2026年2月28日土曜日

マグロの柵

                                
   海に近い農村部に住む後輩からいろんなものをもらう。自産のパパイア、落花生、ユズ、サツマイモその他、大物ではスイカ、トウガン、メロンなど。

 先日はマグロの柵(さく)が届いた。沿岸漁業に従事している知り合いがいる。網にかかったのだという。海のお福分けである。

なんという名前のマグロかはわからない。冬に行きつけの魚屋で買ったメジマグロの刺し身はピンク色だった。目の前の柵はカツオ並みに赤い。メジでも背側の部位は赤いそうだから、それか。いや、決めつけるのはよそう。

 前日の日曜日は夜、スーパーの刺し身を食べた。貝の盛り合わせのほかに、今年(2026年)初めて生のカツオの柵を買い、家で包丁を入れた。

 マグロも、行きつけだった魚屋の店主の包丁さばきを思い浮かべながら、皮をそぎ、赤身を短冊形に切ってから刺し身にした=写真。

切り屑状になったものがあるのは、シロウトだから仕方がない。見た目は悪くても味に変わりはないだろう。そのとおりで、鮮度は抜群だった。やわらかい。脂ののったカツオとそう変わらない。

けっこうなボリュームだったので、3分の1以上が残った。去年初夏までのカツ刺しを思い出した。余るといつもそうしていたように、マグロも翌日、「ひたし揚げ」にしてもらった。それからまた刺し身に思いがめぐった。

生のカツオが普通に出回るにはちょっと早い。スーパーで生のカツオを見つけた日曜日の1週間後、また生があるのでは、あるとしたら四倉か――勝手に決めて車を走らせた。

いろんな刺し身の盛り合わせはあったが、生のカツオはなかった。しかたない、同じスーパーの草野店へ寄ろう――刺し身を買うのにハシゴするとは思わなかった。

 当然である。行きつけだった魚屋でも、早春は入荷したりしなかったり、だ。生のカツオが常時入るまでには、まだ時間がかかる。

 前にも書いたが、この半年、日曜日は「刺し身ドライブ」が続く。カツオ・非カツオ関係なく、刺し身を買う店が定まらない。

個人営業の魚屋と違って、スーパーではホウボウやイワシの刺し身は見たことがない。

 イワシは鮮度がいのちだ。「銚子で捕れたサバに混じっていました」。行きつけだった魚屋でそう言われたことがある。その時のイワシのさばき方がブログに載っていた。

――頭を切り、腹を裂いて内臓を取る。水で洗ったあと、指で骨をはがし、2枚に分ける。

次に、同じように指で皮をはがし、6枚を重ねるように並べて包丁を入れ、包丁の腹を使ってマイ皿にきれいに盛り付ける――。

イワシの刺し身は何年ぶりかに1回くらいのペースだった。甘い。それが強い印象として残っている。

イワシは漢字で「鰯」と書く。「弱い魚」とあるように、小さくてすぐ鮮度が落ちる。生臭くなる。刺し身のつくり置きは難しいのだろう。

行きつけの魚屋の閉店はやはり痛い。刺し身ドライブはまだまだ続く。そう覚悟している。

2026年2月27日金曜日

2026年の「初雨」

                      
   イメージとしては、縦軸に「気温」、横軸に「月日」を配した折れ線グラフだろうか。寒暖の波が大きいこの時期の最高気温を毎日記録し、「見える化」してみる。と、上がり下がりを繰り返しながら、全体としては春に向かってグラフが上向いていく。

実際にグラフ化したしたわけではない。想像するだけだが、経験的にそれが裏付けられるはずだ。文字通りの「三寒四温」。

 3連休最後の2月23日は曇天だが、暖かかった。日中は、茶の間の石油ヒーターも、ストーブも止めた。

 翌24日朝は、庭に出るとジンチョウゲの赤いつぼみが1つはじけて白くなっていた=写真上1。

 ジンチョウゲの花は小花の集合体だ。つぼみが次々にはじけると、白い花のかたまりになる。

前日の暖かさが開花を促したのだろう。しかし、例年より開花が早いかというと、そうでもない。見ごろはやはり3月半ばだろう。

それよりなにより、今年(2026年)はまったく雨が降らない。庭が乾燥している。暖冬とはいえ、乾燥もまたジンチョウゲの開花の遅速と関係しているのではないか。

気象台のデータでは、小名浜では今年1月2、5日の2回しか雨が降っていない。それも計1.5ミリだ。

 土が乾いているので、2月22日の日曜日には、夏井川渓谷の隠居の庭にあるネギの苗床に水をやった。

 それから3日後の25日は、早朝から細かい雨になった。夜になっても降り続いた。昼前、用事があってカミサンの実家へ行った。家の前に車を止めると、そばの交通標識がフロントガラス越しにぼやけて見えた。

 アメリカの写真家、ソール・ライター(1923~2013年)に、雨で濡れた窓越しの人影を撮影した作品がある。

彼はニューヨークの街角で、誰に見せるわけでもなく「日常にひそむ美」を撮り続けた。久しぶりの雨に、ライターの写真を思い出してパチリとやった=写真。

朝から夜まで雨が降り続くというのは、今年初めてだ。その意味では、初雪ならぬ「初雨」である。

 その雨を見ながら、衆院選投票日の2月8日には雪が降ったことを思い出した。雪は午前中には消えたが、一時、投票所の校庭がうっすら白くなった。この雪は降水量には反映されないのかどうか。

 ま、それはさておき、25日の降水量は小名浜で24.5ミリ、山田で23.0ミリ、平では28.5ミリだった。

車の汚れは落ちたが、大地が潤うほどではなかった。林野火災注意報は解除されたのかどうか。

翌26日は曇天、東からの風が冷たかった。それで折れ線グラフも急降下した。やはり天気はジグザグ。

2026年2月26日木曜日

浄土橋

                                             
 のっけから驚いた。不思議な五七五である。「佛德(ぶっとく)へ普(あまね)く渡れ浄土橋」=写真上1。石の欄干に彫られている。句のわきには小さく「昇吾」とあった。

 平山崎の専称寺は「梅の寺」として知られる。そのために尽力したのは夏井川の対岸、平中神谷の箱崎昇吾翁だ。

 国鉄を退職した昭和8(1933)年から足かけ27年をかけて、専称寺の境内に梅の苗木を植え続けた。その数、一千本という。

 寺のふもとにある総門の前、愛谷江筋にコンクリートと石の橋が架かる。それも箱崎翁が寄進した。

 箱崎翁は同時に、地元の立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を、専称寺の末寺で菩提寺の大円寺に石の門柱を寄進している。いずれも昭和8年12月のことである。

 古い新聞でそれを知り、わが家の近くにある寺と神社へ足を運んで、寄進者である箱崎翁と奥さんの名前を確かめた。

 まだ見ていないのが専称寺のふもとの橋だった。同寺の梅林は何度も訪れている。そのつど橋を渡ったが、箱崎翁の事績は知るよしもなかった。

 橋の長さは3・5メートル前後だろうか。やや丸みを帯びたアーチ形で、左右に擬宝珠の付いた石の欄干が各3本。そこに手すりが2本と、それを支える柱が各2本ある。

 まず、橋――そう自分に言い聞かせて、渡る前に目をやる。と、向かって左側の欄干に、冒頭の五七五が彫られていた。右側の欄干には「奥州總本山専称寺」の文字。

 なんということだ。すでに橋のたもとで箱崎翁が待っていたではないか。全く気づかなかった。

橋の向こう側、総門からも欄干を見る。左側に寄進者である箱崎翁の名前があった。

五七五は無季俳句である。専称寺は浄土宗名越派の総本山。俗界から浄土の世界へ――。「浄土橋」という言葉にはそんな翁の祈りが込められている。

同寺は、江戸時代には「大学」だった。奥州各地から学僧が修行にやって来た。

江戸時代後期から幕末にかけて、江戸で俳僧として鳴らした一具庵一具は、若いころ、出羽国から専称寺に留学し、名越派の教えを学んだ。

この俳僧を調べたことがある。しばらくぶりで急な石段を登り、南側のスロープを利用して本堂の前に立った。

東日本大震災では総門も本堂も大きな被害を受けた。どちらも修復されたが、かやぶきの庫裏はそのときのままだった。

寮舎跡には、梅の古木と若木がある=写真上2。何カ所かこずえに白い花が咲いていた。見ごろが3月中旬なのは地形と日照時間が影響しているのだろう。

古木を見ると、箱崎翁の事績が思い浮かぶ。ふもとの橋と同じく、もうただの梅の木ではなかった。「物語」がしっかり根付いていた。

2026年2月25日水曜日

土手に上がったカモ

  街へ行った帰りに夏井川の堤防を利用する。新川との合流部にハクチョウとカモ類が休んでいる。

ハクチョウの飛来地は「身近な鳥獣保護区」だ。カモたちはハクチョウと一緒なら安全と知っているのだろう。

この水鳥をウオッチングするのと、堤防そばのネギ畑の収穫の様子を見るのが、冬の楽しみだ。

 カワウもいる。2月に入ると、変な色のカワウがいた。写真に撮ったが、なにしろ被写体が遠くて小さい。ブレブレなので、お見せするほどのものではない。

が、どこがどう変かはわかる。ふだんは頭が黒いのに、目の周りをのぞいて首から上が白い。たたんだ翼の下の脚の付け根の羽にも白い斑点がある。

じいさんカワウ? ネットで確かめたら、そうではなかった。カワウは、春が近づくと頭などが婚姻色(白色)に変わる。雄だけでなく雌にも現れることがある。

 四季の巡りを二十四節気から考える人間と違って、野鳥を含む生物は自然の動きに「体内時計」が反応する。カワウにはもう春がきた、というわけだ。

すると、ハクチョウも、冬鳥のマガモたちも、そろそろ北へ帰る準備を始めることだろう。いや、もう北帰行が始まったかもしれない。

そのためかどうかはわからないが、このごろよく、カモたちが水辺から土手に上がって草を食べている=写真。ハクチョウも上がっている。

極寒期にこそ春が宿る。いよいよえさがなくなってきたか。いや、北へ帰るために体力を蓄えているのではないか。両方の思いが交錯する。

カモの仲間には留鳥のカルガモも混ざっている。北へ帰るマガモにしろ、カルガモにしろ、間もなく繁殖行動が始まる。そのためにもしっかり体力をつけておかないといけないのだろう。

 北国と違って「サンシャインいわき」の平地の川は、枯れ草色の土手にも緑色が広がっている。

堤防に植えられたスイセンは黄色い花を咲かせている。近くの民家では、庭の白梅が満開だ。地べたから春は立ち昇っているのだ。

冬鳥たちの北帰行を待っていたかのように、左岸(新川合流部の反対側、つまりは私らが車で行き来しているこちら側)では、土砂除去工事が始まった。

先日、工事を告げる看板が堤防天端の道路わきに立った。ハクチョウは、日中は数えるほどしかいない。影響はまずないだろう。

土砂が厚く広く積み上がった河川敷に重機が入り、土砂の山を築いていく。やがてダンプカーが土砂を運び出すようになる。

   定点観測をしているネギ畑は東西に長い。そこに南北につくられた畝が30列ほどある。今は残りが13列ほどだ。ここでも収穫が終わると春になる。 

2026年2月24日火曜日

阿武隈の郷土料理

                                                 
   私が子どものころに食べた郷土料理で、今も懐かしく思い出すものが三つある。「いのはなごはん」と「まめだんごごはん」、そして「みそかんぷら」だ。

 阿武隈高地を含む浜・中通りでは、原発事故後、野生のキノコの摂取と出荷ができなくなった。

イノハナ(猪の鼻)は和名がコウタケ。阿武隈の山里ではマツタケより珍重される。震災後、知人からよその地区で採れたコウタケをちょうだいした。

それを裂いて干したのがある。先日、カミサンが一部を水で戻して「いのはなごはん」にした=写真。久しぶりに強い香りを楽しんだ。

マメダンゴ(ツチグリ幼菌)は夏井川渓谷の隠居の庭で採れる。庭は震災後、全面除染されて表土が新しくなった。

ツチグリの菌糸が残っていたのだろう。秋には子実体が地上に現れる。それを見て梅雨期に土中から掘り取り、「まめだんごごはん」とみそ汁の具にした。ここ2年はしかし、子実体が現れなくなった。マメダンゴも採れない

私は「みそかんぷら」を含むこの三つを勝手に「阿武隈の三大珍味」と称している。そのワケは、よそにはあまり知られていないからでもある。

マメダンゴについてはこんなことがあった。もう10年近く前だ。日本きのこセンターが発行している月刊誌「菌蕈(きんじん)」に、同センター菌蕈研究所特別研究員・長澤栄史さんが、毎回、表紙のキノコの写真を解説した。

2016年7月号でツチグリを紹介する際、古巣のいわき民報に書いた拙文を取り上げた。

「『梅雨期が旬、阿武隈高地では味噌汁が定番、焚き込みご飯も良い。内部が白あんが良く、黒あん、白黒あんは駄目』とある。白あん、黒あんとはうまい表現である」

「白あん・黒あん」は胞子の有無を表現したもので、少しでも黒ずんでいれば食べない。

2月8日に開かれたいわき昔野菜フェスティバルで、山形大学の江頭宏昌教授が講演した。「みそかんぷら」を紹介した。江頭教授からSNSを通じて報告があった。

拙ブログでは、「みそかんぷら」と山梨県の「せいだのたまじ」、飛騨の「ころ芋の煮ころがし」が似ていることを書いた。いずれも代官中井清太夫が赴任してジャガイモの栽培を奨励した地だ。

2年前にやはりSNSを通じて、江頭教授とジャガイモ料理の情報交換をした。「みそかんぷら」の話が主だった。

8日は衆院選の投開票が行われ、最寄りの投票所で立会人を務めたため、フェスティバルには参加できなかった。

それで江頭教授が当日の講演内容を教えてくれたのだった。うれしいことに拙ブログが大いに参考になった、とあった。

教授が光を当ててくれたことに感謝しつつ、「阿武隈の三大珍味」はこれからどうなるのか、原発事故で汚染された森はいつ回復するのか――それをまた思った。

2026年2月23日月曜日

まさに「川中島」

                                
 夏井川渓谷の隠居にミニ菜園がある。辛み大根がびっしり生えている。最初は種をまいたが、翌々年あたりからは「ふっつぇ」(いわき語で「自然に生まれた」の意)が育つのを待つだけになった。

 冬は葉が枯れてチリヂリになる。が、根は肥大している。行くたびに2~3本は抜き取る。硬いので「おろし」にしかならない。

 前期高齢者のころまでは、このおろしが刺激的でよかった。が、今はちょっときつい。おろしに酢をかけて辛みを和らげる。

 辛み大根のかたわらにはネギの苗床。畳4分の1にも満たない。このネギ苗も霜をかぶったあと、先端がチリヂリになった。

前は冬になると防寒のためにもみ殻を敷いた。近年は暖冬気味のためか、つい手抜きをしてしまう。

追肥はするが、あとはほっといたままだ。それで去年(2025年)も、一昨年も育ちが悪かった。

 ネギは中国の奥地、砂漠が生まれ故郷だ。雨がなくても大丈夫。種をまく前の苗床にはたっぷり水をやる。水やりはこのときだけ。そう考えて苗に追肥をしても、水をやったことはない。

冬は晴れて乾燥するいわき地方だが、それにしてもこの冬は雨が少ない。気象台のデータによると、小名浜では今年に入ってから2月22日までに、1月2日に0.5ミリ、同5日に1.0ミリの計1.5ミリしか降っていない。

 内陸の山田も事情は同じ。1月5日に0.5ミリの雨が降っただけだ。いわき地方は、今年はまだ雨らしい雨がない。

 これでは人間の体も乾燥する。手の指、足のかかとと、老人は保湿クリームが欠かせないわけだ。

ネギ苗も心配だ。苗床に追肥はした。しかし雨が降らなければ、肥料も解けて土にしみこまないのではないか。苗の段階では水が必要ではないのか。

ネットでチェックすると、苗床の表面が乾燥していれば水をやる、とあった。やはり子ネギはのどが渇いているのだ。日曜日(2月22日)に隠居へ着くとすぐ苗床に水をやった。

隠居へ行く前、いつもは帰りに通る夏井川の堤防を利用した。田んぼは乾いているのに、川の水が少ない。

田植え後、田んぼに水を取られて川の水量が減り、「川中島」になることがある。冬なのに、今、それと同じことが起きている。

平中神谷の字名に川中島がある。その近くの夏井川が川床をさらして、まさに「川中島」になっていた=写真

このまま雨がないと上水道は?となるが、それ以上に心配なのが林野火災だ。

今年から林野火災注意報の運用が始まった。いわき市消防本部のホームページを開くと、「林野火災注意報発令中!」の大文字が目に入る。庭先でのたき火やごみ焼きは、5月までは厳禁だ。

ネギ苗に水をやりながら思った。いや、思わざるを得なかった。地域の気象は地球の気象、極小は極大と根が同じ。乾燥と温暖化が渦巻いて心配の種がふくらむばかりだ

2026年2月21日土曜日

数独1年

                      
   新聞とネットに掲載されているパズルの「数独」と向き合って1年になる。去年(2025年)2月に始めたころは初級がやっとだった。

この脳トレは、1~9までの数字をマス目に入れる簡単なものだが、縦・横いずれも1~9の数字をダブらないように埋めるのがルールだ。

どこかで間違うと「ボタンの掛け違い」が続き、最後に同じ数字が並んで「アレレッ」となる。

まずは紙にフリーハンドで線を引き、3×3のブロック(基本単位)に区切られた9×9の正方形のマス目81個をつくる。これにはボールペンを使う。

次に万年筆で基本単位ごとに仕切りを入れ、パズルに配された数字を同じマスに書き写す=写真。

それから座いすを倒して、本を読むような姿勢で問題を解く。数字の書き込みは鉛筆でやる。

初級のころからそうだったが、上級・難問となると何回かに1回は失敗し、最初からやり直す。それを見越してのことだ。当然、消しゴムもそばに置いてある。

紙の下敷きには定期刊行物の「常陽藝文」を当てる。ちょうどいい大きさと厚さで、持っていても重さを感じない。

なにしろ用紙には事欠かない。毎日、新聞に「お悔み」情報(コピーのチラシ)が折り込まれる。このチラシの裏面を利用する。

慣れるにつれて中級に手を染め、秋ごろからは上級にも挑戦するようになった。年が明けると難問にも手を出し始め、1年が過ぎた今は上級と難問だけをやっている。

難問はさすがに壁が厚い。壁を超えるには別の手を打つ必要がある。年寄りにはそれがなかなかわからない。

縦・横が交差する空白のマスに入る数字を、そのマスが入っている基本単位のほかのマスの数字も見ながら探す。それで該当する数字が見つかる場合がある。

同じマスに入る数字の候補が並んだ時にもやり方がある。「奥の手」ならぬ「脇の手」だ。その使い方に気づくと、上級と難問の壁がぐっと低くなる。

初級・中級は15分ほどで終わった。上級はさすがにその倍、あるいは40分くらいはかかる。

そもそものきっかけは、90歳になる近所のおばさんが数独をやっていると聞いたからだった。

「慣れよ、慣れ」。その言葉を信じて始めたら、沼にはまった。といっても、そればかりやっているわけではない。

早朝4時過ぎに起きると、9時ぐらいまでは家事手伝いを含めて「朝活」をやる。ブログの文章も仕上げる。

その日に予定がなければ、あとは自由時間だ。調べもの(ネット検索)をしたり、本を読んだりして過ごす。

合間に数独をやる。上級と難問を2つないし3つやるだけで、ざっと2時間はかかる。気分転換には格好の脳トレだ。カネもかからない。それに、と思う。夜の睡眠が深くなった。

人の名前は「あれ、あれ」で変わらないが、前の日に言われた用事やふとんから抜け出した時刻などはちゃんと覚えている(当たり前?)。とにかく、前よりは脳を使うようになった。これだけは確かだ。

2026年2月20日金曜日

シン・白菜漬け

                                 
   「シン・白菜漬け」なんて言ってみる。この冬3回目の白菜漬け=写真、いや正確には新しい食べ方のことだ。

白菜はカミサンのいとこがつくった。去年(2025年)に続いて今年も1月初旬に大きな白菜が2玉届いた。

 この大玉を、地中海の塩(南イタリアのプーリア州産)を使って漬けたことを、1月26日付のブログに書いた。味は抜群だった。冬だから甘いのは当然だが、いつもの白菜漬けよりは滋味がある。

 水が上がってしんなりするとすぐ2切れをいとこに進呈した。夜、いとこから電話がかかってきた。「白菜漬けを食べながら酒を飲んでいる」

これにはびっくりした。ご飯のおかずではない。いや、それもあるのだろうが、酒のつまみにもしているという。考えもしなかった食べ方だ。

甘みと滋味。その秘訣は? 米ぬかなどを利用した「ぼかし肥料」を使っている。米ぬかはカミサンの実家(元米屋)から調達したそうだ。

私もさっそく、白菜漬けを晩酌のつまみにしてみた。塩は地中海産だからミネラル分が豊富なのはわかる。それが上乗せされてもなかなかの味だ。

すでに数年前から白菜に振る塩を抑え気味にしている。新鮮な白菜を選ぶようにしているので、甕に漬け込むとすぐ水が上がる。

それはいいのだが、塩分が少ない分、水の表面が早く産膜酵母に覆われる。そうなると白菜漬けの酸化が進み、早い段階から古漬けのような味になる。

好みの味は人それぞれ。私は、浅漬かりの白菜漬けを好む。目安は甕の水が澄んでいるかどうかだ。

この若い白菜漬けを試食して「よし」と判断できたので、出来立てをいとこに持って行った。

確かにこの段階では、酸味はない。歯ごたえがいい。甘みと滋味が広がって塩味もそう感じなかった。酒のつまみとしても申し分ない。

しかし、やはりである。漬け込んでから丸12日過ぎた2月2日に薄く白い膜が現れた。それでも8日あたりまでは酒のつまみになった。

漬け込んでから間もなく1カ月を迎える2月18日は、白菜の残りも少なくなり、酸味も強まった。

こうなると味を中和しないといけない。1切れ1切れは大きい。甕から出すと2等分して、1つはそのまま、もう1つは「キムチの素」をまぶして「白菜キムチ」にした。

キムチの素で酸味を包む。すると、やや甘辛の白菜漬けになる。1粒ならぬ1切れで二度おいしい作戦だが、これだって老夫婦2人だけでは量が限られる。

まだ2月下旬。4月まであと2回は白菜を調達して漬け込む。しかし、いとこがつくったような滋味豊かな白菜はどこにある?

白菜漬けを晩酌のつまみにすることを知ってからは、やはり滋味豊かな白菜がほしい。どこでそれが調達できるか、悩ましい問題だ。

2026年2月19日木曜日

「うま塩ピーマン」

                                        
 初めて食べたおかずだった。細切りにしたピーマンをレンジでチンし、「うま塩ピーマン」と書かれた粉末の調味料=写真=とごま油を和(あ)えただけだという。

 「うま塩ピーマン」の袋には「町中華名店の裏メニュー」とある。鶏ガラスープパウダーその他が原材料で、最初の一口で驚いた。

 これがピーマン? 弾力、つまり歯ごたえがあって、ピーマンとは別の食べ物のようだった。しかもピーマンの青臭さがない。「町中華名店の裏メニュー」とうたっているだけのことはある。

 何度もピーマンの感触を思い出しながら、「あれは何かに似ている、何だろう」と考えていて、はたと気づいた。

 海のクラゲ。鮮魚スーパーなどでクラゲの和え物を売っている。クラゲの、あのコリコリ感に近い。

 「うま塩ピーマン」は、カミサンが女子会に参加した1人からもらった。中学校の同級生3人が毎月1回集まって、昼食を兼ねておしゃべりをする。私は毎回、会場までカミサンを送って行く。

 女子会ではそれぞれ何かを持ち寄ってプレゼントし合っているようだ。食べ物が多い。「うま塩ピーマン」を持って来たのは、何年か前までスナックを経営していた人だ。私もよく知っている。

 娘がフランスに住むという1人からは、南仏・地中海原産、カマルグの天日塩をもらったことがある。

 「うま塩ピーマン」は大手食品メーカーが販売している。スーパーで売っているのかどうか、「今度スーパーへ行ったら探してみよう」とカミサンが言った。

 それからほぼ半月後、たまたま入ったスーパーでそれらしい調味料を探す。と、「町中華の裏メニュー」という言葉はないが、似たような袋詰めの調味料があった。

 前のときと同じようにして、ピーマンに和えたのが出てきた。辛い! 「うま塩ピーマン」とはかなり違う。ま、違いがわかっただけでもよしとするか。

 調味料に限らないが、料理の世界は奥が深くて広い。底なし沼のようだ。若いころ、料理の沼にはまることはなかったが、それでもこだわってきたものがある。

ネギの栽培、原発事故の前はキノコの採集(今は菌類関係の本を読むだけ)、そして糠漬けと冬の白菜漬け。これらは自分の役目と決めている。

あとは「食べる人」(このごろは「片付けて洗う人」もやる)。そのなかで出合ったピーマン料理だった。調味料次第でこんなにも味が変わるのか、という驚きは新鮮だった。

 そのへんがヒントになったのかもしれない。酸味が強くなった古い白菜漬けを再生させる方法として、市販の「キムチの素」をまぶすことを思いついた。

 わが家に届く元シェフ製造のドレッシングも、好みの調味料ではある。調味料の沼にはまるのも悪くないか

2026年2月18日水曜日

壁の歯車

                                
 カミサンの実家へ行くと、店舗(元米屋)部分の勝手口から入る。接続している母家の玄関を利用するのは正月とお盆くらいだ。

 玄関の両側の壁には、木製の歯車(全体を4分割したもの)がはめ込まれている=写真。

 年末に義弟から拓本の掛軸を預かった。前にもブログで紹介した「好間渠誌」で、好間渠(江筋)は今も実家のそばを流れる。

 かつてはこの江筋から庭を経由して水を引き、水車の回転力を歯車に伝えて米を搗いた。その遺物である。

 壁にはめ込まれた歯車は、歯が9個。やはり木製で、本体の四角い穴にはめ込まれている。

 2つの歯車部分を合わせると直径がどのくらいか想像できる。本体は直径1.5メートル余、歯車の数は36個ぐらいだろうか。

 遺物が家の歴史を物語る。とはいえ、カミサンも古いことは祖父母・父母からの伝承以外よくわからない。まずはカミサンの実家に関する情報が欲しい。

図書館にはデジタル化された「古新聞」がある。そこから拾えるなら集めたい。

「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」。詩人の田村隆一が言っている

確かにその通りで、検索しながら紙面を読む。それがきっかけでさらに新しい興味・関心がわく。

このごろは、集中して「いわき文献案内」を利用している。図書館がデジタル化した地域新聞(いわき民報は昭和56=1981年まで)を、キーワードで検索できる。

楽しみながら、遊びながら。わかっても、わからなくても。まずはキーワードを入力して調べる。

すると、マチの動きと絡んだカミサンの実家の情報がいくつか出てきた。きょうはそのへんを。

昭和10(1935)年6月7日付「新いわき」に、平町内の行政区のうち5つの区長が決まったという短報が載る。カミサンの祖父が再選されたことがわかる。

昭和31(1956)年8月13日付いわき民報には、義父名による「近火見舞いお礼」の広告。近所で火事があったことをカミサンも覚えている。

さらに、昭和45(1970)年11月13日付の同紙掲載「磐城三十三観音巡礼記64」に、筆者の荒川禎三さんが義父ともう1人の3人で巡礼を共にしたことを書いている。

変わったところでは、「委託電報」というのがあった。昭和29(1954)年8月31日付三和新報に記事が載る。

平電話局は平電報局とタイアップして、9月1日から管内の委託公衆電話取扱所3軒で電報の発信を受け付けることになった、というもの。

3軒のうちの1軒がカミサンの実家だった。真夜中でも起こされて義父が電報を受け付けたという。

肝心の好間江筋のこと、水車のことなどは、今のところ収穫なしだが、いずれ手を変え、品を変えて検索を続けるつもりだ。

2026年2月17日火曜日

春の陽気

 一夜明けたら、寒が戻っていた。とはいえ前日、2月15日の日曜日は今年(2026年)一番のポカポカ陽気だった。

 朝は早めに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。前の週は衆院選の投票立会人を務め、小学校の体育館にカン詰めになった。2週間ぶりの渓谷行である。

 畑の凍土も、小流れのしぶき氷も消えたことだろう。フキノトウがあちこちに頭を出しているに違いない。車のハンドルを握りながら、気分が高揚した。服装はしかし厳冬の「重装備」のままだ。

 隠居に着いてちょっと動くと、すぐ上半身に熱がこもった。汗のにじみ具合をみながら、1枚、1枚、皮をはぐように着ているものを脱ぐ。まずマフラーをはずす。厚手のジャンパーを脱ぐ。手袋を取る。

 意外と効果的なのが、厚手のシャツの一番上のボタンだ。秋の終わりごろから上のボタンもはめて、首から寒気が入らないようにしている。逆をいえば、胸元から熱を逃がさないために、一番上のボタンをしめておく。

 晴れてかすんではいるが、風はない。この冬初めて、体から熱を逃がすために一番上のボタンをはずした。

 畑の土はスコップがすんなり刺さっていく。生ごみを埋めると、下の庭でフキノトウを探した。が、数は半月前と変わらない。まだ小さい。摘むのはよした。

そのあとは隠居のこたつに足を突っ込んで休むだけ。というのが今までのパターンだが、やはりポカポカ陽気である。隣の展望台から川と森をながめたり、道路をぶらついたりした。

左岸の森がところどころ「茶髪」になっている。籠場の滝のすぐ上流、道路沿いの赤松も何本か枯れ、1本が途中から折れた=写真。それに気づいたのは確か今年に入ってからだ。

 ハマの黒松、ヤマの赤松。どちらも松枯れ被害が拡大している。ナラ枯れが起きるのも時間の問題か。

昼食は久しぶりにインド料理の「チャイコタ」(元「マユール」)でとることにした。マチへ下りたあとは夏井川の堤防を進む。

 定点観測をしているネギ畑に老夫婦がいた。太く長いネギを収穫して束ねている。2人の姿を見てこちらも元気になる。

 マチを歩いている人はそでをまくり、あるいは半そでになっていた。ジャンパーを着ている人はほとんどいなかった。若い人は暖気には敏感だ。

夕方、コンビニへ買い物に行くと、空はまだ明るいのに空気が冷たい。西の山並みに日が沈むと急速に冷え込んだようだ。この変化にはやはりついていけない。

家の中はそれでも昼の名残で温かかった。ヒーターも、ストーブもつけずに過ごした。これからそんな時間が増えると経済的には助かる、なんて思ったのも束の間……。

    翌日は北風である。寒暖を繰り返しながら春に向かっていくとはいえ、年寄りは、簡単には「重装備」を解けない。 

2026年2月16日月曜日

そこにある危険

                                
 夏井川渓谷の隠居へ通い続けて30年余になる。阪神・淡路大震災(1月)、地下鉄サリン事件(3月)のあとの5月末、地元区長の案内で家々を回ってあいさつした。

 週末(今は日曜日だけ)は街のデスクワークから山里のフィールドワークに切り替える。

街は人と人との関係が主だが、山里の谷間では人と自然との関係が中心になる。自然の移り行きに身をゆだねながら土いじりをし、森を巡ってキノコを採る。それを記録し続ける、ということをしてきた。

原発震災後は、庭の全面除染が行われ、森へ入ることが激減した。キノコは「採る」から「撮る」に変わった。

森はまだ原発事故から回復できずにいる。それに加えてV字谷である。道路は険しい崖と谷の間をくねくねと進む。近年の温暖化も手伝って、山が乾いて荒廃しつつあるのではないか――そう感じることがよくある。

ところどころに「落石注意」の標識が立つ。渓谷に入るとすぐロックシェッドがあり、落石防止のワイヤネットが張られている。

これがあるから、ふだんの通行には支障がない。とはいえ、絶えずどこかで落石や倒木が起きる。

道端に新しい落石が転がっている。折れた木の幹や枝が寄せられている。これが近年は常態になってきた。範囲も拡大しているようだ。

平地を過ぎて渓谷に入るちょっと手前、河岸段丘の集落を過ぎたあたりで、倒木が片側の車線をふさいでいた。崖があるわけでもないのになぜ? 30年通い続けて初めてのことだった

渓谷ではさらに、崖の中腹で木が折れたままになっていたり、車の通行に支障のないように切られたりした所がある=写真上1。

渓谷は岩盤が露出気味で、緑は茂っていても根張りの浅い木が多いのだろう。近年は「ナラ枯れ」が進み、その影響で折れる木もあるようだ。

倒木が崖の中腹に残っているあたり、直下の道路にも注意を促すカラーコーンが並んでいる=写真上2。

ワイヤネットが道にせり出すように落石で膨らみ、その上には崩れ落ちた土砂がたまっていた。

よく見ると、のり面は滑り台のようにへこんでいる。それで土砂と石が道端まで崩れ落ち、上部では木が倒れたのだ。

「令和元年東日本台風」では、渓谷も至る所で落石や倒木に見舞われた。沢では小規模な土石流が発生した。岸辺の駐車場もえぐられて消えた(今は復旧した)。

というわけで、渓谷に入るとおのずと意識が切り替わる。「そこにある危険」に敏感になる。渓谷の自然から学んだ一番大切なことがこれだ。

2026年2月14日土曜日

ネギが集まる

                                
   ネギの旬はやはり冬。隣の行政区に住む知人から、大みそかに自産のネギをもらった。前年に続くお福分けで、去年(2025年)は春にも「終わり初物」のネギが届いた。カミサンの友達も自産のネギや、お福分けのネギを持って来てくれる。

夏井川渓谷の隠居で「三春ネギ」を栽培している。去年はネギ苗の養生に失敗した。定植したあとも育ちが悪く、あっという間に苗がとろけた。

秋に前年の残りの種をまいたら芽が出た。ネギの種は冷蔵庫に入れておけば2年は持つ(逆から言えば冷温保存でも2年しか持たない)。

というわけで、この冬は自産のネギをまったく食べていない。スーパーへ行けば、「ネギも」となるのだが、晩秋に夏井川渓谷の臨時直売所で小野町の曲がりネギを大量に買った(それが庭に土をかぶって残っている)。その後も、常にお福分けのネギが届く。

ハマの中之作へつるし雛飾りを見に行ったときも、地元の「菊屋」さんから、自分が栽培したという赤ネギと九条ネギを買った。白菜・大根とセットで600円だった。

小野町のネギ以外はすべて一本ネギである。中には硬いものもあるが、あらかたは加熱するとやわらかくなる。緑の部分にとろみのあるネギもあった。

家庭で栽培される一本ネギは、食べる人の好みを反映して多種多様であることがよくわかった。

わが生活圏は「いわきネギ」の産地として知られる。マチへ行った帰り、夏井川の堤防を通る。堤防の内側=人間の住宅のそばにある農地はネギ畑が多い。

そのネギ畑の1年の移り行きを目に焼きつけて、自分のネギ栽培の参考にする。平地と山間地のネギの違いを理解する意味でも、平地のネギの観察は欠かせない。

定点観測をしているのは、平・塩地内のネギ畑だ。老夫婦が作業をしている。ほかのネギ畑に比べると、収穫作業は遅い。

拙ブログによると、2024年~25年期は師走の終わりに収穫が始まり、年が明けた1月9日には3列のうねが残るだけになった。2月に収穫作業をしていたこともある。

一帯では、やはり最後になる。今シーズンも周りの畑が裸地になったのに、まだ青々としていた。

1月が過ぎ、2月に入っても収穫が始まる気配はない。いくらなんでも……。堤防を通るたびに収穫が遅れている理由を想像するが、こちらは何もできるわけではない。気にかけるだけだ。

2月5日にマチへ行った帰り、堤防を通った。いつものように、ネギ畑を見ると、うねが何列か裸になっていた=写真。

収穫が始まったのだ! なぜかホッとした。やはり今シーズンも最後になった。13日現在、うねは5日と変わっていない。ゆっくりゆっくり収穫するようだ。

2026年2月13日金曜日

鳥居に秘められた物語

                                
   平・山崎の専称寺が「梅の寺」として知られるようになったのは、箱崎昇吾翁(平中神谷)が昭和8(1933)年から足かけ27年をかけて梅の木を植え続けたからだった。

いわき市立図書館がデジタル化した地域新聞を、若い仲間が組み立てた「いわき文献案内」を利用して、キーワード(「専称寺 梅林」)検索をしたらすぐわかった。

 昭和36(1961)年2月20日付の常磐毎日新聞が「春を呼ぶ一千本の梅林/箱崎氏の悲願実る/市も観光誘致に本腰」と伝え、同48(1973)年1月26日付のいわき民報に、小川町の中條実さんが「専称寺の梅林と箱崎昇吾翁」と題して寄稿している。

 それをブログ(2月4日付「専称寺の梅林」)に書いた。そのときは触れるのを控えたが、箱崎翁は梅林以外にも寺社への寄進を行っている。

 中條さんによると、箱崎翁は昭和8年まで国鉄に勤め、田地10アール当たり2百円前後の時代に2千円余の退職金を得た。

 これを資金に、翁は①専称寺入り口の愛谷江筋にコンクリートの橋を架ける②同寺境内に梅を植樹する③大円寺に石門を建立する④立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を建立する――ことを決めた。

 大円寺は専称寺末で箱崎翁の菩提寺でもある。夏井川の堤防まで歩いて行くと、集落のなかに墓と石門があり、奥に本堂が見える。

立鉾鹿島神社と出羽神社は小学校の近くにある。わが家のある旧道から神社に向かって立鉾の参道(鳥居から本殿までの道)に通じる道が延びる。神社の前を常磐線が横切っている。その線路の手前に石の鳥居が建つ=写真。。

まずは寺の石門を見に行く。向かって右側の裏に箱崎翁と奥さんの名前が彫られていたが、風化しているために判読が難しい。

立鉾の石の鳥居は、向かって左の柱の裏側に箱崎翁夫妻の名があった。鳥居は形式が「明神鳥居」で、6カ所に補強具が取り付けてあった。

 その足で近くの出羽神社へ向かう。神社のある丘のふもと、小川江筋の手前に石の鳥居らしいものがあった。

 「らしい」としたのは、石柱が途中までしかないからだ。柱が斜めにスパッと切られ、表面に「平成二十三年三月十一日/東日本大震災誌之」とあった。震災遺構というべきか。

上部も残っているなら、石柱の裏側に同じように夫妻の名前などが彫られていたはずだが、これでは確かめようがない。

 なにか印は?とみると、やはり向かって左側の柱の裏、基礎部分にプレートがあった。夫妻の名前のほかに「奉納 村内安全 昭和八年十二月」と記されている。

 翁の願いは「村内安全」。そして、昭和8年12月を期して、石の門柱と鳥居を寄進した。

日ごろ見慣れている風景の一つだが、それには地元の人間の願いがこもっていた。「きっつぁし」(挿し木=よそから来て住み着いた人間)にも、石の門柱と鳥居のいわれがわかった。

箱崎翁はわが家の近くで暮らしていた。身近なところに、高い志を持って行動した人がいた。あらためてそのことを胸に刻む。

2026年2月12日木曜日

一日遅れの「日曜日」

                                  
   2月8日の日曜日は衆院選の投票日だった。投票立会人を務めたので、早朝7時前から夜7時過ぎまで、最寄りの投票所(小学校体育館)に缶詰めになった。

 日曜日の夜は刺し身で一杯――はおあずけだ。カミサンは「一日早く、土曜日に刺し身にしようか」といったが、それはよした。

 刺し身を理由に晩酌の量が過ぎると、翌日の「仕事」に差し支える。「仕事」が終わってから食べることにした。

ブログのタイトルは? 「月曜日の刺し身」より「一日遅れの『日曜日』」の方がしっくりくる。夕方の刺し身買いから逆算して「日曜日」の行動を決めた。

朝は10時ごろ、ラトブの図書館へ着くように家を出る。2月10日は施設点検のために、図書館も1~3階のショッピングフロアも休みになる。

9日しかない。開館時間に合わせて本を返し、フロアを巡って新しく本を借りた。帰宅するとブログを書き、ルーチンの調べものをした。

横になって休んだらもう夕方だ。カミサンを車に乗せてマルトへ刺し身を買いに行く。冷たい風が吹いている。四倉まで行くのはよして、手前の草野ですませた。

いつもの魚屋さんへ通っていたころは、2月に入ると店主から声がかかった。 「カツオがあります」「おっ、いいね」。毎年そうやって、その年最初の生カツオを食べた。

ブログを確かめたら、その日は早い順から1月17日(2021年)、1月23日(2022年)、2月3日(2018年)、2月7日(2016年)、2月19日(2023年)だった。

それもあって、2月になると「初ガツオ」の記憶がよみがえる。体が覚えているのだ。今年(2026年)はしかし、店主とのやりとりはない。自分で確かめるしかない。

カートを押しながら鮮魚コーナーに行くと、赤身の柵があった。シールには「千葉県産生カツオ」とある。今年(2026年)初めての生カツオだ。さっそくカートに入れる。

それだけでは足りない。マグロを中心にした盛り合わせはもう飽きた。代わりのものはないかと見れば、貝の盛り合わせがある。それもカートに入れた。

柵は私が切った。行きつけの魚屋さんではマイ皿に盛りつけてくれた。それを思い浮かべて、まず貝の盛り合わせをそのままマイ皿に移し、手前の空きスペースにカツオの刺し身を並べた=写真。いつもよりは華やかな盛り付けになった。

久しぶりに「にんにくわさび醤油」で生のカツ刺しを食べる。生はやっぱりいい。細胞が生きている――そんな感じがした。これからは生のカツオの有無をチェックしよう。

貝も食感を楽しんだ。ホタテのやわらかさ、ホッキのしなやかさ、アカガイともう1種類(ツブガイか)のコリコリ感。カツ刺しといい組み合わせになった。一日遅れたからこその、「日曜日」の「口福」である。

2026年2月11日水曜日

突然の選挙・下

                               
   2月8日の衆院選では地元の投票所の立会人になった。投票まで毎日、天気が気になった。

ポカポカ陽気なら大歓迎だが、直近の予報では寒の戻りがあって雪も降るという。市選管から届いた書類にも防寒対策を、とあった=写真。

この日は真夜中に一度目が覚めた。6時半には投票所の小学校体育館に詰めていないといけない。二度寝して寝過ごしたら迷惑がかかる。

結局、3時半には起きた。新聞を取り込むために玄関を開け、庭に出ると霧で頭が濡れた。夜が明けたら車がうっすら白くなっていた。霧と思ったのは雪だった。

ほうきでフロントガラスの雪を払うと、サラサラしている。パウダースノウだ。道路はところどころ白くなっているだけで、アスファルトがはっきり見える。

7時の投票開始時が降雪のピークだったようだ。体育館から雪の校庭を見ると、アダモの「雪が降る」のメロディーが胸中に響いた。

「雪が降る~ あなたは来ない」。「あなた」、つまりは「有権者」。そんなざれ歌を口ずさみたくなるような始まりだった。

予報では昼前にはやむ。その通りになって校庭の雪もやがて消えた。有権者も途切れることなくやって来た。

令和5(2023)年11月12日の福島県議選では投票管理者を務めた。そのときの防寒対策を参考にした。

下はパッチとコールテンのズボン、上は長そでと厚手のシャツ、セーター、ブレザー、ジャンパー。それに毛糸の帽子、マフラー、マスク、使い捨てカイロ、あったかソックス、手袋。ひざ掛けといすのクッションを用意した。

カイロは足裏と腰、腹に張った。上履きはスリッパではなく、冬用の靴にした。足の寒さを感じずにすんだから、これはよかった。

体育館は出入り口が開いている。雪の心配は消えたが、寒風が吹き込む恐れがある。

事前に投票所の責任者から連絡があったとき、管理者・立会人3人の席のわきに「ついたて」を要望した。出口からストレートに寒風が当たる。風よけだ。

夕方、突風が吹いた。投票事務の机にある紙が吹き飛ぶ。有権者用の張り紙が波打つ。「ついたて」のおかげで直接寒風にさらされずにすんだ。

2年前の県議選では、足から冷えてガタガタ震えるほどだった。そばにヒーターがあってもそうだった。今回も時々、後ろにあるヒーターを囲んで暖をとった。

ひざ掛けは材質にもよるが、ないよりはあった方がいい、という程度だった。ストーブで下半身を温め、熱が逃げないようにすぐひざ掛けを当てる。しかし、床から寒気が忍び込む。温める・ひざ掛けを当てる――これを繰り返した。

投票所閉鎖後はタクシーで開票所の総合体育館へ。いわき市内全域からタクシーが殺到する。早い時間に着いたようで、わりとスムーズに投票箱を届けることができた。

風邪は? 翌日になっても体調に変化はない。着膨れするほど着込んだためか、なんとか寒さはしのげたようだ。

2026年2月10日火曜日

突然の選挙・上

        
  予想もしなかった衆議院解散・総選挙だった。その余波が巡りめぐって、地域の片隅で暮らす後期高齢者にも及んだ。

 解散・総選挙を報道で知り、どこの区長が投票所の管理者と立会人になるか、すぐ気になった。

令和7(2025)年7月には参院選、その2カ月後にはいわき市長選が行われた。参院選では地元の投票所の管理者を務めた。

前は、管理者は市職員OB、立会人2人のうち1人は区長というのが、地元の投票所の慣例だった。それが近年、管理者も、立会人の1人も区長という流れに変わった。

最初に立会人を務めたのは、平成29(2017)年10月の衆院選、次は令和3(2021)年9月の市長選だった。間に福島県知事選など4回の選挙をはさんでいる。

3回目は令和5(2023)年11月の県議選で、このときは管理者だった。4回目は少し順番が早まって去年(2025年)7月の参院選だ。やはり管理者を務めた。間には2回選挙があっただけだ。

同じ小学校の学区に8人の区長がいる。投票所は小学校と中学校の2カ所。管理者・立会人も2カ所に分かれる。計算上、今回は役目が回ってこないはずだった。

投票日には予定が入っていた。恒例のいわき昔野菜フェスティバルが開かれる。主催者側の一人なので、なんらかの役割がある。

ところが某日朝8時半すぎ、市役所の始業時間と同時に電話がかかってきた。選挙管理委員会からだった。

 やむを得ない。立会人を引き受け、イベントの方は事務局に理由を伝えて欠席することにした。

役がないときは当日、投票所に出向き、だれが管理者と立会人になったのか、激励を兼ねて確かめるのだが、今回はその役目がこちらに回ってきた。

で、1週間前の日曜日(2月1日)、宣誓書=写真=を持っていわき駅前のラトブで期日前投票を済ませた。

立春のあととはいえ、まだ厳寒期だ。早朝6時半には投票所の小学校体育館に赴き、投票が終わる夜7時以降、借り上げのタクシーで最高裁の裁判官国民審査を含む投票箱を3つ、開票所の総合体育館へ運ばないといけない。そこまでが役目。とにかく長丁場だ。

令和5年の県議選は11月12日に投開票が行われた。そのときの寒さ対策がブログに残っている。一部修正しながら再掲する。

  ――下はパッチとコールテンのズボン、上は長そでと厚手のシャツ、ブレザー、ジャンパーで出かけた。

投票所は、出入り口が開放されている。ジェットヒーターが動いていても、暖気は投票事務従事者には届かない。

いくら冬着に替えても、ジェットヒーターが動いていても、寒気がじわじわと足を、首筋を冷やし続ける。午後には体が小刻みに震えることもあった。

冬は戸の開いた施設で寒風を遮る工夫ができないものか。投票事務に従事する職員がかわいそうでならなかった――。

 これを上回る防寒対策をすること。政治に振り回された挙句、風邪を引いた――では話にならない。絶対風邪を引かないことを自分に言い聞かせた。

2026年2月9日月曜日

ページめくり

                         
   寝床では大活字本を読んでいる。年が明けて間もなく、おかしなことが起こった。

次のページへ行くと、文章がつながらない。どうしたんだろう? 確かめると、裏のページではなく、そのまた裏のページをめくっていた。要は2枚めくり。これが今も続いている。

 前は、そんなことはなかった。ちょっとした感覚の差だが、めくったときに紙が厚く感じることがある。2枚かな? 間違いない。紙をはがすように分けると2枚ある。これがしょっちゅうだ。

前は右肩を下にして右手で本を支え、左手の指で1枚1枚めくりながら本を読んだ。今はその逆をやっている。

別の本を積み上げた上にクッションを置き、それに左腕を載せる。本を左に持って、左の手の親指でこするようにページをめくる。

右手はまったく使わない。いや、正確には使えない。掛け布団の下の毛布を首までかける。右手で端をつかんで左手を覆うからだ。手の指の防寒を意識したらそうなった。

2枚めくりになる原因をあれこれ推測する。まずは空気の乾燥。冬は空気が乾燥し、指先もその影響で乾く。

隣組、あるいは隣組の世帯数ごとに回覧資料を分けたり、数えたりするとき、冬場は舌で指をなめながらやる。そうしないと数え間違って最後に紙が足りなくなり、一からやり直すことがある。この乾燥が原因の一つだろう。

老化もある。高齢者は指紋が薄くなってツルツルしている。皮膚の乾燥も進む。それで紙の引っ掛かりが弱くなり、ページがめくりにくくなるのではないか。ネットで探ると、AIがそんなことを言っていた。

大活字本の紙質はどうか。いや、それはない。日中、普通の新書本を読んでいてもそうなる=写真。

日中は左手に本を持ち、右手の親指でページをめくっている。それでも2ページをめくるときがある。カミサンに聞くと「私もそうだ」という。本も冬は乾燥するのだ。

本と違って新聞はめくりやすい。なかなかめくれないときは、紙をこするようにしながらずらす。すると、はがれる。これができるのは紙がペラペラしていてコシがないからだろう。

それにスパッと裁断された左右の端と違って、新聞は天地がギザギザしている。高速輪転印刷と高速裁断を同時に行うために、ギザギザの刃による裁断が行われる。このギザギザもページをめくりにくいときに役に立つ。指に引っ掛かりができるからだ。

本の2ページめくりを防ぐには――。部屋の加湿だけでなく、指先を保湿する。そのためにクリームを塗る。指先を冷やさないようにすることもいいらしい。クリームは毎日塗っている。

科学的に推測すると、冬の乾燥が主因、老化が副因というところだろうか。老化にとらわれ過ぎるのもよくないが、年を取ったからこそわかる「発見」でもあった。

若い人はこんな経験はできないだろう。年を取ると「初体験」が増える。「経験知」でいえば、やはり年寄りにはかなわない(ま、2ページめくりはしない方がいいけど)。

2026年2月7日土曜日

刺し身とひな人形

                                
 厳寒期の日曜日は、夏井川渓谷の隠居へ行ってもやることがない。滞在時間はグッと短くなる。

 2月1日は午前10過ぎにいわき駅前のラトブで期日前投票をしてから出かけた。隠居に着くと、私は下の庭でフキノトウを採り、カミサンは上の庭でスイセンを摘んだ。

 それからすぐマチへ下り、家に戻って昼食をとった。ヤマからハマの中之作へ直行するつもりでいたが、どうにも頭が重い。

 早寝早起きが習慣になって、早朝4時半には起きる。正午過ぎには動き出して8時間もたっている。年寄りには「脳休め」が必要だ。

しばらく横になっていると、頭もすっきりした。海岸道路へ出て、海を見ながら薄磯~豊間~江名を通り過ぎ、中之作漁港に車を止めた。

 港の真ん前の清航館を会場に、1月31日から2月5日まで「つるし雛飾り」の祭りが開かれた。混雑を避けて、外から飾りをながめたあと、近くを散策した。

小さな店(菊屋)の軒下につるし雛が飾ってあった。駐車スペースには野菜(ネギ・大根・白菜)が何袋か。紙に1袋600円と書いてある。

すぐガラス戸が開いて、店主が中に招き入れる。元は遠洋漁業相手の薬屋だったという。

中には商品の衣類のほか、つるし雛とひな壇があった。ひな壇の一番上には古い男雛(おびな)と女雛(めびな)が飾られていた=写真。

店主が説明してくれる。「うちのひな人形で、ドラム缶に入れて保管していた。東日本大震災では腰まで浸水した。雛人形はドラム缶に入っていたので、プカプカ浮いていて無事だった」

それがよかったのだろう。「沈まない」(落ちない)人形として、受験期になると拝みに来る人がいるという。

店の前の野菜は? 「私がつくった。ネギは九条ネギに赤ネギ」。九条と赤とは珍しい。1袋を買う。

さて、そのあとどうするか。日曜日で、夕方も近い。「小名浜で刺し身を買って帰ろう」。カミサンもうなずいて、「道の駅いわきら・ら・ミュウ」へ向かう。

やはり海の見える道路を利用し、下神白に入ると三崎公園経由で港に出た。海が西日を反射してまぶしかった。

ら・ら・ミュウでは「海鮮市場通り」を巡った。が、ブロック(柵)は売っていても、刺し身は見当たらない。聞けば「刺し身はない」という。

そうか、小名浜の道の駅は遠来の観光客が相手だから、家で食べるころには鮮度が落ちる。干物かブロックなのは食中毒予防の意味もあるのだろう。これは私の勝手な解釈だが、妙に納得した

しかたない。小名浜のマチの魚屋さんはよくわからない。海岸道路を戻って四倉の魚屋さんを目指す。小名浜から四倉まで長い海岸ドライブだ。

目当ての店に着くと「改装休業中」だった。では、前の週と同じスーパーへ。今度も同じ刺し身の盛り合わせを買った。

午前は期日前投票をしたり、隠居へ行ったり。午後はひな人形の物語に感動したり、刺し身を求めて右往左往したり。日曜日なのに走り回ってくたくたになった。