2008年9月26日金曜日

多彩で多様な秋の雲


ここ何日か、雲がさまざまな表情を見せるようになった=写真。朝は朝で、夕方は夕方で、むろん日中も、形が多様に、多彩に変化する。散歩へ出るとすぐ空を見る。雲を見て思い出す散文と詩が3つある。

散文は、吉野せいの作品「いもどろぼう」(『洟をたらした神』所収)の冒頭部分。

待ちわびた初秋の雨が一昼夜とっぷりと降りつづいて、やんだなと思うまもなく、吹き起こった豪快な西風が、だみだみと水を含んだ重い密雲を荒々しく引っ掻き廻した。八方破れの大まかな乱裁ち。忽ち奇矯なかげを包んだ積乱雲の大入道に変貌しはじめたと見る間に、素早く真白い可愛い乱雲の群小に崩れて寄り添い、千切れてうすれ、まっさおな水空の間あいを拡げながら、東へ東へと押し流されて、桃色がかったねずみ色の層雲が、まるでよどんだように落ちついてでんとおさまった。

梨農家として自然と向き合ってきたせいの観察力の確かさがよく分かる文章だ。そのうえ積乱雲・層雲といった自然科学的な知識に基づく雲の区別ができている。ものすごい勉強家だったのだろう。

詩はまず、吉野せいの文学の師ともいえる山村暮鳥の「雲」。

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか

この暮鳥の詩を踏まえて、雲に呼びかけた谷川雁の「雲よ」もある。松永伍一流に言えば、過去へ向かう暮鳥の雲と、未来へ突き進もうとする雁の雲だ。

雲がゆく
おれもゆく
アジヤのうちにどこか
さびしくてにぎやかで
馬車も食堂も
景色もどろくさいが
ゆったりとしたところはないか
どっしりとした男が
五六人
おほきな手をひろげて
話をする
そんなところはないか
雲よ
むろんおれは貧乏だが
いゝじゃないか つれてゆけよ

雲から、風からインスピレーションを受ける。もちろん人間や植物からもだが、雲に限っていえば、連想の妙に引かれてやまない。恐竜・チョウチョウウオ・羊・鰯…。想像力が試されるのだ。

ついでながら、「磐城平」を「いわきだいら」と濁って読む中央の人士がいる。ラジオで誤読し、本で誤記するから、いっこうに正しい読みが定着しない。「背戸峨廊(セドガロ)」しかり。間違いが正されるまで声を上げ続けるしかない。

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