2011年3月25日金曜日

震災記


あの日(3月11日)、パソコンが棚からすべって落っこちたせいではないだろう。というのは、地震に関して2回、このブログを発信できたからだ。その後、なぜかインターネットに接続できなくなり、あれこれやっているうちにますますおかしくなった。で、私の「低テクノロジー」ではどうにもならなくなって、ブログでの発信をあきらめた。

それからすぐ、隣接する双葉郡の原発が「怖い」と書いたとおりになった。わが家の近くに住む息子一家、とりわけ4歳と2歳になりつつある孫のことを考えると、ここは「自主避難」をするしかない。

息子たちと合流し、さらにカミサンの妹と娘に連絡をして、計8人、車2台でいわきを離れ、白河市へ向かい、スクリーニングを受けて、指示された西郷村の国立那須甲子青少年自然の家に入所した。

ここでの避難生活は15日夜更けから23日午前10時ごろまで、あしかけ9日間に及んだ。「なすかしの森」のスタッフのみなさんには、ほんとうにお世話になりました。

23日午後、わが家へ戻った。戻った以上はブログを再開しなければ――。とはいっても、「低テクノロジー」ではお手上げ状態に変わりはない。

公務に就いている若い友人(わがパソコンの師匠)に電話したら、「きょう(24日)はやっと早めに帰ることができる」というので、家へ直行してもらった。それで、再びインターネットを使えるようになったので、書きためていた「震災記」の一部をアップすることにした、という次第。引き続き「原発難民記」を書きます。

【3月12日】
いわきで震度6弱の「東日本大震災」に襲われた2日目だ。夜10時24分ごろ、震度5弱の横揺れがきた。12日のなかで一番大きな揺れだったかもしれない。震源地は福島県沖。11日午後2時46分ごろの、最初で最大の一撃に比べたら、時間も短く、揺れ方も弱かった。とはいえ、絶えず余震が続いている。震度5弱にはさすがに肝を冷やした。

ケータイがかからない。固定電話も田村市の実家にかけたときには通じたが、以後は「込み合っています」になった。外からはかかってくる。息子とはそれで連絡が取れた。カミサンの実家からも電話がかかってきた。

田村市の実家では、家は倒れなかったが壁が崩れた。カミサンの実家では蔵の壁が崩れた。息子のヨメサンの実家は久之浜。家並みが津波と火災に襲われた。ギリギリのところで実家は焼けずに残った。ご両親は中学校に避難している。

地震、津波だけではない。放射能にも注意が要る。避難指示の範囲が福島第一原発から半径20キロに拡大され、建屋の爆発が起きた際には一般市民が被曝したという。いわきは第二原発からは半径15キロ圏内だ。いつ避難してもいいように心の準備だけはしておかないと。

家の中の片づけも進まない。1階の茶の間、台所、寝室は片がついたものの、2階はしばらく散乱したままにしておく。片づけようという気持ちが起きないのだ。もっと落ち着いてからにしよう。

【3月13日】
朝7時ごろ、息子から給水所へ行かなくては、という電話が入る。知人から「井戸水ならあります」という連絡が入っていたので、あるかぎりの容器を持って夫婦で出かけた=写真。給水所へ出かけても待たなくてはならないので、知人の家へ向かったのだ。知人は公務員。召集がかかっていて出かけるところだった。

飲むためには一度煮沸しなくてはならない。水洗トイレには十分、間に合う。わが家は水洗ではないから水は必要がない。二度往復して、ひとまず洗い水、飲み水にはめどをつけた。

最初の地震のマグニチュードが9に修正された。徳川幕府開府以来、400年間で最大の地震だという。延宝5(1677)年11月、磐城沖で地震が発生し、津波で家屋1千戸が流失、500人が亡くなった。それ以来の巨大地震ということか。

M9に修正された結果、3日以内にM7以上の余震(6弱)が起きる可能性は70%だという。もういやというほど建物がゆすられている。ダメージがある。そこに最初のときのような揺れがくるとしたら怖い。

【3月14日】
古巣のいわき民報(夕刊)はどうなったか。わが住む平中神谷地区は東南アジアからの留学生が配達を担当している。大地震が発生した11日から夕刊が届かない。12日になっても同じだ。13日は日曜日で休刊。14日早朝、心配になって、自転車で様子を見に行った。

わが家から古巣の会社まではざっと4キロ。国道6号を走り、東日本国際大前から右折して旧国道に入り、さらに常磐線沿いの道路を西進する。平神橋の両たもとの道路がやや沈んでいる。イトーヨーカドー平店の歩道も、いわき駅周辺の歩道も部分的に沈み、波うっている。

古巣は無事だった。入り口に張り出された12日付の新聞を見て、体がふるえた。12日午後2時半現在で、いわき市内の死者は45人、行方不明者は20人。これは調査が始まった時点でのものだろう。実際、14日付の夕刊では午前11時半現在で死者117人、行方不明者31人に膨れ上がった。

「互いに励まし合い頑張ろう」。みなみ支社・荒川宏史記者が書いている。「目を覆うほどの惨状となっている被災地を歩き続け、インタビューをした永崎の女性に栄養ドリンクをもらった。瓶には砂がたくさんついている。女性の家は津波が押し寄せ、1階部分は壊滅状態。にもかかわらず『頑張って』と逆に励まされた」

惨状をできるだけ詳しく伝えようと後輩たちが走り回っている。荒川記者は自分の車が津波にのみこまれた。本人は間一髪、福島県小名浜港湾事務所に駆け込んで命拾いをした。あとで聞くと、T記者も車を津波にさらわれた。S記者は自宅が海のもくずとなった。

いわきに本社のある新聞社の宿命だろう。記者自身が被害者ながら取材を続けなくてはならない。胸にこみ上げるものを感じながら、やはり「頑張れ」と胸の中でつぶやくしかなかった。

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