2026年1月31日土曜日

「社長~」

                                 
 毎朝、新聞の折り込みチラシを数えてメモしている。最近は枚数だけでなく、中身もチェックするようになった。それについては理由も含めて1月5日付のブログに書いた。

 主婦と違って、チラシを見てスーパーへ足を運ぶ、といったことはまずない。が、1回だけ「買いに行こう」とカミサンを誘ったことがある。

 チラシの主はテレビCMでおなじみの「夢グループ」で、平・本町通りのヤマニビル(ヤマニ書房本店があったところ)の3階催事場で「イチオシ商品・展示&即売スーパーセール」を告知するものだった。去年(2025年)秋のことである。

チラシには、超軽量のコードレス掃除機やテレビドアホン、充電式のハンディチェンソーなどが掲載されていた。

 なかに、手回し式ワイヤーパイプクリーナーがあった=写真。「専門業者を呼ぶ前に!排水管の詰まりを自分で解決!」。宣伝文句に引かれた。

 わが家の台所の排水管は、そばの生け垣(マサキ)が育って根張りが広く大きくなったためか、排水管にゆるい波ができて何年かに一度は詰まるようになった。

 そのつど「水道のホームドクター」(同級生)に連絡して来てもらう。集水マスには油脂分がかたまって排水口を狭めていることがある。それも含めて薬剤とホースの水、あるいは長いパイプを使って詰まりを解消してくれる。

 排水管が詰まるたびに同級生に連絡するのも気が引ける。自分でできれば、それに越したことはない。

去年の秋、地下の排水管ではなく、台所の垂直の排水管が詰まったらしく、排水するとシンク(流し台)にすぐ水がたまる。水が抜けるまで時間がかかるうえに、「ガバッ、ゴボッ」と大きな音を出す。

どうしようか。思いあぐねていたときにチラシを見て、パイプクリーナーを買った。カミサンがさっそくシンクの排水口にワイヤーを差し込み、ぐりぐり回すと詰まりが取れて、水のたまりも、「ガバッ、ゴボッ」も解消した。

夢グループのテレビCMには、社長と女性歌手が登場する。商品の説明のあと、女性歌手が「社長~」とこびるようにして値下げを訴える。「わかりました~」となって、値引き後の値段が表示される。

最近は新聞の全面広告も目にする。社長は福島市出身だとか。それもあってかどうか、去年秋には田村市の「観光大使」に委嘱された。

1月6日の新聞広告には、「気仙沼大使」の肩書が付いていた(先日のテレビCMで「私たち」と女性歌手が言っていたから、2人セットなのだろう)。

観光大使としては、自社の広告にあぶくま洞や田村市の桜の名所などを写真付きで紹介していたのが大きい。

気仙沼も同じで、広告には「フカヒレ、新鮮な魚介類で有名な」という枕言葉が付いていた。広告の波及効果はどうなのだろう。

 いずれにしても、顧客は高齢世代が多そうだ。私がそうだし、商品の中身も生活密着型が多い。

2026年1月30日金曜日

「大統領の密書」

                                         
   BSNHKの時代劇に刺激されて原作の小説を読んだ。時代劇は「「大富豪同心スペシャル」前・後編である。

 暮れに地デジより早く大河ドラマ「べらぼう」の最終回を見て、そのままテレビをつけていると、「大富豪同心」の前編「うつろ舟」になった。

「うつろ舟」? 江戸時代、常陸に漂着した異国の小型船のことではないか。「常陽藝文」が、3年前の2023年2月号で取り上げていた。がぜん、興味がわいて見続けた。

去年(2025年)12月20日付のブログに、そのへんの話を書いた。一部を要約・再掲する。

――ドラマを見終わって情報を集めた。時代劇(再放送)の輪郭が少し見えてきた。原作は作家幡(ばん)大介の人気シリーズ『大富豪同心』。原作者も作品も知らなかった。

時代小説である。図書館に『大富豪同心 漂着 うつろ舟』があったので、さっそく借りて読んだ――。

1週間後に放送された後編も見た。こちらはタイトルが「大統領の密使」で、原作は「大統領の密書」=写真=となっている。これも図書館から借りて読んだ。

 ペリー提督の黒船が来日する前、アメリカの軍艦が来航し、島津藩に武器を売買して代金の25万両を手に入れようとする。

ところが、なかなからちが明かない。さらに、本国がメキシコと戦争になる。大統領は軍艦のトップ、トマス提督に密書を出した。日本にかまっている暇はなくなった、アメリカへ戻れ――。

提督あての密書を携えて太平洋を渡ってやって来た別の船が漂流し、父に会いに便乗していた提督の娘アレイサが救命艇に乗って脱出する。

この円盤形の救命艇を日本側は「うつろ舟」と呼び、中にいたアレイサが日本人の前に現れて事件が展開する、という筋立てだ(主役はもちろん大富豪同心だが)。

 読者は、幕末にはペリー提督率いる黒船が江戸湾に現れ、日本が開国して、幕末の動乱から明治の世になることを知っている。

その「前史」ともいうべきドラマで、ハチャメチャ、痛快アクション、コメディーといった要素が濃い。

その中の一節(トマス提督の言葉)。「日本には物がない。軍艦もない。鉄砲も大砲もない。アメリカは日本に軍艦を売る用意もある。日本はもっと豊かな国になる」

原作を読みながら、江戸時代のメリケンも、現代のアメリカも、本質的に変わっていないのではないか、そんな感想を抱いた。

外国に武器を売って富を増やす。それだけではない。原油埋蔵量が豊富な国を空爆して大統領を拉致する。北極圏にある他国の島をよこせという。「国益」を言いながら「私益」が見え隠れする。

もしかしたら「大富豪同心」の作者は、「うつろ舟」と「大統領の密書」を通じて大国の覇権主義に言及したかったのではないか。小説に現実が重なって寒気が走った。

2026年1月29日木曜日

白い梅前線

                         
    紅梅は白梅より早く咲くようだ。前にも書いたが、常磐水野谷町の梅林寺には、この紅梅が多く植えられている。

1月も後半に入ると、テレビが梅林寺の紅梅の開花を伝える。今年(2026年)は暖冬で例年より2週間も早く開花したという。

カミサンのアッシー君を務めて、初めて寺を訪ねた。花は咲き始めたばかりで、見ごろは2月に入ってからだという。

私は、紅梅ではなく白梅を見て育った。昔は梅干しをつくるために、あちこちに白梅が植えられていた。

念のために花札の「梅に鶯(うぐいす)」をネットで確かめる。ウグイスと一緒に描かれているのは紅梅だった。

花札は子どものころからなじみがある。現実の紅梅にはあまり出合わなかったが、図柄では早くから紅梅を見ていたのに、ずっと白梅と思い込んでいた。

梅林寺には白梅も植えられていて、こちらも咲き出していた。白梅も開花が早まっているようだ。

気象庁が各地の測候所を介して「生物季節観測」を行っている。いわきの場合は、小名浜に測候所があったとき、職員が目視で記録していた。

平成20(2008)年9月30日で有人観測が終了し、翌10月1日からは無人の「小名浜特別地域気象観測所」として再スタートした。今は人がいないから、生物季節観測も途絶えたままになっている。

ただし、桜(ソメイヨシノ)の開花については、小名浜まちづくり市民会議が気象庁OBの協力を得て観測・発表をしている(前は梅も観測していたようだが……、続いているのだろうか)。

当時、測候所が行っていた生物季節観測は、植物が延べ18種目、動物が15種目だった。初霜・初氷・初雪などの観測も手がけた。

その時点での梅の開花は平年値で2月18日、温暖化が進んだ今はもっと早くなっていることだろう。

梅林寺の観梅から1週間後の1月25日、夏井川渓谷の隠居までのルートで白梅の花をチェックした。春先にはいつもそうする。

平地は標高6メートルほどのわが家(平)から同48メートルほどの片石田(小川町)まで、さらにその先、標高60メートルほどの河岸段丘(小川町高崎)にある集落まで、6~8分咲きだった=写真(平・大室地内の畑)。

高崎地内の白梅はわりと早く開花する印象があったが、今回はどこの白梅も開花が早いようだ。

高崎から上流の集落は、夏井川渓谷の江田~椚平~牛小川だが、こちらは梅の花はまだだった。白い梅前線は、夏井川流域では今のところ高崎止まりということになる。

そういえば、わが家の南隣、故義弟の家の庭には白梅が植わってある。カミサンが「花が咲いていた」というので、28日の夕方に確かめた。

花は咲き始め、2分咲きくらいだろうか。顔を近づけるとほんのりいい香りがする。横光利一の小説のタイトルを借りれば、春は馬車に乗ってすぐそこまで来ている。

2026年1月28日水曜日

あとは春を待つだけ

                                  
   大寒(だいかん)から6日目の1月25日、日曜日。2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。いつもより少し遅れて、午前9時20分ごろに着いた。室温はこの冬最低の氷点下6度だった。

 まずは畑に生ごみを埋める。が、裸になった土は5センチ以上も凍っている。スコップがはね返される。

 前に生ごみを埋めた穴を探りながら、そのへりにスコップを入れる。コンクリートブロックのかけらのような凍土がゴロッ、ゴロッとひっくり返る。

 埋めた生ごみに凍土を砕いてかぶせ、鋼鉄製の網をかけて大きな石を載せる。埋めただけだとすぐ野生動物にほじくり返される。

 前に埋めたところが掘られて穴ができていた。穴から判断すると、イノシシではない。タヌキかハクビシンだろう。ほじくり方がイノシシと違って慎ましい。

 そのイノシシが現れたのではないか。そう思わせるラッセル痕があった=写真上1。

 坪庭に新谷窯製の大皿(ヘリが欠けて廃棄されたものを窯元からもらってきた)を利用した「洗い場」がある。

 そばの風呂場からホースを伸ばして水を流し、三春ネギその他の泥を洗い落とす。水は上の庭を流れて浅く掘った窪みにたまり、そこから地下にしみこむ。

乾いた水路がラッセルされていた。ドラム缶で剪定枝を燃やし、黒く炭化した燃えカスをまとめて捨てたところもほじくり返されていた。

土のえぐられ方が激しい。イノシシがミミズを狙ったのだろう。「水路が掘られてよかったじゃない?」とカミサン。

そうか、水がちゃんと流れるからよかったか。「ついでに畑も掘り返してくれればよかったのに」。さすがにそこまでは考えなかった。

晴れてはいるが、風は強い。冷たい。鼻水が垂れるどころか、流れて吹きちぎられる。すぐマスクをかける。

隠居へ行くたびに、カミサンは近くの小流れで落ち葉をさらう。今回は落ち葉ごと小流れが凍っていたという。外気温は当然、室温より低い。氷点下10度前後にはなっていただろう。

指先がカットされたハンドウオーマーの上に、いつもの作業手袋を、つまり二重に手袋をしたが、すぐ指先がかじかんで痛くなった。

15分ほどで作業を終え、すぐ隠居へ戻り、石油ヒーターとストーブで暖をとる。もちろん、こたつもオンにして。

指先にぬくもりが戻ったあとは、下の庭に立って地面に目を凝らした。フキノトウが出始めている。

フキノトウは、早いと師走のうちに採れる。この冬は、師走には見つけることができなかった。先の連休にやっと見つけた=写真上2。さっそくみじんにして味噌汁に散らし、春の土の味を楽しんだ。

そう、大寒がくると、あとは春を待つだけ。2月4日の立春まで10日もない。フキノトウも数を増してきた。

2026年1月27日火曜日

常磐ドライブ

                                
   1月18日の日曜日は、夏井川渓谷へ行くのをよした。隠居の畑に埋める生ごみは少ししかない。大寒(だいかん)を前にした厳寒期、土が露出したところは凍っているだろう。

代わりに別の用を足すことにした。1つは、考古資料館(常磐)の企画展「発掘磐城平城―冬の陣 近代磐城平の夜明け」を見ること。もう1つは、ローカルテレビが取り上げた梅の梅林寺(同)を訪ねること。

いつもの日曜日だと、平~小川の夏井川流域を行って戻るだけ。今回はそこから離れ、一つ山を越えた藤原川流域(主に支流の湯本川流域)へと車を走らせた。常磐ドライブである。

考古資料館へは里山ルートで行った。内郷の白水阿弥陀堂を過ぎ、山を越えて小野田(常磐)へ抜ける。

さらに山へと分け入って下ると、常磐ハワイアンセンター、いやスパリゾートハワイアンズのある藤原町(常磐)に出る。御斉所街道とバイパスとの交差点を左折すれば、すぐ考古資料館だ。

企画展では明治になってからの常磐線開通と平(現いわき)駅のコーナーをチェックした=写真上1。

蒸気機関車には大量の水が要る。いわき民報に教育文化事業団の調査係長が書いていたのだが、今の常磐線開通に合わせて平駅構内に地下貯水槽ができた。

水はどこから引いたのか。『よしま――ふるさとの歴史散歩』(1998年)には、日本鉄道株式会社が好間江筋と愛谷江筋の合流点から水を買った、とある。その関連を知りたかったのだが、鉄道への取水口と導水路の記述はなかった。

同館の次は水野谷町(同)の梅林寺へ。御斉所街道に出て湯本駅前を通過し、踏切を渡って旧国道6号に抜け、左折して丘陵地のすそ野を進むと、ほどなく寺に着いた。

テレビの影響力はなかなかのものだ。駐車場にはマイカーが続々とやって来る。仙台ナンバーもあった。

墓地は平地と斜面にある。本堂も中腹に建つ。寺の名前にちなんで、ご住職が梅の苗木を植え続けた。今も植えている。本堂の裏山の方が見ごたえがあるそうだ。

私は中腹の紅梅=写真上2=を見てよしとした。カミサンに誘われても、先には足が進まない。息が切れる。

梅は2月が見ごろという。梅だけではない。秋にはヒガンバナが咲き誇る。いつも何かの花が咲いている。「花の寺」でもある。そのための手入れを怠らない。この時期、やっと一息ついたところだとか。

常磐ドライブのしめくくりは湯本駅前の「久つみ」へ。「温泉まんじゅう」を販売している。

店番をしているのは昔からの知り合いで、年賀のあいさつをしていると、和菓子職を継いだ娘さんが工場からまんじゅうを運んで来た。十何年ぶりかの再会だ。カミサンは何個もまんじゅうを買った。それだけで私も正月らしい気分になった。

2026年1月26日月曜日

南イタリアの塩

        
 1月21日に白菜を漬け込んだ。この冬3回目である。正月の松の内に、カミサンのいとこが年始のあいさつを兼ねて2玉を持って来てくれた。

 去年(2025年)ももらった。いわきの平地の白菜だが、大きくて締まっている。甘みもある。「また欲しい」。身内を介して催促したのをおぼえていたのだろう。

 2回目の白菜漬けが甕(かめ)に残っている。ほんの少しならタッパーに移して甕をきれいにできるが、それにはまだ時間がかかる。

朝、1玉を8つ割りにして干すと、その日の夕方には漬け込む。そう決めているので、晴れて風の弱い日を選ぶ。

いわきの冬は晴れが多い。風も強い。目に見えないほこりが白菜に付くのは避けたい。

毎日が「自由時間」とはいえ、野暮用もある。買い物、自治会の仕事、役所主催の研修会……。

天気と野暮用をにらんでいたら、21日に「すき間時間」ができた。白菜が届いてから2週間後だった。

 よし、やるぞ! 朝食後、2玉をそれぞれ8つ割りにして軒下に干す。午後には甕を台所に移してきれいに洗う。

甕に残っていた白菜が3切れあった。産膜酵母にどっぷり浸かっている。これをいったん流水に当ててから水を切り、タッパーに入れて冷蔵庫にしまった。

食べる際には小さめに刻み、キムチの素をまぶして酸味をやわらげる。新しい白菜漬けができるまでのつなぎにはなる。

まずはユズを1個、皮をむいて微塵にした。干しておいたミカンや柿の皮、昆布を用意し、鷹の爪も細かく刻んでおく。

 塩は、「伯方(はかた)の塩」がある。それを使おうとしたら、カミサンが「地中海の塩がある」という。

 「伯方の塩」は、原産がメキシコかオーストラリアで、日本の海水で溶かして再結晶化させたものだ。

「地中海の天日塩」=写真=はイタリア産で、ベトナムの工場で夾雑物を除去し、さらに日本でもチェックして袋詰めされたものが売られている、とネットにあった。

 南フランス・カマルグの天日塩は使ったことがある。同じ地中海でも、こちらは南イタリアのプーリア州でつくられた。

 イタリアは国土の形状が長靴にたとえられる。長靴のかかとに当たるところがプーリア州だ。東はアドリア海、南はイオニア海に面している。

 海水を塩田に引き込み、太陽と風の力で数カ月かけて乾燥させ、塩の結晶を生成する。それをさらに数カ月天日に干し、洗浄・粉砕・乾燥させて製品化する――。

中粒タイプトとさらさらタイプがあり、わが家の塩は中粒タイプだった。もらいものだという。

舌に1粒のせると、うまみと甘みが感じられた。それがどう白菜に浸透するか。夕方に漬けた白菜は、40時間後の23日朝、上まで水が上がってきたので、重しを1つはずした。

それから2日後の25日朝、1切れを取り出して試食する。白菜は硬い根元も漬かっていて、食べると甘みが広がった。まずまずである。地中海の塩は評判通り漬物に向いていた。

2026年1月24日土曜日

刺し身放浪

                                
 日曜日の晩は刺し身――。これは30代後半に始まり、70代後半になった今も続く食習慣だ。

 1年の流れでいうと、早春~晩秋はカツオ、冬場はそれ以外の盛り合わせだが、冬も生のカツ刺しがあれば食べる。

 いわきに根を生やした理由は、結婚後、カミサンの実家の近くにあった魚屋さんのカツ刺しがうまかったことが大きい。

 こんなうまい刺し身があるなら、よその土地へ行く必要がない。その後、今の家に引っ越し、車で5分ほどのところに、やはりうまいカツ刺しを提供する魚屋さんがあるのを知った。

以来、約40年。息子さんに代替わりしたあとも、毎日曜日、通い続けた。その魚屋さんが去年(2025年)7月下旬、店を閉じた。

すぐ、日曜日の「刺し身放浪」が始まった。夏場、生のカツ刺しが売り場に並んでいるうちは、どこのスーパーでもかまわなかった。

なじみの魚屋さんのカツ刺しが一番であることに変わりはない。わが生活圏内にあるスーパーのカツ刺しも新鮮だった。さすがはいわきのスーパーである。

 ところが秋も終わりのころ、カツ刺しを口にするとずいぶん冷えている。ん、なんだ、これは! 切り身の芯に舌が触れると、さらに冷たい。あわててトレーのラップに張られたシールを見ると、「解凍」とあった。

なじみの魚屋さんだったら「きょうは解凍カツオです」、顔を見るなり言ってくれたので、「じゃ、違うもので」と返すことができた。

が、スーパーではこの対面でのやりとりがない。つい前週の続きでシールも見ずにカツ刺しを買った。解凍カツ刺しを口にしてからは、しっかりシールを確かめるようになった。

それも含めて、刺し身放浪が始まって半年がたつ今も、「次の店」が定まらない。カツ刺し以外の盛り合わせ=写真、つまりは冬の刺し身の量、盛り合わせの種類(3~5種類)、1切れの厚さ・薄さなど、どうしてもなじみだった店と比較してしまう。

似たりよったりならどこでもいい、近場のスーパーへ――と思っても、カミサンは違った。

「うまい店の方がいい」というので、草野の先、四倉にあるスーパーまで車を走らせることもある。

1年前までは盛り合わせもいろんな種類を楽しめた。ヒラメ、ホウボウ、皮をあぶったサワラ、タコ、イカ、タイ、メバチマグロ、天然ブリ……。

イワシの刺し身も忘れられない。カツオと同じ量(普通の大きさで一筋=4分の1)をさばくとなると、大変な手間がかかる。

「イワシの刺し身は常連さん用」と言われたのを覚えている。採算を考えたらやっていられない。このへんは長年のつきあいのありがたさだった。

時にはヒラメやホウボウの粗(あら)をもらった。こちらの粗汁は濃厚なカツオと違って、さっぱりして上品な味だった。

そんな店はもうないのか、あったとしても遠すぎたりして……。日曜日の夕方はいつも悩ましい思いになる。

2026年1月23日金曜日

誤記もあるようだ

                                      
   明治35年の記念碑「好間渠誌」の拓本(掛軸)を毎日ながめている。これまでに3回、ブログに書いた。

 いずれも漢文本体ではなく、碑の形状、篆額(てんがく)・撰文(せんぶん)を担当した人物の名前など、本文の周辺情報にとどまっている。

 本文の解読に挑戦するのはまだ先のこと。そのための予備知識・情報を蓄積中だが、高い山であっても、頂上へ向かってすそ野を歩いていると、少しは標高が上がってきたかな、という手ごたえはある。

「直登」は無理だから、ふだんの「調べもの」と同じように、ジグザグに頂上を目指す。このジグザグがまた「発見」に満ちている。

すそ野にはすそ野の風景が広がる。全く知らなかったことがわかる、あいまいだったことがはっきりする、という点では、すそ野も山頂も同じだろう。

拓本と好間川そばの道路沿いに建つ実際の碑は、同じではない。現地の碑を見てすぐわかった。

すると、同一人物の撰文なら拓本も実際の碑も本文は同じはず、でもほんとうはどうなのか――という疑問がわいてきた。

念のためにそれぞれの文字を1字1字、マス目を入れた紙に書き写す。実際の碑の方は、写真画像をパソコンに取り込み、本文データを拡大して書き起こす。読めない字は「?」のままにしておく。この両方が碑の内容を考える「テキスト」になる。

拓本は本文が16行、実際の碑は15行だ。これだけでも拓本と違うことがわかる。拓本の方は初代、実際の碑は2代目ということになる。

拓本の本文は、1行39字が15行、それに最終16行目の26字を加えて計611字ある。

実際の碑の方は字数がまちまちだ。43字、40字が各1行、42字が2行、最も多い41字が計10行、それに最終行35字を加えると計612字になる。

なぜ1字多いのか。その理由を突き止めるために、書き写した文字群を1字1字比較していく。と、拓本では10行目の中ごろ、実際の碑では9行目の終わりごろに違いが見つかった。

拓本では「中好間各一」=写真上1=が、実際の碑では「中好間間各一」=写真上2=になっている。

「間」が2つある。これが1字多い理由だった。なぜそうなったのか。地域新聞でたびたび誤記・誤植のミスプリを経験してきた人間には、容易に想像がつく。

考えられるのは2つ。①碑を再建する際、石材業者に発注する側が原稿を誤記した②字を刻む側が同じ字をダブって彫ってしまった――のいずれかだろう。

紙の場合は「書き直し」がきくが、石の場合はそうはいかない。「誤刻」に目をつむったか、あるいは見落としたままだったか。「石に刻む」ことの覚悟と怖さに、しばし声もなかった。

2026年1月22日木曜日

箱根寄木細工

知人の家のダンシャリで出てきた小物である。箱根寄木細工の「秘密箱」とネットにあった。

こたつの上に置いて、ブログの打ち込みに飽きると手に取り、押したりこすったりしている。

 どこか特定の面を押すと動いて、さらに別の面が開いて中が見える。ネットにやり方が例示されている。

それで「からくり」の原理はわかったが……。やってはみたものの、びくともしない。開ける方法は幾通りもあるらしい。どうにも手に負えない。

 箱を開けられないまま新年を迎えた。年明けの1月2日は、テレビで箱根駅伝(往路)を観戦した。

 出場選手の名前が字幕付きで表示される。出身高校と出身県も併せて紹介される。出身県は他県であっても「学法石川高校」出身だと「福島県関係者」だから「ガンバレ」となる。

 それはそれとして、1区で出遅れた青山学院大学がいつの間にか上位に食い込み、5区の山登りではついにトップに躍り出た。これには驚いた。

 往路優勝のインタビューで、タレント並みにテレビに顔を出す監督が、5区の選手について「新・山の神」と持ち上げた。メディア的にはニュースの見出しになるおいしいリップサービスだ。

「新」は、メディアによっては「シン」とも「真」とも表記された。それら一切を含む「新」なのだろう。 

「メディア受けの表現を心得ている監督だな」と感心したあと、画面は表彰式に切り替わった。

往路優勝大学には箱根町から寄木細工のトロフィーが贈られる。その台座が箱になっている、テレビで見た瞬間、「秘密箱」ではないかと思った。

手元に秘密箱を置いて眺めていたからだが、実際はどうだろう。そんなことはあるまい。いや、あったらおもしろい。

翌日もまた復路の実況中継を見た。それが終わって外出し、帰って来るとほどなく長男一家が新年のあいさつに来た。

「どこかを動かすとふたが開くらしい」。高校生の下の孫に「秘密箱」を手渡すと、あっという間にふたが開いた=写真上1。

どうやった? どこから動かした? 閉めてしまうとまた開かなくなるので、今は横面と上面が少し開いた状態で手元に置いている。

長い間放置されていたこともあって、仕掛けがきつくなっているようだ。それなりに指の力が要る。若さが足りなかったか。

 知人の家からは箱根寄木細工だけでなく、「五角重ね箱」というのも出てきた=写真上2。

    こちらは「マトリョーシカ」と同じで、開けてもあけても五角形の箱が出てくる。遊び心のある品物をながめたり、手にしたり……。このときだけ昔々の「正月の子ども」に戻った。 

2026年1月21日水曜日

「じゃんがら人形」の看板

                                
   『いわき思い出写真グラフィティ』。いわき市が平成9(1997)年2月に発行した写真集である(編集は広報広聴課)。

 同8年10月1日、いわき市は市制施行30周年を迎えた。記念事業の一環として、「いわきの過去を振り返る写真展」を開催した。その写真をA4判80ページの簡易な冊子にまとめた。

 地域紙の記者として市役所を担当し、編集者になってからも会議などで役所とかかわってきた。それもあって、市役所の刊行物はかなり収集した。

 先日、『いわき思い出写真グラフィティ』を見たカミサンが、「いづみやの写真に『じゃんがら人形』の看板があった」という。

じゃんがら人形といえば、昭和前期の図案家鈴木百世(ももよ=1901~42年)である。

折から、総合図書館では鈴木百世をテーマにした常設展が開かれている(5月24日まで)。

鈴木百世は平で生まれた。豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学んだあと、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年、再び教壇に立ったが、2年後に倒れて暮れには亡くなったという。

じゃんがら人形は鈴木百世が発案した。地元の粘土で素焼きの人形をつくり、泥絵の具で着色した。

戦後、妻の恭代さんが夫の遺志を引き継いだ。恭代さんが老齢で制作を打ち切るまで、この民芸品づくりが続いた。

一昨年(2024年)秋に亡くなった義弟の遺品の中に、恭代さんのつくった5人組の「じゃんがら人形」があった。

それがきっかけで鈴木百世の調べが始まり、現在の上皇・上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、恭代さんの「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上されたことも知った。

この人形は「いわき市平駅前 いづみや商店」が売り出した。『いわき思い出写真グラフィティ』では、平地区を紹介する最初の写真に昭和44(1969)年当時の平(現いわき)駅前が載る=写真上1(「松本正平さん提供」とある)。

 当時の平駅前は、今と同じ30メートル道路が南へ伸び、東側の商店街には歩道に沿ってアーケードが設けられていた。そばには路線バス。これが何台も止まっている。

 いづみやは反対側の角地にあった。南側と西側が交差する建物の角は斜めにカットされて、駅からも壁面がよく見える。

 1階店舗部分に「いづみや」とあり、2階壁面の左端、縦に長く「じゃんがら人形」の文字が大書されている=写真上2(同じ写真を拡大)。

 いづみやがかなり力を入れて「じゃんがら人形」を売り出していたことがうかがえる。

 古い写真集だが、新たな興味・関心の目で見ると、また違った光を放つ。私にとっては鈴木百世とつながる新しい「発見」だった。

2026年1月20日火曜日

川瀬巴水の茨城を特集

                               
   暮れに「常陽藝文」2026年1月号が届いた。特集は「川瀬巴水に<茨城>を読む――母子の声と子の息づかい」=写真。おや、「藝文」にしては遅いぞ。表紙を見たときの反応がこれだった。

川瀬巴水(1883~1957年)は近代の浮世絵師・版画家である。「アップル」の共同創業者の一人、故スティーブ・ジョブズが子どものころ、巴水版画に出合い、影響を受けたことをなにかの雑誌で読んだ。3年前のことである。

それで図書館から『川瀬巴水探索――無名なる風景の痕跡をさがす』(文学通信、2022年)を借りてきた。

全国紙が購読者サービスとして配った巴水の作品のコピーが家にあった。それも見て、ブログで巴水に触れた。茨城に関する部分を抜き書きする。

――『川瀬巴水探索』は、お隣の茨城県人で組織する「川瀬巴水とその時代を知る会」が編集した。

「旅する版画家」が茨城を訪れ、平潟や五浦のほかに水木(みずき=日立市)、水戸・大野、磯浜(大洗町)、潮来などで写生した。

その作品が描かれた場所を、茨城を中心に探索し、当時を知る人に話を聞いたり、現在の様子を報告したりしている。

「平潟東町」は昭和20(1945)年に摺(す)られた。巴水が訪れてスケッチしたのは前年の11月11日。

平成23(2011)年3月11日の東日本大震災の津波で、当時をしのばせるものは何一つなくなった。が、ツテを頼って当時を知る人に会い、話を聞くことができた。

 それを踏まえて版画の構造的な分析に入る。見た目は1軒の家のようだが、実際には4軒の家が描かれている。その家にまつわる生業(「鮟鱇鍋発祥の家」=食堂など)がわかってくる。

 さらに、スケッチにはなく、版画に加えられたものに、筒袖の着物姿の女性がいる。当時の別のスケッチには、たらいで水洗いをするもんぺ姿の女性が描かれていた。

もんぺ姿を筒袖の着物姿に変えたのは、「終戦によって戻った日常の安堵感を表したのだろうか。または、このような平安な日常であってほしいという巴水の想いなのだろうか」と担当筆者は推測する――。

 それから想像をめぐらせる。平潟に来ているなら、勿来の関にも足を伸ばしているはず。

清水久男『川瀬巴水作品集』(東洋美術、2013年)に、昭和29(1954)年に刷られた「勿来の夕」が載っていた。

 巴水が茨城県・平潟を訪れてスケッチしたのは昭和19年。「勿来の夕」はそれからおよそ10年後に制作された。それについてもブログで触れた。

 さて、「常陽藝文」の特集である。作家の林望さんと茨城キリスト教大学の染谷智幸教授らが筆を執っている。

 茨城関係26作品のマップも載る。なかでも。「平潟東町」を詳細に分析している。巴水は黎明期の茨城キリスト教学園ともつながっていた。このあたりが特集のポイントだった。

2026年1月19日月曜日

ケロロワット体操

毎日、在宅ワークをしている。こたつの上にノートパソコンを置き、あぐらをかいてキーボードをたたく。ときどきは足を伸ばしてバタバタやる。エコノミークラス症候群を予防するためだ。

それにはラジオ体操もいいらしい。子どものころ、夏休みに小学校の校庭に集まってやった。動きは今も体が覚えている。これを毎日やろうと思っても、決心がつかない。もっと簡単な体操はないものかと、怠け者はつい考えてしまう。

阪神・淡路大震災から31年がたつ1月17日、いわき市文化センターで令和7年度の自主防災組織研修会が開かれた=写真。

福島テレビ専属気象予報士斎藤恭紀さんが「2026年、大きく変わる防災情報と天気の見通し」、柴山明寛東北大学准教授が「後発地震注意報と今後の地震発生のリスクについて」と題して話した。

締めくくりは、一般社団法人生涯健康社会推進機構による健康体操の実演だった。講師のリードで動画に合わせ、体を動かした。

「ケロロワット体操」という。いわき市が去年(2025年)11月15日、総合防災訓練を実施した際、初めて披露された。

今回の受講者は、区内会と重なる自主防災組織の役員が主なので、高齢者がほとんどだ。

先の原発震災では多くの人が避難所暮らしを経験した。私もその一人。避難所ではやることがないから、ただじっとしていた。

そんな体験と加齢が、高齢者でも簡単にできる健康体操を求めてきた、とはいえる。

ケロロワット体操は場所を取らない。大ホールに集まった高齢者が起立して、足と腕の屈伸をし、上体を左右に動かしても、隣の人を気にせずにやれる。

振り付けと歌詞はラッキィ池田さんが担当した。作曲は秋田在住の渡部絢也さん。

歌詞とメロディーに乗って体を動かしながら、これはいわきゆかりの体操だな――そう思った。

体操の主人公はカエル。だから、ケロロワット=カエルのスクワットである。ラジオ体操と同じように、最後は息を整えるために深呼吸をする。「深呼吸~/るるるるる~/リリリリリ~/若がえーる‼」

オノマトペ(擬音)が草野心平のカエルの詩と重なる。心平の作品「誕生祭」の一部。「りーりー りりる りりる りっふっふっふ」「ぐるるっ ぐるるっ」。あるいは「蛙」の最初の2行。「ぐりり るるるり/ぐるり るるり」

ネットで情報を探ると、ラッキィ池田さんは、心平にあやかり、カエルをモチーフにしたという(いわき民報)。やっぱり。いわき発祥の健康体操だった、といってもいい。

「元気がよみガエ~る」「お腹をかカエル」……。擬音とダジャレを組み合わせて、楽しく体を動かすことができる。

「おたまじゃくしはカエルの子」のメロディーも取り入れてある。手が出る、足が出る。確かに手足の屈伸と同じだ。ラジオ体操とも重なる流れなので、違和感がない。難なくできる。

    ということは、避難所に限らない。自宅でもふだんからできそうだ。実はこれが一番の目的かもしれない 

2026年1月17日土曜日

猫のシロが彼岸へ

                               
   年が明けて間もない日の夕方、隣家のご主人がやって来た。「白い猫が動かないでいる。お宅の飼い猫ではないですか」

猫は、飼ってはいない。地域の「さくら猫」である。避妊手術をした印が耳に入っている。庭に現れたのでカミサンがえさをやるようになった。

姿を見せるのはキジトラの「ゴン」と、全身が真っ白な「シロ」の2匹。シロは、系統的にはペルシャなのか、モフモフとしていて、あごのあたりの毛が特に長い。

そのシロが動かない? 「死んでいたらこちらで片付けますから」。そのときはそれで終わった。

夜、カミサンが懐中電灯をつけて見に行くと、隣家の駐車場の手前で息絶えていた。わが家の庭からはわずか10メートルほどの距離だ。

前日の夕方、えさをやっても食べずに姿を消した。「様子がおかしい」。カミサンが首をかしげた矢先だった。

老衰は、ちょっと考えられない。急に死んだ。病死なら、肥満体だったことが関係しているのだろうか。

シロは去年(2025年)の5月ごろ、どこからともなく庭にやって来た。気品があるといえばあるのだが、それがお高くとまっているようにも感じられた。

そのわがままさがときどき現れた。若いゴンを威嚇する。軒下にあるゴンの寝床を奪う。カミサンはそれで、新たにゴンの寝床を用意した。

シロは、人間に対しても横柄なところがあった。ちょっと目を離したすきに茶の間に上がり込む。「コラッ」。一喝すると脱兎のごとく庭へ走り去る。

そのくせ、えさをやるカミサンにはすぐなついた。カミサンの代わりに、私がえさやりをしたときも、最初は私を避けて突っ走り、少し先からこちらを振り返って見ていたのが、だんだん距離を縮めて「ニャー」と鳴くまでになった。晩秋には足元にすり寄って一周までした。

「猫たちも大変だなぁ」。去年の夏の酷暑にはつい同情したものだ。あるとき、シロは車の下に潜り込んで日差しを避けた。毛皮を着ているから人間以上に暑さがこたえたのだろう。

しかし、そこは猫である。高いところが好きなのは本性にちがいない。梅雨に入ったばかりのころ、太陽が西に傾くとシロが現れて車の屋根の上で横になった=写真(2025年6月18日撮影)。

 ゴンもそうだが、シロは生け垣を利用して、よく義弟の家の屋根に上って休んでいた。

やって来る方角も決まっていた。シロは南の隣家か義弟の家の方から現れた。「本宅」がそちらの方にあったのだろう。

それからの推測だが、衰弱したシロは本宅(の方)へ戻ろうとして、途中で力尽きたようだ。にしては、体がわが家の方、こちらを向いていたが……。

飼い猫ではなくても、えさをやっていた責任がある。カミサンがタオルに包み、古新聞で覆って袋に入れ、廃棄物処理法に従って私がとむらった。 

2026年1月16日金曜日

赤い川

前回(12月23日)の「いいのみんなの食堂」からおよそ3週間。前よりは20分ほど遅く出かけたこともあって、今回も平市街の日没に遭遇した。

「いいのみんなの食堂」は平南白土にある。神谷からは国道6号の夏井川橋を渡り、対岸の県道甲塚古墳線に下りる。そのあとは夏井川に沿って進み、支流の新川を2回渡って住宅街に入れば着く。場所は旧「レストラン シェ 栗崎」だ。

新川と夏井川の合流部手前で平地の丘と阿武隈の山並み、平の市街が、開けた空の下に一望できる。

天然の風景画である。前回とほぼ同じ位置から、助手席のカミサンが夕焼けをパチリとやった=写真。

前回は冬至の翌日だった。1年で最も南に寄った夕日は徐々に北へと位置を変え、3週間たった今では、市街の丘の北側、湯ノ岳のすそ野の方に近づいて沈んだ。

目安は「太陽は1日1分、月は1日1時間」だ 。冬至以後は日の出が1日に1分早くなり、日の入りが1日に1分遅くなる。

前回の撮影時間は午後4時18分、今回は4時36分だった。その差は18分。厳密に日没の瞬間を撮ったわけではないが、それからもおおよそ「1日1分」の違いは読み取れよう。

日中は雲がなかった。底が抜けたような青空だった。午後になって雲が出てきたために、日没時は赤い夕日を反映して、雲の下が赤く染まっていた。

蛇行したあと、まっすぐこちらへ向かって来る夏井川の水面も、大空でこちらへ向かうように伸びた雲を映して赤く染まっていた。

車だったので、チラ見で通過したが、「赤い川」は、最近では見たことがない。対向車も後続車もなければ、止まってカメラを向けるところだ。

その日、その時、その場所だからこその特別な風景、自然からの贈り物である。

写真技術は未熟だが(そのために撮りそこなった「決定的瞬間」はいっぱいあるが)、車を運転していては、ウデがよくても撮影はかなわない。

そのために、カミサンが助手席に座っているときは、撮影の代行を頼む。ハクチョウは、最近はほとんどカミサンが撮っている。夕日や面白い雲もカミサンが撮る。

「赤い川」は残念ながら、助手席からは見えなかったろう。見えてもすぐ視界から消えたことだろう。

みんなの食堂から帰る時間には、車はすべてライトをつけていた。川面はもう暗くて見えない。新川合流部のそばを通ると、薄闇の浅瀬にハクチョウが数十羽、白く浮き出て見えた。日没前後に順次、周囲の田んぼから帰って来たのだろう。

「赤い川」を見たころ、合流部にはもうハクチョウが帰っていたかもしれない。が、上流の川面に視線が集中して全く気づかなかった。

   自然はおもしろい。というより、自然に接することで、しこった感性がほぐれる。それだけではない。絶えず自然に触発されて、思考のバランスを図っている。少なくとも私はそうだ。そのことをまた日没直後の赤い雲と川、うす暗がりのハクチョウが教えてくれた。 

2026年1月15日木曜日

弁天様へ馬を見に

                                 
 平沼ノ内に「弁天様」で知られる「賢沼寺(けんしょうじ)」がある。落葉広葉樹と照葉樹に囲まれた「賢沼(かしこぬま)」が有名だ。賢沼は「ウナギの生息地」として国の天然記念物に指定されている。

 弁天様は阿武隈の山の向こう、田村郡の子どもたちにもなじみがあった。確か小6のとき、小名浜港への日帰り修学旅行で立ち寄った記憶がある(別の記憶とごっちゃになっているかもしれない)。

そのころは文字通り、天然のウナギの姿も見られた。観光客は沼に張り出した「魚見堂」から、境内のみやげ品店で買ったえさをまく。

すると、激しい勢いで大きな緋鯉や真鯉が食いつき、それらに混じってウナギが姿を現したものだった。

 いわきに根を生やしたあとも、子どもを連れて訪れた記憶がある。そして、これは偶然だが、先々代の住職の家族とも知り合った。

 寺と沼は薄磯と沼ノ内の漁村をつなぐ旧道沿いにある。今は薄磯のカフェ「サーフィン」へ行った帰り、たまに寺の前を通るだけになった。

 年明けの新聞に、1月4日まで寺で「騎馬詣(もうで)」を実施している、という記事が載った。

それを読んだカミサンが声を発した。「見に行こう」。正月3日には絶対行く、という口ぶりだった。

 箱根駅伝を見終わってから出かけた。騎馬詣は境内で行われていた。それとは別に、広い駐車場の一角を囲った柵のなかに馬が1頭いた。脇の囲いにはポニーとヤギとヒツジ。

 馬を飼っているのは「旅人牧舎。」で、前は湯ノ岳で営業していたが、現住職の計らいで寺の敷地に移ってきたそうだ。

 寺の敷地を新天地にしたこともあって、「騎馬詣」が企画された。そちらはともかく、馬を見るだけでもおもしろい。

 入場料は1人500円だった。カミサンはえさのニンジンを買い、馬に与えて鼻先をなでる=写真。私はそばで見るだけだ。

 馬に触れたあと、何十年ぶりかで賢沼を見た。カルガモがたくさん泳いでいた。水中では緋鯉=写真上2=や真鯉が悠然と回遊している。

観光客は、ウナギの姿はもうだいぶ前から見ていない。それでも、賢沼は弁天川で太平洋とつながっている。その河口には震災後、防潮水門が設けられた。

ウナギの稚魚が上って来るのは、この弁天川河口からすぐのところに注いでいる側溝のような水路を伝ってだろう。

沼の前にある弁財天のお堂に参詣したあと、カミサンがそばの売店に立ち寄って質問した。

そばで聞くともなく聞いていると……。「ナマズはもういないんですか」。えっ、なんてことをいう!

「ナマズじゃないよ、ウナギ、ウナギ!」。いっぺんに正月気分が吹き飛んだ。それに対する店側の答え。「ウナギの稚魚は上って来ます」。ナマズと思い込んでいる観光客が多いのかもしれない。

2026年1月14日水曜日

「チャッピーに聞こう」

                             
   1月ももう半分が過ぎる。備忘録として松の内を振り返ると――。

元日には年賀状を書き、2日はカミサンの実家へ年始のあいさつに行った。3日は沼ノ内の「弁天様」へ馬を見に出かける。夕方には長男一家が顔を出した。

4日には親しくしている後輩が「赤福」を持って来てくれた。5日は朝、ごみネットとごみ袋を出す。今年2026年の「日常」の始まりである。

6日にはカミサンのいとこが自家栽培の白菜を2玉持って来て、親族が暮らす土地の話で盛り上がった。7日は今年最初のアッシー君を務めた。

令和8年最初の7日間は、天気も含めておおむね穏やかに過ぎた。いつもの正月だった。そのなかでびっくりしたことが一つある。

それが今も尾を引いている。1月12日の全国紙にも特集記事が載った。「チャッピー」のことである。

その前に、後輩が持参した「赤福」について。後輩は、自宅が関西にある。何年か前、いわきの実家へ「単身帰農」をした。年末年始は関西の自宅で過ごす。

令和4(2022)年からは、伊勢経由で買って来た「赤福」がお土産として届くようになった。

「赤福」は、長男が大学生のころに知った。同じサークルの仲間に三重県出身者がいた。

学生たちは夏休みになると、いわきへ海水浴にやって来た。寝泊まりするのは、夏井川渓谷にある隠居だ。そのときのお土産が「赤福」だった。

3日に長男一家がやって来たとき、後輩が栽培しているパパイアの話になり、正月には「赤福」が届く話をした(実際、翌日に届いたので、半分をお福分けした)。

床の間に掛けてある漢文の拓本「好間渠誌」が目を引いたらしい。高校生の孫も話に加わった。

「漢文はまったく読めない」。そういうと、下の孫が「チャッピーに聞こう」と応じた。「えっ、チャッピーはこんなことも知ってるのか」

チャッピーはウチに来たことがある。街でもときどきバッタリ会う。実在する人間の愛称だ。その顔を思い出して感心し、しかも彼を高校生の孫が知っていることに驚いた。

孫はそれから床の間の拓本にスマホをかざし、「チャッピー」に送ったらしい。父親も同じようにして、AIに解答させた例文を見せる。

それでようやく合点がいった。「チャッピー」は「チャッピー」でも、AIの「チャットGPT」のことだった。

私はチャットGPTをほとんど使わない。漢文の頭の部分=写真=をカメラに収めると、画像からその字を紙に書き写し、漢和辞典を引っ張り出してきて確かめる。まだまだアナログだ。

が、孫たちは素早い。検索ツールのチャットGPTを使って瞬時に答えを求める。それが日常化しているために、友達みたいな感覚で「チャッピー」と呼ぶのだろう。

後期高齢世代とZ世代である。時にはこんなカルチャーショックも起きる。いや、「これも勉強、勉強。この世の出来事がまた一つわかった」と自分に言い聞かせたのだった。

2026年1月13日火曜日

続・好間渠誌

                                             
   年末から床の間に掛軸(記念碑「好間渠誌」の拓本)を飾って、毎日眺めている。「好間渠」は好間江筋、農業用水路である。

碑はすべて漢文だが、最後の文章は、堰のそばに碑を建て、江筋の概略を記して後世に伝える――と読める。

斎藤伊知郎『近代いわき経済史考――碑文に見る伝承100年』(1976年)に当たり、『よしま――ふるさとの歴史散歩』(1998年)を読んで、上好間字大堰の好間川に堰と取水口があることがわかった。字名からして「堰」由来だろう。

グーグルアースとストリートビューで確かめたら、常磐道いわき中央インターそばの好間川に堰がある。対岸の道路沿いには碑が建ち、その後ろから水路が伸びている。

まずは年末最後の日曜日(12月28日)、夏井川渓谷の隠居へ行く前に寄り道をして、碑と対面した=写真。

碑は北向きに建っている。朝は逆光になる。それもあって碑の文字がよく読めない。しかしながら、拓本と違うことが4つあった。

本文に先立つ1行「正四位子爵安藤信守篆額」が、拓本の本文より少し離れて位置し、字も大きい。

本文のあとに独立して続く「室直與撰文 李堂高山康書隷」が「室直與撰文」だけになっている。

書体は、隷書というよりは楷書らしく、1字1字がこぶりな印象だ。字間・行間も拓本よりは空きが多い。

それに(これは拓本の技術に関することなのだろうが)、碑の輪郭の印象がまるで違う。

明治35年建立の碑は、外縁が自然な岩のギザギザを残しているように見えるのに、実際の碑はちゃんと直線的に加工されている。

一見しただけでも、明治35(1902)年に建立された碑と、今の碑が同じとは思えない。

本文は、「安藤信守篆額」「室直與撰文」とあるから、異同はないはずだ。「李堂高山康書隷」がないのは、たぶん書体が違うからだろう。

拓本は初代の碑、今建っているのは2代目の碑――。そうだとして、なぜ建て替えられたのかだが、なにか大きな災害(たとえば水害)があって損壊したのだろうか。

碑の本文解釈に入るのはまだ先のこと。まずは碑の外観から調べていく必要がある、という意味では、おもしろい「宿題」をもらったものだ。いわきの災害史、中でも好間の水害史がわかる資料にも当たってみよう。

元日の午後、太陽が順光になるのを待って再び碑を訪ねた。今度は本文の字がはっきり読み取れた。それについてはいずれまた報告したい。

そして、これはおまけ――。何年か前まで、福祉関係団体の活動資金にするため、わが家に納豆を届けてくれていた知人の自宅が碑の近くにあった。

車をUターンさせようと前に走らせていたら、カミサンが、ご主人が営んでいる建築業の看板を見つけた。

カミサンが訪ねると図星だった。帰りに家庭菜園のネギなどをちょうだいした。年末ながら、一足早い「お年玉」をもらった気分になった。

2026年1月10日土曜日

正月の食べ物

                                
 わが家の白菜漬けは、塩分控えめと温暖化の影響なのか、甕(かめ)に漬け込むとすぐ水が上がり、表面に白い膜が張る。産膜酵母という。

 まだ新しいのに、この膜が張ると酸味が増す。早々と古漬けのような味になる。カミサンはそれが好みのようだが、私は出来立てでさっぱりした白菜漬けがいい。産膜酵母が張ると、いつも「どうしたものか」と悩む。

 暮れにカミサンの知人から袋入りの「大根キムチ」が届いた。陶器の入れ物に移し、大根を食べているうちにひらめいた。

 キムチのたれがいっぱい残っている。捨てることはない。これに白菜漬けを加えたら、「白菜キムチ」になるのではないか。

さっそく実行する=写真上1。まずまずだった。酸味が抑えられて、晩酌のつまみにも、ごはんのおかずにもなった。

その延長で、ある食品メーカーの「キムチの素」を買って来る。激辛ではない。それでも白菜漬けにまぶすとけっこう辛い。

若いときは、このくらいの辛さは平気だったが……。後期高齢者になると、舌がマイルドなものを求めるようだ。まぶす量を減らす、ほかのたれとブレンドする。次はその両方を試してみよう。

そもそも食べ物はローカルが基本。「大根キムチ」はいわきの地元製品だ。いわきに合った「白菜キムチ」を作るには、「大根キムチ」を買って来て、そのたれを再利用すればいい。道の駅へ行った際、「大根キムチ」を2袋買った。

ほかに「正月だから」と、食卓に並んだものがある。秋に「置き干し柿」をつくった。正月に食べるために、数個を冷凍しておいた。

干し柿を切ってアイスを載せたものが出てきた=写真上2。さっぱりした甘みに、カミサンも「珍味だね」と喜んだ。

ネギ=写真上3=も大みそかにちょうだいした。1年前の師走、用があって知人の家を訪ねると、すぐわきの畑からネギを掘り取って来た。それに続くお福分けだ。

まずは焼きネギにする。ネギとジャガイモの味噌汁にもする。太ネギは硬いというイメージがあったが、知人のつくるネギは思った以上に軟らかい。

白菜キムチ、アイス干し柿、焼きネギ。正月三が日は、自己流のおかずが並んだ分、「ここだけ、うちだけ」の気分で晩酌を楽しんだ。