2009年12月31日木曜日

大みそか


2009年の最後の日になった。毎日、毎日、同じ繰り返し。これを「無事」という。無事であることの「幸せ」が、年を追って大切なものになってきた。

前にも書いたが、「大事」に至らず「小事」に留まれば「無事」のうちだ。夏の、孫の病気がそうだった。今はピンピンしている。今月、新型インフルエンザにかかった。それもしのいだ。2歳半。大きな壁をよっこらしょと乗り越えて、少し強くなったようだ。

私の、今年の「大事」は北欧を旅行したことだ。初めての海外旅行だ。当欄でそれに関連することを30回くらいは書いたか。100回は無理にしても、あと40回くらいは書けるのではないか。それほど印象が強烈だった。気持ちが「無事」ではいられなかった。カルチャーショックを受けたのだ。

「高福祉高負担」をなぜ北欧の人々が受け入れたのか、「見・聞・読」で少し分かってきた。日本の政権交代も、北欧の視点で見ると、そんなに不思議なことではない。時代がそれを求めるようになったのだ。自民党が負けたのでもなく、民主党が勝ったのでもない。時代が勝ったのだ。

税金の使い方を変える、見えるようにする――。それはいいのだが、「中負担」で「高福祉」は可能か。理想と現実の乖離・矛盾はいつものこと。だが、政治はこの矛盾をどう小さくするか、それに腐心し、利害を調整するのが役目だろう。と、考えるようになったのも、北欧旅行が「大事」だったからだ。

もう一つ、人間以外ではノルウェーのフィヨルド=写真=に強い印象を受けた。いや、圧倒的な迫力で心に迫ってきた。

かの国の国民的文学者にしてノーベル文学賞受賞者のビョルンソンが、ゲイランゲルフィヨルドについてこんなことを言っている。「ゲイランゲルには牧師は要らない。フィヨルドが神の言葉を語るから」。まさしくそのようなことを、世界自然遺産のネーロイフィヨルドを観光して感じたのだった。

「かわいい子には旅をさせよ」という。「かわいくない大人」にも旅は大事だ、と思える2009年だった。

2009年12月30日水曜日

ネギ料理


三春ネギのルーツ調べに一区切りがついたとき、匿名さんからコメントをいただいた。それにこたえず、ずるずるここまできてしまった。おわびします。三春ネギと阿久津曲がりネギは同じ、という状況証拠がそろった。

10月に種をまき、苗=写真=を育て、翌年5月に苗を植え、8月に植え直して曲がりネギにし、晩秋、収穫する。三春ネギも阿久津曲がりネギもそれは同じ。生産地も隣り合っている。小野町の三春ネギ生産農家は苗を阿久津から買って来る――それが決め手になった。

で、ルーツ調べの次は何をしようとか考えていたとき、テレビでネギを主役にした料理番組に出合った。「満天☆青空レストラン」。深谷ネギに豚肉と鶏肉を加えた「塩すき焼き」を紹介していた。塩は最近、白菜漬けに利用しているモンゴルの岩塩だ。番組のホームページでレシピ書き留めた。いずれ三春ネギで試してみよう。

生のままでは辛いネギが熱を加えると甘くなる。ネギの味噌汁(根深汁)がそれ。ネギだけではない。タクワン、ホウレンソウの赤根、サンマの味醂干し、塩サケの皮、カツ刺し……。無意識に求めている究極の味は「甘み」ではないのか。このごろ、そんなことをよく考える。食卓には七味や胡椒が欠かせないにしても、最後は「甘み」に行き着く、と。

それなら、ネギの甘みをどう引き出すか。風邪を引いたらネギを刻み、みそを加え、熱湯を注いで飲む。昔からやっていることだ。ネギ入り納豆も、ネギの炒り卵もよく食べる。それだけでは芸がない。

図書館からネギ料理の本を借りてきた。「牛肉のねぎ巻き焼き」や「焼きねぎとえびだんご鍋」、「ねぎだれ」や「ねぎみそ」などのレシピが入っている。せっかく三春ネギについて調べきたのだから、今度は新しいネギの食べ方を調べなくては、というところだ。

2009年12月29日火曜日

キノコ談議


いわきキノコ同好会の総会が日曜日(12月27日)、いわき駅裏の旧城跡にある旅館で開かれた。総会後はちょっとした勉強会をやり、忘年会を兼ねた懇親会に移って、一年を振り返りながらキノコ談議にふける。キノコの知識がいちだんと増す日でもある。

勉強会では、9月20日と10月17日に実施した観察会のキノコ鑑定結果が、スライドを使って報告された。初めて目にするキノコもたくさんあった。

懇親会では、アルコールが体に行き渡ったころ、順繰りに自己紹介を兼ねてキノコ情報を伝え合った。――今年、キノコはおおむね不作。栽培キノコも一度ではなく、二度、三度とばらけて発生した。アミタケは遅くなって出た。マツタケは不作。ウスヒラタケが白こぶ病にかかっていた。ヒラタケ=真=もそう。

キノコバエに運ばれた線虫がヒラタケ・ウスヒラタケのひだに付着すると、ヒラタケ・ウスヒラタケは自衛のために虫こぶ(白こぶ)をつくり、線虫を食べてしまう。白い粒々がびっしり付いているヒラタケなどは、気味が悪いから手が出ない。栽培ヒラタケは当然、売り物にならなくなる。目の細かな防虫ネットをかけると効果があるそうだ。

この白こぶ病は、いわきではちょっと前まで知られていなかった。温暖化とともに媒介するハエが北上を続け、いわきにまで到達した、ということだろう。

食菌のクリタケは、イタリアの図鑑では毒キノコとして扱われている、ということを当欄で紹介した。その話もした。

すると中毒の度合いに話が移り、チチアワタケを食べて下痢をした、という人が出てきた。私も経験者の一人だ。今まで言わず語らずですましてきたが、食べると必ず下痢をする。「傘の裏の管孔をむけばいい」が、結論だった。

また一つ、いや三つ、四つ勉強になった。

2009年12月28日月曜日

あざき大根と唐辛子


きのう(12月27日)の続き。「道の駅よつくら港」のオープンイベントで福島県内といわき市内の物産を販売する“テント村”ができた。奥会津・三島町のブースであさぎ大根と唐辛子=写真、しそ味噌を買った。なかでも、あさぎ大根はそばに欠かせない辛み大根として有名な、会津の伝統野菜だ。味を試してみない手はない。

まず、ブレンドされた「唐辛子」だ。唐辛子、ジュウネン(エゴマ)、山椒、陳皮(ミカンの皮)の四味。一般に七色唐辛子、つまり七味と言われるので、四味では少々物足りない。が、試食したら香りが高い。ちょうど家の七味が切れかかっていたので、一袋を買った。300円。メーカーの小瓶でいえば、量は1.3倍ほどか。

去年、今年と激辛唐辛子を栽培したので、自家製七味は見送った。辛すぎて舌がひりひりする。味が壊れてしまう。タカノツメを栽培していたおととしまでは、晩秋、すり鉢をまたに挟み、くしゃみをしながらすりこぎを回して七味をつくった。粉山椒もつくった。その残りが今もあるが、風味はすでに落ちている。

今年は三島の四味が手に入った。あとで柚子の皮や胡麻、青のりなどを加えれば、わが家の七味になる。七味は自分の好みでどうにでもブレンドできるところが面白い。

さて、もう一つのあざき大根だ。形は大根のミニ版、いや色の白いニンジンだ。1本50円。野生の大根に近いのだろう。晩酌のおかずにすりおろしたのを口にした。辛いことは辛いが、「わさびの代わりにした」というほどの辛さではない。が、おかずに添えて食べると辛みが引き立つ。すしに添えられたわさび、それと同じハーモニーを奏でるらしい。

しそ味噌は、味付けをした味噌を大葉で巻いて5センチほどのスティック状に素揚げしたものらしい。「とうがらし入り」とはいえ、辛みより甘みが強い。この甘みが、ご飯には合うのかもしれない。

2009年12月27日日曜日

道の駅よつくら港


「道の駅よつくら港」がきのう(12月26日)、オープンした。場所は国道6号沿いの四倉港のそば。漁網倉庫を改修した「四倉ふれあい物産館」があり、それを再改修して、「物産館」と同じ物産品販売・館内フードコート・交流体験ロビーを備えた「交流館」が生まれた。いわき市内では初めての道の駅だ。

年に1~2回はそばを食べに「物産館」を訪れた。わが家からは車で10分ほどの近場だ。「物産館」から様変わりした「交流館」はどんなものなのか。オープン初日の昼前、様子見を兼ねて出かけた。

穏やかな天気に誘われ、近隣からやって来た家族連れで「道の駅」のふれあい広場はごった返していた=写真。ふれあい広場にはずらりとテントが立ち並び、県内各地の物産といわき市内の特産品を販売していた。オヤジバンドが演奏するベンチャーズの曲を聴きながら、特産品をのぞいて回った。

「交流館」に入ると、ラーメンやそばを食べる人々で席が埋まっていた。行列までできている。ラーメンかそばをと思ったが、断念した。港の見える南側は太陽の光が差し込み、明るく清潔でしゃれた感じ。館内を眺めるだけにして海へ出た。

川をはさんだ「交流館」の向かい側には広大な砂浜が広がる。「祝 道の駅よつくら港」の垂れ幕をつけた大凧が空を舞ったが、いかんせん風が弱い。間もなくへなへなになって落ちてきた。

「道の駅よつくら港」の物産と味はいずれ確かめるとして、“テント村”で奥会津・三島町の「あさぎ大根」と唐辛子(四味)を買った。その感想はあしたに。

2009年12月26日土曜日

クリスマスプレゼント


イタリアからクリスマスプレゼントが届いた。カミサンの友人が向こうに住んでいる。当欄で私がよくキノコのことを取り上げるために、イタリアの植物・菌類併載の図鑑=写真=を送ってくれたのだ。

有毒・不食・食合わせて120種のキノコが紹介されている。イタリア語だから本文は読めない。が、学名から和名を探れば少しは実体が見えてくるだろう。初めてキノコの学名と向き合った。

「新発見」があった。食菌のクリタケの学名(Hypholoma sublateritium)が手元の図鑑と異なっている。しかも「毒キノコ」扱いだ。

座右の図鑑は四半世紀前に初版が発行された。で、クリタケは旧学名(Naematoloma sublateritium)で載っている。それは仕方ない。驚いたのは、クリタケが「有毒」扱いだということ。ネットで調べたら、近年、クリタケから有毒成分が見つかり、海外では「毒キノコ」として扱われている、とあった――イタリアでも当然、そうしているわけだ。

彼らの愛してやまないヤマドリタケ(ポルチーノ)は「OTTIMO(最良の)」の格付け。ヒラタケ、そしてそんなにおいしいとは思わないアイタケも「OTTIMO」だ。日本人には美味のエノキタケは「COMMESTIBILE(食べられる)」程度。食べ方、つまり料理法が違うのだろう。マツタケは載っていなかった。

ついでながら、分かったことがもう一つ。前にスウェーデンで食べた軽食「スモールゴス トータァ」の「トータァ」が分からないと書いたら、それはイタリア語のTortaと同じ意味だと思う、とクリスマスカードにあった。要は、野菜や肉などの詰め物をしたタルト料理のこと。納得がいった。

クリスマスカードには夏休みに別荘で過ごした際、軒下に巣くったスズメバチの写真、そして10月初旬、いつもより早く自宅の庭にやって来たヨーロッパコマドリの写真も添えられていた。心が躍るプレゼントだった。

2009年12月25日金曜日

新型インフル


真夜中、といっても午前3時前。電話がかかってきた。深い眠りの底に金属的な音が響く。それを電話の呼び出し音と認識するまでに少し時間がかかった。ぼうっとした頭で受話器を取る。「子ども(上の孫)が発熱した、病院へ付き添ってくれ」という。

上の孫は2歳半。母親は生後半年の下の子から目を離せない。救命救急センターの診立ては急性胃腸炎。ところがその日の夕方、また熱が出た。もう一人のジイが付き添った。新型インフルエンザだった。

2日後、再び真夜中に電話がかかってきた。今度は下の孫が発熱した。上の孫はまだ微熱が残るものの熟睡している。夫婦で病院へ連れて行くので「留守番を頼む」という。やはり、新型インフルエンザだった。感染を予想してこまめに体温をチェックしていたら、熱が出た。それで、すぐ救命救急センターへ駆けつけた。

早めに処置したので、孫たちは小康状態を保っているようだ。で、次はわれわれ? 上の孫を抱き、下の孫を抱きして、ウイルスに感染する範囲内にいた。ワクチンも打っていない。やむを得ず外出するときには、マスクをかけて「感染源」にならないようにしている。

で、銀行へ出かけたら同級生が入って来た。「おい」と声をかけると、1秒ほど反応が遅れた。こちらは帽子をかぶり、マスクをして眼鏡をかけている。「これでサングラスだったら、あれだな」。銀行強盗だな、と言いたかったのだろう。2人のやりとりをそばで聞いていた男性が振り返りながらニヤリとした。

さて、新型インフルエンザもついに近親者のところまでやって来た。おととし、去年あたりは、どちらかというと「鳥インフルエンザ」を警戒する声が大きかった。それで、ハクチョウのえさやりを自粛する動きが広がった。撮影にも気を遣うようになった。接近して撮るのではなく、飛行中の姿を撮る=写真。それでよしとしている。

今はどうか。鳥より豚。水鳥への警戒を怠るわけではないが、新型インフルエンザと水鳥とはいったん切り離して考えてもいいのではないか、そんな思いでいる。

2009年12月24日木曜日

雨情年譜に新事実


いわきの平地、夏井川の堤防そばの畑でネギの収穫が始まった。夕方、農家の一角、ビニールハウスのなかで出荷前の作業が行われていた=写真。機械でネギの皮をむく。ネギ特有のにおいがかすかに漂う。ハウスの前の畑には掘り起こされた根深ネギが規則正しく横たわっている。

わが散歩コースは、いわきでも有数の根深ネギの産地。春に苗を定植し、土を盛りながら白根を長く太くする。そうして栽培したネギの収穫が冬に始まる。すると間もなく、新しい年がやって来る。

ネギの収穫が始まると、野口雨情の短い詩が思い浮かぶ。〈びュ びュ 風が/山から/吹いた/昨日も 今日も/畑 に/吹いた/畑の中の/葱坊主/寒いな。〉

ネギ坊主が形成されるのは晩春から初夏。確かにそのころ、最後の北風(季節風)が吹く。が、どうもこの作品、しっくりこない。最後の〈寒いな〉が真冬とつながってしまい、ネギ坊主ができる季節との間にずれを感じるのだ。

「三春ネギ」を種から栽培している人間にとっては、ネギ坊主は次へ、来年へとネギの命をつなぐ源だ。冬、畑に取り残しておいたものが、春になるとぐんぐん成長して「ぼんこ」をつくる。たっぷり寒さを経験して初めてできるネギ坊主だ、いまさら〈寒いな〉もないものだが――。

ま、それはさておき、雨情のことを調べていて、『定本 野口雨情』の年譜にない“事実”に行きあたった。雨情は北海道で新聞記者をやった。その前、水戸でも新聞記者をやっていた、というのだ。

いわきの新聞記者の大先輩、故荒川禎三さんの著書『石炭志――常磐炭田史』に、茨城の「常総新聞」で雨情と同僚だった新聞記者の「雨情談」が載っている。それを読んですぐ、水戸の知人に連絡したら、間髪をおかずに資料が届いた。

平成8年10月10日発行の「二松学舎大学人文論叢第57輯」に、金子未佳さんという人が「明治38年を中心とする野口雨情関連資料――地方紙『いはらき』、『常総新聞』との関わり」という論文を載せていて、私の知りたい事実がずばりと書いてある。

荒川さんが紹介している時期(大正6年)とは異なるが、明治35年5月以降、38年以前に「常総新聞」の記者をやっていたことが、それで分かった。「この新事実は、今までの雨情研究で全く言及されていない」と金子さんも書く。雨情年譜が書き換えられるのだから、「特ダネ」だ。金子論文に光は当たったろうか。

いわき市常磐の野口雨情記念湯本温泉童謡館で毎月おしゃべりをしている。11月と12月は「雨情ゆかりの人々」。「特ダネ」をつかんだのは、先週の土曜日(12月19日)におしゃべりする前日。うきうきして新事実を紹介した。館内にある雨情年譜のそばにそのことを書いた紙を張り出したら――そんな提案もあった。

2009年12月23日水曜日

ふとん干しと野焼き


快晴、無風。日曜日(12月20日)に夏井川渓谷の無量庵で年末の大掃除を敢行した。カミサンはふとん干し=写真。私は草木灰づくり。いわきでは冬もふとん干しができる。いわきの風土的な特徴の一つだ。

濡れ縁をつくり直し、広く長くしたのでふとん干しが簡単になった。家がゆがんできつい雨戸の開け閉めも、濡れ縁に出て踏ん張れるので楽になった。

私の中学校時代の同級生が大工さんをしている。しかも、私と同じように夏井川を下って来て、いわきで修業し、独立して近所に住んでいる。文字通りわが家の「ホームドクター」だ。4人も座ればいいところだった濡れ縁が、彼の手で宴会も開けるほどになった。

庭には口を開けたドラム缶。それがかまど。剪定枝を燃やしているうちに、ふとんを干し終えたカミサンが物置からぼんぼん燃える物をはきだした。私は片付けがへたなので、足の踏み場もないほど物置をごちゃごちゃにしてしまう。それを時々、私に代わってスッキリさせるのだ(たぶん、腹にすえかねて)。

無量庵へ通い始めたころ、つまり10年以上前、対岸の山の向こう、三和のTさんの所へ遊びに行って間伐材の木っ端だの、角材だのをもらってきた。何かに利用できると考えてのことだが、それがそのまま物置に眠っていた。いつの間にかそれらがあることも忘れていた。ほかに、支柱用の竹筒、板材、段ボール……。

午前11時ごろに始めた「「野焼き」が終わったのは、午後2時に近かった。木灰はたっぷり取れた。物置もスッキリした。奥行き2間ほどだが、真ん中に奥まで歩いて行けるスペースができた。どこに何があるか、ひとわたり眺めて目に焼き付けた。

3時間も夢中で火を燃やし続ければ、気持ちもスーッとする。が、体はきな臭い。「火遊び」をしたのだから当然だ。ともかくも、年越しのための準備が一つ済んだ。

2009年12月22日火曜日

冬至の朝


きょう(12月22日)は冬至。静かな朝を迎えた。きのうのいわき民報「健康歳時記」にユズ湯の話が載っていた。「ユズ」は「融通」、「冬至」は「湯治」のごろ合わせになっている――ほんとかいなと思いながらも、面白かった。まさか去年と同じ文章は書けないから、記事を配信する通信社も苦労しているのだ。

で、一番昼の短い日だ。9月に北欧を旅行した。夏には「白夜」になるところがある。冬は逆に「黒昼」になるところもあるに違いない。そんなことが頭に浮かんだ。

日本では、というより週末に私が過ごす夏井川渓谷では、尾根から太陽が顔を出すのは午前9時、尾根に沈むのは午後3時。スウェーデンの首都ストックホルムの、真冬の日照時間と変わりがない。ただし、こちらは谷間だからすぐ暗くなるわけではない。日が翳って寒くなるだけだ。

おとといの朝10時前、無量庵に着いたら、やっと尾根から少し下が朝日に照らされていた=写真。わが無量庵は一番谷に近いところにある。そんな場所だから、畑の土は、5センチほどは凍っている。霜柱も立つ。週末、急に寒波がやって来たせいもある。

北欧はメキシコ湾暖流のおかげで緯度の割にはそれほど寒くない、南から北へではなく、西から東へ、つまり海岸部から内陸部へ向かうほど寒くなる、のだという、ノルウェーの第二の都市・ベルゲンの地形・気候を思えば、そのことがたちまち了解できる。

ノルウェーの山の向こう、東の国のストックホルムはどうか。ここは、夏は札幌より少し涼しく、冬は少し暖かい。やはりメキシコ湾暖流の影響を受けているのだろう。

ただし、ストックホルムのずっと北、北極圏の都市キルナというところは、夏は白夜の代わりに冬はほぼ1カ月間、太陽が拝めないそうだ。12月8日、日の出・日の入りまでの昼はざっと19分。1週間後の15日から年明けの元日は太陽が姿を見せない。その1週間後の1月8日になって、昼はやっと1時間37分になる。

朝からユズ湯、もいい。が、遠い国の「黒昼」にも思いを致すと、太陽のありがたさが倍加する。そんな気持ちにさせられる「一陽来復」の日だ。

2009年12月21日月曜日

夏井川渓谷に雪が


きのう(12月20日)の朝、いつものように夏井川に沿う県道をさかのぼって夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。師走も後半。一年の始末をつける意味でも庭木の剪定枝、それを燃やさなくてはならない。庭の刈り草も燃やしたい。草木灰をつくるのが毎年暮れの行事になった。そうして初めて、気持ちがすっきりして正月を迎えられる。

JR磐越東線の高崎踏切を過ぎて「地獄坂」を上りきると、夏井川渓谷だ。夏井川渓谷に入ったとたん、道端に雪が残っているのが目に留まった。さすが「超広域都市」のいわき市だ。「サンシャインいわき」でひとくくりにするわけにはいかない。あらためて、いわき市は「3極3層=ダブルトライアングル」であることを実感した。

ざっと1カ月半前、匿名さんから当欄にコメントをいただいた。「いわき市は客観的にみてどう映るのか、よい面も悪い面も含めて」「土地柄は人柄ではないか」「いい街はたぶん、いい人たちが街そのものを形成している」――悶々として答えようがなかったのだが、この“ふっかけ雪”を見て私の「いわき観」を話してみたい、という気になった。

いわきの地域構造をどうとらえるか――そのために、もう30年以上は費やしたかもしれない。いわきという地域が広すぎてつかみどころがないのだ。で、自分なりにたどり着いたのが、川=流域による把握。その結果としての「いわきはダブルトライアングル」だ。

「3極」は平(夏井川)・小名浜(藤原川)・勿来(鮫川)。それぞれの流域の中心=極をなす。「3層」はいずれの流域にも共通するが、ウミ(沿岸域)・マチ(平地)・ヤマ(山間地)のつながりのことだ。広いいわきをコンパクトなかたちに還元してとらえる。そうした方が理解しやすいというのが、いわきをウオッチングしてきた結果としての私の考えだ。

マチでは雪は降らなかった。が、ヤマでは雪が降った。勿来では豪雨だった。が、平は晴れ、雨は降らなかった。風土が違う。いわきにはウミの風土、マチの風土、ヤマの風土があるのだ。そして、同じマチの風土でも天気が違う。これは大きい違いだ。土地柄は人柄、その通りだと思う。

だから、たとえば切り通しの種子吹き付け工事を、ウミ・マチ・ヤマの風土抜きに一律にやっていいのか、風土に合わせて中身を替えるべきではないのか、ということを考えるようになって、3極3層の「ダブルトライアングル」にたどり着いたのだった

人口の8割が暮らしている平地について言えば、よい面は冬の日照時間がたっぷりあること、悪い面は、というには抵抗があるが、それの裏返しで冬の寒さ・雪への関心が薄いこと、つまり山地や北国の人たちに比べて冬の暮らしの知恵が足りないことか。これは文化の比較だから、優劣ではない。

阿武隈の山の中で生まれ育った私には、いわきの平地の冬の住みよさがなんとも楽でならなかった。いわきは「春夏秋、ちょっと寒い秋。冬がない」と思ったものだ。

さて、話を現実に戻す。夏井川渓谷を進むごとに雪の量が増えてきた。籠場の滝ではすぐ下流の岩盤が雪で覆われていた。

こうなると、「野焼き」よりまず探検だ。無量庵に着いたあと、森に入った。北向きの斜面と小道にも雪が残っていた=写真。小動物の足跡がくっきりと残っている。しばらく今冬初めての雪を楽しんだ。

2009年12月20日日曜日

猫小屋


わが家の小さな庭に壊れかけた犬小屋がある。ばらして片づけたいのだが、カミサンが聴き入れない。さわらぬカミにたたりなし。ほうっておいたら、いつのまにか野良猫どもが集まって、だんごになって夜を過ごすようになった。午後遅くにはもう犬小屋に入り込んでいる=写真

庭は車の駐車場でもある。夕方、車で帰って来ると、わらわらと猫どもが犬小屋から飛び出して逃げる。家の濡れ縁や箱の上でひなたぼっこをしていて、やはりわらわらと逃げ出すときもある。いつも私が「ガオッ」と吠えるからだ。

ところが、車で出かけるためにエンジンをかけるとすぐ、どこからともなく現れて庭の方に入り込む。この猫の、人間をヘとも思わないしたたかさは何なのだ。人をバカにするにもほどがある! 車を庭へ戻して追い散らしてもシレッとしている。そこが猫の猫たるゆえんなのだろう。

カミサンは猫も、犬も好き。カミサンのきょうだいもみんなそう。私は猫でも、犬でも1匹だけなら好き、複数は駄目――という人間だから、どうしてもカミサンとは猫のことで衝突する。

猫の毛が服に着く、黒いマットに散乱している。なんとかしてくれと声を荒げても、猫かわいがりの人間には通じない。野良猫を見ると「ガオッ」とやるのは、だから腹いせ、八つ当たりでもある。死んだら化けて出られそうだ。

家猫が3匹いる。それだけでへきえきしているのに、庭の犬小屋、今はもう「猫小屋」だが、そこに4~5匹が来て夜を過ごす。家の床下をすみかにしている別の猫親子もいる。

もうあきらめた。猫どものサバイバル精神に負けた。見て見ぬふりをするしかない。でないと、いつも腹を立てているようになるから。

2009年12月19日土曜日

新川を歩く


カミサンを、優良運転講習会場のいわき市保健福祉センターに送り届けた。ペーパードライバーで、身分証明書の代わりに免許証を更新している。当然、無事故無違反だ。受講時間は30分。家に帰ったらすぐ迎えに戻らなくてはならない。ばかばかしいので、センター前の新川を歩いて時間をつぶした。

新川は湯の岳に発し、内郷・平の市街地を東に流れ、白鳥たちが羽を休めている平・塩地内の対岸で夏井川に合流する。河川改修が行われ、親水化が図られた。が、大水のたびに土砂が堆積し、ヨシが繁茂して、流れが狭められた。

河川敷に遊歩道が設けられている。岸辺は枯れヨシで覆われ、ところどころ流れが見えない。“どぶ川”は再生しつつあるのだろうか。水が透き通っていた。水深はざっと30~50センチ。岸辺に近づくと、枯れヨシをついたてにしていたカルガモが逃げ、コガモが飛び立った。ダイサギが下流からやって来た=写真。アオサギも現れた。

ところどころにサケの死骸が見られる。下流の夏井川にサケのやな場がある。大水が出ると水没する。そのとき、やなを越えてさかのぼり、支流の新川へ迷い込んだのが力尽きたのだ。

毎日の夏井川の散歩では、海から川へ帰って来てさらに上流を目指すサケの姿を想像する。上流の新川では、これがちょっと違った。産卵場所までたどり着いて息絶えた、そんなサケのイメージが浮かんだ。水底は石や砂利のない砂泥、産卵には適していない。が、ともかくもサケは自分の一生の最終章を、人間に遮られることなく完遂することができたのだ。

内郷の新川を歩いたのは初めてだった。遊歩道には大水の置土産のごみや泥が見られたが、思ったよりは歩きやすかった。現に複数の人が遊歩道を歩いていた。手近な散歩コースとして住民からは利用されているのだろう。

河川景観とはしてはあまりほめられたものではない。が、川の流れがここまで透明になってきたのだから、もっともっと住民がごみを拾ったり、枯れヨシを焼き払ったりすれば(やっていたらごめんなさい)、新川自身が活力を取り戻すのではないか――そんな感想を抱いた。

2009年12月18日金曜日

再び藁谷達について


草野心平記念文学館で開催中の「ふくしまの文学展 浜通り編」に絡んで、藁谷達(さとる)の記録文学『憎しみと愛』に衝撃を受けた話を前に書いた。おととい(12月16日)、当欄に藁谷さんに関係する方からコメントをいただいた。で、同日付福島民友新聞の文化欄に藁谷達の記事が掲載されていることを知った。

「藁谷達の世界再発見/極限状況の人間ドラマ、精神の独立保つ作家の矜持」という見出しで、文化部の森哲也記者が、新聞としては異例の長さ(12字×108行)の紹介記事を書いている。久しぶりに手ごたえのある新聞記者の文章を読んだ。

〈本質を見抜く観察力と自己を見失わない精神から生まれる、歴史学者を思わせる簡潔な文体からは、心の高貴さと温もりが伝わり、その世界の空には、美しい思想の断片がきらめいている〉

これだけでも十分、この記事を読んだかいがある。森記者も『憎しみと愛』を読んで衝撃を受けたのだ。だから、この本のすごさを伝えたい――上司に訴えて長文原稿のOKを勝ち取ったに違いない。

〈乾いたように簡潔で美しい自然描写、仲間たちの思想的な変化の中で起きる民主グループなどとの対立、ソ連人将校の振る舞い、同じ収容所のドイツ人との交流、「ダモイ」(注・「帰国」)が決まるまでの心の葛藤などが、冷静で正確な筆致で描かれ、まるで、自分がそこに居合わせ、追体験するような思いに捕らわれた〉

『憎しみと愛』の世界を、それこそ正確な筆致で要約・紹介している。

豊富な地下資源が眠るシベリアに不足しているのは労働力。資源を開発するためには囚人を働かせよ――。

「帝政ロシアも、ソ連も、ロシア国民にひどいことをしてきた」(立花隆)。ドストエフスキーもそれで一時、シベリアへ送られた。『死の家の記録』がそれ。ソルジェ二ツィンも収容所暮らしを余儀なくされた。

先の大戦が終わるころ、ヤルタ会談が行われる。その流れのなかでソ連は北海道占領を画策するが、アメリカに反対される。ならば、というわけで「スターリンは、急に、満州で得た捕虜をシベリアに送って、強制労働に服させることを思いつく」(立花隆)のだった。

以上のことは、立花隆著『シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界』で知った。画家香月泰男の本『私のシベリヤ』は、実は若く無名だった立花隆(当時29歳の東大哲学科の学生)がゴーストライターを務めたのだった。その本の中にこんなくだりがある。

「伐採した松の枝を少しへし折ってきて、収容所に帰ってから、スプーンをこしらえた。ハイラルにいるころ、立派な万能ナイフを拾ったことがある。(略)ネコババしてシベリヤまで持ってきていた。何度かの持物検査でも、無事に隠しおえてきた。このナイフとノミで形をつくり、後は拾ってきたガラスの破片で丹念に磨いて仕上げた」

それと同じようにつくっただろう木製のスプーンを、今年6月のミニミニリレー講演会(いわきフォーラム‘90主催)で見た。いわき市平のごく狭い地区に住む、複数の人からシベリア抑留体験談を聞いた。そのときにスプーンなどが展示された=写真

少し遠回りになったが、極限状況における身の処し方は、たぶん香月泰男も藁谷達も同じだったのだ。香月は、いや立花隆は香月の言葉をこう書いている。

「一人の絵描きとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。(略)この絵描き根性があったがゆえに、ほかの兵隊たちが完全な餓鬼道に陥っているようなときにも、一歩ひいたところに身を持していることができたのだろう」

藁谷達に当てはめれば「一人の絵描き」の代わりに「一人の人間」、いや「人間」ではきれいすぎる、「物書きを目指す一人の人間たらんとする精神」がおのれを抑制し、「一歩ひいたところ」にいて状況を観察し、内なる世界で自己批評を積み重ねた、つまり考えることをやめなかったからこそ、森記者のいう「冷静で正確な筆致」が可能だったのだ。

それは『極光の下に』という歌集を出した歌人大内与五郎の作品のなかにも見いだしうることだ。〈考へること面倒になりゆきてわれにも兆す俘虜型があり〉。面倒なことに耐え抜いたからこその記録文学であり、短歌であったといえようか。

2009年12月17日木曜日

雑誌「うえいぶ」42号


いわきの総合文化誌「うえいぶ」42号が出た。というより、当事者の一人として編集に携わった。誤植その他の間違いはすべて私の責任。「まな板の鯉」である。

〈追悼 里見庫男〉を特集した。70人の追悼文を収載した。雑誌ができて半月、発行主体の「うえいぶの会」会長、私、ほか2人の計4人で里見さんの家を訪ねた。といっても、自宅はいわき湯本温泉の老舗旅館「古滝屋」内。

エレベーターで自宅に向かい、初めて里見さんのプライベートな空間に立ち入った。玄関の近くに、里見さん愛用のファクシミリがあった。“召集令状”はこれから発信されたのだな――。仏前に「うえいぶ」42号を献呈し=写真、しばらく奥さんと里見さんの思い出話にふけった。

里見さんはいわき地域学會の初代代表幹事。そのとき、初めて出会い、課題を与えられ、江戸時代の俳諧を調べるようになった。そのことは前に書いた。雑誌「うえいぶ」も里見さんの肝煎りで創刊された。なぜ里見さんが雑誌発行にこだわったか。追悼号を出す過程でようやく分かったことがある。

大正時代の幕が開けると同時に、山村暮鳥がいわき(旧平町)にやってきた。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。文学の伝道者だった。そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、吉野せいらが育った。

その伝統、いや血脈を里見さんは大事にしてきた。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている、そう思いながら『うえいぶ』の発行を続けている」

今年4月、里見さんが68歳で亡くなった。駆け抜けていった人生。それを「うえいぶ」に記録することにしたのだった。

奥さんと話しているうちに、浄土にいる里見さんから新たな宿題を与えられたように感じた。里見さんを里見さんたらしめたもの、そのひとつは「いわきの資料がいわきから流出するのはしのびない」という思いから買い支えた、古文書などいわき関係資料だ。これを生かす道を考えなくてはならない。

里見さんが行事案内その他でかけまくったファクシミリ、これは旧式のもので、100人規模の集まりのときにはひたすらりファクス番号を押し続けたという。ファクスを送る、出欠の返事がファクスで返ってくる。毎日ファクスはうなり続けたに違いない。それだけでも大変な仕事だと、あらためて思うのだった。

2009年12月16日水曜日

白鳥が100羽に


ちょっと少し早く起きた日、といっても薄明るくなってからだが、散歩へ出かけて夏井川の堤防に出ると、ハクチョウにえさをやっているMさんが軽トラで帰って来た。会えば必ず車を止めて一言、二言しゃべっていく。「3羽はあきらめた。しょうがない、姿を見せないもの」

3羽とは翼をけがして北帰行がかなわなくなった残留コハクチョウの「左助」「左吉」「左七」だ。一年中、3羽にえさをやっていたMさんだが、今年の初夏以降、「左吉」と「左七」の姿が消え、河口にいた「左助」も姿を見せなくなった。天敵にやられた、とMさんは思っている。思いながらも、「もしや」と奇跡を信じてきた。もう三回くらいあきらめた話を聴いた。

「今は100羽近く来てる」。師走に入って10日ごろから急に増えた。オオハクチョウも混じっている。河川改修工事が行われている平・塩の越冬地。日中は重機が動き回っている。「工事をあんまり気にしないみたいだ」。それはよかった。

とはいえ、昨年までの落着きはない。工事が始まるころには、5羽、2羽、十数羽と、朝日に向かって飛び立つ群れがある=写真。夕方には逆に海の方から戻って来る。

9月に北欧を旅したあと、ほぼ40年ぶりにアンデルセンの童話を読み返している。「みにくいあひるの子」にも、「絵のない絵本」(二十八夜)にも白鳥が登場する。挿絵は決まってコブハクチョウだ。そうか、デンマークの白鳥はコハクでもオオハクでもなく、コブか。向こうでは留鳥ないし漂鳥ではないだろうか。

コブはくちばしが赤い。その基部に黒いこぶがある。で、コブハクチョウ。オオハクとコハクはくちばしが黒く、基部の黄色い切れ込みが小さいとコハク、くさび状に長く食い込んでいるとオオハク。

となると、アンデルセン童話の白鳥はコブを前提にして読まないといけないだろう。種が違うのだから、日本の白鳥に合わせたら“誤読”してしまう。北欧旅行のあと、そんなことまで考えるようになった。

2009年12月15日火曜日

皇帝ダリア


どうにも分からない「木の花」があった=写真。冬に咲く「木の花」はサザンカやヤブツバキ。今年初めて見るピンクの大輪の花だ。こんな「木の花」ってあったっけ? 在来種ではないから、「園芸木」に決まっている。

朝晩、散歩するコースのうち、昔からある近所の家の庭に、その「木の花」があった。高さ3メートルほど。てっぺんにピンクの花が群れ咲いていた。凛とした青空をバックに、ピンクの花が人間を見下ろしている。そんな風情だ。つぼみもたくさん付いている。


11月29日に常磐市民会館で「童謡祭」が開かれた。ステージにコスモスを大きくしたような、ピンクの花がでんと飾られてあった。前日、散歩コースで見た「木の花」と同じではないか、そうに違いない。

ネットで検索しても分からない。半月も悶々としていたあとの日曜日(12月13日)、ある住宅街を車で行くとその花が目に入った。「この花、なんて言うんだっぺな」。思わず口にしたら、助手席から即座に答えが返ってきた。「皇帝ダリア」。「えっ!」と顔を見た。「○△さんの家にもあるの」。教えられたばかりらしい。

木ではなかった。メキシコ原産で、身の丈が3メートル前後、それ以上になるのもあるという。秋から冬にかけて咲く短日植物、つまり日照時間が短くなると咲く植物だ。

名前を知ってから、散歩の途中に部分、部分を観察するようになった。茎は緑色、狭い間隔で節があり、真竹のように太い。1本、2本。3本はあったかどうか。太い茎を鉄棒か何かに縛りつけてある。木になりたがっているとはいえ、多年草だ。支えがないと台風がきたらひとたまりもない。

同じように感じる植物が二つある。一つはトウモロコシ。もう一つはヒマワリ。堀辰雄は「向日葵(ひまわり)は西洋人より背が高い」と言ったが、皇帝ダリアはそれを超えている。

いやはや地球上には想像力を超える物・事がある。皇帝ダリアは草の世界の恐竜かもしれない。そんなことを思わないではいられなかった。

2009年12月14日月曜日

師走のもちつき


きのう(12月13日)、カミサンの実家へもちつきの手伝いに行って来た。師走前半恒例の作業だ。米屋をやっているので、お得意さんや昵懇にしている人に、一年の感謝の意味を込めてもちを贈る。機械でもちをつくるとはいえ、4人による一日がかりの作業だ。

私はもち米をふかすかまどの火の番、「釜じい」だ。かまどは三分の二に切ったドラム缶。それに手を加えて釜が載るようにした。釜にお湯を張って沸騰させる。釜の上には蒸籠(せいろう)が二つ=写真。蒸気がまんべんなくゆきわたるように火力を一定に保ち、ときどき釜にお湯を補給するのも私の役目。

焚き木は家の裏の庭が供給源。大きなケヤキの木がある。去年の伐採枝がわんさと残っている。木造建築の廃材も知り合いから届く。それを義弟が1メートルちょっとの長さに切っておく。焚き火をやる感覚で一日、火とにらめっこだ。

毎年のこととはいえ、一年にいっぺんだから手順を思い出すまでには少々時間がかかる。30分もたつとコツが分かってくる。新しくもち米を入れた蒸籠が来る。ホイ来たとばかりに、釜に載っている蒸籠のふたを開けて二段重ねにするのを待つ。釜の湯が減れば、練炭七輪にかけておいたお湯を補給する。ころあいを見て焚き木をつっこむ。

かまどに近い左足のひざが痛いほど熱くなる。上半身が汗でぬれる。去年、義弟からもらって飲んだ冷たい「創健美茶」がうまかった。今も、なにかというと飲んでいる。「創健美茶」でなくてもよかったのだが、「創健美茶」だったので記憶に刷り込まれてしまったのだろう。

もちつきが終わると、次は年賀状――そんなことが頭の隅っこで点滅する。年内には書いたことがない。12月15~25日までに投函すれば元日には配達される――ということは承知していても、まだ手つかずだ。年賀はがきは用意してある。このままでは、投函は元日以降になりそうだ。

2009年12月13日日曜日

激辛トウガラシの利用法


面白がって激辛トウガラシを栽培した、辛すぎて使い道がない、もう栽培はやめた――ということを前に書いた。

畑に残った赤い実、青い実を捨てるわけにもいかない。もぎって乾燥させておけば、何かに使えるかもしれない。で、実を摘んで激辛トウガラシの茎をつかんで引っこ抜いた。夏井川渓谷の無量庵の畑は、それで三春ネギ以外はなにもなくなった。最後の激辛トウガラシをわが家に持ち帰り、縁側で干している=真。

白菜漬けの風味と滅菌に使うだけの量はもう十分にある。が、秋に収穫した真っ赤っ赤の実でも、内部がかびて外の皮の色が黄土色に変色したものが結構ある。縁側に出して干したわけではないので、そんなことが起きたのだろう。その反省から、とりあえず縁側に持ち出して陰干しをすることにしたのだった。

前にバカな考えを起こして、車の中に置いておけば日中は灼熱地獄、すぐ乾燥するに違いないと思って試みたが、駄目だった。進呈用に数本を封筒に入れておいたところ、逆にむれたかしてカビが生えた。収穫した激辛の3割くらいはそうして「生ごみ」になって畑に戻った。今年も2割ほどカビにやられた。

難しい。使い道がない、かびる。――そんなときに、たまたまトウガラシの活用法を知った(12月11日付いわき民報)。これからの季節、鍋物が増える。その鍋に細かく刻んで加えると味が引き締まるのだという。

それに、もう一つ。ポリバケツにお湯を張り、ちぎったトウガラシを入れて足湯にすると血行がよくなる――という民間療法を紹介していた。ポリバケツは大の男の足には小さいのではないか。洗面器でそれを試してみようと思う。が、激辛だ、水虫の足がヒリヒリするかもしれない。

2009年12月12日土曜日

オバマだけ?


きのう(12月11日)の新聞は、米国のオバマ大統領がノルウェーでノーベル平和賞を受賞した記事を大きく取り上げていた。実績がない、アフガニスタンの兵員増派を決めた、授賞式の関連行事をすっぽかした――。批判的な論調が多かった。

アフガニスタンで厳しくやるぞ、という指導者に平和賞を贈るのだから、マスコミが矛盾を突いて批判的になるのは当然だ。で、それはそれで頑張ってもらいたい。が、同じ日にスウェーデンで今年のノーベル賞の授賞式が行われた。その記事が新聞に見当たらない。なぜだ。

物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、経済学賞はストックホルムで授賞式が行われる。ノーベルの生まれた国だから当然。日本人が一挙4人も受章した去年の報道とは打って変わって、まるでひとごとではないか。

と、こんなことをいう私もまた、日本人以外の受賞者には興味がない。というより、知らない。それが去年、文学賞にフランスのル・クレジオ氏が選ばれた。年齢的にはちょっと上ながら、ほぼ同世代といえる人だ。

18歳のとき、フィリップ・ソレルス(1936年生まれ)というフランスの若者が書いた「奇妙な孤独」という小説にのめり込んだ。そのあと、同じようにル・クレジオ(1940年生まれ)という若者が「調書」という小説でデビューした。この二人は、わが青春前期にあっては一種の灯台だった――と、思い出を語ってもしようがない。

ノーベル賞のニュースは受賞が発表されたときがピークで、あとは関係する国・地域が盛り上がるだけなのにすぎないのか。ル・クレジオ氏の受賞は、こちらがたまたま知っていて、本も読んでいたから印象が強かった。それは間違いない。

が、今年は授賞式のあとに行われる大晩餐会と舞踏会の会場である、ストックホルム市庁舎=写真=を見てきたこともあって、ノーベル賞をはじめ北欧関係のニュースを注意して見るようになった。

すると、東京の五輪落選、ノーベル賞受賞者発表以外は、見事なほどゼロだった。ノーベル賞授賞式も、朝に届く2紙についていえば、オバマ大統領以外の記事はなかった。

新聞は、いや人間の関心は「近く、深く」(ローカル)、そして「遠く(広く)、浅く」(グローバル)というのが一般的だろう。全国紙といえども、日本というローカルな視点で新聞をつくっている。ゆえに、オバマ大統領以外は無視、となったのだ。

2009年12月11日金曜日

ときどき朝寝坊


日の出が遅く、日の入りが早い。およそ10日後には冬至である。「一陽来復」だ。これから昼の時間が長くなる――心理的には陰が陽に転ずる日だが、暦の上では日照時間が一番短い日だ。

朝の散歩は、窓の外が明るくなってからする。夏場は5時前に起きることもある。ところが、今はどうだ。6時でも窓の外は暗い。明るくなるまでもう少しふとんに入っていよう、となるから寝坊してしまう。最近は、それが増えた。

時間は一つではない。人間の世界は腕時計の時間が支配している。自然の世界はそこに生きるものたちが、そこにある環境に合わせて自分の時間を生きている。動物の時間、植物の時間……。冬に眠る木々もあれば、冬に姿を見せるキノコもある。昼間、動き回るもの、夜間に動き回るもの……。種によって時間は異なるのだ。

ある日、早朝6時過ぎに用事があって車で家を出た。小雨が降っていた。私ならまだ暗いし、雨が降っている、散歩は中止――となる。住宅街を抜けて水田地帯に入ると、傘をさし、レインコートを着て、犬を散歩させている人たちがいた。犬のために、いや犬を連れていない人もいたが、腕時計の時間に合わせて、暗くても出かける習慣が身についている。

飼い主は、散歩のあと仕事に行かなくてはならないのかもしれない。腕時計に合わせて働いているのかもしれない。私も現役のころはそうだった。出社時間、締め切り時間、昼休み、すべてを腕時計の時間が支配していた。

朝寝坊して散歩が1時間ほど遅くなったために、夏井川の河川敷にダンプカーがずらりと勢ぞろいしている光景を目にするようになった=写真。その日の土砂撤去作業が始まる前、運転手は集まって雑談をする。女性運転手の笑い声が聞こえるときもある。彼らは腕時計の時間に合わせて、暗かろうと明るかろうと、同じ時間に家を出て来るのだ。

朝6時を過ぎると、決まって「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と暖気運運転をしながら家の前を通るダンプカーがある。それで、時計を見なくても時間が分かる。今日もたった今、通り過ぎたばかりだ。

ほんとうは昼の時間に合わせて生活を営めるのが一番なのかもしれない。空が明るくなったら起きる、暗くなったら寝る――繰り返すが、時間は一つではない。腕時計の時間のほかに、太陽の時間がある。その時間を暮らしに少し取り入れる。それだけでもいくらか気持ちに余裕が出てくるのではないか。

2009年12月10日木曜日

アルタン公演


アイルランドの歌手・音楽家、エンヤを知ったのは何年前だろう。上の息子がまだ東京にいたころ、彼女のCDを持って帰省した。それを聴いてとりこになった。10年以上はたっているか。以来、アイルランドに興味を持っていろいろな本を読んできた。

カミサンの知り合いの若い女性からは、ケルト音楽のカセットテープをもらった。いわゆるトラディショナルミュージックが中心で、「かわがらすのストラスペイとリール」といった曲はそれで覚えた。郡山市までリバーダンスの公演を見に行ったこともある。

いわきのアリオスで日曜日(12月6日)、アルタンとカトリオーナ&クリスによるコンサート「ケルティック・クリスマス」が開かれた。アルタンは「ケルトの最高バンド」と称されるグループ。6度目の日本公演をいわきのアリオスから始めた。カトリオーナ&クリスはスコットランドの若いユニット。北欧系の音楽も何曲か演奏した。

アイルランド、スコットランド、北欧(スカンジナビア半島)とくれば、ケルトとヴァイキングだ。ユニットの一人、クリスはシェトランド諸島の出身。地球儀で確かめたら、そこはスコットランドの北というより、ノルウェー・ベルゲンの西の海に浮かぶ島々だった。

15世紀の初め、ノルウェーもスウェーデンも支配していたデンマークの王が、娘をスコットランド王に嫁がせるとき、持参金代わりに島々をくれてやったのだという。北欧とのつながりは深い。北欧系の曲が多かったのもうなずける。

一方のアルタンは、アイルランド共和国の北西端、北アイルランドの西にあるドニゴール州が根拠地。すぐ北東のスコットランドとは昔から交流が盛んだった。エンヤもドニゴールが根城だ。美貌を誇るアルタンのフィドラーにして歌手、マレード・ニ・ウィニーとは、歩いて行き来できるようなところにいたりして。

公演が始まる前には、中劇場ロビーにアイルランドの「パブ」が出現した。チラシに書かれてある「プレパフォーマンス」というやつで、ギネスの黒ビールを売っていたが、車で行ったので我慢した。

かたわらでは、会津のデュオ「フェアリーランド」がケルティックミュージックを演奏し、いわきの3人組も続いて演奏を披露した。最後は5人によるセッションが行われた=写真

師走のひととき、ロビーで、中劇場でアイルランドの片田舎にあるパブに入ったつもりで音楽に聴き入った。なかで、二つ面白いと思ったことがある。

クリスの出身地のシェトランド諸島は、緯度が高いので夏は白夜になる。「昼は一生懸命働いて、夜は一生懸命遊ぶ」と聴衆を笑わせて、白夜をテーマにした曲を披露した。アルタンのマレードも「アイ・ウィッシュ・マイ・ラブ・ワズ・レッド・レッド・ローズ」を歌い、演奏する前に、「ロバート・バーンズの『赤い赤いバラ』とは違うわ」と、わざわざ断りを入れた。

バーンズは今年生誕250年。なかなか発展家だった男で、あちこちで子どもをつくった。日本では「蛍の光」の原詞作者として知られる程度だが、向こうでは「スコットランドの国民詩人」だ。同時代の人間を日本に探れば小林一茶。アイルランドにもその名が鳴り響いているのは、ドニゴール州とスコットランドの交流の濃密さからいって当然か。

バーンズは、野口雨情が若いころ私淑した。いわきの農民詩人三野混沌も同じく、バーンズの詩作品に引かれた。そんなことが頭にあったので、マレードの言い方がおかしくて笑った。向こうでは今もバーンズが生きている。

2009年12月9日水曜日

あっぱれな人生


寡黙にして温厚、そして篤実――それを絵にかいたような人だった。路線バスの運転手として、家を守る妻とともに5人の子どもを育てた。マイホームも建てた。昨日の続きの今日、今日の続きの明日を、つまり連続する日常を淡々とつつましく生きた。きのう(12月8日)、義叔父の告別式が行われた。

義叔父の妻である私の叔母は毒舌で知られた人だ。数年前に亡くなったとき、同じ葬儀場で「精進あげ」が行われた。誰もが毒舌の人を懐かしく回想した。だいたいがやっつけられた話だ。

毒舌は耳に痛い。が、腹が黒くないから、心にはしみる。私自身、ズバッと切られてたじたじしたことがある。それでも、不思議と包まれているなぁという感覚があった。甥っ子だからか。いや、徹底したリアリズム、つまりバランスのとれる人だったからだ。

毒舌と寡黙。妙な組み合わせが、うまくいった。「しゃべる人」である妻に対して、夫は「見る人」で通した分、いや通せた分、義叔父の心は広かったのだと、今にして思う。酒を飲まない代わりに、ぼた餅が大好きだった。通夜にはその餅が振る舞われた。

叔母と同じ阿武隈の山の中で生まれ育ち、平で路線バスの運転手になった。叔母と結婚して子どもが生まれ、「幽霊橋」(高麗橋)の下の住宅に住んだ。そこへ幼いころ、祖母に連れられて泊まりに行ったことがある。子どもはまだ、私と年の近い娘4人、いや3人だったか。末っ子の男の子(喪主)は生まれていなかった。

1歳上の長女らに誘われて向かいの急斜面を上ったら、遠く、道にせり出して飯野八幡宮の鳥居が見えた。谷底のような道端から見上げる斜面の上が平らになっている、しかも家の上に橋が架かっている、鳥居が見えるというのは、山猿には不思議でならなかった。そこが磐城平城の一角だったと知るのはずっとあと。

やがて、義叔父はいわき市が合併する前の三和村へ異動になった。車庫を兼ねた住まいへも、祖母と一緒に訪ねた。小学校6年の夏休みだった。「じゃんがら念仏踊り」をそのとき初めて知った。なぜこういう面白いものがここにあって自分の町にはないのだろうと、うらやましく思ったことを覚えている。

戦後の復興と、それに続く高度経済成長を、地方のそのまた地方の片隅で、路線バスの運転手として支えてきた。無事故運転で通したことはすごいと思うのだが、それを自慢したこともない。娘たちが「怒られたことがない」という穏やかな心根。まさしく路線バスの運転手が天職だった。典型的な庶民として生きた、あっぱれな人生だった。

葬式後の「精進あげ」を終えたあと、ひとり国道49号へ向かい、叔父叔母がついの棲家にした旧上三坂宿=写真=へ寄り道して、叔父叔母夫婦のマイホームを横目に見ながら帰って来た。

2009年12月8日火曜日

いとこ再会


いわき市の北端、三和町に住む88歳の義理の叔父が亡くなって、通夜へ行って来た。三和でも田村郡小野町と接する三坂地区。式場は小野新町駅近く、つまりいわき市外だ。夕方、夏井川に沿う県道小野・四倉線を駆け上った。

同じ田村郡、いや田村市から兄夫婦が、首都圏から1人の従弟が車で、2人の従妹が列車でやって来た。孫の病気のために来られない従姉もいた。従妹2人は、坊さんの読経が終わるとすぐ駅へ駆けつけるという慌ただしさ。再会して「やぁ」、別れるときに「じゃぁ、気をつけて」。交わした言葉はそれだけだった。

そろそろ孫ができたり、孫の数が増えたりする年代になった。1歳ちょっとの孫が病気になり、母親である娘と交代で看病しているという従姉の心痛・苦労はいかばかりか。わが孫もこの夏、病気になって3週間入院した。その間、生まれて間もない下の孫の世話を含めて、双方の祖父母がタッグを組んで両親をサポートした。

「今のところ無事」がずっと続くのが一番だが、そうは問屋が卸してくれない。大事に至らないまでも、けがをしたり、熱を出したりといった小事はしょっちゅう起きる。兄の孫の中学生と小学生の2人は新型インフルエンザにかかった。幸い軽症で済んだ。

通夜の帰り、夏井川渓谷の漆黒の道=写真=を進みながら、あれこれ思いを巡らした。わが両親のきょうだいで生きているのは叔母1人、義理の叔母も含めると2人。いずれ順送りで彼岸へ移るから、その時点でいとこたちのつながりも薄れていく。一種の細胞分裂のようなもので、血縁の軸(親―子ども―孫)が一世代下に移ったのだ。

さて、孫たちにはこれからどんなハードルが待っているのだろう。考えても仕方がないことながら、たまに悲観が楽観を上回るときがある。そんなときには、こうおまじないをかける。悲観的に考え、楽観的に行動するのだ、と。

今日(12月8日)もこれから、告別式に出るために夏井川渓谷を駆け上る。叔父の死がたぐり寄せたいとこたちとの再会を胸に刻みながら、叔父を静かに送ろうと思う。

2009年12月7日月曜日

鳥の古巣


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵は、石垣を積んで敷地を二段にした。元は畑だ。下の敷地は、というより空き地は、ほったらかしておくとヨシが生える。冬場、枯れヨシに火がつくと怖いので、繁殖抑制を兼ねて年に2回、草刈りをする。

草刈りをしたあとは必ずノウサギのフンが見つかる。昼間、タヌキが現れるような渓谷の小集落だから、生き物にはすみやすいところに違いない。

渓谷の広葉樹はほとんど葉を落とした。その分、見通しがよくなった。無量庵の庭木にシジュウカラやエナガの混群がやって来る。きのう(12月6日)、初めて裸の木に止まったエナガを写真に収めた。スズメよりおちびちゃんだ。モニター画面で写真をアップするとたちまちぼける。が、けし粒よりは大きく撮れたのでよしとした。

カミサンは上の庭から、石垣の一角に生えているクワの木の枝を剪定した。作業中に鳥の巣、いや「空き巣」を発見した。あとで、それを見た=写真。無量庵の周囲で巣をかけるのは、まずヒヨドリ。庭木に営巣中のところを目撃したことがある。その巣の大きさと同じなので、今度の古巣もヒヨドリのものとみて間違いないだろう。

ここの主は一週間に一度しか来ない。ふだんは人けがないから、鳥の営巣環境としてはましな方なのだろう。一週間に一回、やって来る人間のそばでよく子育てができたものだ。いや、子育てに忙しい初夏の一時期、人間がやって来ても石垣の近くは見向きもしないから、少し雑音を我慢すればすぐまた静かな環境に戻ることを観察して学んだに違いない。

古巣は一種のディスプレイとして無量庵の部屋に飾っておく。たとえば、キイロスズメバチの巣。これはサッカーボール大。そして、今度の鳥の巣。鳥の巣を仔細に見たら、人工的な高分子化合物(ビニール片など)は含まれていなかった。

2009年12月6日日曜日

外観は変えられない


北欧を旅して思ったことの一つは、木造建築物の外観が鮮やかすぎるくらい派手なのに、不思議と周りの風景に調和していることだった。家の壁面が黄色だったり、オレンジ色だったり、レンガ色だったりする。一つ一つは派手でけばけばしい。

なのに、港でも、山里でも、周囲の運河や農場、道路、川などに溶け込んでいる。一枚の絵のようで、不思議と心が安らぐのだった。

古くなれば当然、建て替えなくてはならない。が、同じ形・色にする。人が住んでいなくても維持補修をする――そんな決まりがあるようなのだ。建物の中は自由に変えられても、外観は変えられない。それがあちらのルール。

世界文化遺産の「ブリッゲン地区」(ノルウェー)に限らない。世界自然遺産のフィヨルドの岸辺にも、U字谷にも、あるいはアンデルセンの愛した港町・ニューハウン(デンマーク)にも、カラフルな色彩の木造建築物が存在していた=写真。それが、昔と同じようにそこにある。

フィヨルドにある家は、人が住んでいなくても、夏場は持ち主が出かけて草を刈る。そのための補助制度がある、という話を聞いた。観光客には見えない、維持管理の苦労だ。やはり、見た目、景観維持――が目的。カネが出るから草を刈る、といってもいい。

そうして景観を維持する国々だ。賛意と皮肉をこめて「おとぎの国だな」とわれわれは思った。いや、「おとぎの国」の感覚を持っていないと景観は守れないのかもしれない。

2009年12月5日土曜日

北欧メタボ


9月下旬に北欧を旅行した。何回もこの欄で書いている。旅行の前と後で何が変わったか。石の街、木の里、U字谷、フィヨルドを知り、「高福祉高負担」を受け入れる国民性を垣間見て、今までとは違う税金の使い方が日本でも始まる、という期待を持てるようになった――それはいいのだが、肉体的にも変化があった。体重が約2.5キロ増えたのだ。

5泊7日の旅。朝・昼・晩、パン・肉・魚・チーズといったものを食べ続けた。漬物は唯一、キュウリのピクルス。ピクルスを糠漬け代わりにして、ご飯がなくてもいいやと、肉などをバクバク食べた。これが体重増加の主因だろう。バイキング料理の本場だ。

スウェーデンだと、「スモールゴス ボード」。意味は「食卓(ボード)に置かれたサンドイッチ(スモールゴス)」ということか。

その国に住む同級生の家を訪ねたとき、昼に「スモールゴス トータァ」が出てきた=写真。「トータァ」の意味は分からない。要は来客用の軽食だという。生サーモンやゆで卵、トマトなどを上に飾り付けたシーチキンのサンドイッチといえばいいだろうか。ケーキのように丸くかたどったものを切り分けて客人に渡す。日本人の口にも合う。

ホテルの朝食はすべてバイキング料理。ざっと80年前にノルウェーを訪れた作家の谷譲次は『踊る地平線』(岩波文庫)に書いている。

「北の食事は奇抜な儀式をもって開始される。(略)めいめい皿とフォウクを手に、眼に異常な選択意識を輝かして勝手にとってきて食べるのである。(略)何をくらわんかと、狭い場所で堂々めぐりをはじめるのだから、何となく本能をさらけ出すようで面映ゆくもあるし、そうかと言って、厳粛に事務的であるためにはあまりに雑踏している。(以下略)」

実際、何を食べたらいいものか、毎度、気持ちは堂々めぐりをした。皿を手にして、外見はすまして、料理の広野を巡り歩く。それで食べたい以上の量を皿に盛ってしまう。しかも、満腹感は一時的。ご飯と違ってすぐ腹が減る。夜は夜でアルコールの世話になる。日中は車と飛行機、列車、遊覧船の客になるだけ。燃焼しきれないものが体内に蓄積される。

旅は非日常、と思っているから、朝、散歩に行くようなことはしない。が、海外旅行に慣れていて、外国にまでフルマラソンに出かける市民ランナー(ツアーリーダー)は、早朝のジョギング、ないしウオーキングを欠かさなかった。この男は、体重はほぼ現状維持だったろう。

会社人間のころは、50代後半に73キロ弱まで体重が増えた。それで朝の散歩を始め、夕方も散歩するようにして、2年がかりでやっと5キロ減量した。それがたった5泊7日で半分帳消しになった。日常に戻って2カ月強、体重が減るきざしはまだない。

2009年12月4日金曜日

部屋の蛍光灯が暗い


晩酌の時間になると焼酎を生(き)でやり、チェーサー(追い水)にお湯を飲む。胃袋の中でお湯割りにするのだ。前は最初からお湯割りにしていたが、どうも焼酎のうまさをそいでいるようで味気がない。自然にチェーサーを覚えたら、焼酎の味が分かるようになった。

昼は茶の間のこたつが机になり、夜はそれが晩酌のお膳になる。ここ1週間、アルコールが体にしみわたると、なんだか茶の間の明かりが暗く感じられるようになった。いよいよアルコールの影響が目に出てきたか――。内心、老化が顕在してきたことを自覚しないわけにはいかなかった。

私だけではない。カミサンもある晩、「ちょっと暗いんじゃないの」と明かりを見上げた。大小2つの丸形蛍光灯が一部黒ずんでいる=写真。これだ。人間の老化はともかく、蛍光灯の寿命がつき始めたので明度が低下しつつあるのだ。

加齢とともに、老化を感じる事態が増えてきた。足が引っかかる。斜面ですべりそうになる。地震と気づかずに自分の体調がおかしくなったための「めまい」ではないか、そう感じて心配してしまうときもある。誤解が心理的な老化を早めることになりかねない。

今度の「目の異常」は、蛍光灯を見れば誤解しなくても済むものだった。事実と誤解をちゃんと分けられるかどうか。まずは近々、蛍光灯を取り替えて、焼酎を飲みながら明るさ・暗さを確かめてすっきりしたい。

2009年12月3日木曜日

タヌキが吊り橋をとことこと


夏井川渓谷(いわき市小川町)にある無量庵に濡れ縁をつくった。なにか手を加えるときは、わが家の近くに住んでいる中学の同級生に頼む。リフォームのホームドクターだ。彼が作業している間、対岸の森を巡ることにした。

水力発電所の吊り橋を利用して対岸へ渡ろうとしたら、向こうからとことこやって来る動物がいる。タヌキ? 午前10時過ぎだ。こんな昼間にもタヌキは歩き回るのか。渓谷の小集落である。紅葉シーズンが過ぎた今は、日中も森閑としている。そんなところではタヌキも昼間、安心して出歩くのだろうか。

相手はこちらに気づかない。めったにないチャンスだ。吊り橋の手前にある小屋の陰にかがみこみ、狙撃兵よろしくタヌキがカメラの“写程距離”に入るのを待った。吊り橋を渡りきったら顔を合わせることになる。その前に何コマか撮影しておきたい。我慢して待ったのはいいが、最後の最後に1、2秒早く「カシャッ」とやってしまった。

撮れたのはたった2コマ。1コマは、通せんぼの柵の標識に顔が隠れていた=写真。もう1コマは、シャッター音に気づいて吊り橋のたもとから左折してヤブに消える後ろ姿がぼんやり写っているだけ。数秒我慢すれば、タヌキの全身を、人間と鉢合わせしてびっくりした顔を撮影できたのに――と悔やんでもしかたない。

無量庵へ通い始めて十数年、輪禍に遭って冷たくなっているタヌキやテン、ウズラ、ノウサギ、猛禽類に襲われて羽だけになったキジバトやツグミを見てきた。が、現に生きて動いている動物はとなると、森の中のタヌキの後ろ姿、倒木の上を渡るリス、岸辺で走り回るイタチかテンをほんの一瞬目撃しただけ。

当然、カメラを構える前に視界から消えているから、写真はない。今度が初めてのチャンスだった。こんなチャンスはそうないだろう。残念。いつかはと思い続けているイノシシだが、こちらはまだフン止まりだ。

2009年12月2日水曜日

師走の森


12月の声を聞いたら、森に入りたくなった。1週間以上、森から遠ざかっている。浮世の義理で日曜日、そして平日もネクタイを締めて出かける用事があった。その反動だろう。師走初日、近くの石森山へ車を走らせた。

おととい(11月30日)の宵、「いわきキノコ同好会」の役員会があった。暮れの総会の役割分担、その他を確かめたあと、今年のキノコ発生状況の話になった。

今年のいわきのキノコは、一言でいえば不作だ。初秋のキノコは早々と発生したらしい、そのあとに発生するキノコは逆に遅く姿を現した。出るべき時期に姿がなかったから、「から戻り」という事態になった。みんなの情報を分析すると、そうなる。

確かなのは、冬がきてヒラタケとエノキタケの季節になったことだ。ヒラタケを取った話は前に書いた。〈エノキタケに会いたい〉。林内の遊歩道沿いを行き来して発生の有無を確かめた。なかった。

代わりに、遊歩道に敷き詰められたチップがジグザグに掘り返されていた=写真。イノシシがミミズを探してラッセルしたのだ。偶蹄目の証拠である、二つに割れた足跡ははっきり分からなかったが、ほんの数時間前にイノシシがここを通ったのだ。そう思うと、少し心が躍った。

よく晴れて風もない師走初日。似たような目的なのか、遊歩道の入り口に軽自動車が止まっていた。フラワーセンターの近くでは中年カップルがぶらついていた。師走の森はそれなりに人の気配が感じられた。

2009年12月1日火曜日

「淑子の部屋」


日曜日(11月29日)にいわき市常磐市民会館で開かれた、第3回湯本温泉童謡祭のプログラムの一つ、野口雨情の孫・山登和美さん(栃木県鹿沼市)と、地元常磐の童謡のまちづくり市民会議・久頭見淑子さんによるトークショー=写真=の中身を少し。

雨情は、童謡詩人として世間に迎えられる前の一時期、いわきの湯本温泉で過ごした。その縁を大切にして童謡を歌い継ぎ、親子の情愛を豊かなものにしよう、ぎすぎすした世の中に潤いを取り戻そう――そんな趣旨で市民運動が展開された。その成果の一つが、去年1月の野口雨情記念湯本温泉童謡館の開館だった。

去年の童謡祭では、文学者でもある雨情の息子の野口存弥(のぶや)さんが講演した。今年は存弥さんのオイの山登さんが「「母千穂子から聞いた祖父雨情のこと」と題して、久頭見さんの質問に答えるかたちで雨情のエピソードを語った。戦後生まれの山登さんは生前の雨情を知らない。だから「母から聞いたこと」である。

久頭見さんは、雨情のことをよく勉強している。質問の展開、やりとりが自然で、茶飲み話の延長でもあるかのように、山登さんをリードする。山登さんの言葉がだんだんなめらかになった。総合司会の女性がいみじくも「徹子の部屋」ならぬ「淑子の部屋」と評したが、その通りだと思った。

山登さんは鹿沼市で写真スタジオを経営している。「雨情の孫」ではあるが、日常的には雨情を意識することなく育ち、暮らしてきた。文学にも縁遠い。去年、存弥さんが講演する際、叔母から連絡を受けて初めて童謡館の存在を知り、訪ねた。で、母から聞いた家庭での雨情の様子、自分が記憶している祖母(雨情夫人)のことなどを、淡々と語った。

童謡館には10~12月の企画として、山登さんの好意で雨情愛用の旅行カバンと帽子が展示されている。

雨情関連施設は全国にたくさんある。しかし、お粗末なものも少なくない。野口雨情記念湯本温泉童謡館はボランティアによる「無休・無料」の方針が堅持されている。それを評価しての旅行カバンと帽子の貸し出しだった。なにかこの二つには雨情の旅と人生について想像力を刺激するものがある。