NHKの大河ドラマにやっと磐城平藩主安藤信正が登場し、せりふを発した。公武合体を推進する老中として天璋院(篤姫)と対面し、叱責される。どうもすぐれた幕閣としては描かれていないようだ。
史実とドラマは異なる。といっても、旧磐城平藩の城下町に暮らす人間にはいささか苦い描き方だ。で、8月24日の「篤姫紀行」は平の城下町が舞台。松ケ岡公園の安藤信正公銅像=写真、丹後沢公園、安藤公菩提寺の良善寺、城山の石垣などが紹介されて、少し溜飲を下げた。
銅像は初め、大正11年に建てられた。それが先の戦争で金属供出の憂き目に遭い、台石だけになった。再建されたのは昭和36年。大きく立派な銅像だ。
昭和の制作者は昭和60年に92歳で亡くなった地元の彫刻家本多朝忠さんだ。カミサンがよく訪ねていたので、何度か会って話したことがある。一言でいえば、プロレスや俳句を好む「飄逸の人」。いつも「69歳」のままだった。
実年齢を知ったのは亡くなったとき。『いわき市史』には「明治28年平字八幡小路に生まれる。磐城中学中退後、小倉アカデミー彫塑研究所(東京)にて木彫・彫塑・大理石彫刻を約5年間学び、後に木彫の牧俊高について約3年間修業する」とある。
最初の銅像が建った大正時代後半といえば、山村暮鳥が平の教会に赴任し、「芸術の種子」をまいて去ったあと、暮鳥につらなる種子が続々と芽生え始めたころだ。その一つ、農民たちによる詩誌「播種者」が、銅像が建った同じ年に猪狩満直らの手で発行される。詩風土が多彩に花開いた時期でもあった。
そのころ、地元の詩人たちが集う書店があった。その店主が戦後に建てられた銅像のモデルになった、と聞いたのはいつだったか。「飄逸の人」からじかに聞いておけばよかったのだが、足元の歴史に深い興味がなかったから、質問力も浅く弱かった。
テレビに映し出された信正公の銅像を眺めながら、「飄逸の人」のことがしきりに思い出された。彫刻家にして遊俳、そして当時としては遺物と化した連句を、カミサンの伯父を宗匠にはがきで楽しんでいたことも。
史実とドラマは異なる。といっても、旧磐城平藩の城下町に暮らす人間にはいささか苦い描き方だ。で、8月24日の「篤姫紀行」は平の城下町が舞台。松ケ岡公園の安藤信正公銅像=写真、丹後沢公園、安藤公菩提寺の良善寺、城山の石垣などが紹介されて、少し溜飲を下げた。
銅像は初め、大正11年に建てられた。それが先の戦争で金属供出の憂き目に遭い、台石だけになった。再建されたのは昭和36年。大きく立派な銅像だ。
昭和の制作者は昭和60年に92歳で亡くなった地元の彫刻家本多朝忠さんだ。カミサンがよく訪ねていたので、何度か会って話したことがある。一言でいえば、プロレスや俳句を好む「飄逸の人」。いつも「69歳」のままだった。
実年齢を知ったのは亡くなったとき。『いわき市史』には「明治28年平字八幡小路に生まれる。磐城中学中退後、小倉アカデミー彫塑研究所(東京)にて木彫・彫塑・大理石彫刻を約5年間学び、後に木彫の牧俊高について約3年間修業する」とある。
最初の銅像が建った大正時代後半といえば、山村暮鳥が平の教会に赴任し、「芸術の種子」をまいて去ったあと、暮鳥につらなる種子が続々と芽生え始めたころだ。その一つ、農民たちによる詩誌「播種者」が、銅像が建った同じ年に猪狩満直らの手で発行される。詩風土が多彩に花開いた時期でもあった。
そのころ、地元の詩人たちが集う書店があった。その店主が戦後に建てられた銅像のモデルになった、と聞いたのはいつだったか。「飄逸の人」からじかに聞いておけばよかったのだが、足元の歴史に深い興味がなかったから、質問力も浅く弱かった。
テレビに映し出された信正公の銅像を眺めながら、「飄逸の人」のことがしきりに思い出された。彫刻家にして遊俳、そして当時としては遺物と化した連句を、カミサンの伯父を宗匠にはがきで楽しんでいたことも。
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