2017年1月7日土曜日

山で迷う人々

 年末のいわきキノコ同好会の集まりで印象に残ったことがある。同会は年に3回、いわきの山で観察会を実施する。そのとき、予定の時間になっても集合場所に戻って来ない人がいた。集合場所からそんなに離れていないのに、迷ってパニックになった――当の本人の述懐を笑えなかった。
 総会、勉強会=写真=のあとに懇親会が開かれた。酒が入るにつれて、何人かが山で迷った話をした。いやあ、みんな迷ってるんだ――私は黙っていたが、パニックになったときのことを思い出していた。

 観察会で迷った人からじっくり話を聞いた。場所は閼伽井嶽(604.3メートル)。私も閼伽井嶽の観察会で迷ったことがある。自分のブログ(震災が起きた2011年の11月3日付「キノコ観察会」)でそのときの様子を振り返る。

 ――尾根から沢へ下りる。沢から尾根へ上がる。別の尾根へ、別の沢へとなると、よほど東西南北を頭に入れておかないと、自分の位置がわからなくなる。行きと帰りの景観がまるで違うからだ。迷ったら冷静ではいられない。

 閼伽井嶽で20分ほど迷ってしまった。道路から混交林に入り、仲間とつかず離れずしているうちはよかったが、だんだんばらばらになる。ある人は棒で木をたたき、ここにいるよというサインを送っている。ある人は声を掛け合っている。それが、途中から聞こえなくなった。たまにカケスが鳴くほかはコソリともしない。

 さて帰るか。“キノコ屋”の習性で単独行動をとり、キノコの少なさに見切りをつけて来た道を戻ったら、まるで知らないところに出た。

 あらかじめ観察場所の地図を渡されていた。それによると、北側の道路から林内に入り、尾根付近を南へ、南西へと林床をなめまわしたが、成果は少なかった。とぼとぼ“そま道”を戻る。道なりに進んだら、北東へ、途中から下って北へとなるところが、東にある頂上へ着いたのだった。地図を見て迷ったことを知った。ずいぶん逸脱していた。

 さあ、どうするか。たまたま磁石を持っていたので、地図と方位を組み合わせて歩く方角を修正する。磁石を持っていたのはほんの偶然だった。夏に骨董店で売っていたのを、軽い気持ちで買った。山に入ることがあれば方角を確認するために使いたい。初めて胸ポケットにひそませたら、たちまち役に立った。

 あとで集合場所に参加者が戻ってきた。一人がつぶやいた。「道に迷って閼伽井嶽の頂上まで行っちゃった」。同じではないか。途中で左に下りなければならないところが、道なりにまっすぐ進んでしまったのだ。北へ。それが東へ、になった。たかだか1キロ四方程度なのに、同じ尾根筋で迷ってしまう。キノコ採りの怖さをあらためて知った――。

 今はGPS(衛星利用測位システム)機能を備えたスマホなどがある。今回迷った人はGPSもケータイも使えたのに、パニックに陥って使うことを思いつかなかった。ただただそのへんを巡るだけだったという。
 
 平市街に近い石森山(224.4メートル)でも迷ったことがある。通い慣れた里山でさえ、初めての沢に出ると方位がわからなくなって、パニックになる。石森山には遊歩道が張り巡らされている。それが頭に入っていたので、とにかく沢を下りきることにした。遊歩道に出ると、ようやく方位の感覚が戻った。
 
 愛菌家は冬でも山に入る。天然のエノキタケが発生しているかもしれないからだ。あした(1月8日)は夏井川渓谷の隠居へ行って、敷地境界のやぶの木にエノキタケがでていないかチェックする。迷う心配はない。

2017年1月6日金曜日

白富士と赤富士

 おととい(1月4日)の夜、いわき地域学會の若い仲間・タケヒロ君と「いわきから見える富士山」の話になった。
「かもめの視線」で知られるいわきの空撮家酒井英治さんが大みそかに、照島上空から雪の富士山を撮影し、フェイスブックにアップした。「シェア歓迎」ということだったから、たちまち映像がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の世界に広がった。

 続く元日。今度はタケヒロ君がいわき市と鮫川村の境に位置する朝日山(796.9メートル)から初日の出と初日に赤く染まる富士山の撮影に成功し、やはりフェイスブックに投稿した。いわきを中心にしたSNSの世界では、大みそかと元日、いわきから見える「白富士」と「赤富士」の写真で幸せな気分になった人が多かったのではないか。

 いわき民報がきのう、1面で酒井さんの“快挙”を報じた=写真。富士山空撮のためにいろいろ準備を重ね、シミュレーションをした。朝日山の北方、三株山頂には富士山方面のライブカメラがある。大みそか、フェイスブックに書き込みがあり、ライブカメラを確かめて鮫川河川敷からモーターパラグライダーで離陸した。で、みごとに富士山をとらえた。

 タケヒロ君もまた、初日の出の時間に合わせて、ぎりぎり朝日山頂に到着するように出かけた。山頂は寒い。初日の出の待ち時間を少なくするためだった。中学生の長女も同行した。

 今ではおととし(2015年)の12月29日早朝にも、タケヒロ君は朝日山から雪化粧をした富士山を写真におさめている。そのとき聞いた話のポイント――撮影場所は三角点より東側なので、いわき市。国土地理院の電子地図でも頂上のしるしはいわき市側にある。
 
 朝日山は「富士山が見える鮫川村の山」であると同時に、「富士山が見えるいわき市の山」でもある。地元(いわきでいえば田人地区)の熱意次第で「富士山が見える田人の山」として認識されるようになるだろう。ま、鮫川村だ、いわき市だ、ではなく、その両方でいいわけだが。

2017年1月5日木曜日

日曜日は刺し身

 今年(2017年)の元日は日曜日。行きつけの魚屋さんも、地元に本社のあるスーパーも休みだ。刺し身はあきらめようと思っていたら……。
 日曜日の夜は刺し身と決めている。ところが、昨年(2016年)11月から12月にかけて、行きつけの魚屋さんの先代夫妻が相次いで亡くなった。

 閉店中に日曜日が3回めぐってきた。3回ともスーパーの「パック入り刺し身」で代用した。顔を見てからつくる「魚屋の刺し身」とはやはり違う。カツオからカツオとサンマ、さらにはタコその他へ――刺し身の中身が変わる時期の相次ぐ不幸だった。師走の後半になって営業を再開した。タコの刺し身にホッキ貝を添えてもらった=写真。

 お母さんが亡くなった直後の日曜日、予約があって仕事をしたという。たまたまシャッターが開いていたところへ刺し身を買いに行った。「マグロなら……」というのでOKしたら、カネをとらなかった。そのときの若だんなの述懐。「おふくろは痛みも感じずに普通に暮らしていられたんですよ。おやじは『当たり所』(文句をいう相手)がなくなっちゃったんじゃないですかね」

 お父さんが亡くなったあとに営業を再開したとき、若だんなの妹さんが言っていた。「2人とも手がかからずに逝きました。あの世でも夫婦でやり合っているんじゃないですかね。若い人の邪魔にならないようにと、(母親が)呼んだのでは」。ともに85歳だった。

 そうしたなかでめぐってきた元日、日曜日。刺し身はパスするしかない――そう思っていたところへ、白身魚の“サク”が届いた。長男一家が年始のあいさつに来た。もう一組の親の家(久之浜)からいろいろいただいたなかに、それがあった。夜、刺し身にして食べた。

 食べたときはよくわからなかった。が、今まで口にした白身魚の記憶をたどっているうちに、ヒラメかもしれないと思った。ヒラメは冬、タコその他の盛り合わせのなかで少し加えてもらうだけだった。こりこりした歯ざわりが記憶を呼びさました。しかし、自信はない。なんという魚か、聞いておけばよかった。
 
 いわき市の「見える化プロジェクト「魅力アップ!いわき情報局」によれば、安全が確認されて試験操業が行われている魚種は94種。ヒラメもそのなかに含まれる。市民生活のなかにいわきの海の食文化が戻りつつある。

2017年1月4日水曜日

正月はお年玉だけじゃない

 正月三が日の最終日、昼。息子一家と会食した。乱雑なままのわが家ではなく、近所にある“ゲストハウス”(故義伯父の家)で。スーパーの開店時間に合わせて生ずしを買いに行った。それがメーン。小学3年と1年の孫はすしを食べ終えると、じっとしてはいない。カミサンがそのためにいろいろ用意した。
 まず、もち焼き=写真。ふだんは全く使わない桐の手あぶり(火鉢)を出す。中には五徳(三本足がついた輪っか=鉄瓶などをかける)、灰ならし、火箸。熾(おこ)した炭を真ん中におき、五徳の上に網渡しをかけ、もちをのせたら、あとは上の孫にまかせる。

 去年(2016年)まではもちを食べる側だった。今年は食べるだけでなく、焼く仕事を覚えさせる。父親にひっくり返すタイミングを教えられ、手でやろうとして「アチチ」となった。これが大事。もちは焼くとやわらかくなるだけでなく、やけどをするほどに熱くなる。私らだって今も「アチチ」を繰り返している。私は白もちのほかに、豆もちを頼んだ。

 書き初めもした。カミサンが硯(すずり)・墨汁・筆・半紙を用意する。故義伯父はアマチュア書家だった。道具が残っている。上の孫は漢字を教えられて「酉年」、下の孫は「とりどし」と筆を走らせる。

 終われば、たこ揚げだ。私もかりだされる。風が時折吹いた。動かずに糸を操れば揚がるのに、走り回るからたこはすぐ地面をはう。途中でボール蹴りに移ったが、これには体がついていけなかった。

 仕上げは、カミサンの趣味である抹茶点(た)て。茶筅(ちゃせん)で「の」の字を書くように動かすことを教えられたに違いない。その延長で台所からしずしずと茶碗を運んできた。まず、私がもらう。親も飲む。

 昔の子どもは、正月、いろんな遊びをした。たこ揚げのほかに、家の中ではかるた・福笑い・すごろく。お年玉はもらったが、額はたいしたことがなかった。元日、年始に来たのでお年玉をあげると、下の孫がもう一人のじいじは○×円だったと、倍の金額をいう。すかさず母親が「クリスマスプレゼントをしなかったからだよ」とフォローしてくれた。

 正月はお年玉をもらうためだけにあるのではない。1年のうちで最も安らぐ三が日だからこそ、いろいろ遊びがあるんだよ。あとは大変だろ、子どもも。もち焼き・書き初め・たこ揚げなんかは文化でもある――なんてことは、もちろん孫には言わない。

 さて、きょう(1月4日)は仕事始め。私もそう。これからごみネットを出す。わが地域はきょう、「容器プラスチックの日」だが、風の心配がある。吹き飛ばされる。食べかすが残るマナー違反の容器プラはカラスに狙われる。「とり年」だからといってカラスに気を許したら泣きをみる。

2017年1月3日火曜日

「本の貸出福袋」

 いわき市の総合図書館は休みが少ないので重宝している。月末の月曜日、図書整理期間、臨時のほかは元日に休むだけ。
 総合図書館はいわき駅前のラトブに入居している。きのう(1月2日)、ラトブは初売りだった。今年(2017年)最初の返本を兼ねて本を借りに行った。

 新着図書コーナーに「本の貸出福袋」が飾られていた。カミサンが面白がって「館長おすすめNO.1 伝統と私たち」の“荷札”のついた福袋を借りた。福袋に入っているのは3冊。袋入りだから、いつものように図書館利用カードを貸出機にかざして借りる、というわけにはいかない。カウンターで手続きをとった。
 
 帰宅後、カミサンが福袋を開けたのを見てニヤリとする。3冊は①山崎祐子編『雛の吊るし飾り』(三弥井書店、2006年)②『熊川稚児鹿(しし)舞が歩んだ道 福島県双葉郡大熊町』(いわき地域学會、2015年)③高倉浩樹・滝沢克彦編『無形民俗文化財が被災するということ』(新泉社、2014年)――だった。
 
 カミサンは『雛の――』に喜んだ。編者を知っている。『熊川――』は手前みそになるので省略。<東日本大震災と宮城県沿岸部地域社会民俗誌>と副題の付いた『無形――』編著者の一人、高倉さん(東北大教授)は知人の息子だ。編著者がいわき出身・在住者という点で共通している。
 
『雛の――』は震災前に発刊された。が、山崎さんも含めて編著者は大津波と原発事故で危機に瀕した無形民俗文化財の保存・伝承に向けて調査・研究を続けた。『無形――』は初めての本なので、“又借り”をして読んでみよう。

 図書館のホームページで確かめたら、「本の貸出福袋」は去年(2016年)も実施している。去年は“借り初め”が遅れたのか気づかなかった。休館中の常磐を除く小名浜など4地区図書館は年末年始休が明ける4日から実施されるという。思いもよらなかった本に出合える企画だ。

2017年1月2日月曜日

紅白イエモン

 大みそかの夜はなんとなくNHKの紅白歌合戦を見て過ごす。どんな歌手が出演するのかはあまりよくわからない。新聞、ファンのフェイスブック、当のNHKの情報でピンポイント的に知るだけだ。
 ハーフタイムにピコ太郎が出た。「あさイチ」で出演を知った。が、このグループはNHKの直前番組を見るまでわからなかった。イエローモンキー、復活していたのか!

 去年(2016年)12月30日の朝日新聞に、SMAPへの感謝と惜別をこめた意見広告が載った。なんと全8ページ。しかも、朝日新聞社のクラウドファンディングサイトを活用したものだという。自社の新聞に広告を載せるためのファン動員だったか――そんなことをちらりと思ったが、もちろん“真相”は別のところにあるのだろう。

 次の日、また朝日に同じようなスタイルの文字広告が載った=写真。読んでいるうちに、ん?となった。イエモンの曲「JAM」の歌詞だった。「外国で飛行機が墜(お)ちました ニュースキャスターは嬉しそうに『乗客に日本人はいませんでした』『いませんでした』『いませんでした』……」。「JAM」はしかし、本筋は「君に逢いたくて君に逢いたくて」にある。井上陽水の「傘がない」に共通する愛の歌だ。
 
 全面広告を見たときにはわからなかったが、直前番組を見て合点がいった。広告を読み返すと、だんだん大きくなった歌詞の文字のあとに極小文字で「今晩JAM歌います。……」とある。紅白出演を告げる広告だった。
 
 ざっと20年前、長男からエンヤや佐野元春、イエモンらを教えられた。いくつかカセットテープを譲り受けて、車の中で聴き続けた。

「JAM」がぐさっときた。ニュースを発信する側に身を置いていたので、「乗客に日本人はいませんでした」には複雑な思いを抱いた。国内外を問わずなにかあったとき、肉親・友人・知人の安否が気になる。「日本人はいませんでした」はそういう人たちに安心を提供する。一方で、いのちの普遍性という視点からは「日本人が無事ならいいのか」という反応も生まれる。

 報道はどこでも、いつでも自国(ナショナルメディア)・自県(ローカルメディア)・自地域(コミュニティメディア)の視点で展開される。「日本人はいませんでした」には、メディアの特性と限界が示されている。
 
 飛行機事故だけではない。船舶・列車・バス事故、そしてテロ事件。きのう(1月1日)未明(日本では朝)、トルコのナイトクラブで銃乱射事件が起きた。時事通信は「日本領事館によると、これまでのところ日本人が巻き込まれたという情報は入っていない」と報じた。だれかの安心のためには、こういう情報が欠かせないと思いつつ、やはりなんとなく釈然としないものが残った。

2017年1月1日日曜日

とり年スタート

 今でも「あのとき、なんで写真を撮れなかったのだろう」と、少しの悔しさとともに思いだすことがある。キビタキ、雄。きれいだった。
 息子たちがまだ小学生のとき、日曜日になると夜明けにおこして平の里山(石森山)へ連れ出した。子どもには迷惑だったかもしれない。
 
 初夏。ちょうど愛鳥週間が始まったころ。キビタキの雄がさえずっていた。「オーシツクツク ポーピーピッコロ」。森の中に張り巡らされている遊歩道のひとつ、沢から尾根へ出たとき、1.5メートルほどの先の木の枝に、さえずり主がいた。
 
 出合い頭だった。鳥もびっくりしたろうが、こちらもびっくりした。スズメほどの小ささなのに、色彩は歌舞伎役者並みに派手だ。黒・黄・白・橙。カメラを肩にかけていたのに……。「あのとき、写真を撮ってたらねぇ」と、ときどき息子に言われた。
 
 その息子が結婚して、2人の父親になった。石森山をフィールドに子どもを連れていく。親・子・孫三代の石森山通いだ。キビタキの写真を撮ってくれないものか――。
 
 キビタキの雄だけではない。姿を見たい鳥がいくつかある。身近なところでは、夏に渡ってくるカッコウ。夏井川の河川敷で営巣するオオヨシキリの巣を狙って、「カッコー、カッコー」とやっていたものだが、今は全く聞かれない。夏、河口近くで群飛していたコアジサシも姿を消した。
 
 いわきで新聞記者になり、結婚して子どもが生まれた。ここで根を生やすと決めたとき、アフターファイブはいわきの自然を知ることに使おう、でないと記事が薄っぺらいものになる――そう考えて、まず始めたのがバードウオッチングだった。鳥から花へ、そのかたわらのキノコへ、野菜栽培へ。私にとっては「いわきという書物」を読む原点が野鳥観察だった。

 とり年がスタートした。で、なにか野鳥の“撮っておき”の写真をと思ったが……。やはりハクチョウしかない=写真。今年もよろしくお願いします。