2009年12月17日木曜日
雑誌「うえいぶ」42号
いわきの総合文化誌「うえいぶ」42号が出た。というより、当事者の一人として編集に携わった。誤植その他の間違いはすべて私の責任。「まな板の鯉」である。
〈追悼 里見庫男〉を特集した。70人の追悼文を収載した。雑誌ができて半月、発行主体の「うえいぶの会」会長、私、ほか2人の計4人で里見さんの家を訪ねた。といっても、自宅はいわき湯本温泉の老舗旅館「古滝屋」内。
エレベーターで自宅に向かい、初めて里見さんのプライベートな空間に立ち入った。玄関の近くに、里見さん愛用のファクシミリがあった。“召集令状”はこれから発信されたのだな――。仏前に「うえいぶ」42号を献呈し=写真、しばらく奥さんと里見さんの思い出話にふけった。
里見さんはいわき地域学會の初代代表幹事。そのとき、初めて出会い、課題を与えられ、江戸時代の俳諧を調べるようになった。そのことは前に書いた。雑誌「うえいぶ」も里見さんの肝煎りで創刊された。なぜ里見さんが雑誌発行にこだわったか。追悼号を出す過程でようやく分かったことがある。
大正時代の幕が開けると同時に、山村暮鳥がいわき(旧平町)にやってきた。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。文学の伝道者だった。そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、吉野せいらが育った。
その伝統、いや血脈を里見さんは大事にしてきた。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている、そう思いながら『うえいぶ』の発行を続けている」
今年4月、里見さんが68歳で亡くなった。駆け抜けていった人生。それを「うえいぶ」に記録することにしたのだった。
奥さんと話しているうちに、浄土にいる里見さんから新たな宿題を与えられたように感じた。里見さんを里見さんたらしめたもの、そのひとつは「いわきの資料がいわきから流出するのはしのびない」という思いから買い支えた、古文書などいわき関係資料だ。これを生かす道を考えなくてはならない。
里見さんが行事案内その他でかけまくったファクシミリ、これは旧式のもので、100人規模の集まりのときにはひたすらりファクス番号を押し続けたという。ファクスを送る、出欠の返事がファクスで返ってくる。毎日ファクスはうなり続けたに違いない。それだけでも大変な仕事だと、あらためて思うのだった。
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