2008年9月24日水曜日

秋彼岸に死者を思う


秋分の日のきのう(9月23日)、墓参りのためにカミサンの実家へ行った。着くとすぐ息子夫婦も1歳5カ月の子ども、つまり孫を連れてやって来た。一緒に墓参りをした。

夏風邪をこじらせて「甘えん坊」に戻った孫は、この数週間、わが家へ来ても親から離れない。抱こうとすると泣く。それが、墓参りでは違った。母親からひょいと渡されて私の腕に抱かれた。泣かずに平気な顔をしている。

孫を抱いて寺の参道(石段)を上る。墓へ行く。柄杓で墓石に水をやる、線香を手向ける。と、孫はまねをしようとする。本堂でお鈴をチーンとやると、やはりチーンとやりたがる。チンパンジーと同じで、瞬間的に学習する発達過程にあるのだ。

寺の参道を下りて道路のそばに立つ石門を指さしながら、カミサンが孫に言った。「●○クンのひいひいジイチャンが立てた(寄進)んだよ。触ってごらん、冷たいから」。孫はそんなことは分かるはずもない。が、石の冷たさを感じさせるのもいいかと、てのひらを触れさせる。

その瞬間、不思議な感慨に襲われた。<死者も生きている>。この孫が今あるのは、両親の、そのまた両親の、さらにずーっと大昔から続く「両親」のつながりの結果だ。記憶にない何代か前の「両親」はともかく、「ひいひいジイチャン」あたりなら、まだ孫が大きくなったときにも血系の想像力の範囲内にあるだろう。

死者は思い出す人間がいる限り、その人間の心の中に生きている。きのうの朝のNHKドラマ「瞳」でも、沿道から死者(遺影)が祭りを見ていたではないか。9月22日はわがオフクロの命日。それもあって、よけい<死者も生きている>と思ったのかもしれない。

夕方、わが家へ帰っていつものように夏井川の堤防を散歩した。土手のヒガンバナを写真に撮っている人がいた。声をかけると「ここはすごいですね」と興奮した様子。ほぼ満開、土手をびっしりと赤く染めている=写真。秋の彼岸の中日、まさに死者と生者、彼岸と此岸をつなぐ花であることを、強く感じた。

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