないから、あれがないから――などと言い訳していては生きられない、生存と生活のために知恵とウデが試される世界。そのことをあらためて桐の木から学んだ。そこにある自然こそが大学、山里の非文字文化なのだ。

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