2012年3月7日水曜日

そのときの線量は


数日前、長男が2011年3月11日から15日までの、福島県内7方部環境放射能測定結果(暫定値)をプリントアウトして持ってきた。外出していたので話はできなかったが、なぜ持ってきたかは察しがついた。

3月14日午前、福島第一原発3号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んだころ、あずかった子ども2人、つまり孫を庭で遊ばせていた。暖かい南風が吹いていた。第一からおよそ40キロ離れているとはいえ、外で遊ばせた無知が罪障感となって今も胸を刺す。親子の確執の原因にもなっていた。そのときの線量はこうだった、という長男からのサインなのだろう。

それで今度初めて、じっくり当時の線量を見た。いわきの平常値は毎時0.05~0.06マイクロシーベルト。3月11日は、白河市のデータしかない。そこもほぼ平常値だ。

12日。午後3時半ごろ、1号機の建屋が吹っ飛ぶ。同8時に南相馬市の線量が急上昇し、同9時に20マイクロシーベルトを記録する。

13日。午前7時にいわきのデータが初めて加わる(県いわき合同庁舎駐車場で測定)。0.08。平常値よりやや高めだが、数値は夜まで0.09~0.07の範囲にあった。この日昼前、近くの平六小へ水をくみに行った。校庭は双葉郡から避難して来た人たちの車で埋まっていた=写真。11日夜にはもう避難民が到着していたという。

いわきの人間は、というより私たちが――だが、そういう異常な状況を目にしながらも、ピンとこなかった。隣郡にある原発がまるで見えていなかった。自治体が違うというだけで生存の危機への想像力が欠けていた。

14日午前10時=0.09、11時=0.08、正午=0.08。午前11時過ぎに3号機建屋が黒煙を上げて爆発した。いわきの数値はそれ以後も0.07~0.10の範囲にあった。原発周辺では陸から海へと西風が吹いていたのだろう。罪障感が消えたわけではないが、少し胸のつかえがとれる。

日付が15日に変わると、いわきの状況が一変する。線量が急に上がり、午前4時にはピークの23.72マイクロシーベルトに達した。以後漸減し、昼前には1マイクロシーベルト台に減る。この日午後1時、2台の車に3家族が乗って白河へと避難を始めた。

国道49号から須賀川へ抜け、国道6号を南下したが、かえってそちらの線量が高くなっている。最後は西郷村の那須甲子青少年自然の家にたどり着いた。情報がないからただ遠くへ――実際には放射能に追いかけられながらの避難だった。

2012年3月6日火曜日

東北まち物語紙芝居


広島の市民団体「ボランデポひろしま」が<東北まち物語紙芝居化100本プロジェクト>を展開している。その紙芝居公演が3月3日、いわき市で行われた。

広島からやって来た「一座」は、泉玉露(富岡町の応急仮設住宅)と中央台高久(広野町の第四応急仮設住宅)の2班に分かれて公演した。連絡がきたので、中央台の公演を見た。

開演時間の午後3時。会場の集会所が広野町のお年寄りでいっぱいになった。広野町に由来する紙芝居は「日之出松物語」と、童謡「とんぼのめがね」の2本。これに、広島で昭和21年の大みそかに開かれた第九のレコード演奏会にちなむ「第九伝説」、いわき市の「おな石伝説」=写真=も披露された。

3年間で100本の紙芝居をつくり、東北の人に届けるのだという。地道なプロジェクトで、いわきでは「おな石伝説」のほか、「星一」と「三函座」が紙芝居になる。いわき地域学會にも地元のNPOを介して依頼があり、歴史的な津波に材を取ったシナリオを仲間が書いた。

紙芝居の物語を書いたり、資料を提供したりするのは東北の人。それを受けて広島の人が紙芝居に仕上げる。紙芝居は地元の人に引き継がれ、地域活性化のツールとして役立ててもらう――というのが狙いだ。

話者は、ふだんは広島弁で話している。福島の紙芝居を演じるにあたっては、広島に住む福島県出身者に方言の指導を受けたという。「おな石伝説」に関して言えば違和感はなかった。上演後、広野町の人に、そしていわきの「おな石伝説」資料提供団体に紙芝居が贈呈された。新しいつながりが、またひとつできた。

2012年3月5日月曜日

木々の悲鳴が聞こえる


カミサンのいとこの葬儀に出るため、平・中神谷から夏井川を越えて市街地にある葬儀場へ向かった。そのときのことだ。道路沿いの家並みが途切れてぽっかり“空き地”ができていた。車を運転しながら“チラ見”をしてうめいた。木がすべて根元から切られている。遊園地だ。

そこは17歳のころ、しょっちゅう訪ねて本を借りた恩師の住まい(教員住宅)があったところに近い。いや、その集合住宅そのものだったかもしれない。ざっと45年前の情景がよみがえる。集合住宅の南も、東も田んぼだった。今は一帯が宅地に変わった。

木が伐採された遊園地は、そこだけではないようだ。遊園地のほかにも、中神谷~国道6号バイパス~いわきニュータウンへと向かう道すがら、ニュータウンに近い道路で刈りこまれた街路樹を見た。

バイパスの終点、ドライバーからすれば始点でもあるが、そこに斜面を利用した「草野の森」がある。

平成12(2000)年3月、地元の小学生らが参加してタブノキ・スダジイ・アカガシ・シラカシなどの照葉樹のポット苗が植えられた。人為が加わらなければいわきの平地の森はこうなるだろう、という「ふるさとの森」づくりだ。宮脇昭横浜国立大名誉教授が指導した。

密植・混植の競い合いが苗木自身の生きる力をはぐくむのだという。若木は成長し、林内が鬱蒼とした雰囲気になってきた。落葉樹のヤマザクラなども自生するようになった。毎朝、散歩の途中にこの森を眺める。

土曜日(3月3日)、バイパスを利用していわきニュータウン内にある広野町の仮設住宅へ向かったとき、その森の木々が業者によって剪定されていた=写真。理由はあれか、放射能か。としたら、あそこでも、ここでも――木々の悲鳴が聞こえる。

2012年3月4日日曜日

どこの雪山?


平の街の西方に阿武隈高地の山が連なる。夏井川の岸辺から見えるのは、北の水石山から南の湯ノ岳までのパノラマライン。3月3日・ひなまつりの朝、堤防に立って驚いた。山々がすっぽり雪に覆われている。これはいわきの山ではない、信州の山ではないか――そう言っても不思議ではないほど、ふもと近くまで雪で白くなっていた。

前日は昼から雨になった。平で人間の葬式に出たあと、夏井川渓谷で猫の葬式をした。雪にはならなかった。金曜日だ。夕方、川内村の風見正博さんがわが家に卵を持って来た。カミサンに「雪が降ってきた」という声が聞こえた。それで、雨が雪に変わったのを知る。夜の8時、庭を見たら雨になっていた。

平地(平)では、雪は降ったかもしれないが積もらなかった。山間部は万遍なく降ったから、道も、集落も白くなった? ともかくも、平から見える阿武隈の山々がここまで白くなるのは珍しい。何年かに一度あるかないかだろう。ちょうどハクチョウたちが中神谷の上空を飛び交う時間帯。雪山をバックにシャッターを押した=写真

この山々の白さを見て、逆に春が近づいていることを実感する。日にちは前後するものの、夏井川の河川敷でキジが「ケン、ケーン」をやり、モズのつがいが電線でなごんでいた。金曜日(3月2日)には、ウグイスの「ホケチョ」を聞いた。初鳴きだ。

生きものはそうして体で季節を感じるが、精密な機械は逆に雨雪に弱いらしい。中神谷公園にある「リアルタイム線量計」は、雨や雪が降ったあとは電光表示が消える。自前の太陽光電力が不足してそうなるのか。かろうじて文科省のサーバにはデータが送られている。太陽が出ないとたちまち表示が消えるようでは「信用できるのかい、これ」とならないか。

2012年3月3日土曜日

チャーが逝く


わが家の老猫「チャー」が3月1日の夜更け、眠るようにして彼岸へ旅立った。1年前、老衰のために後ろ足を引きずり、排便もきちんとできなかったのが、3・11後、人間が避難している間によみがえった。猫の身に奇跡が起きた。その神通力もおよそ1年で果てたか。いや、1年ももったというべきか。

福島第一原発の3号機の建屋が黒煙を上げて爆発した翌日、3月15日、本能的な危機感に突き動かされて、孫たちを連れていわきを離れた。チャーとほかの2匹の猫は、えさと水を用意して家に残した。足かけ9日後に帰宅した。避難先では、チャーは衰弱して息絶えているのではないか――そんな心配に沈んだ。が、現実は逆だった。

ちゃんと4本足で歩けるようになっていた=写真。排便もきれいにできるようになっていた。カミサンがすっくと立っているチャーを見て歓声をあげた。9日間は、人間は世話をしなかった。なぜかそれでチャーの生命力が復活した。わが家ではこの猫の奇跡がささやかながら、3・11後のひとつの希望になった。

でもやはり、である。夏から秋にかけて右目が白濁した。次第に動きもにぶくなった。体がやせ細り、毛のつやがうせた。そして、3月1日。なぜか、朝から外と家とを行ったり来たりした。

午後4時すぎ、カミサンが知人に教えられた。「家の犬走りに横たわっている猫がいる。死んでいるようだ」。チャーだった。死んではいなかった。タオルケットにくるんで抱き上げ、居間の石油ストーブのそばに置いた。いのちの火が消えかかっている。カミサンは死に水をとった。

チャーは、東京・八王子から長男に拾われてわが家にやってきた。猫年齢では13歳くらい、人間だと80歳は越えているか。交通事故に遭わずに寿命を終えた初めての猫だ。

きのう(3月2日)。昼前、カミサンの従兄の葬式に夫婦で出た。午後、チャーを夏井川渓谷の無量庵へ運び、夫婦で猫の葬式をした。夏井川渓谷の無量庵では毎夏、長男が学生仲間と合宿する。13年前、八王子で拾ったチャーを連れて来た。チャーにとっては初めてのいわきの地だ。奇跡の猫、ここに眠る――という墓標を胸に立てた。

2012年3月2日金曜日

3月になってしまった


中国・揚州市美術館で昨年11月8日~12月10日まで、いわき市の書家、石川進さんの現代水墨画展が開かれた。石川さんから先日、図録の恵送にあずかった。ほかにも後輩から、サクソフォンのジャズミユージシャンとして歩みだした娘さんのDVDが届いた。撮影したのは後輩。親バカを自認している。

ホンダからはフィットのリコール(無償修理)の知らせ。昨年11月に届いた。ほったらかしにしておいたら、2月にまた知らせがきた。運転席側パワーウインドースイッチユニットの構造・樹脂が不適切で、最悪の場合、外側カバーが発火するという。

そういえば、エンジンオイルをしばらく交換していない。目安の走行距離が書いてあるシールを見たら、だいぶオーバーしていた。あわてて交換した。

いわき地域学會の総会が3月24日に開かれる。その案内はがきを出す。住宅半壊に伴う書類、確定申告の書類は手つかずのまま。3月11日~7月11日まで4カ月間の行動記録、つまり福島県民の健康管理調査のための問診票もある。が、なぜか記入する気になれない。事務的にサッサッサッとできないたちなのか。

3月がくる。その前に礼状を書かないと、書類をつくらないと――。ばたばたやっているうちに3月がきた。3月になってしまった。

その最初の日、いわきのシンクタンク「いわき未来づくりセンター」から3月末をもって業務を終息するという手紙がきた。昨年11月末、同センターから食の地産地消を特集した研究誌「みらい」第12号が出版された=写真。頼まれて「『ネギの道』を考える」を書いた。その縁で、年明けに「みらい」が送られてきた。

3・11の影響がここにも及んだのか――「みらい倶楽部会員」あての通知文を読みながら、少々複雑な気持ちになった。

2012年3月1日木曜日

また春の雪


また春の雪だ。今年は4年に一度のうるう年、つまり2月29日がある年で、その日に雪が降った。

早朝、家の前の歩道の雪かきをした。7時15~25分ごろ、集団登校の小学生が家の前を通る=写真。その前にスコップと竹ぼうきで雪を払った。重く湿った雪で、車道は車の往来があるために、わだちとわだちの間がうっすら白くなっているほかは、びしょびしょに濡れている。雪は午後まで降り続いた。雪かきをした歩道もすぐ白くなった。

朝、小学生たちは雪玉を手にしたり、蹴ったりしながら、わが家の前を通り過ぎた。大人と違って子どもは目の前の状況を楽しむ才がある。校庭では雪合戦でもして遊んだのではないか。

集団登校が行われているころ、車体に「災害復旧作業実施中」と書かれた大型バスが通った。2月28日付小欄で紹介したバスだ。作業服姿の人が何人か乗っていた。200メートル先のコンビニの近くで止まり、人を乗せた。国道6号のバス停付近で止まっていたのは、「災害復旧作業」をする人を乗せて北へ引き返すための時間待ちだったのだ。

午後、「Listen!いわき」(東京で開催)と「Feel!いわき」(いわきで開催)の両方に参加した早稲田の大学院生が雪の中、わが家にやって来た。指導教授と学生も一緒だった。

常磐道は最初、いわき湯本IC~いわき中央IC間が雪で通行止めになった。時間通りに着いたのが不思議なので聞いたら、前日に電車でいわき入りして調査を進め、ビジネスホテルに泊まった。2日目、午前の調査を終えてやって来たのだという。いわきではタクシー2台で移動した。

聞かれるままに、自分のこと、いわき地域学會やいわきの地域構造、自治会、メディアのことなどを話した。「いわきは平・小名浜・勿来の3極とハマ・マチ・ヤマの3層の組み合わせ」ということを強調した。そうでないと、いわきを見誤る、そんな思いがあるからだった。