双葉郡からいわき市へ移り住んだ人に5年前の避難の様子を聞いた。それが目的ではなく、いろいろ聞くなかで避難のときの話になった。
シャプラニール=市民による海外協力の会に頼まれて、スタッフとともに交流スペース「ぶらっと」の協力者・利用者のインタビューを続けている。シャプラは震災直後からいわきへ支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営してきた。先日、4年半に及ぶ「ぶらっと」の活動を終えた。いわきでの5年間の活動を報告書にまとめる。その手伝いだ。
おととい(3月24日)は富岡町の女性、きのうは双葉町のご夫婦にお会いした。震災直後、「1F(いちえふ)」が危ないというので、町民は「西へ避難を」と指示された。いわき市と同様、双葉郡も西に阿武隈の山が連なっている。「西へ避難を」は山を越えて田村市その他へ移動することだ。
ある人は川内村経由で田村市常葉町=写真=に何日かとどまった、ある人は川俣町に避難したあと一時帰宅し、その帰りに常葉町でスクリーニングを受けた。「常葉は私のふるさとです」。自分のなかで冷静と興奮が入り混じってくるのがわかった。
1年前(2015年)、いわき地域学會はサントリー文化財団の助成を得て、大熊町の『熊川稚児鹿(しし)舞が歩んだ道――福島県双葉郡大熊町』を出版した。熊川稚児鹿舞の歴史や保存会の組織・活動などを調査し、原発事故に伴う休止・復活までの足跡を、夏井芳徳副代表幹事がまとめた。
巻頭言を書いた。そのなかで、大熊町民のつづった避難手記を紹介した。大熊町民が「西へ避難するように」と言われて阿武隈の峠を越えて田村市に入ると、常葉町民が温かく迎えてくれた――。
60年前の「常葉大火」のとき、各地から義援金・物資をいただいた。常葉町民はその「恩返し」の意味も込めて避難民を受け入れたはずだ。以下は巻頭言の全文。
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福島県東部を阿武隈高地が南北に縦断している。浜通りと中通りの分水嶺でもある。中通りの田村市と、東京電力福島第一原子力発電所が立地する浜通りの双葉郡大熊・双葉町とは、分水嶺を横切る国道288号で結ばれている。「原発震災」が発生した際には、この「都路街道」が避難路になった。
田村市消防隊常葉地区隊が平成26(2014)年4月17日に発行した小冊子『常葉大火の記録と記憶』からの孫引きだが、一時、大熊町から田村市常葉町に避難した男性の手記の要約を次に掲げる。
――震災翌日の朝、「西に向かって避難してください」という役場職員の指示に従って、男性は妻とともに車で阿武隈高地を越え、田村市都路町に入る。避難所はすでにいっぱいだった。さらに西へ行くように言われ、同市常葉町にさしかかったとき、消防団の誘導で体育館に避難することができた。
「常葉町の人たちは私たち避難民を暖かく迎えてくれました。寒い時期でしたが毛布、布団などもたくさん用意していただき、暖房器具、食料品なども用意していただきました。こんなにうれしい事は今まで経験したことはありませんでした」
少したってから、男性はボランティアで来ていた町民に尋ねる。「なぜこんなに親切にしてくださるのですか」「昔、常葉大火の時に大熊町の消防団にはすごくお世話になりました。ですからその時のお礼をしなければと思いました。こんなことは平気です。私たちは当たり前のことをしているだけです」――
私事で恐縮だが、田村市常葉町は私のふるさとである。小学2年生になったばかりの昭和31(1956)年4月17日夜、東西に延びる一筋町(都路街道)から出火し、折からの西風にあおられて町の3分の2が焼失した。近隣市町村をはじめ全国の自治体・団体・個人から多くの救援物資・義援金をいただいた。子供なりにありがたく感じたことを今も覚えている。
その大火から55年後に原発事故が起きた。どちらも着の身着のままで避難したのは同じだが、災害の質は大きく異なっている。大火事では町が焼け野原になった。でも、同じ場所にがんばって新しく家を建てることはできる。そうして常葉の町並みはよみがえった。原発事故は、そうはいかない。家を追われ、土地を追われ、仕事も暮らしも奪われて、家族はバラバラになった。コミュニティも事実上、分解した。
大熊町熊川字宮ノ上地内に鎮座する諏訪神社では、祭礼に稚児鹿舞が奉納された。氏子は、今は会津やいわきなどに分散して避難生活を送っている。その土地の生業・生活から生まれたハレの行事は、その土地にあってこそ、その土地の人々の喜びや誇りと結びつき、一体感を醸成する。それだけに、「全町避難」がもたらした精神的・文化的打撃は、余人には測りがたい。
いわき地域学會は3・11後、「震災復興事業への支援・協力」を事業の柱の一つに加え、微力ながら被災地域や避難自治体での調査・記録活動を繰り広げている。平成24(2012)年度にサントリー文化財団の助成を得て『高久・豊間地区総合調査報告書』をまとめた。26年度もまた、同財団の支援を受けて「地域を奪われた伝統芸能の継承に向けた方策の研究とその実践」を研究テーマに、本書をまとめることができた。あらためて同財団に感謝を申し上げる。
個人的には半世紀余前のささやかな恩返しの気持ちを添えつつ、本書が宮ノ内の人々の絆を深め、「熊川稚児鹿舞」の継承の一助になることを願ってやまない。
1 件のコメント:
震災の10日程後に、宮城県の津波被災地に足を踏み入れました。被害はひどかったですが、既に復旧復興へ向かっている姿勢を見て、驚きました。
原発事故の影響でその頃の福島では右往左往するばかり。そんな中原発避難の方をあたたかく迎え入れた常葉の方々、すごいです!
ネットで繋がった友だちに田村の方がいて、リアルタイムで支援側のお話を聞いていたのを、今になって思い出しました。
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