カミサンの実家(元米屋)から明治時代の掛軸を預かった。義弟が蔵の中を整理していたら出てきたらしい。
カミサンがこれを床の間に飾った=写真。掛軸は「好間渠」(好間江筋)の記念碑を丸ごと写した拓本で、碑の高さは目測で2.5メートル、幅が1メートルほどと大きく細長い。文字はすべて漢字で、本文は611字(1行39字が15行、プラス最終行26字)ある。
毎朝晩、歯を磨きながらながめている。本文の周囲の人名や年月が、まず脳裏に焼き付いた。
本文の前には「正四位子爵安藤信守篆額(てんがく)」、本文の後には「明治三十五年十一月」「室直與撰文(せんぶん) 李堂高山康書隷(しょれい)」とある。
用語をネットで調べる。「篆額」は碑の上部に篆書で書かれた題字=タイトルのこと、「撰文」は文章をつくること、とあった。「書隷」は隷書体で書かれた文字のことだろう。
つまりは、安藤信守が碑のタイトルを書き、室直與が本文を担当し、高山李堂がその文章を書いた、ということになる。
碑には覚えがあった。斎藤伊知郎『近代いわき経済史考――碑文に見る伝承100年』(1976年)に出てくる。
『よしま――ふるさとの歴史散歩』(1998年)にも、なにか好間江筋に関する記事があるはずだ。
2冊を図書館から借りて、拓本と比較しながら読み進める。篆額は「好間渠誌」、漢文本体も「好間渠」だが、斎藤本では「渠」が別の文字になっている。ここでは原文通り「好間渠誌」として話を進める。
本文の書写は、私には手に負えない。が、内容は斎藤本などと重ね合わせれば、なんとなくわかる。まずは、なぜこの掛軸がカミサンの実家にあったのか、というあたりから。
カミサンの実家は何代か続く米屋だった。幕末にはお城(磐城平城)で食べる米をついていたそうだ。
昔は家のそばを流れる好間江筋を利用して、水車で精米した。そのために、庭に水路が引かれていた。好間江筋の受益者の一人だったのだろう。
電気が通ってからは水車を廃止し、庭の旧水路は防空壕に転用された。太平洋戦争が終わってからは、カミサンたちがかくれんぼをして遊んだり、義父が開放部に水を張って鯉を飼ったりしたという。
家を建て替えた際、玄関の壁に水車の歯車(4分の1に切ったもの)が埋め込まれた。「水車はとにかく大きかった」という。
『よしま』によると、明治25(1892)年当時、この江筋の水を利用した水車が上好間から北目町の間に11基あった。久保町は1基で、もしかしたらそれがカミサンの実家の水車だったか。
さらに常磐線が開通後、日本鉄道株式会社は好間江筋と愛谷江筋の合流点から水を買った、とある。その合流点は平(現いわき)駅の近くだったに違いない。
好間江筋は愛谷江筋よりは古い。ということは、平城下でも好間江筋の水を生活に利用した? 次から次に疑問と仮説がわいてくる。それらについてはおいおい調べることにしよう。
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