2011年7月18日月曜日
「怯え」の正体
「3・11」の前、哲学者の内山節さんが著した『怯えの時代』(新潮選書=2009年2月刊)をやっと読み終えて、なんとなく重苦しい気分を引きずっていた。「怯え」とは「大切なものを失うことへの恐怖」であり、「現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先に現われてくる自由でしかない」のだという。
そのことを、内山さんは妻の死から書きおこす。いわき市の最後の収入役氏とは、内山さんの著作を語り合う間柄だった。彼が購読している週刊誌の巻頭グラビアで群馬県上野村の自宅の庭に奥さんの墓があるのを知った。自分の著作で初めてパートナーの存在と死を明かしたのだと思った。
「今日の人々は、巨大な悪がしのびよってきているような感覚に怯えている気がする。自分の生活や労働がこわれていくのではないかという怯えがあり、社会全体にも次々に混乱要因が現われてくるのではないかという不安がある。なぜそれが怯えなのかといえば、悪の正体がつかみえないからである」
経済の発展は善としてとらえられてきたが、悪の正体かもしれない。科学の発展もまた善だが、そこにこそ悪の核心があるのかもしれない――21世紀には、少なくともそんなことを考えなければならなくなったと、内山さんは言う(善か悪かはともかく、高度経済成長と核家族化が始まったとき、現代人の存在の危機が始まったと私は考える)。
サブプライムローンの破綻がリーマンショックを生み、世界同時不況をもたらした。原発も「3・11」で巨大システムにひそむ危険性をあっけなく露呈した。『怯えの時代』で、内山さんは原発の問題にも触れていたのである。
「新潮45」8月号の新聞広告で、特集「原発に炙り出された『日本』」に内山さんが寄稿しているのを知る。早速、買って読んだ。企業システム、経済システム、金融システム、電力システム……。「システムが主人になり、人間がその『奴隷』になるような時代は終わりにしたい」
そして、「これからの課題は、社会の仕組みを少しずつ自然と人間の等身大のあり方へと戻すことであり、システムが権力として支配する時代を終焉させることである。あるいはそこに向けた構想力の開放である」としめくくる。
原発に最も近いいわき市久之浜町で、若者たちの「北いわき再生発展プロジェクトチーム」が<ガレキに花を咲かせましょう>という活動を展開している=写真。シャプラニールのスタッフの現地報告で知った。これを、私は「構想力の開放」のひとつとみたい、という気持ちに駆られる。
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