2008年6月30日月曜日

1年に一度のハナショウブ


いつのころからか毎年、平北白土の塩脩一さんが丹精しているハナショウブ畑を夫婦で訪れる習慣ができた。私は脩一さん夫妻と、カミサンは娘さんとひとときのおしゃべりを楽しむ。

雨が降りしきる昨日(6月29日)夕方、遅まきながら今年のハナショウブを見に行った。見ごろは過ぎていたが、白、紫、赤紫色の花が雨に濡れていちだんと鮮やかだった=写真。

ぜひとも脩一さんに聞いておきたいことがあった。脩一さんは篤農家である。ネギやキュウリ、トマトの栽培にかけては高い技術を持っている。いわき地方のネギ栽培史、それを聞き書きしなければ――。ずっと気になっていたのだ。

私がネギに興味を持っていて、「三春ネギ」を栽培していることを知っている。脩一さんの畑から地ネギ(昔の「いわきネギ」=「川中子(かわなご)ネギ」系)のネギ坊主をもらい、種を採って栽培したこともある。

脩一さんの話は、私が抱いている今のネギへの疑問が間違いではないことを裏づけた。「いわきネギ」には新旧がある。地ネギの「いわきネギ」と、ブランドとしての「いわきネギ」は別物。地ネギを調べている人間としては、あいまいにできない違いだ。

脩一さんの話で面白かったのは、随分昔の冬、暗いうちから馬にネギの横駄を積んで石城郡外の富岡町や古殿町へ運搬したことだ。馬の首には鈴を付けた。「その鈴がある」と現物を持ち出してきて、見せてくれた。

いわば、浜通りから阿武隈高地の山中にかけて、いわきを起点にした「ネギの道」があった。中通りからいわきの山里へと種子が伝播した別の「ネギの道」もあった。そんなことをあらためてイメージできる聞き取りだった。

2008年6月29日日曜日

イノシシ出現


6月28日の土曜日、半月ぶりに夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵に泊まった。夕方、渓谷へ着いて畑を見ると、なにかが変だ。

3日前の水曜日、キヌサヤエンドウを摘みに来たときにはなんでもなかった畑のへりのやぶが、トラ刈りをされたようにむきだしになっている。そこだけ土砂降りの雨が降って土を洗い流したか、重機で表土をはがしたかのような荒々しさだ=写真。

畑のへりには昔、県道に通じる小道があった。ほったらかしておいたらササや潅木が茂ってやぶになった。それが幸いして、春のアカヤシオと秋の紅葉シーズン、敷地にずかずか入り込む行楽客が減った。

すぐ近所の様子を見に行く。山側のジャガイモ畑に今までなかったネットが張られてあった。水田の草刈りをしていた持ち主の息子さんに聞くと、数日前にイノシシが出たという。やっぱり!

老夫婦が家を留守にしている間にイノシシが現れたため、近所の人が被害を防ぐネットを張ってくれたのだという。畑にいた息子さんの母親と話す。「ネットを張れば、イノシシはその先には行かないから」。そう言いながらも、イノシシが土を掘り返したあとを教えてくれた。草むらが深くえぐられている。無量庵のやぶとおなじ惨状だ。

イノシシの鼻は力が非常に強い。60、70キロくらいの石は簡単に動かす。その鼻でラッセルするのだから、たまったものではない。

イノシシはどこからやって来たのか。無量庵の対岸(夏井川右岸)に水力発電所の導水路があって、その上の土砂をラッセルした跡が時々見られる。そちらにいるイノシシだとしたら、夜間(いや昼間か)、発電所のつり橋を渡って無量庵のやぶに現れ、県道と線路を横切って山側の畑へのして来たのだ。

無量庵の畑にあるのは三春ネギとキヌサヤエンドウ、ナス、キュウリ、アーティチョーク、枝豆、つるなしインゲンなど、いずれも少量だ。被害がなかったから、目当てはやぶの土中にすむミミズかなにかの地下茎だったのだろう。

イノシシが無量庵へ現れたのは、谷側の土手のヤマイモを掘り取ったとき以来だから、ほぼ10年ぶりだ。まあ、野菜に被害がなかった分、やぶの草刈りが楽になった、くらいに受け止めておこう。

2008年6月28日土曜日

「三春ネギ」苗を食べる


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の小集落にわが菜園がある。

去年の秋、苗床をつくって「三春ネギ」の種をまき、越冬して生長したのを5月に「定植」した。虫に食害されたものもあるが、まずは順調に育っている。

丈が伸びて大人の手の小指大ほどに肥大したものが2、3本あったので、サヤエンドウを収穫するついでに引っこ抜いた=写真。バレイショとネギの味噌汁――これが、私のなかではシンプルにして究極のネギ料理だ。その味噌汁が食べたくなったのだ。

バレイショは形が崩れる寸前までよく似る。そこへ味噌をとかし、刻んだネギを加えて加熱する。ネギの甘みと軟らかさがバレイショのホクッとした食感と交じり合って舌を喜ばせる。と、なるはずだったが――。

葉先はやわらかいが、根元の方は硬い。甘みも足りない。なぜだろう。「今の時期のネギは硬くて苦いのよ」とカミサンは言うが、同意できない。理由を推測する。

溝を切って植えたばかりだから、葉鞘はまだむきだしだ。じかに太陽光線に当たるので、軟白部が形成されずにあおいまま。だから硬い? 甘みを増すのは秋以降。8月に曲がりネギにするために「やとい」(伏せ植え)をする。そのストレスと冬の寒さが甘みを増すのだが、それがないから甘みが足りない?

もっと違う理由があるかもしれない。何年も同じネギから種を採っているので、質の劣化が起こったか。としたら、種を切り替えなくてはならない。

「春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」最終日の6月8日に、渓谷で環境美化活動が行われた折、「三春ネギ」伝授者のSさんに、「ネギボンコ」が余っていれば欲しい旨話したら、種をくれることになったので、それを手に入れれば品質劣化の問題は解決する。

いずれにしても、生育優先時期には食べるのを我慢する。食い意地を張ってはいけない。それが分かっただけでもいい勉強になった。

2008年6月27日金曜日

ゆでダコを刺し身に


土曜朝市でミズダコを売っていた。前に買って塩でもんだあと、生をわさび醤油で食べたことがある。行きつけの魚屋さんにその話をしたら、「よく食中毒にならなかったこと」とあきれられた。では、コキコキするくらいに塩でもんで、ゆでたのを刺し身にしましょうと、再挑戦することにした。

頭の皮をひっくり返し、内臓を取り除いたあと、これでもかこれでもかというくらいに塩でごしごしやった。脚の皮が部分的にはがれたから、やり過ぎだったかもしれない。細かい泡がかなり出てきたころ、水洗いして熱湯に浸した。

ゆで加減は素人だから、まだ分からない。カミサンは「サッとでいいんじゃないの」と言うが、生で食べた反動か、少し時間をかけることにした。ゆであがったのを冷やし=写真、早速、包丁を入れて刺し身にする。生のときはネチクチしていたのが、かめば簡単にほぐれる。ゆで過ぎの感じがしないでもないが、間違いなく「たこ刺し」だ。

タコは、大きいものでは弱火で40分ほど煮るらしい。頭に箸をさしてそのまま冷やすやり方もある。皮をはいで冷凍したものは薄くスライスして「たこしゃぶ」にできるという。

タコには、「たこしゃぶ」のほかに、「たこご飯」「たこスパゲティ」「たこのネギ油風味」「たこ入り卵焼き」といったものがある。毎日「たこ刺し」ではあきる。冷凍庫に眠らせたゆでダコを使って、少しは料理のレパートリーを増やそうか――などと考えたりする。が、そばにいる人間は歯が悪いのであんまり興味をもたない。

2008年6月26日木曜日

「菌類の宝庫」アカメガシワ


先日(6月13日)紹介した『カメレオンの悲しみ 斎藤孝遺稿集』を読み返していたら、こんな文章に出合った。「石森山では、アラゲキクラゲが目立って多い。本来は材質のやわらかいニワトコやアカメガシワの立ち枯れや倒木に良く生えるきのこであるが…」。

さすがに斎藤さんは菌類の発生木にも精通していた。アラゲキクラゲ・エノキタケ・ヒラタケが同居する立ち枯れ木があって、それがアカメガシワと知ったのはこの半年の間のことだった。

春も遅くなってアカメガシワから赤い新芽が吹いた。それで「アカメ」、漢字では「赤芽」。「カシワ」は「槲」=クヌギに似てどんぐりの生ずる喬木、と漢和辞典にある。

ネットの情報によれば、なかなか繁殖力の旺盛な木らしい。川岸やガケの崩壊地など、なんらかの要因で撹乱を受けたところに生える典型的な陽樹とあった。鳥が種子を運ぶため、思いがけないところから芽を出すことがある。種子の寿命も長く、森林を伐採すると土中に埋まっていたアカメガシワの種子がすぐ芽を出すそうだ。

先月(5月)、平市街地の裏山、石森山へ出かけて、アカメガシワの新芽をこの目に焼きつけた=写真。林道はおろか、林内の遊歩道でもあちこちでアカメガシワの新芽が見られた。それだけではない。葉が分かってみると、夏井川下流の河川敷、夏井川渓谷の崖崩れ跡地など、至るところでアカメガシワが繁殖している。

渓谷の上流はどうか。夏井川に沿って水源の大滝根山まで分け入れば、「アカメガシワ岸辺マップ」ができそうだ。

昔はアカメガシワの大きな葉に食べ物をのせたそうだが、そんなゆかしい伝統は、今はない。道路や植林地の管理者には厄介物扱いを受けているという。

私にはしかし、アラゲキクラゲやエノキタケやヒラタケを恵んでくれる大事な宝庫。定期的に石森山へ出かけて、アカメガシワの木をチェックするのを欠かさない。

2008年6月25日水曜日

「左助」と再会


夏井川から残留コハクチョウ4羽の最古参「左助」が姿を消して、きょう(6月25日)でちょうど1カ月になる。今朝、何げなくいわき市夏井川白鳥を守る会のHPを見たら、「左助」が仁井田浦(仁井田川河口)にいるという記事が載っていた。仁井田浦は横川で夏井川河口とつながっている。すぐ車を走らせて「左助」と対面した。

5月26日朝、いつものようにMさんが夏井川へえさをやりに行くと「左助」の姿が見えない。Mさんは河口から上流、さらに支流の新川まで丹念に探したが、分からずじまいだった。それを、朝の散歩がてらコハクチョウの撮影をしていて、なじみになった私に告げた。

「左助」がいたためにえさやりを始めて8年目になるMさんには、「左助」はたぶん孫と同じくらいの気持ちとエネルギーを注ぐ対象のように思われる。ほかの3羽をないがしろにするわけではないが、「左助」を語るMさんの口調はやはり特別だ。

「左助」はこれまでにも突然、姿を消すことがあった。同じコハクチョウでも個性がある。「孤独が好きで、わがまま」。それがMさんの「左助」評だ。にしても1カ月の不在は長い。「非在」と化して、魂は空を飛んでシベリアのふるさとへ帰ったか――などと思うときもあったが、どっこい生きていた。

「左助」の写真を撮っていると、Mさんがやって来た。6月11日に野鳥の会から連絡があって、えさやりを再開した=写真=と言う。夏井川の河口はともかく、横川の先まで足を伸ばすなどということは、これまでの「左助」では考えられないことだった。それで「発見」が遅れたのだ。

「左助」と同じく、Mさんに会ったのも1カ月ぶりだ。「『左助』は海辺が涼しいことを知ってるんでしょうね」「ここは静かで居心地がいいみたい。ヨシも茂っているし、青草を食べてたんでないの。とにかく辛抱です」。Mさんは「どちらが倒れるか」と付け加えて笑った。

2008年6月24日火曜日

ちょっぴりキャンドルナイト


土曜日(6月21日)の夏至の夜、キャンドルナイトを意識して、1時間ほど電気を消した。食卓にろうそくをともすと、小鉢や皿や茶碗に長い影ができた=写真。部屋の四隅は暗くても晩酌には支障がない。

焼酎に酔いながら、50年前の小学4年の春休み、一人で母方の祖母の家へ泊まりに行ったときのことを思い出した。阿武隈高地の都路村(現田村市都路町)は鎌倉岳の東寄りのふもと、小集落の奥に祖母が住んでいた。家の明かりはランプ、そして寝床はあんどん。当時は個人の自己負担が大変だったらしく、たった1軒のために電柱を立てて電線を引っ張る、などということは考えられなかった。その意味では毎日がキャンドルナイトだった。

現在の国道288号から山手へ向かう坂道を上って右に曲がり、畑(あとで田んぼになった)の真ん中にある小道を行くと、少し高くなったところにかやぶき屋根の家があった。祖父母の隠居家である(母屋はなぜか国道288号を下って、歩いて30分はかかるような場所にあった)。物心ついたころには、祖父は寝たきりになっていて、やがて死んだ。

集落の前の道路にバス停がなかった時代、親が知り合いの運転手に頼んで特別に降ろしてもらうのだが、それができなったときはずっと下の停留所から歩いて戻らなければならなかった。子供にはこれがきつかった。

家が見えるあたりから「来たよー」と大声を出す。すると、祖母が家から顔を出す。帰るときには逆に、小道を歩きながら振り返り振り返り「さいならー、また来っからねー」と大声を出して祖母に手を振る。祖母は家の前からずっと孫の姿を見送り続けた。

隠居家の右手には、上の沢から木の樋で水を引いた池があった。そこで鍋釜や食器を洗った。ご飯つぶを食べるコイもいた。池の水が流れ出る先は小さな林で、その中の小流れで笹舟を流したり、木の枝で水車をつくったりして遊んだ。

祖母の隠居家ではいろんなことを経験した。

母親に連れられて行った三つか四つのころ、夕食を食べようというときに、ゆるんでいた浴衣のひもを踏んで囲炉裏の火に左手を突っ込んで大やけどをした。野口英世と同じ「てんぼう」になった。左の小指と薬指のまたが今も癒着してちゃんと開かない。30代のときに切開手術をしてもらったが、あまり効果はなかった。

あんどんを消して真っ暗闇になったとき、突然、死の恐怖に襲われたこともある。「少年サンデー」か「少年マガジン」が創刊された直後だ。死んで埋められた人間が生き返ることがある、なんていいかげんな記事が載っていた。そのために、棺には地上から空気を供給するパイプがなくては、などと真剣に思い悩んだ。

夜の向かい山で鳴くキツネ。箱膳。ちょうちんを提げて入った外風呂。沢の土手に頭を出したフキノトウ。ナイフでつくった木の刀。豆柿。スズメの罠。――山中の一軒家で見聞きし、体験したことが、一気に夏至の夜のろうそくの明かりの中から現れ出てきた。

毎日がキャンドルナイトでスローライフだったあのころ。そうだ、祖母はキセルで刻みたばこをのんでいた。今、急にそれを思い出した。こっそりまねをしてむせったたことも。

2008年6月23日月曜日

神谷・愛宕地蔵尊例大祭


ときどき朝の散歩コースを変える。国道6号と旧国道にはさまれた、庭に畑のある民家が密集している地区は細道が迷路のように入り組んでいる。それが面白くて、たまに遠回りする。

一角に小堂宇がある。旧国道を車で往来しているだけでは分からない、横長の古い建物だ。軒下に「愛宕地蔵尊」の額がかかっている。ふだんは戸が締まっているから、中の様子は分からない。昨秋、一度だけ開いているのを見た。入り口のすぐ脇に囲炉裏がある。ちょっと変わった造りだ。

土曜日(6月21日)の夕方、旧国道を車で通ると、道ばたに人が出て「愛宕地蔵尊例大祭」ののぼりを立てていた。新住民(と言っても、住んで30年近くなる)にはどんな祭りか興味深い。帰宅するとすぐ、様子見を兼ねて夫婦で出かけた。

地域の子供たちが願主の、赤と白の奉納旗が点々と細道のフェンスにかかっている=写真。それらに導かれるようにしてお堂へ着く。ちょうど見知った人がいたので話を聴いた。中に入って写真を撮ってもいい、という。カミサンも急に頼まれて針仕事をした。

志賀伝吉著『神谷村誌』(昭和47年刊)も参考にして、聴いた話を総合すると、愛宕地蔵尊の例大祭は6月24日。前日の23日は宵祭りで「諸準備」をし、後祭りの25日は「諸整理」をする。今年は6月22日が本祭りというから、本来は旧暦で挙行していたのが新暦になり、さらに6月24日に近い週末に行うようになったのだろうか。

例大祭の日には氏子がお堂の中に並んで座り、どんぶりに注がれた酒を飲んだあと(「献上酒」)、大盛りのどんぶり飯を食べる(「おやわら」)。おかずは生臭なしの豆腐としょうがのみ(らしい)。なかなかきつい儀式だ。

『神谷村誌』で知ったが、地蔵尊は夏井川の対岸にある専称寺に所属している。大正年間に中神谷区長だった人が自分の屋敷の一部を寄進して地蔵堂が建った。それがそのまま残っているのだろう。なかなか味のある木造建築物だ。和讃もある。

  奇妙頂来愛宕尊
    由来をくわしくたづぬるに
  元文五年の夏の頃
    夏井の川に(ママ)増水し
  その時百姓庄五郎
    川のふちにて、ながめをる
  川の上より地蔵尊
    光明かがやき流れ来る
  それを見るより庄五郎
    御利生あらば川上へ
  登らせたまへと、こえをかけ
    こえもろともに地蔵尊
  あら有難や逆流し
    それを見るより庄五郎
  ただちに舟をこぎいだし
    地蔵菩薩をすくいあげ
  我が敷内にこんりうし
    愛宕地蔵と祭らるる
  地蔵菩薩の御慈悲に
    その時未だにいたるまで
  上の組には火難なし
    その他信者にいたるまで
  火難盗難更になし
    火ぶせ地蔵と念ずべし
  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
    南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

川を流れてきた地蔵様を拾って祭る――という話は、川が海になり、地蔵様がほかの仏像になるなどしながら、各地に広く残っている。いずれにしても火伏せや身体堅固、家内安全、交通安全といった現世のご利益と結びついた、身近な信仰の対象ではある。

もとは浄土宗の奥州総本山専称寺と夏井川、神谷地区の結びつきの深さがあらためて実感できる地蔵尊だ。

2008年6月22日日曜日

総合図書館「再オープン」


特別整理のために2週間近く休館していた、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館が21日、再開した。2007年10月25日のオープンから8カ月、毎月最後の月曜日と正月2、3日のほかは休みなく働いてきたカラダを休め、整えるための12日間だった。

「ラトブ」の6階にいて、資料が必要になるとすぐ下の図書館へ走って探す身には、2週間近い休館は痛かった。一番近い内郷図書館へ車を飛ばしたこともある。

午前10時の「再オープン」の時間が近づくと、最寄りの階の6階エレベーターホールに人垣ができていた。ふだんは2、3人が待つ程度だが、21日は30人、いやそれ以上の人がエスカレーターの前に陣取って、係員が柵をはずすのを待っていた。

オープンと同時に本を返しがてら5階で資料を探し、階段を使って4階へ下りるとすぐ、見知った職員と顔が合った。「お待たせしました」。ほんとうだ。

4階には児童図書コーナーもある。この日を待っていた人々が次から次に訪れて館内に散らばる=写真。ある種、駅の構内のようなにぎやかさとざわめきが復活する。「オカーサン」。幼児の声が響く。それを嫌がる人もいるが、<わが子、わが孫もまた同じ>、おおらかに受忍範囲だと思えば楽になる。

一度用事があって外へ出ると、地下駐車場はもう「満車」状態だった。「満車」と「空車」がめまぐるしく変わる一日だったようだ。それだけ図書館の再オープンを待ちわびていた人たちが多かった、ということだろう。こうして市民の「知的体力」は確実に上がっている、と感じるのは身びいきに過ぎるか。

2008年6月21日土曜日

芝刈りにも美学がある


入梅前後はあちらこちらで草刈りが行われる。水田、堤防、土手、空き地…。夏草が生い茂って対向車両とすれ違いにくかった道路も、草が刈り払われてみるとすっきりして走りやすくなる。

ただ、同じ草刈り機を扱っているのに、刈られた草が整然と並んでいるところと、四方八方に散らばっているところがあるのは、どうしてか。草刈り技術のレベルの差には違いないが、その人の美意識も関係しているのではないか。

というのは先日、好間川のほとりに立つギャラリー「木もれび」(6月23日まで「ハーブの香りに包まれて花と遊ぼう!」展開催中)の庭=写真=で芝を刈っていた職人さんに話を聴いたとき、職人の美学のようなものを感じたからだった。

職人さんは今回初めて「木もれび」の芝刈りに入った。最初に芝を見たとき、今は刈らなくてもいいのではないかと思ったらしい。が、依頼主は芝をきちっと刈ってもらいたいから、彼を呼んだのだ。カネをもらう以上は依頼主の要望に沿って芝刈りを行わなくてはならない。

おそらくこういうことだろう。芝生はフカフカしてこそ芝生だ、土があらわになるほど刈り込むべきではない。それを「芝をいじめすぎてもなぁ」と彼は表現した。頭髪で言えば、依頼主が五厘刈りを頼んだのに、五分刈りがいいですよと逆提案するようなものだ。「大地の理髪師」としてのこだわり、美意識である。

「大地の理髪師」は金属の丸のこ刃ではなく、ナイロンひもを回転して芝を刈った。「人が見て、『なんだ、この芝刈りは』なんていわれるのがいやだから。刈り残しがないようにしないと」と、何度も庭を行ったり来たりして作業を続けた。

この職人さん同様、堤防の草刈りもその人の技術と美意識が出る。というより、ウデが上がればおのずときれいに刈り払えるようになるから、ますます見栄えがよくなる。道ばたに刈られた草が散乱したままになっているのは、片付けることにさえ思いが至らない初歩的な人の仕事だからだろう。そういったところは歩きづらいし、見た目も悪い。

草刈り・芝刈りに限らない。家庭菜園でもうねや支柱の並びが美的なほど実りは多い。美しい仕事は実用にかなうのだ。

2008年6月20日金曜日

ミミズの大量死


夏井川の河川敷にあるサイクリングロードでミミズが大量に死んでいた。

毎日散歩するコースだ。堤防のてっぺんの道路を歩き、別の日には河川敷に下りてサイクリングロードを歩く。とにかく、メタボ対策以外は夏井川を見ながら歩く――のが、散歩の主な理由。

と、前日はなかったものが翌日はある。なにかの花、マツバウンランとかニセアカシヤとか、が咲き出す。南から渡ってきたオオヨシキリがさえずり出す。そして、昨日(6月19日)の夕方は累々たるミミズの死がい=写真=だ。

この半年で3回目。去年の秋に一度、ミミズの大量死を見た。足の踏み場はあるが、まっすぐは歩けない。今年も春に、針金をブチブチッと切ったような小さなミミズ(の子だろう)がサイクリングロードに死んで散乱していた。なぜミミズは一斉に「集団自殺」に走るのだろう。

そのつど気になっていたので、あるとき、いわき総合図書館の児童図書コーナーへ行って本を探したら、「こうだろう」という科学的(かどうかは分からないが)推測に出合った。原因はよく分かっていない、のが結論。それ以前の、なぜ地表で死んでいるのか、が次の推測。

①雨が降って土の中が水浸しになったから――。ミミズは水の入ったビーカーに入れておいても数日間は元気に生きているという(今回は快晴続き)②酸素が不足して地表に出て来る――。水の中で数日間は生きていることを考えれば、酸欠で地表に出てくるとはとても考えられないという③日光に含まれている紫外線によって死ぬ――。日光に当たって死ぬなら、季節はあまり関係ないのに、大量死は梅雨~夏までの短い期間に限られているようだという(東北南部も昨日、やっとその梅雨に入った)。

それでも納得はできない。ほかの本を読んでいるうちに、こんな推測が頭にしみついた。ミミズは夜になると地表へ出て来る。地上の枯れ草を食べて夜遊びをするのだ。夜遊びがすぎて朝日が昇る時間になる。と、パニックになって自分のすまいへ戻る地下道がどこか分からなくなる。それで日干しになってしまう。

そんならしょっちゅう大量死が起きるはずではないか、といわれそうだが、確かにそれはめったに起きない。要は1年間を通して調べたものがないから分からない、ということらしい。

2008年6月19日木曜日

街のコムクドリ


「ギュルル、ギュルル」。ムクドリと同じだみ声だが、やや細く甲高い。鳴き声のする方へ目をやると、いた。めったにお目にかかれない夏鳥のコムクドリが1羽、電柱のてっぺんで盛んに鳴いている。

ときは朝、ところはいわき市の中心市街地、平・南町のとある一角。商人主体の本町通りを表とすれば、職人のウデがまださびずに残っている一本裏の通りだ。

翌朝も、翌々日の朝も、コムクドリは同じ電柱、ないし近くの屋根の上のアンテナに止まって鳴いていた=写真。数羽がいるようだ。

コムクドリは春、ツバメと同じように南から渡って来て、本州中部以北の山地の林、北海道では平地の林で繁殖するという。平の市街地で見られるのは、だから渡りの途中ということになる。そのとき姿を拝むことができるといっても、そうは問屋が卸してくれない。私は二十数年前と2年前の2回、しかも一瞬だけ遭遇したにすぎない。

戸沢章さん(平)が昭和49(1974)年から平成15(2003)年までの29年間にわたって観察した記録の集大成、『いわきの鳥』(平成17年刊)でもコムクドリの観察例は都合6年間で9回と少ない。

一過性の鳥にしては、今回は随分と長逗留だ。私が鳴き声に気づいてからだけでもう3日になる。時期的には子育てが終わったか、終わりかけるころだろう。今ごろまだ渡りの途中、というノンビリ屋がいるとは思えないから、この街に留まって営巣したのではないか――。だんだんそう考えるのが妥当のような気がしてきた。

事実とすれば、留鳥のように振る舞っているワケが理解できる。で、そうだとして、街中での繁殖はコムクドリにとって決して例外ではない、のかどうか。例外だとしたらなにがそうさせたのか。推測は推測を呼び、渦を巻いて、意識の中を駆け巡る。それもこれもコムクドリは私のなかで「幻の鳥」だったからだ。

きょう(6月19日)も鳴いているだろうか。数は? オスは? メスは? なんだかすっかりコムクドリに頭を占領されたようである。

2008年6月18日水曜日

桐の木を切ってもらう


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)にある無量庵の隣――。古い家が取り壊され、杉の木が伐採されて昔の景観を取り戻した話を、昨日(6月17日)書いた。その続き。

ある日の夕方、私が無量庵へ着くと、その日の伐採作業を終えて帰り支度をしているオヤジさんがいた。早速、あいさつをして話を聴く。私が無量庵に初めて泊まったのは35年以上も前のこと。当時、既に谷側の斜面には杉の木が植えられていた。

「(樹齢は)45年くらいだっぺね。長いのは用材、短いのはチップにすんだ。ところで、お宅の家(無量庵のこと)のどっかに太い桐の木があったね。息子が枯れた桐の木を探してんだ、ハチミツ盆(?)にするって」
「あります、あります。枯れて太いのが。見ますか」

無量庵の庭へ案内し、
「この木です。枯れてキツツキ(コゲラ)がつついてます。大風でいつ倒れるかと気が気でないんですよ。息子さんが見てよかったら、どうぞ。私がいなくても結構です、切ってください。かえって助かりますから」
「では、息子に話してみっから」

1週間後に無量庵へ行くと、桐の木がなくなっていた。大風で幹が折れたら、隣家(解体された家)の屋根を壊す、水力発電所へ通じる電力会社の私道をふさぐ――いつも案じていたので、のどに刺さったトゲが取れたようにスカッとする。

ただし、気にいるような大きさと空洞だったかは分からない。余った幹が刻まれて道のはたにあった=写真。こんなのが台風や低気圧が通過したときに折れたらオオゴトだ。

桐の木がなくなってせいせいすると、今度は「ハチミツ盆」なるものが気になり始めた。よく分からない。具体的なイメージが浮かばない。というより、「ハチミツ盆」という言葉でいいのかどうか。

オヤジさんと話した翌日、たまたま近くのTさんの家の前を通ったら、それらしいものがあった。養蜂箱、というより養蜂桶。ミツバチの巣箱は四角いイメージがあるが、Tさんのそれは円筒形だ。その連想で中が空っぽになった太い桐の木なら、同じ円筒形の巣箱になる。なるほど、これか。

絶えずなにかを試みるTさんのおかげで、中が空洞の桐の木がこういうふうに利用されるのだということが分かった。それを「盆」というかどうかは分からないが。

山里で暮らすとは、そういうことだろう。目の前にあるものを利用し、工夫し、役に立てる。これがないから、あれがないから――などと言い訳していては生きられない、生存と生活のために知恵とウデが試される世界。そのことをあらためて桐の木から学んだ。そこにある自然こそが大学、山里の非文字文化なのだ。

2008年6月17日火曜日

夏井川渓谷の景観復活


夏井川渓谷は「夏井川渓谷県立自然公園」の中核をなす。同自然公園は①夏井川本流、背戸峨廊(セドガロ=江田川)、二ツ箭山を含む地域②水石山、閼伽井嶽を含む地域――の二つからなり、①はバスツアーの中高年登山者が関東圏からやって来るなどして、入り込み客数が増えつつある。

「自然公園」とは言っても人が住んでいる。当然、住民の暮らしと経済が景観に反映される。夏井川本流に寄り沿う県道小野四倉線沿いには小集落が点在し、少しばかりの水田と畑が開かれ、ところどころ杉の人工林が見られる。最近、道路沿いの杉林2カ所ほどが冬季のアイスバーン防止のために伐採され、1カ所が行楽客のマイカー駐車場に替わった。

私が週末を過ごす無量庵は、いわば中核のなかの中核、自然公園のど真ん中にある。無量庵の隣は昔、酒屋(小売業?)だった。最近まで、人が借りて住んでいた。その私有地の谷側と山側(線路のそば)に45年ほど前、杉苗が植えられ、それが太く大きくなって景観を遮るようになった。

で、あるとき隣家の所有者と話をしていると、「間もなく杉を切るから」。願ってもないことだ。植えたのは先代だろう。それが代替わりして、自然環境・景観には鈍感でいられなくなった。

用材やチップになると言っても、杉の価格は低迷している。放っておくしかないと考えるのが普通だが、所有者は決断した。借家人が出て行くのを機に、家を取り払い、杉を切り払って、景観を取り戻そう――。

県の許可が下りてしばらくたってから、家の解体が始まり、次いで伐採が始まった。6月15日現在で谷側の杉は消え、山側の杉がいくらか残っている程度、というところまで事態が進展した。

とにかく、谷側はほぼ45年前の景観を取り戻した=写真。夏井川渓谷に新たな、というより昔ながらの視点場(ビューポイント)が復活した。となれば、渓谷の付加価値は一層高まる。

今までの夏井川渓谷にはない(正確にはかつてあった)、新しい夏井川渓谷の出現。それを狙って、秋の紅葉と春のアカヤシオの時期には、カメラマンが殺到するに違いない。家の跡地は一部を除いて駐車場にするというから、行楽客にも感謝されるだろう。時代の潮流にさおさす英断、と評価したい。

2008年6月16日月曜日

「父の日」のプレゼント


一つ、二つと「つ」のつく子供のころといえば、半世紀も前のことだ。「母の日」も「父の日」も知らなかった。少し、いやもっと大きくなって、そういう日があることを知っても、なにもしないできた。第一、カネがない。そういう独身男が父親になるのだから、息子どもがなにもしないのはよく分かる。

上の子が結婚して初めて、「父の日」にプレゼントが届いた。その瞬間は「オレが主役」になった気分だった。「母の日」に下の子から花が届いたことがあるが、そのときもやはり「ワタシが主役」だっただろう。

これとは別に、いつからか「タカじい」の名付け親から「母の日」と「父の日」にプレゼントが届くようになった。そういうふうに気にかけてくれる人間がいるのはうれしいものだ。

さて、息子が父親になると物のプレゼントは卒業した(らしい)。

「父の日」の早朝、夫婦で夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。なにやかやと雑用をしていたら、息子が孫を連れてやって来た。それからしばらく「孫といる時間」が続いた=写真。部屋で、草を刈ったばかりの庭で、菜園で。歩く、歩く。ジジかババがかがんで一緒に歩く。片時も目が離せない。4時間ほどいて帰ったが、孫の運動量についていくのがやっと、昼寝をしてくれて助かった――が実感だった。

というわけで、今年の「父の日」のプレゼントは「孫といる時間」だった。

夕方、「焼酎とカツオの刺し身を買いに行かなくては」などと相談しながら帰宅する。と、それを見ていたように、「タカじい」の名付け親からプレゼントが届いた。「夫婦水入らず」という名の酒と焼酎が入っている。「よかったね、買うのがカツオだけになって」。グッドタイミングとはこういうことを言うのだろう。

2008年6月15日日曜日

地震で部屋の棚が倒れる


6月14日朝8時40分過ぎ、自宅のテレビに緊急地震速報が表示された。それから間髪をいれずに、揺れが来た。最初は小さく、次第に大きく長く、揺れが続いた。随分長い時間揺れていたような気がする。

新聞やテレビによれば、8時43分ごろ、岩手県内陸南部を震源とする強い地震があり、岩手県奥州市、宮城県栗原市で震度6強を記録した。福島県の浜通り地方は新地町で5弱、小名浜で4。久しぶりに浮き足立つ感覚を経験した。震源に近い山では、森がすっぽり陥没するような大規模地すべりが発生している。すさまじいものだ。

「岩手・宮城内陸地震」から1時間後。若い仲間が借りているいわき駅前再開発ビル「ラトブ」の6階、インキュベートルームに入ると、目を疑った。電話機やプリンターを載せておいた棚が倒れている=写真。資料も散乱している。とっさに思ったのは<誰かが侵入した>で、地震の影響だとは、にわかには信じられなかった。

重い物を上の方に載せておいたために棚の重心が高くなり、揺れると不安定さが増して倒れたのだろう。要するに地震対策がなっていなかった。その場にいたら心臓がバクバカクいったかもしれない。同時に、8時40分台にいったい何人の人が「ラトブ」にいて、どんなふうに揺れを感じたか。8階は?1階は?4、5階の図書館は? そんなことに思いが走った。

ルームの片付けはすぐ済んだ。機械も支障がなかった。が、あとで新聞号外を見て驚いた。いわき市内の小浜海岸でがけ崩れがあり、釣り人が1人巻き込まれて死亡した。不運としかいいようがない。この事故を重く見て、いわき市は職員200人を緊急に招集し、市内の被害調査に当たらせたという。

ところで緊急地震速報だが、これは「キジの警報」と変わらない。というのは昔、住んでいた家の隣人がキジを飼っていて、地震のときに地震よりほんの少し早くキジが鳴くのを何度も耳にしていたからだ。緊急地震速報を見て、それを思い出した。人間の地震感知・速報技術がキジ並みになったということは、一面ではすごいことではないか。

2008年6月14日土曜日

ドクターの本


懇意にしていたドクターが亡くなって何年になるだろう。奥さんから電話があって、ドクターが読んでいた本の一部を整理したので、リサイクルに使うならどうぞ、という。夫婦で出かけた。新書を中心に文庫と単行本が小さな段ボール箱に5箱あった。ドクターの蔵書全体からすれば、ほんの一部にすぎない。

自分で読みたい本、いわき関係の本など二十数冊=写真=を手元に残したほかは、特定非営利活動法人「シャプラニール=市民による海外協力の会」が行っているブックオフ「宅本便」に回す。本の買い取り金はそのままシャプラニールに寄付されるのだ。

シャプラニールは、バングラデシュとネパールをはじめとする南アジアで、最も厳しい状況に置かれた人々とともに、貧困問題の克服に取り組んでいる民間の海外協力団体(NGO)で、村人の生活向上支援やストリートチルドレン支援などを行っている。1972年に創立された。その中心メンバーがいわき出身の私の友人だったので、以後、シャプラニールとパイプを持つようになった。

哲学から文学、歴史、専門の医学を中心にした自然科学系の随筆、その他。ドクターの本には偏りがない。人間とは何か、自然とは何か、人間と自然の関係はどうあるべきか――そうした根本的な問いを胸において読書遍歴を続けた。時々、夜更けに電話をよこして感想を語り、こちらの意見を求めることもあった。

私が哲学者の内山節さんの本を読んでいるというと、ドクターも彼の本を買って読み続けた。今回は内山さんがらみの本が2冊出た。それは私が引き取り、夏井川渓谷の無量庵に置くことにした。読みたい本は何冊あってもいいのだから。

さて、シャプラニールの「ステナイ生活 リサイクル&リユースで海外協力」のリーフレットによれば、2,000円(古本約20冊)で伝染病を予防する衛生的なトイレを1基設置することができる。4,000円(書き損じはがき約90枚)で教育を受ける機会のなかった成人1人が文字の読み書きを半年間学ぶことができる。6,000円(CD約40枚)でストリートチルドレンが通う青空学校を1カ月間運営することができる。

日本人の感覚では大した金額ではないが、向こうの国では実にいろいろと有効な使い方ができる。身近にある不用なものを捨てずに生かす――どこの家でもやれる海外協力、というところがミソだ。

2008年6月13日金曜日

「何事三度」は、今は困る


いわきキノコ同好会の前副会長白瀬露石(本名・秋夫)さんの葬儀が、きのう(6月12日)執り行われた。昨年暮れの総会・懇親会(忘年会)でお会いしたのが最後になった。今年になって入院し、闘病生活を続けていたところ、脳梗塞に襲われて帰らぬ人となった、という。享年69はちょっと早い。

公立中学校の教壇に立ち、「生涯一教師」を貫いた人、という印象が強い。キノコ同好会へは私同様、初代副会長斎藤孝さんのつながりで入会した。観察会をさぼっている私が白瀬さんとお会いするのは総会のときのみ、昨年は役員会にも出たので二度だけ言葉を交わした。

キノコのほかに水石を愛し、俳句をたしなんだ。冬にはイノシシハンターに変身した。ほかにも私の知らない趣味があったらしい。年に一回発行するキノコ同好会の会報には毎回、俳句入りのエッセーを寄せた。

先日発行されたばかりの会報(13号)のエッセー、「猪(しし)狩り」が遺稿になったか。その中に「鯉の血を呑む猪狩(ししがり)の前夜祭」「猪狩の勢子へ無線の檄飛べり」などの句が紹介されている。

前々副会長斎藤さんは相馬郡大野村(現相馬市)、前副会長白瀬さんは同郡石神村(現南相馬市=旧原町市)で生まれた。いわば同郷の士だが、接点はなかった。

キノコ同好会立ち上げのころ、夕刊に掲載された斎藤さんのエッセー「マムシの話」(1996年1月8日付いわき民報)をきっかけに、お二人は知り合った。私が斎藤さんと知り合ったのも、このエッセーを介してだった。

斎藤さんは5年前、66歳で亡くなった。斎藤さんもせっかちに逝ってしまった。縁あって『カメレオンの悲しみ 斎藤孝遺稿集』=写真=の編集を奥さんから託された。一周忌に間に合ったものの、「マムシの話」など割愛せざるを得なかった文章があって、内心忸怩たる思いが今もある。白瀬さんには句集があったと記憶している。

白瀬さんの通夜の晩、葬儀場のロビーでキノコ同好会の冨田武子会長とWさんに会った。会長は私の顔を見るなり、真顔で「体には気をつけてくださいよ」と言う。Wさんが補足説明をした。斎藤、白瀬さんと副会長が続けて亡くなっているから――。<そうか、オレは副会長だった>。「何事三度」「二度あることは三度ある」。それを心配してくれているのだ。

私も生まれはいわきではない、現田村市常葉町出身だ。斎藤、白瀬さんとは①阿武隈高地からいわきへやって来た②アウトドア派で文章を書くのが好き③コウタケをキノコの至上とする④酒をこよなく愛する――など、共通する点が少なくない。焼酎の「田苑」を愛飲するようになったのも、白瀬さんがキノコ同好会の忘年会に持参して、一遍で好きになったからだ。

そういう共通点があるとしても、「何事三度」は、今は困る。人生の第2ラウンドを孫と一緒に成長する――孫が生まれたときにそう誓ったからには、しぶとく、ずぶとく、はいつくばってでも生き続けるのだ。斎藤、白瀬さんには悪いが、あの世とはしばらく音信不通にして、みなさんと会わないようにしたい。

2008年6月12日木曜日

休みに入った総合図書館


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」内のいわき総合図書館が6月9日から20日まで、特別整理のための休みに入った=写真は休館を知らせるカレンダー。なにかあると図書館へ行って調べ物をする身にとっては、2週間近い休館は痛い。

休館2日目の10日、早速、図書館が使えない不便さを実感した。その本で確かめないことには仕事が先に進まない。休みが終わるのを待つゆとりはないから、一番近い内郷図書館へ車を走らせた。

本はすぐ見つかった。いわきの図書館で個人が借りられるのは15冊。ほぼそれに近い冊数を借りているので、必要な個所だけをコピーする。

ついでに2、3カ所、知人を訪ねた。1、2年から半年、あるいはほぼ10日ぶり。人によって会わなかった期間は異なるが、構えなくてもいい関係(勝手にそう思っている)なので、すぐ雑談に入る。お互いに近況報告をし、やりたいこと、できないこと、共通の知人のことなどを話して別れた。

さて、どこの図書館も図書整理のための休館期間がある。内郷は5月に終わった。総合図書館は最後の最後だ。総合図書館を自分の書庫代わりにしている身にとっては、休館はこたえるが、それで知の回路が遮断されるわけではない。

総合図書館は小名浜・勿来・常磐・内郷・四倉の5図書館とネットワーク化されている。公民館でも図書の貸し出し・返却ができる。組織を離れて、そして総合図書館が長い休みに入ってつくづく思うのは、この図書館機能のありがたさだ。

2008年6月11日水曜日

夏井川渓谷の空き缶が減った


「春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」最終日の8日、夏井川渓谷(牛小川)でも渓流沿いの県道で環境美化活動が行われた。早朝6時、大滝(上流)~籠場の滝(下流)間を、役所支給のごみ袋を手に、10人ほどが二手に分かれて歩いた。

夏井川渓谷のど真ん中、牛小川区に限っていえば、県道の空き缶・空きビン類は年々減っている。行楽客のモラルが向上してきたのだろうか。それもある。が、最近は川前のグループが「カントリー作戦」を展開している。今回は、それで随分とごみの量が減ったのを実感した。

いつもだと1人当たり2袋や3袋は集めるのだが、不燃ごみも可燃ごみも1袋に満たない。谷間のニッコーキスゲの花=写真=を見たり、ダイモンジソウの群落の話をしたりしながら、半分は「空戻り」気分でスタート地点へ戻った。聞けば全員がそうだ。1時間はかかる作業が40分程度で終了した。

籠場の滝班に入った私に、Sさんが教えてくれた。「川前のNさんという人が、ごみを見つけると車を止めて拾っているんだ」。定期的に「カントリー作戦」を展開しているグループの代表である。

雑誌と新聞記事で知ったが、Nさんは川前で田舎暮らしを始めた「ニューカマー」らしい。「田舎の美しい風景を守りたい」。その一心で夏井川の美化活動を呼びかけたら、手を挙げる人が続出した。グループ名は「川前発 夏井川をきれいにしてみま専科」。今年も3月に川前地区の夏井川と鹿又川で清掃活動を展開した。

昨日(6月10日)、ゲーテの4行詩「市民の義務」(銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。)を引用して、土着的な地域の環境美化力について書いた。

同じ4行詩の後半「銘々自分の課題を果たせ」の「課題」とは、自分たちでできる「何か」だと、私は思っている。Nさんたちの場合は「夏井川のカントリー作戦」なのだろう。道路だけではない、大水や不法投棄がもたらした発泡スチロール、不燃物、その他のごみが谷間に散乱している。そこまで直視しての「きれいにしてみま専科」だ。

旧来の地縁組織とは違った、目的を共有する新しい「知縁」=「結(ゆい)」の誕生。旧と新がうまくかみ合えば、地域の環境美化力はさらにアップするはずだ。

2008年6月10日火曜日

地域の環境美化力


ゲーテが死ぬ直前に書いた詩に「市民の義務」がある。4行詩だ。

銘々自分の戸の前を掃け
そうすれば町のどの区も清潔だ。
銘々自分の課題を果たせ
そうすれば市会は無事だ。

ゲーテは詩人にして政治家。ヴァイマル公国の宰相として、さまざまな社会施策を実施した。自治体の首長が「市民と行政の協働作業」をいうときに、いつもこの4行詩が頭に浮かぶ。

「戸の前を掃け」。少なくとも団塊の世代までは子どものころ、朝起きると「竹ぼうき」(私は「高ぼうき」と記憶している)を持って家の前の道路を掃いた、つまり親に「掃け」といわれた経験があるはずだ。わが生まれ故郷の田村市常葉町は「銘々自分の戸の前を掃いたために、町のどの区も清潔だった」。今もそうだろう。

都市化が進んで田んぼや畑が宅地になり、新たな住民が加わって流動化したところはとなると、しかし様相は一変する。新住民は根っこが生えているわけではないから、地域への愛着心は薄い。お祭りにも縁がない。旧住民の隣組に新住民が加入することもまずないから、両者が溶け込むのは至難の業だ。せいぜい子供が小さいときにPTA活動をして知り合えればいい方だろう。

そんな関係もあって、地域のことでできることは自分たちでやろうとなるよりは、何かあればすぐ役所にやってもらおうという風潮が強まる。「すぐやる課」があったのは松戸市、課までは設けなくとも「すぐやる予算」(スピード処理費)を計上した役所もある。税収が右肩上がりの時代の施策ではあったが。

で、カネがなくなると徐々に「協働作業論」が浮上する。道路や公園の清掃美化などで役所が住民に維持管理をまかせる動きが広まってきた。その延長なのかどうか。ある日の朝、いつものように夏井川の堤防経由でいわき駅前へ向かっていると、近所の知人などが出て河川敷の草刈りをやっていた=写真。役所から借りたと思われるタイヤつきの草刈り機も稼働していた。

「役所から頼まれて草刈りをしたのですか」。あとで旧住民の知人に聞いたら「そうではない。毎年地元の人間が自主的にやってるので、手伝いに行った」。大きくは区の中の河川敷、それを「竹ぼうき一本の精神」で自主的にきれいにしていた、というわけだ。別の日、あるいは「春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」に合わせて、「銘々の区」で堤防の草刈りをやったために、一部を除いて堤防がすっきりした。

その意味では、延べ20万人以上が参加する年2回の「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」は、他に誇りうるいわき市民の大きな財産(ソフト事業)、と私は思っている。少なくとも地域の環境美化力は健在だ、「竹ぼうき一本の精神」はまだまだ地域に息づいている――それが目に見える形で確かめられるのだから。

2008年6月9日月曜日

ミズダコを買う


土曜朝市で小さなミズダコを買った=写真。2はい300円。ゆでて食べる。刺し身もうまいという。「塩でもんでヌメリを取ればいい」といわれても、塩加減が分からない。「海の水より薄く」。それが目安だそうだ。

早速、わが家へ戻って塩でもむ。水でごしごし洗ったあと、包丁で脚をばらし、頭の皮を裏返しにして内臓を取り除く。水ですすいできれいにしたあと、ぶつ切りにした。

冷凍庫に入れて急冷したのを取り出し、わさびをちょこんとのせてしょうゆにつけ、あつあつのご飯と一緒に食べた。軟らかくてこしがあって、ほんのり甘みまである。カミサンも手を出したが、コリコリネチネチがこたえたのか、一切れで箸を止めた。

夜になって、タコはゆでる必要があるのを思い出した。行きつけの魚屋さんが刺し身にするタコはゆでたものではなかったか。朝も、昼も、夜も、生のタコ。あきた、歯茎が痛くなった――その瞬間に、魚屋さんの包丁さばきがよみがえったのだった。すぐ残りをゆでる。生よりかえって軟らかいくらい、簡単に口のなかで身がほぐれる。

別の日に、行きつけの魚屋さんに聞いてみた。ヌメリを取るのは食中毒予防だという。ゾッとした。うろこのない魚は、細菌から身を守るためにヌメリを出す。ヌメリを取るのは雑菌除去対策だった。

プロでもヌメリ除去には気を遣う。ヌメリのあるイカは皮をはぐから、生でも大丈夫。ただし、脚は危ないから刺し身にはしない。そんなことを知らずに、適当な塩もみだけで生タコを口にした。「よく腹をこわさなかったものだ」と魚屋さん。

とにかく、ヌメリがなくなってコキコキするまで塩もみをすることが肝心。素人の生兵法はけがのもと、を実感した。

で、急にタコが朝市に出回るようになったのは、燃料高騰で漁船が「タコ引き」に切り替えたためだという。タコは重量がある。普通の魚よりはカネになる。原油高が巡り巡って私たちの食べる魚にも変化をもたらしている。

2008年6月8日日曜日

首をつられたキュウリ苗


パイプの骨組みだけになった元ビニールハウスが家の近所にある。奥にタマネギ、手前にキャベツが列をなしていた。キャベツは既に収穫を終えて姿を消した。タマネギも近々収穫されるだろう。

あるとき、パイプの支柱の外側にキュウリの苗が植えられた。パイプの梁(はり)からはビニールテープが垂れている。つるが支柱に絡みつくように、苗の先端部をテープで結んで支えているのだ=写真。支柱にネットをかけてつるを這(は)わせるのが一番だが、ネットをかけるのが面倒であれば、苗を上からつるすようにして支柱に絡めるしかない。

人間の想像力の柔軟さにびっくりした。「人間で言えば、あれだな。絞首刑。こういうやり方もあり、なのだ」と。キュウリにとってはどんなやり方であろうと、つるを伸ばして何かに絡みつき、日を浴びながらぐんぐん生長できるのが一番だ。

野菜を栽培して思うのは、いかに手を抜いて立派に育てるか、である。利用できるものはなんでも利用する。稲藁(わら)がなければそのへんの草を刈って敷き藁の代用にする。ヤマイモのつるの支柱が短ければ、その上に張り出している木の枝に絡まるように誘引する。

自分なりの創意工夫、それが無数にあるのが農の営み。だから、私はこのごろ「米農家」ではなく「米作家」、「梨農家」ではなく「梨作家」と呼びたい衝動に駆られることがある。糠漬けなら「糠漬け作家」。いつも何かを考え、試し、修正していく。太陽と雨に影響を受ける農の営みは、特にそのことが求められるような気がする。

2008年6月7日土曜日

夏井川でテレビドラマロケ


きのう(6月6日)の朝9時半ごろ、車でいつものように夏井川の堤防の上からいわき駅前の「ラトブ」へ向かった。平・鎌田の平神(へいしん)橋へ近づくと、河川敷に人がいっぱいいる。撮影隊らしい。映画? テレビドラマ? 河川敷と橋のたもとに数十人が密集している=写真。

そばを通過するときに、チラッと河川敷を見た。「あれっ、三浦友和じゃないか」。いかにもスタッフだと分かるTシャツ集団の中に、白っぽいスーツに身を包んだ端正な横顔が見えた。

泥沼に咲くハスの花。いや、努力とは無縁の、天から与えられた黒髪と美貌。男に「美貌」という言葉を使いたくはないが、ほかに思いつかない。ほんの一瞬のことなのに、その顔だけが輝いて見えた。

テレビを通して見るとナヨナヨだが、ナマの姿はさっそうとしていて男らしい。<スターとはそういうものか。百恵ちゃんが好きになるのも当然だな>。このところ経験しなかった「かっこいい人間」が強い残像となって、まぶたの裏に刻印された。

どんなドラマかは分からないが、橋の下の物語には違いない。「ブルーハウス」がセットされ、縦割り半分にして脚を4本つけたドラム缶のような、炭火焼きのバーベキューセットが用意されていた。

それを見たとき思い出した。もう何日も前だが、同じ時間帯にそこを通ったとき、同じ炭火焼きの道具を出してこれからバーベキューをやろうとする(かのような)じいさんがいた。<酔狂にもほどがある>。そう思ったが、ロケハンだったのだ。

橋の下のブルーハウス、バーベキュー、スーツ姿の主人公――とくれば、なんとかサスペンス劇場かワイド劇場だろう。少年がホームレスを襲ったかなにかして、三浦友和ふんする刑事か探偵か弁護士かが現場へやって来た、そんなシーンを撮影したのだろう。

お昼過ぎには、もう影も形もなかった。手早く撮影して手早く撤収する。それが彼らの流儀らしい。夏井川を毎日見ている人間に、夏井川が気をきかしてプレゼントしてくれた、ちょっと変わった光景。わが胸の中の「夏井川ノート」に新たな記録が加わった。

2008年6月6日金曜日

熱帯菌「ダイダイガサ」


「いわきキノコ同好会」の会報第13号が届いた=写真。キノコ観察会記録や報告のほか、肩の凝らないエッセーなどが掲載されている。

末尾に収められている「観察会既採集菌一覧」に興味をそそられた。同好会では毎年2~3回、いわき市内の山でキノコ採集会を開き、どんなキノコが生えているかを調べる。さらに双葉郡楢葉町の委託を受けて、8回にわたって同町の菌類を調査した。「採集会一覧」には両方の調べで得られた菌類が網羅された。

1回は楢葉の調査と重なっているから、実回数は平成8~19年の12年間で32回だ。その結果として、特定できないもの(不明菌・仮称)も含めて採集されたキノコは561種に達した。内訳を記すと、【真菌門】が①ハラタケ類396種②ヒダナシタケ類83種③腹菌類16種④キクラゲ類6種⑤子嚢菌類40種、【変形菌門】が20種である。

特筆されるのは、熱帯菌の「ダイダイガサ」が楢葉町、いわき市湯本町・平の石森山・四倉町で確認されたことだ。どんな経路でいわきまで胞子が来たか。空からか、海(港)からか。ゆゆしいことではある。

絵本などでおなじみの「ベニテングタケ」は、観察会では確認されていない。同じく、キクラゲ類の中に「アラゲキクラゲ」はあっても、「キクラゲ」はない。このへんがいわきの菌類の面白いところだ。

いわきは南方系と北方系の生物がせめぎあい、重なり合う地域。キノコに関しても同じことが言える。すでに阿武隈産トリュフが発見されている。その延長線上でキノコに思いを寄せていると、「新種発見」も夢ではないかもしれない。

2008年6月5日木曜日

ジャケツイバラの黄色い花


平のマチから山へ向かって車を走らせると、小川町上小川字高崎地内で急な坂道になる。夏井川渓谷はそこから始まる(川の流れからいえば渓谷が終わるところだが)。

その入り口、夏井川第三発電所付近、一部杉林のある道路沿いの岸辺に黄色い花が咲いている=写真。何年か前、いわき市観光物産協会(現いわき観光まちづくりビューロー)発行のポシェットブック『いわき花めぐり』をパラパラやっていたとき、同じ黄色い花が載っていて、やっと「ジャケツイバラ」と分かった。

ジャケツイバラは日当たりのよい山野や河原に生えるマメ科のつる性落葉低木で、茎にも葉にもトゲがある。それがもつれるように曲がりくねるところから「蛇結茨」の名がついたという。蛇の穴の「ジャケツ」とみる人もいるらしい。

総状花序に花をつけたときの、黄色い花のかたまりが見事だ。色が派手なのに清潔感がある。忘れがたい花、でも茎葉に触るとけがをする。まさにバラ線。

『いわき花めぐり』には二ツ箭山の登山口付近のジャケツイバラが紹介されていた。夏井川渓谷沿いの県道では、私はその渓谷の入り口だけでしか見ていない。もっとしっかり見ればあちこちに自生しているのだろうが、同じマメ科のフジの花のようには目立たない。

なぜか引かれる花である。トゲのある美人が少なくなったからか。

2008年6月4日水曜日

池波正太郎の風邪予防対策


作家の故池波正太郎さんが『男の作法』のなかでこんなことを語っている。

「冬なんかに、ちょっときょうは寒い、風邪を引きそうだなあと思ったときは、入浴をしても背中は洗わないほうがいいよ。(略)背中の脂っ気がなくなってカサカサになっちゃうと、そこから風邪が侵入してくるわけ」

土曜日(5月31日)に標高600メートル前後の「いわきの里鬼ヶ城」へ行ってきた。雨に濡れたわけではないが、背中に冷たい風がさわるような感覚があった。それが始まりだったらしい。月曜日になって鼻がむずむずしてきた。背中もかすかにザワッとする。

池波さんいうところの、背中から風邪を引いた――と感じたので、急いで風邪薬を飲んだ。それがよかったのか、火曜日にはボーっとした感じが少し治まった。鼻水が垂れることもない。

5月はさわやかな月の印象があるが、実際はどうなのか。小名浜測候所の観測によると、今年の5月の平均気温は14.8度(平年15,1度)、日照時間は156時間(平年198.4時間)、降水量は185.5ミリ(平年147ミリ)と、平年よりは寒くて雨が多かった。カラッとさわやかな日は確かにあったが、長続きはしなかったのだ。

快晴・薫風と同時に、曇雨天・冷風に見舞われる5月。孫が風邪を引いて熱が下がらない、というので、週末の対面はしばらくおあずけになった。こちらも風邪を引いたからいたしかたない。

「梅雨に入ったようなものですね」があいさつ代わりになるほど、ジメジメシトシトの日が続く。いわき駅前の「ラトブ」から眺めた街も、風邪を引きそうなくらいに寒々としていた=写真。今朝、空を仰ぐと「雨過ぎて雲切れるところ」に、うっすらと青空がのぞいていた。例年だと、あと1週間以内で東北地方南部も梅雨入りをする。池正流風邪予防対策をお忘れなく。

2008年6月3日火曜日

「セドガロ」と二箭会


草野心平のいとこで長らく中学校の校長を務めた故草野悟郎さん(通称「ゴロー先生」)に『父の新庄節』という随筆集(昭和62年刊・非売)がある。中の『縁者の目(上・下)』に「背戸峨廊(セドガロ)」命名のエピソードが紹介されている。

敗戦をはさんでゴロー先生一家が今のいわき市小川町へ帰郷し、中国から心平の家族が心平の生家へ引き揚げ、心平もやがて長男、次男を連れて戻って来る。するとすぐ、心平の発案で何でもいいから、村を明るくすることをやろうという自由な集まり「二箭(ふたつや)会」ができた。

「二箭会」はむろん、心平の生まれ故郷の二ツ箭山にちなんだ名前だ。疎開していた知識人の講演会や、村の誰もが歌える村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の製作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などを手がけた。

江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、ゴロー先生はいう。

「元々この川(注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた。この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

私が聞いていた話とほぼ同じである。というより、探検に加わった当事者の一人の貴重な記録である。「セドガロ」に関する一番正確な文章がこれだと断言してもよい。

ゴロー先生は続ける。「セドガロ」の噂を江田の青年から聞いて、一度皆で探検してみようということになった。

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った=写真は背戸峨廊入り口のルートマップ板。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

「セドガロ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた。滝や淵の名前は確かに心平が創作した。それも「二箭会」あってのことだ――ゴロー先生はそのことを書き残しておきたかったのだろう。「セトガロウ」だの「セトガロ」だのはやはり間違い、ということがこれからも分かる。

いわき観光まちづくりビューロー(6月1日、市観光物産協会を発展的に解消して発足)は自信をもって間違いをただし、「セドガロ」の普及に努めてほしいものだ。

2008年6月2日月曜日

河川拡幅工事始まる


平・神谷(かべや)地内の夏井川右岸で河川拡幅工事が始まった。

国道6号バイパス終点、夏井川橋下の河川敷がある日、ぽっかり開けて見通しがよくなった。何かある。対岸へ渡って確かめたら、河川拡幅工事を告げる看板が立っていた。工事のために樹木を伐採したのだ=写真。

「この工事では河川内に堆積した土砂を掘削することにより、台風や豪雨でも安全な川を整備する工事です。又、地域の皆様に愛される川づくりを進めますので、工事中のご協力をお願いします」。「この工事では」が「工事です」で終わる文章は日本語になっていない(ほんとうは「この工事では…川を整備します」だろう)。

発注者はいわき建設事務所で、3月21日から11月27日までの予定で、長さ408メートルにわたって1万3,261立方メートルの土砂を掘削する、といったことが看板に書かれてあった。

平市街地の東端、鎌田町から下流の夏井川は一度、拡幅工事が行われて広くきれいになった。それが、年を追うごとに中州ができ、岸辺に砂が堆積して木々が生えた。右へ大きく蛇行する塩と神谷の境界付近では左岸が深くえぐりとられて、立ち入り禁止のロープが張られた。

それだけではない。このところ、大水後の「置き土産」がかなり目立つ。一度は広がった川幅が狭まり、ヤナギが生え、ハリエンジュ(ニセアカシア)が生え、河川敷のサイクリングロード沿いにソメイヨシノが植えられて、いよいよごみが木に絡まるようになった、ということもあろう。

市民によかれと思ってやる公共工事が、自然にとってはストレスをためることになる。特に、海や川は水が激しく流動する。担当者は自然をコントロールできるなどとは思っていないだろうが、河川工学の限界が「堆砂」として川岸や川の中央に現れた。

一度工事したらそれで終わり。海や川がそうなら、こんな楽なことはない。「シジフォスの神話」と同じで、人間による改修と自然による改変とを永遠に繰り返していくしかない。ただ、そのあんばいが今のかたちでいいのかどうか、という疑問は残る。悩ましいところだ。

2008年6月1日日曜日

雨のいわき市植樹祭


いわき市で二番目、ほかの町村にまたがらない山としてはいわき市で一番高い鬼が城山(887メートル=川前町)のふもと、「いわきの里鬼ヶ城」で5月31日、市植樹祭が行われた。

カミサンに案内状が来ていたので、雨の中、運転手を兼ねて出かける。

「いわきの里鬼ヶ城」は標高600メートル前後の斜面に研修・レジャー・宿泊施設が展開するネーチャーランド。晴れていれば眺望がきいて、カッコウなどが鳴いているのではないかと思わせるほど、開けてせいせいとした高原だが、雨が冷たかった。

バーベキューハウスのある多目的広場から山里生活体験館に会場を変更して開会式が行われた。正面に「私たちは、『森』『川』『海』が大好きです‼」の横断幕が張られてある。市長があいさつし、国会議員などが祝辞を述べた。地元桶売小と小名浜海洋少年団の子供たちが一緒になって「ちかいのことば」を斉唱した。

多目的広場で記念植樹が行われたあと、施設近くの元牧草地へ移動して、市民らによる一般植樹が行われた=写真。用意された苗木はヤエザクラやシダレザクラ、ヤマボウシなど520本。カミサンはヤマボウシとヤブツバキを植えた。

さて、雨の植樹祭、結構ではないか――。素人はそう考えるが、ことは単純ではない、らしい。植樹をしたあとに雨が降れば「恵みの雨」だが、植樹の前に雨が降り続くと苗木が「根腐れ」を起こしかねない。市長が「恵みの雨」を強調すると、「山が分かっていない」、知り合いがつぶやいた。私も「恵みの雨」と思っていたので、ギョッとした。

それから、もう一つ。いわきの森林、ということは日本の森林全体にいえることでもあるが、手入れされずに放置されている人工林が多すぎる。「枝打ち・下草刈り・間伐。それが必要な現状にもっと目を向けるべきだ。『植樹祭』より『育樹祭』が大切なんだよ」と、知り合いは付け加えた。それも一つのアイデアだろう。

山を買うか、というところまではいかないが、山を眺めているだけでは何も始まらない――。そんな感想を抱いた植樹祭でもあった。