2013年12月7日土曜日

冬の漬物

冬に備える、といっても、わが家では「衣」と「住」はカミサンまかせ。「食」のうち、漬物だけを私が受け持つ。たくあんまでは手が回らないので、師走を迎えるころ、最初の白菜漬け=写真=が食べられるように準備する。

前に書いたが、11月最後の日曜日に、いわき市~田村郡小野町~石川郡平田村と、ドライブを兼ねて阿武隈南部の直売所を巡った。平田では白菜漬けの殺菌と彩り用に干しトウガラシを買い、いわきの三和町では目当ての白菜2玉を手に入れた。

甕に合わせて、8つ割りにした白菜2玉を漬けると、3週間は持つ。師走から4月の大型連休まで食べるとして、ざっと5カ月。6~7回は漬け込むことになる。

そのつど山里の直売所へ買いに行くわけにはいかない。雪が降る。道路がアイスバーンになる。それでも、道路が乾いていればノーマルタイヤで駆け上がる。寒冷な山里の白菜は平地のそれより甘みが多いからだ。

天日干しにしたのを漬け込んでから6日目の月曜日(12月2日)夜、最初の一切れを取り出した。塩が足りず、水の上がりが遅かった。それで少々塩がなじんでいない。それも日がたてば気にならなくなる。思った通りに根元は甘かった。

これでよし、である。寒気が日に日に糠床の甕にしのびこみ、手でかきまわすのがきつくなった。糠漬けから白菜漬けへ、漬物の切り替えが済んだ。きのう(12月6日)、糠床は塩のふとんをかぶって、台所の片隅で冬眠に入った。

2013年12月6日金曜日

庭土のはぎとり

作業が始まると早い。除染2日目の12月5日。菜園にしている西側から全体の3分の1まで、庭の土のはぎとりが進んでいた=写真

作業の邪魔をするわけにはいかない。午前10時からの休憩時間に合わせて、夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)へ出かけた。自宅から溪谷まではざっと25キロ、車で30分の道のりだ。この程度の時間と距離なら毎日通っても苦にならない。

休憩中の作業員氏と土のはぎとり現場に立って話す。小型のバックホーで土をはぎとっているうちにキャプタイヤケーブルが現れた。ん、なんだ? 「ずっと向こうの方まで延びている」と言われて、ピンときた。「それは井戸水をポンプアップするモーターの電線。井戸はホラ、隣の空き地の、あの青いトタンで囲われた小屋がそう」。「切らないでよかった」、作業員氏が思わずつぶやく。

水道管が心配で様子を見に行ったのだが、そちらは地表から30センチほどのところに埋まっているはずだから、案外大丈夫。キャプタイヤケーブルは頭になかった。しかも、表土近くに無造作に埋まっているとは。こういうのを“想定外”というのだろう。

バックホーを操作する人、小型ダンプカーの上で黒いフレコンバッグを広げる人、ブロアーで草の間にたまった落ち葉を飛ばす人、それをかき集める人……。休憩が終わると一斉にチームが動き出す。

道路まで立ち退き、作業を見守っていたら、明暗二つの感慨が頭をよぎった。「庭がきれいになっていく」一方で、「15年以上も手を入れてきた菜園が消えていく」。

1995年。阪神・淡路大震災(1月17日)、地下鉄サリン事件(3月20日)と、大災害・大事件が起きたあとの初夏、義父母が隠居のように利用していた無量庵の管理人を引き受けた。毎週土曜日に出かけては、翌日曜日に対岸の森を巡るのが楽しみになった。

やがて、それだけでは飽き足りなくなった。野菜栽培を思い立って、庭の一角を“開墾”した。一面にはびこっていたササの根を切り、石を取り除く。同時に、大工さんにつくってもらった堆肥枠に、刈り払った庭の草や落ち葉を投入して堆肥をつくる。それを毎年繰り返しながら、少量多品種を念頭に、いろんな野菜を栽培した。

ネコの額のような菜園の土にも、汗と愛情と堆肥の蓄積がある。それがいったんチャラになる――素人といえども喪失感は小さくはなかった。

週末だけの半住民にしてこうなのだから、代々住み続け、すべての時間を家族とともに過ごしてきた住民、とりわけ農家にとっては、敷地の「全体除染」は身を削られるような思いにちがいない。未来の再生には過去の喪失が伴うのか――そんなところまで思考が転がっていった。

2013年12月5日木曜日

「除染作業中」

夏井川渓谷のどまんなか、戸数10軒ほどの牛小川区で個人住宅の除染作業が行われている。県道に面した家では、注意喚起のために「除染作業中」の紙が張られたカーラーコーンが置かれていた=写真

わが隠居(無量庵)も、最初は11月29日(金)に、次に遅れて12月3日(火)に作業を開始する、ということだった。

そのつど、朝に出かけたのだが、庭にはだれもいない。「いいかげんにしてくれ」と言いたい気持ちを抑えて集落を巡ると、29日は空き地をはさんだ隣家で作業が進められていた。3日も県道からは見えない、奥の家で作業が行われていた。思ったより除染量が多いらしい。作業開始遅れの連絡もそれでずれ込んだか。

さて、4日になった。作業を実施する共同企業体に電話を入れようとした矢先、現場監督がわが家にやって来た。「きょうから作業です」と、朝撮ったばかりの写真コピーを見せた。庭に小型のバックホーが入っている。作業員も写っている。

作業期間は、雨が降らなければ7日までの4日間で、①庭の草木(立ち木以外)は除去③芝はすべてはぎとる④土は5センチはぎとって、山砂を入れて転圧する。その結果として、地上1メートルで平均毎時0.23マイクロシーベルト超ある空間線量を、基準値以下の0.15程度に減らす、ということを最終的に確認した。

谷側にある無量庵に朝日が差すのは9時ごろ。それから少したったころ、JR磐越東線の上下2本の2番列車が牛小川を通過する。作業は庭の草にびっしり朝露がはりつき、鼻水が垂れるくらいに冷たい空気の中で始まる。

余談だが、きのうの夕刊いわき民報に、江田―小野新町駅間、つまりいわきから郡山方面へと渓谷を駆け上がる区間で、朝露のために車輪が空転し、速度が上がらずに列車1本が遅れた、という記事が載っていた。空転の原因が落ち葉ではないところが珍しい。

1番列車は、上り(いわき行き)が午前6時45分ごろ、下り(小野新町・郡山行き)が同7時過ぎに無量庵の前を通過する。この下り1番列車が遅れたのだろう。

2013年12月4日水曜日

「ユー・レイズ・ミー・アップ」

目が、耳が喜ぶもの。今の時期なら、寺の境内にそびえるイチョウの黄葉=写真=や、川の中州で羽を休めているハクチョウ、近所の家の庭で咲き誇る皇帝ダリア、屋根に止まって「ヒッ、ヒッ」と鳴いているジョウビタキなど。「ユー・レイズ・ミー・アップ」という歌も、とげとげしくなっていた心を優しく包んでくれる。

きのう(12月3日)、ラジオで男性歌手が「ユー・レイズ・ミー・アップ」を歌っているのを聞いて、急に気になりだした。車中で聞き流しているアイルランドの女性ボーカルグループ「ケルティック・ウーマン」のCDのなかに、この曲が入っている。耳になじんでいるとはいえ、歌のタイトルも、意味もわからなかった。

震災直後の2011年5月下旬、NHKの朝ドラを見たあと、流れで「あさイチ」をかけていたら、“特選エンタ”のコーナーでケルティック・ウーマンが紹介された。以来、アイルランドの歌の特徴の一つである「ピュア・ボイス」を楽しんでいる。

「ユー・レイズ・ミー・アップ」は、アイルランド人の女性バイオリニストとノルウェー人の作曲家兼ピアニスト(男性)の2人組「シークレット・ガーデン」が、アイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」(ダニーボーイ)を下敷きにしてつくった曲だという。

ネットにのっている歌詞の一部。「落ち込んで 心が疲れている時/困難が訪れて 気持ちに余裕が無い時/私は静かにここで待つわ/あなたがやってきて 私のそばに座ってくれるのを//あなたが支えてくれるから 私は山の頂きに立てる/あなたが支えてくれるから 私は嵐の海を歩いていける/私は強くなれる あなたが支えてくれるから/あなたが支えてくれるから 私はいつも以上に頑張れるの」

男性歌手が歌うと、「私」が「僕」になる。「僕」が「あなた」に感謝する歌になる。男性でも、女性でもいい。「絆」という言葉が歌の間から立ちのぼってくる。

きょう(12月4日)は、3・11から1000日目。マスメディアの“節目報道”で知った。被災者は1000日たった今も、「非日常」を日常化して生きなくてはならない不条理の世界におかれている。心の支えは隣人、あるいはボランティア、遠くから見守ってくれている人々。「ユー・レイズ・ミー・アップ」、「あなたが私を勇気づける」。

2013年12月3日火曜日

電気ごたつ

われら夫婦が平地の自宅から車を飛ばして、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ着いたのは午前9時前だった。雨戸を開けていると、対岸の尾根から朝日が顔を出し、庭を照らした。草をぬらしていた露が輝きだした。

間もなく、知人のTさん母娘とフランスの女性写真家がやって来た。渓谷の空気は鼻水が垂れるほど冷たい。すぐこたつに入ってもらう。女性写真家は日本の「電気ごたつ」=写真=をどうみただろう。おしゃべりをしながら、ふとそんなことを思った。

昔、阿武隈高地の家々では(ほかのところもそうだったろうが)、冬は「掘りごたつ」で暖を取った。私の実家でもしばらく、掘りごたつの中に練炭コンロが置かれていた。練炭コンロは七輪に似る。金属製の上げ下げ板が付いていて、通気口を開閉してこたつの中の温度を調整した。今は穴がふさがれ、「電気ごたつ」に変わった。

その電気ごたつも時代遅れになりつつあるようだ。高気密・高断熱が売り物の最近のマイホームは、エアコンと床暖房でこたつ要らず、が普通らしい。日本人にとってもこたつはいつか骨董品と映るときがくるにちがいない。

年を重ねるごとに昼寝は大切な日課になってきた。夏はタオルケットをかけて、冬はこたつに入り込んで“きどこ(ろ)寝”(服を着たままの仮寝)をする――これがたまらない。頭がすっきりする。一日に二度生きられるような“誤解”が力を生む。

が、弱点もある。こたつの中であぐらをかいて仕事をするのだが、長時間同じ姿勢でいると、血の巡りが悪くなる。足を延ばしたり、立ち上がったりするのもスムーズにはいかない。掘りごたつならいすに座っているのと同じだから、できれば改造したいのだが、カミサンは「ふん」とはいっても「うん」とはいわない。

このへんのこたつのよしあし、感覚はフランス人、いや新しい日本人に伝わるだろうか。

2013年12月2日月曜日

女性写真家

フランスの若い女性写真家Dさんが森を歩きたいというので、きのう(12月1日)、夏井川の渓谷林を案内した=写真(左)。英語も話す。英語に堪能な知人のTさんとお嬢ちゃん、カミサンが同行した。

Dさんと知り合ったのは2012年5月中旬。国際NGOのシャプラニールがイトーヨーカドー平店に開設した、被災者のための交流スペース「ぶらっと」で、だった。理髪師で九州出身の日本人と結婚し、ロンドンに住んでいるという。

いわき市は、3・11の津波で沿岸部が壊滅的な被害を受けた。相双地区などからの原発避難者も2万3000人余(2013年10月1日現在)に及ぶ。その写真取材に取り組んだ。

今年も秋にいわきへやって来た。Tさんの家にホームステイをして、浜通りを主に写真取材を続けた。1カ月に及ぶ取材のしめくくりに、夏井川渓谷の、“隠れ里”のような集落にあるわが隠居(無量庵)を訪ねた。軽乗用車とパトカーの“カーチェイス”が行われた11月17日にも、紅葉を見に渓谷を訪れている。このときは会わずじまいだった。

たった半月で溪谷は様相を変えた。散り残りのカエデの赤、コナラやクヌギの黄土色、赤松・モミの常緑のほかは、すっかり葉を落とした。無量庵の対岸の木々は、午後になると太陽の光が差し込み、幹や枝々が灰色に輝く。もう初冬の装いだ。

吊り橋のそば、林内の小道の入り口に積み上げられた3・11の落石群。どこまでも続く落ち葉のじゅうたん。木守の滝、眼下の渓流、瀬音。Dさんは明るい林内でフィルムカメラのシャッターを押しつづけた。

森から戻ったあと、知り合いの家を訪ねた。夫が入院し、今は一人暮らしのおばさんとは震災後、初めて会った。白菜を持って行け、大根を持って行け――と、わきの斜面にある畑にみんなを連れて行く。畑はトタンで囲われている。イノシシ除けだ。もう一段上の家では、「部分除染」のあとを見た。ここでもDさんは盛んにシャッターを押した。

Dさんは、ドイツ在住の芥川賞作家と写真作品を介してつながった。詩と写真集を出す計画が進んでいるという。その取材のために作家が8月、いわきへやって来た。一夜、Tさんの骨折りで懇親会が開かれた。先日はDさんの夫がいわきを訪ねてきた。やはり、Tさんの骨折りで歓迎会が開かれた。

Dさんの写真は、実はまだ見たことがない。が、芥川賞作家の目に留まり、心を動かしただけのレベルであることは確かだろう。報道写真でありながら、アートの要素も濃い、そんな領域に位置する作品なのかもしれない。

話を聞けば、その取材は庶民の日常がベースになっている。Tさんらのネットワークを生かし、被写体である人々と同じコミュニティーの一員であるかのように、深く入り込んで取材する。突然やって来て、パッパッと撮ってサッと帰っていく「狩猟型」の取材とは、わけが違う。夏井川渓谷でも、家の軒下にほしてある柿と大根にすぐ反応した。

地震と津波。事故を起こした原発のこちら側とあちら側。地理的には浜通り全体を視野に収めた、ユニークな“写真詩集”とでも言ったらいいのか。心の中では、一日も早い刊行を首を長くして待っている。

2013年12月1日日曜日

夏井川の堤防かさ上げ

もう1カ月前のことだ。日曜日と重なった文化の日、堤防の天端(てんぱ)を河口に向かって進んでくる、「歩こう会」の参加者をデジカメで撮って拡大したら、天端のラインが山形になっていた=写真。堤防のかさ上げが行われたのだ。

そこは、夏井川の水の旅が終わろうとする最後の蛇行部、河口に架かる磐城舞子橋とすぐ上流の六十枚橋の間だ。堤防改修工事による通行止めの看板が六十枚橋のそばに立っている。で、その区間の堤防天端の往来を控えていた(着工前は海を見に、ときどきこの天端を利用した)。

日曜日は「休工」になる。一時的に通れるためにわが地元の「神谷地区市民歩こう会」が開かれた。地区の青少年育成市民会議が主催した。主催者のひとりとして、河口にある目的地の沢帯(ざわみき)公園に車で先回りし、一行の到着を待った。天端ではなく、一般の道路を利用した。そのため、写真を撮るまで堤防のかさ上げを知らなかった。

東日本大震災が起きた日、津波が夏井川を逆流した。堤防や河川敷に亀裂が走った。河口から3~4キロ上流に位置する神谷地区は、水禍は免れたが、もっと上流の中州で羽を休めいたハクチョウたちは、この日を境に姿を消した。北帰行が始まっていた。逆流してきた津波に驚き、残っていた一群が旅立ちを早めたのだった。

夏井川は河口左岸で北隣の仁井田川と横川でつながっている。本来なら仁井田川は横川を介して夏井川の最後の支流になるのだが、夏井川の河口が砂で閉塞しているために、本流が逆流して仁井田川の河口で太平洋に注いでいる。

夏井川の河口閉塞は古くて新しい問題だ。ちょうど1世紀前の大正2(1913)年に脱稿、同11年に刊行された『石城郡誌』にも、海砂を排せなくなって河口がふさがった――という記述がみられる。

近年は、ブルドーザーとバックホーで河口の開削工事が繰り返されているのだが、いつの間にか閉塞してしまう。そして今度は、地震による地盤沈下が加わった。問題がいよいよ複雑になった。

震災がれきを利用して海岸堤防ができたという話は前に書いた。夏井川の堤防改修工事は? 河口の開削工事は? 夏井川ウオッチャーには、この河口部の工事は「賽の河原の石積み」に思えてしかたがない。