2011年3月31日木曜日
原発難民④
【なすかしの森】
国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家は福島県中通りの南端、西郷村の甲子高原にある。標高1,000メートル前後のゆるやかな傾斜地だ。そこに学習室・事務室、生活関連棟(食堂・浴室など)、環境学習棟、交流談話室、プレイルームのほか、A・B・Cの3宿泊棟が配置されている。
施設間をつなぐのは、空港ターミナルから枝状に伸びた飛行機への搭乗通路のような「渡り廊下」だ。防風・防雪を兼ねた「トンネル」でもある。宿泊棟から食堂へ行く、事務室前のテレビを見に行く――というだけで、万歩計は毎日軽く8,000歩くらいにはなる。広い「なすかしの森」のなかに施設が散在しているのだ。
ここへたどり着いたのは3月15日の夜更けだった。私たち夫婦、妹母娘、息子一家の計8人が宿泊棟Bの12畳和室で最初の夜を過ごした。宿泊教育施設だから寝具はそろっている。なにより畳の部屋というのがありがたい。
翌日には妹母娘が肉親のいる西日本へ移ったため、新たにいわき市四倉町から避難してきた老夫婦と一緒になった。いわゆる「相部屋」だ。老夫婦はやがて孫たちの「第三のジイ・バア」になった。孫の夜泣きにはまいっただろうが、そんなことはおくびにも出さない。山登りが好きで那須方面に土地勘があった。それで青少年自然の家に来たのだという。
朝・昼・晩と食事が出る。量はもちろん少ない。が、食べる・寝るといったことを考えると、ここは最高クラスの避難所ではないか――そんな思いが入所者の間に広がる。スタッフの献身と親切が身にしみる。
やがて救援物資が届くようになり、「荷おろしのボランティアを」という館内放送が流れると、すぐ数十人が玄関にそろうようになった。手渡しで物資を受け取り、整理し、片づけるといった作業があっという間に終わるのだった=写真。このとき、学校の後輩と20年ぶりに再会した。旧知のいわき市職員OGとも出会った。
入所者はみんな車で避難した。「いわき」ナンバーが圧倒的に多い。いわきナンバーの範囲はいわき市、東白川郡、石川郡、田村郡小野町、そして双葉郡だ。相馬郡、南相馬市、相馬市は「福島」ナンバー。どちらのナンバーであれ、「原発難民」には変わりがない。相双地区から避難してきた人の中には大津波で家や肉親をもっていかれた人もいただろう。
あとで青少年自然の家の避難民を新聞で確かめた。3月16日から24日までの掲載分だけだが、17日(18日付)には避難民が700人に達した。前日は600人。私たちが駆け込んだのは、このピーク時だった。以後、日を追うごとに数は減る。とはいっても、23日現在で421人が入所していたから、今もかなりの数が避難しているに違いない。
さて、急な避難生活に体調を崩す人間も出てくる。もともと低血圧のカミサンが巡回してきた医師に診てもらったところ、「高血圧」の診断を受けた。私は断酒が効いて便秘になった。
それよりなによりきついのは、大地震の夜以来、着たきりスズメで風呂にも入れないことだ。青少年自然の家でも水不足で入浴ができない。
18日、夫婦だけで温泉の無料開放をしているちゃぽランド西郷へ徒歩で出かけた(ガソリン節約のため)。青少年自然の家からは標高にしてざっと130メートルほど低いところにある。雪道を1時間ほどかけながらたどり着き、洗髪し、体のあかを落とし、湯上がりにスーパードライを飲み、ラーメンをすすった。少し、ひとごこちがついた。
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