大活字本の養老孟司『無思想の発見」を読んだ=写真。本の主題とは直接関係ないが、「そうか」「なるほど」という場面が何度かあった。
「ひとりでにそうなった」。これが日本の思想なのだという。それを最初に述べたのは政治学者の丸山真男東大教授だった。
「古事記」や「日本書紀」で一番ひんぱんに使われる言葉が「なる」だと知って、理由を考える。
「たぶん日本はものすごい勢いで草木が繁茂するから」。丸山は、これを自説の論拠にした。
その延長で著者は言う。日本のことを「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と表現することがある。「古事記」や「日本書紀」に出てくる。この表現は大陸人でないとできない、と。
なぜ大陸人か。「大陸は乾燥していて、しばし地面が裸で出ている。日本にそんな場所はない」。あるとしたら足尾銅山跡のようなところだ。
大陸との比較ができて初めて、「豊葦原瑞穂国」という表現が生まれる、というのが著者の見解のようだ。
「人為を尽くしてせっかく更地にしたのに、春から梅雨どきに放置しておいたら、地面は草木だらけに『なってしまった』」
確かにその通りだ。これは古代も、現代も変わらない。それほど日本では緑の繁殖がすさまじい。暴力的でさえある。
毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行く。庭も家庭菜園も、草を刈ったと思ったら、すぐ緑で覆われる。年に3回は後輩が軽トラに草刈り機を積んでやって来る。
「日本の思想」の原点かどうかはともかく、下の庭にはアシが生え、上の庭もすぐ緑で覆われる。トヨアシハラノミズホノタニ(豊葦原瑞穂谷)だ。
そもそも、『無思想の発見』を読む気になったのは、新聞記者になりたてのころ、「無思想」でいくと決めて取材に当たってきたからだ。
そのころ、「有思想」とは記者の先入観、あるいは偏見という理解だった。思想があるから世の中が歪んで見える。思想に基づく批判記事を書くようになる。
思想がなければ、現場で見聞きしたことだけを材料にして書く。思想は要らない。無思想でいい。それで初めて、記者はニュートラルで取材に当たれる。そう思うようになった。
評論家大宅壮一のいう「無思想の思想」に触れたことも大きかった。「――主義」は取材には邪魔。そんなところが若さゆえの理解のレベルだったろうか。
その「無思想」が巡りめぐって、日本の湿潤な気候・風土と結びつき、「日本の思想」の本質として浮かび上がってくるとは……。
同書にはこんな言葉もあった。「見方が変われば、世界が変わる。人が変わっていくのは救いであって、自分が変わらない世界なんて、私はごめんこうむりたい」
後期高齢者と呼ばれる年齢になったせいか、この言葉がすんなり入ってくる。これが、「無思想」の持つ生命力なのかもしれない。
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