2011年3月27日日曜日
原発難民②
【不安】
3月11日午後2時46分の大地震に続いて、大津波が海岸部を襲った。そのとき、福島第一原発も“瀕死の重傷”を負った。12日午後には1号機の建屋で水素爆発が起き、13日には3号機の原子炉の冷却機能が失われたとして、東京電力が国に「緊急事態」を通報した。3号機は翌14日昼前、水素爆発を起こす。
国は12日、第一、第二両原発から半径10キロ圏内の住民に避難指示を出し、さらに第一については20キロ圏内まで拡大した。15日には新たに、20~30キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。原発内部では爆発が相次ぎ、高濃度の放射能が漏れている――これが、15日午後に「いわき脱出」を実行する前後の状況だった。
大地震直後から、テレビ=写真=に情報を頼るしかないのがもどかしかった。原発やいわきの被害、つまり身近なことがなかなか把握できない。
14日には、近くに住んで「イクメン」をしている息子が4歳、2歳になる孫を連れてきた。わが家が2人の臨時保育園になった。強い余震がくるたびに息子が2歳児を、私が4歳児を抱えて外へ飛び出す。
息子は用事があって、一時帰宅した。暖かい南風に誘われて、孫二人としばらく庭で遊んでいたら、息子があわてて駆け込んできた。「また原発(3号機建屋)が爆発した、中に入って!」。このころから不安が大きく、深くなる。
ケータイはかからない。固定電話は、かかってくる分には話ができる。同じいわき市内に住む下の息子からの電話は「いわきを脱出しないのか」。昔の同業他社氏からは見舞いの電話が、若い記者氏からはいわき脱出の準備を勧められた。
夜までに、カミサンと自分とで下着その他をバッグに詰めた。荷物が5個ほどになった。あとは移動するタイミングをはかるだけだ。
どこへ避難するか。ときどきわが家へ遊びに来る若い夫婦=わが疑似孫(小5、小3の女の子)の両親=のうち、妻は白河市出身だ。白河を目指すことにして、ルートや実家の住所と電話番号などを聞く。疑似孫はすでにそこへ疎開していた。
たまたま息子への電話が通じたので、脱出を打診する。準備はできているが、ヨメサンには職場勤務の指示が出ている。「今、脱出するわけにはいかない」という。
15日朝、息子がヨメサンを職場へ送って行く途中、わが家に寄って孫2人を置いていく。前日に続いて保育を引き受けなくてはならない。やや時間がたったころ、そろって帰ってきた。「自宅待機」になったのだという。今だ! 今しかない。まず、平・久保町のカミサンの実家へ向かうことにした。
すると、カミサンが「わたしは家に残る」と言って譲らない。民生委員なので、大地震の直後に独り暮らしの老人宅を巡って安否確認をしている。同じ日、わが家にやって来た区長さんにもお年寄りの無事を伝えた。役目は果たしたではないか、と言っても聞かない。口論の末に怒鳴ると、しぶしぶ車に乗った。
白河へ向かうのはいいとして、ガソリンが少ししかない。途中でエンストを起こすのは必至だ。カミサンの実家にガソリンの携帯タンクがあって、大地震の直後、車のほかにそれにも充填したことを聞いていた。実家に着いてすぐ確かめる。まだ使われずにあったので、譲ってもらう。携帯缶のガソリンを入れると、燃料計の針が真ん中を指した。
車はホンダのフィット。ハイブリッド車を除けば燃費ナンバーワンのエコカーだ。ガソリン食いのパジェロでなくてよかった。十分、白河へ行ける。移動する気持ちが固まった。
実家の近くに住むカミサンの妹とその娘も合流した。計8人。昼食をすませたあと、2台の車に分乗していわきを離れることにした。これは現実か、それとも夢か。カラスが近くの電信柱に来て止まった。<おまえ、大丈夫かい>。車に乗り込みながら、小さな生き物の存在がかなしく、いとおしく思われた。
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