2014年1月4日土曜日

この1週間

 2013年から2014年へ。年末・年始(正月3が日)のこの1週間、わが家はつつがなく過ぎた。元旦と2日の朝は雑煮だったが、もちがのどに詰まることもなかった。

 一番の出来事は暮れの一夜、いわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会のために、いわき駅に近い飲み屋街へ出かけたことだ。その店の壁面に独身時代からの友人、阿部幸洋(いわき出身でスペイン在住の画家)の絵が飾ってあった=写真。これも“事件”だった。

 一般の事件・事故はどうか。元日にドサリと届いた新聞は、2日は休刊だ。元日と2日に起きた事件・事故の報道は、活字としては3日になる。マスメディアその他の電子版に触れた人たちが、ツイッターでニュースを再発信してくれたおかげで、主な出来事を2日のうちに知ることができた。
 
 元日。午前中、いわきの70代の男性がもちをのどに詰まらせて亡くなった。夜10時前には、距離的にそう離れていない隣の地区で女性が電車にはねられて死んだ。3日の新聞とグーグルで推定すると、田んぼの間を流れる川に架かる鉄橋が現場のようだった。
 
 2日。カミサンの実家から帰る途中、子鍬倉神社(平)の下の道を通ったら、旧家の門が倒れかかっていた。すぐそばの路上に、ブルーシートに覆われているものがあった。ツイッターには情報がなかった。3日の新聞で、元日午前、車が門に激突したことを知る。家人は不在とかで事故処理が進まなかったのだろう、車にブルーシートがかけられていたのだ。神社へ初もうでに来て事故をおこしたものか。
 
 3日。人が集まると、もちの話でもちきりになった。年をとるとのどの筋肉が衰える。老夫婦だけの家庭では、もちを食べるときにはそばに掃除機をおかないと――若い人には「極論」に聞こえても、老いた人間には「現実」問題だ。

 さて、元日の新聞は1年で一番重い。正月広告を掲載するために100ページ前後になる。初売りなどの折り込みチラシも半端な数ではない。数えてみた。全国紙2紙、県紙1紙で折り込み数は計158枚、重さは2.15キログラム。1紙平均では約53枚、717グラムだった。元日としては多いのか少ないのか。前から調べていればおもしろいデータにはなったのだが。

2014年1月3日金曜日

インド舞踊

 師走の21日、被災者のための交流スペース「ぶらっと」のクリスマス会で、東京の山元彩子さんがインド舞踊を披露した=写真

 東日本大震災から半年後の2011年9月中旬、小名浜・冷泉寺の本堂でインドの打楽器タブラと舞踊のミニコンサートが開かれた。タブラ奏者は本場のアリフ・カーンさん、25歳。「即興・高速のシタール奏者」ヨシダダイキチさんと協演した。そのあと、山元彩子さんらがインド舞踊を披露した。被災地支援の一環だった。

「ぶらっとクリスマス会」では写真撮影を担当した。山元さんの手と足の動きに引かれた。「手の変幻」は詩人・作家の清岡卓行、ならば「足の変幻」を狙うか――なんていたずら心をおこして、全体の動きの合間に足だけをアップで撮ったりした。

 山元さんのブログを読んだ。歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんについて書いていた。「バラタで言うところのムドラー(指の動き)の速度とキレとリズム感が凄い」。バラタはバラタナティヤムの略。ご本人の解説によると、インド四大舞踊のうち、最も古い南インドのタミルナードゥ州の舞踊のことだ。要するに、きゃりーぱみゅぱみゅさんのダンスにはインド舞踊に通じるものがある、ということだろう。

 大みそかの紅白歌合戦は、最初から最後までこの「ダンス」を切り口にして見た。野球やサッカーと同じように“ホームタウン”をもつ女性アイドルグループ、AKB48とかNMB48、SKE48。E-girls、AAA、三代目J Soul Brothersperfume、そして目当てのきゃりーぱみゅぱみゅ。なんだかすべてのダンスにインド舞踊的な要素が入っているのではないかと思われた。そういう目で見ればそう見えるということか。
 
 今まではマリオネット的、仏像的といった言葉しか思い浮かばなかったが、インドを含めた「南アジア的」が新たに加わった。アイドルたちの歌とダンスを見る目が少し開けたような気がする。

2014年1月2日木曜日

白鳥おばさん

 きのう、2014年元日の午後3時ごろ。平・旧市街の東方、新川と夏井川の合流点で、ハクチョウにえさ(くず米)をまくおばさんに出会った=写真

 去年の師走、といっても1週間ほど前のことだ。同じ時間帯に、堤防を利用して街から帰る途中、何十羽ものハクチョウが空に現れ、らせん状に下降しながら着水した。あわてて堤防の上からカメラを向けたが、写真としては平凡なものに終わった。空の深みを感じさせる着水シーンを撮りたい――以来、毎日意識しながらも、時間がなかった。
 
 元日はさすがに、寝ている間に新聞配達員が、昼前に郵便配達員が来ただけだった。返信を兼ねて年賀はがきを書き終えると、午後2時半になった。ハクチョウが頭の中で「コー、コー」と鳴いた。

「年賀はがきを出しに街(いわき郵便局)へ行ってくる」というと、カミサンは「そこ(家の斜め前)にポストがあるでしょ」と、そっけない。そのうえ「これから孫が来るはずよ、去年がそうだったから」という。ひとり、「ハクチョウの写真も撮りたいから」と言い訳しながら出かけた。孫よりハクチョウ、という瞬間もあるのだ。

ハクチョウはもうどこからか戻ってきたあとだった。ざっと150羽が羽を休めていた。狙った写真は撮れない。あきらめて街へ行こうとしたとき、青いバケツを提げたおばさんが堤防の上に現れ、岸辺へ下りていった。えさやりに違いない。あとからついていくと、図星だった。

“白鳥おばさん”が岸辺に着いたとたん、ハクチョウたちの動きがあわただしくなった。おばさんの方に近寄ってくる。あわてて飛んでくるものもあった。

 えさやりを終えたおばさんと少し話した。「日中はどっかに行ってるみたいね。そろってからえさをやるようにしてんの」。なるほど。それが、午後3時前後なのだろう。ハクチョウたちが戻ってくる時間と、おばさんがえさをやる時間が、両者の信頼関係のなかでおのずと定まったのだ。

 着水シーンの撮影は先送りになったが、“白鳥おばさん”の存在を初めて知った。あとは年賀はがきを投函して帰宅するだけだ。

 車で行ける堤防の終わりに東日本国際大がある。国道6号ではなく、旧道を利用していわき駅方面へ行くには、大学のある丘の南麓を岸に沿って平神橋に出るか、北側の切り通しを通ってそのまま橋を渡るかのどっちかだ。ふだんは川に沿って進む。その逆をやってみた。すると、大学正門前のポストに郵便局員がいて、中から郵便物を取り出していた。声をかけると年賀はがきを引き受けてくれた。本局まで行く手間がはぶけた。

「今年は幸先がいいぞ」。うれしい気分になって帰宅すると間もなく、元日から仕事をしているという息子のような若者がやって来た。孫たちも両親に連れられて現れた。「明けましておめでとうございます」。今年小学生になる上の孫が、親に教えられたとおりにあいさつした。神妙なところはそこまでで、あとは“初遊び”に付き合わされた。

2014年1月1日水曜日

「みみたす」1・2・3月号

 FMいわきのPR誌「みみたす」1・2・3月号が届いた。記事が面白いので、「みみたす」設置場所に名乗りを上げた。初めて発行と同時に読んだ。

 馬産地だったいわきの中山間地・遠野を紹介している。表紙をめくった瞬間、うなった。「朝もやの入遠野」の里を絶好のタイミングでとらえている=写真。よくこんな朝早くから取材に……と思ったら、地元出身の写真屋(折笠一)さんの作品だった。

 もう20年以上前になる。古巣の地域紙の取材で入遠野へ出かけた。夕景に心が奪われた。自然と人間の関係が調和した世界だからこそ、風景は安定して、人を落ち着いた気分にさせる。夕方の景色が美しいところは朝の景色も美しい。「みみたす」最新号をながめてまずそのことを思った。

 2014年元日、いわきは晴れ。初日の出は海、街、山とそれぞれに異なった味わいがある。入遠野はどの山から初日が昇るのか。

「みみたす」を知ったのは、草野心平記念文学館で行われた昨年夏のイベントのときだった。チラシ類とともに、7・8・9月号を手渡された。小川に焦点を合わせた記事「胡瓜(きゅうり)をめぐる冒険」に引かれた。キュウリ栽培を禁忌する草野さんの家がある。なぜそうなったのかを、地元の人々の間を訪ね歩いて明らかにした。

 10・11・12月号には川前町の探訪記事が載った。葉タバコ生産地としての川前を、これまた足を使って紹介した。1・2・3月号では、鮫川と入遠野川の合流地点に立つ歌碑のエピソード、8ミリカメラで遠野の風物を撮り続けたお年寄りや、震災で壊れた炭焼き窯の再建話などをからめながら、馬産地・遠野の歴史を浮き彫りにしている。
 
 なぜ「みみたす」の記事に引かれるのだろう。理由は簡単だ。記者が地域に分け入って取材しているからだ。取材が深ければ、その地域についての考えも深くなる。暮らしの場に埋もれているニュースを掘り起こすのは、この「考える足」だ。
 
 毎日発表や催しに追われるマスメディアの記者たちには、かわいそうだがその時間がない。地域の特集でも組まない限りは、パッと来てパッと帰っていく。これではいつまでたっても深い取材はできない。その欠を、「みみたす」が補っている。要するに、足で稼いだ「物語」は面白いのだ。
 
 と、書いてきて、なぜ馬産の記事かにも思いが及んだ、今年の十二支は午(うま)である。そいう意図があったかどうかはともかく、タイミングがいいのも「物語」を面白くする。

 相馬焼には馬9頭を描いた器がある。「うま(馬)く(九頭)いく」と読ませるらしい。馬にまつわる、そうしたことわざめいたものが遠野にはなかったかどうか。そんなことを思いめぐらしながら、わが2014年が始まった。

2013年12月31日火曜日

1年が終わる

1年が終わろうとしている。きのう(12月30日)午前、行政区内約340世帯に配る「広報いわき」1月号と回覧資料を振り分け、役員宅に届けた。その間にカミサンはわが仕事場(茶の間)の掃除をし、正月の飾りつけをした。床の間にかがみもちと花が飾られ、掛け軸が大黒さまの縁起物に代わった。午後は年賀はがきの文面を考え、プリンターで印刷した。

今年はいつになく忙しく過ごした。去年の師走に体調を崩して、3カ月ほど自宅に“入院”した。4月には2年先延ばしにしてもらった区長兼行政嘱託員の仕事が始まった。それと並行して、4~7月まで週一回、待ったなしの仕事に追われた。ペースをつかめるようになったのは、6月後半になってからだろうか。

それとなく見守ってくれる人たちがいる。15歳で出会った朋友たちもそうだ。3月、いわき市常磐の白鳥山温泉で快気の宴を開いてくれた。5月、夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)に集結した。7月には京都・奈良の“修学旅行”を楽しんだ。お茶屋で舞妓さんとじかに話し、奈良では東大寺の大仏様=写真=に手を合わせた。それだけではなかった。11月にも会津・芦ノ牧温泉につどった。いい息抜きになった。

体調を崩してから6月までの間、ブログはとどこおりがちだった。朋友の一人から、朝・昼・晩、アップしているかどうかチェックしていたといわれて、7月からは以前のように毎日書くことにした。朋友たちには「生きているよ」というメッセージになる。晩酌のあとに文章を打ち、朝に整理して投稿するという一日のリズムが戻った。

さて、日々の暮らしの中でときどきかみしめる言葉がある。一つは、宮沢賢治の「農民芸術概論・序論」にある<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>だ。3・11を経験して世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実の目標になった。

もう一つは、ウージェーヌ・ギュヴィックというフランスの詩人の短詩。10代のときにノートに書き写しておいたものだ。「生命は増大すると/ひとがぼくらにいうとき、それは/女たちの肉体がもっと大きく/なることではない、木々が/雲の上に/そびえはじめることではない、/ひとが花々の最も小さなものの中へ/旅行できることではない、/恋人たちが愛の床に幾日も/とどまっておれるということではない。/それはただ単に/単純に生きることが/むつかしくなるということだ。」

それから半世紀。介護保険料を払わないといけない年齢になってみると、意識せずとも暮らしは単純なものになっていた。やることが絞られてきた。それは時間が矢のように過ぎるからだ。比喩ではない。開き直って、シンプル・イズ・ビューティフルと言ってみる。そうだったらいいかな、という気になってくる。では、よいお年を!

2013年12月30日月曜日

すべてのことはメッセージ

きのう(12月29日)、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。カミサンが玄関に「りんぼう」を飾り、床の間にモチを重ねて正月を迎える準備をした。私はその間、隣にある「錦展望台」のガケ、道路側溝の直下にできた“しぶき氷”=写真=の撮影に集中した。

そこはV字谷にある小集落の下流側の入り口。集落には何枚か田んぼがある。それを潤すために、夏井川の支流・中川から集落の田んぼ、そして道路に沿って夏井川へと用・排水路がのびている。

この冬初めてできたしぶき氷だ。写真を撮りながら、じっくり氷を観察した。排水口の周りに、細い枯れ草が密生している。その枯れ草に絶えずしぶきがかかっている。気温が下がる夜間、草に付いたしぶきが凍り、肥大し、やがて氷柱(つらら)状になったり、ナイフ状になったり、球状になったりしたのだろう。氷はまだ赤ちゃんなのか透明だった。

自然は絶えずこうして流動し、変化している。夏井川渓谷に限ったことではないが、自然に身をおくたびになにか発見がある。「本を読む」だけでなく、「自然を読む」面白さを知ってからは、意識して「いわきという書物」を読んできた。今はさらに「いわきというメディア」という言い方をしてみたくなっている。

およそ40年前に発表されたユーミンの歌「やさしさに包まれたなら」に、「目にうつるすべてのことはメッセージ」という1行がある。まともに歌詞とむきあったのはつい先日。で、森をめぐっているときに感じていたのはこれだったと、遅まきながら気がついた。

自然はメッセージに満ちている。そこに赤松があれば大工は家の材料を思い、愛菌家はマツタケを思い、画家はかたちと色を思い、カメラマンは光の方角を思う。同じものを見てもとらえ方は人それぞれだ。逆に言えば、赤松は、いや自然は無限のメッセージを発しているメディア(媒体)になる。排水口のしぶき氷だって、寒さが早いか遅いかのバロメーターにする人がいるかもしれない。

ユーミンの歌に先行して世に知られた言葉にマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」がある。それにひっかければ、メッセージを発しているメディア、つまりいわきの自然はいわきのメディアということになる。マスではない「いわきというメディア」という切り口でいわきを読み直してみるのも面白いかな。

2013年12月29日日曜日

キノコの話を食べる

いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の総会・勉強会・懇親会がきのう(12月28日)夜、平・レンガ通りの田町平安で開かれた=真。約20人が出席した。今年1年、いや体調を崩して去年は総会を欠席したから、この2年間のキノコ事情を知るにはいい機会になった。

懇親会ではあいさつ担当ということで、3・11後、口にする機会が減ったキノコの代わりに、キノコの話を食べて楽しみたい、と呼びかけた。20人の体験談から、いわきの海岸から阿武隈高地までの菌界の様子が“3D”になって浮かび上がってきた。

だれもが気になるのはキノコの放射線量だ。同じ場所でも種によって測定値が異なり、同じ種でも場所によって極端に値が違ってくるから、一般化して論じるわけにはいかない。以下は、体験談の個別・具体例(単位は省略して話しているので、キロ当たりと推定)。

食菌のウラベニホテイシメジは、地表よりやや深いところから出てくるので、ベクレルはわりあい低い。地上から株になって現れるセンボンシメジ(シャカシメジ=いわき市川前町産)は200、土壌は5000ベクレルあった。

いわき市北部のマツタケは、2011年70、12年90、13年200ベクレルと、年々高くなっている。70ベクレルあったコウタケを塩ゆでして一晩おき、測り直したら数ベクレルまで低くなった。それをさらにゆでて測ったら値は検出されなかったが、コウタケの命である香りは失われた。

その関連で、ネットで全村避難を継続している葛尾村の広報紙12月号に出合った。村内のキノコなどの線量が載っている。たとえば、イノハナ(コウタケ)。「生」で最大8115、「ゆで」で最大1287、「乾燥」で2万1772とあった。

遅まきながらわかったのは、単位の1キロという「分母」の違いだ。「乾燥」が1キロになるには「生」の何倍もの量が必要になる。当然、キロ当たりのベクレルは「生」より「乾燥」が高い。1本1本の線量は変わらないのだから、乾燥したら凝縮されたとか、線量が高くなったとかではないのだ。「分母が違う」という話に、蒙が啓(ひら)かれた。

ある会員は、わがふるさと・田村市常葉町の仕事先で、採種された大量のイノハナ(コウタケ)に出合い、キノコに目覚めた。砂浜に発生する珍菌ケシボウズタケの実物を持参した会員もいる。市街地の公園にキタマゴタケとヤマドリタケモドキが発生していたことも報告された。灯台下暗しで、都市公園もキノコ観察地としてバカにできない。

多くの「キノコ目」がとらえた阿武隈高地の、平地の、海岸のキノコたちがいとおしい晩になった。