2011年3月28日月曜日
原発難民③
【脱出】
白河市へ――。そう絞る前には、田村市常葉町の実家へ寄ることも考えた。が、大地震の被害が広域に及び、余震が長期化している。実家も2階の壁が崩れるなどの被害に遭った。頼るべき縁者が同じ被災者というのは、前代未聞のことではないか。
そのうえ、常葉は福島第一原発から半径30キロ圏内、真西に位置する。原発難民を受け入れるどころか、自分たちが避難しなくてはならない――そんな切羽詰まった状況だろう。(現に大震災から半月たった25日、政府が半径20~30キロ圏内の住民に自主避難を促した)
15日午後1時すぎ、息子の車を先にしてカミサンの実家を出発した。地図の上では国道289号を利用するのが最も近いのだが、白河出身の友人は国道49号を利用して平田村で左折することを勧めた。それに従う。
カミサンの実家から49号まではすぐだ。49号に出ると、中通り以西へ脱出する車の列が延々と続いていた。好間町を過ぎ、三和町に入ってからもしばらくノロノロ運転を余儀なくされた。
三和町上三坂を過ぎると、間もなくいわき市と平田村の境になる。平田村へ入ったとき、<とうとういわきを離れちゃった>という感慨に打ちのめされた。
さて、そのあとが大変だった。友人に言われた交差点で左折するとすぐ、息子が道路沿いの駐車場に車を乗り入れた。ケータイで情報を取ったのだろう、「先が通行止めになっている」と言う。急遽、49号に戻り、谷田川から須賀川へ抜けて国道4号を南下するルートをとる。三角形でいえば、底辺ではなく、2辺の大回りだ。
須賀川に入ると渋滞に巻き込まれた。渋滞は白河市内へ抜けるまで続いた。途中、赤信号で流れを分断されたために、息子の車と私の車の間には十数台もの車が入り込んでいる。白河へ近づくにしたがって、ケータイで連絡を取り合うケースが多くなった。「県南保健福祉事務所でスクリーニングを受けることにしよう」。そこが落ち合う場所になった。
閑話休題。須賀川市内も被害が甚大だった。4号へ出るまでの間、倒壊した家こそ見かけなかったものの、道路両側の家々は瓦が落下し、壁が崩れ、歩道が波うっていた。姪の嫁いだ中華料理店があった。「とん珍」。外観はしっかりしている。あとで兄に確かめたら、改装したばかりだった。
平を出てからおよそ5時間半。あたりはすっかり暗くなり、小雨が降っている。ほうほうのていで県南保健福祉事務所に着いた。スクリーニングを受ける浜通りの原発難民でごった返している。孫たちと“再会”し、「除染処置不要のレベル 問題なし」の証明書をもらい、紹介された避難所(西郷村の国立那須甲子青少年自然の家)へ向かうころには、夜9時を回っていた。
ところが、そのあとに“誤算”が生じた。青少年自然の家は国道289号から少し入ったところにある。阿武隈川の源流部だ。県南保健福祉事務所からはそれなりの距離があるとはいえ、1時間もかかるようなところではない。それを最初に頭にたたきこんでおけばよかったのだが、息子にまかせきりにした。カーナビ頼りである。
県南保健福祉事務所で地図をもらい、息子が目的地の電話番号を入力してカーナビに道案内をさせたら、どんどん南下して栃木県那須町に入った。おかしい。そう気づいてUターンし、あらためて地図を確認したら、国道289号からはずいぶん離れていた。
いったん国道4号へ戻り、途中からショートカットをして289号に出る。あとは一直線。助手席のカミサンが地図を眺め、標識を確かめながら、山へ入る。と、次第に霧が深くなってきた。まさに五里霧中だ。2メートル先が見えない。それ以上、車のライトが届かないのだ。
あとで知ったが、青少年自然の家のあたりは標高およそ1,000メートル。雪でなくて霧でよかった。ノーマルタイヤだから、雪が降ればお手上げ。実際、翌朝には雪が積もっていた=写真。「ノーマルタイヤで来るのはアブノーマルですかね」。何日か後、施設のスタッフに軽口をたたいたら、彼女は真顔でうなずいた。
それはさておき、漆黒の闇の中、霧の奥にぼんやり明かりが見え、そこが青少年自然の家の玄関だと知って、ようやく車を横付けした。バッグを手にし、事務室で手続きを取ったあと、指定された和室に向かう。8人が一緒になれる12畳の大部屋だった。
長い通路を歩いて和室にたどり着くと、4歳の孫が「つかれたでしょ。おつかれさまでした」とねぎらいの言葉を吐く。あまりにもタイミングがよすぎるために「あああ、疲れた」。大げさなしぐさで畳に倒れてみせた。
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