2012年3月26日月曜日

「そのとき」の救急隊員


3月22日付いわき民報の連載記事「3・11東日本大震災から1年――あの日、あの時から」⑬を切り抜いた。記事は「1人でも多くの命を救いたい―。あの日、被災した沿岸部のまちに自分の命を顧みず、がれきの山を押しのけ、人命救助に従事する消防人の姿があった」という文章で始まる。

同社の東日本大震災特別報道写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』に「命をつなぐ決死の救助」と題した組写真が載る=写真

津波に襲われた直後の四倉のまちで、若い消防隊員が家に取り残され、けがを負った高齢男性をおぶって1階の窓際に現れる。それを、別の2人の隊員が受け止め、救出する――その瞬間を記者が撮影した。連載記事は、素足の高齢男性を抱えた2人の隊員の「そのとき」を伝えるものだった。

1人はそのとき、高熱を出して早退し、病院の待合室にいた。もう1人は非番だった。2人はすぐ職場の平消防署四倉分署に駆けつける。当直の若い隊員と3人で人命検索チームを組み、津波に襲われたまちに向かう。

「『こん中に足わりいおんちゃんがいんだよ』分署を出ると、血相を変え、若い男性が助けを求め、叫んでいた」「2階建ての家屋は傾き、周辺は押し寄せた津波で水たまりになっていた。その妻は数メートル先で手から血を流しながら、がれきでできた孤島の上にうずくまっていた」。その直後の救出劇だった。

救急隊員の3・11はあまり知られていない。「消防人として当たり前のことをしただけです」。メディアもそう受け止めているふしがある。実は、カミサンの親類に救急隊員がいる。春分の日にカミサンの実家へ線香をあげに来た。彼の3・11もまたすさまじいものだった。

非番で沖釣りを楽しみ、陸に上がった直後に大地震に襲われた。すぐ近くの職場に駆けつけた。ハマの合磯(かっつぉ)で避難を呼びかけた。「2人は救った」という言葉の裏に無念さがこもっていた。多くの人がそこで亡くなった。本人も間一髪で助かった。

新聞記事を切り抜いたのは、消防人としての使命感に心を動かされたからだった。同時に、親類の救急隊員の「そのとき」を忘れないためでもあった。

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