2009年12月18日金曜日

再び藁谷達について


草野心平記念文学館で開催中の「ふくしまの文学展 浜通り編」に絡んで、藁谷達(さとる)の記録文学『憎しみと愛』に衝撃を受けた話を前に書いた。おととい(12月16日)、当欄に藁谷さんに関係する方からコメントをいただいた。で、同日付福島民友新聞の文化欄に藁谷達の記事が掲載されていることを知った。

「藁谷達の世界再発見/極限状況の人間ドラマ、精神の独立保つ作家の矜持」という見出しで、文化部の森哲也記者が、新聞としては異例の長さ(12字×108行)の紹介記事を書いている。久しぶりに手ごたえのある新聞記者の文章を読んだ。

〈本質を見抜く観察力と自己を見失わない精神から生まれる、歴史学者を思わせる簡潔な文体からは、心の高貴さと温もりが伝わり、その世界の空には、美しい思想の断片がきらめいている〉

これだけでも十分、この記事を読んだかいがある。森記者も『憎しみと愛』を読んで衝撃を受けたのだ。だから、この本のすごさを伝えたい――上司に訴えて長文原稿のOKを勝ち取ったに違いない。

〈乾いたように簡潔で美しい自然描写、仲間たちの思想的な変化の中で起きる民主グループなどとの対立、ソ連人将校の振る舞い、同じ収容所のドイツ人との交流、「ダモイ」(注・「帰国」)が決まるまでの心の葛藤などが、冷静で正確な筆致で描かれ、まるで、自分がそこに居合わせ、追体験するような思いに捕らわれた〉

『憎しみと愛』の世界を、それこそ正確な筆致で要約・紹介している。

豊富な地下資源が眠るシベリアに不足しているのは労働力。資源を開発するためには囚人を働かせよ――。

「帝政ロシアも、ソ連も、ロシア国民にひどいことをしてきた」(立花隆)。ドストエフスキーもそれで一時、シベリアへ送られた。『死の家の記録』がそれ。ソルジェ二ツィンも収容所暮らしを余儀なくされた。

先の大戦が終わるころ、ヤルタ会談が行われる。その流れのなかでソ連は北海道占領を画策するが、アメリカに反対される。ならば、というわけで「スターリンは、急に、満州で得た捕虜をシベリアに送って、強制労働に服させることを思いつく」(立花隆)のだった。

以上のことは、立花隆著『シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界』で知った。画家香月泰男の本『私のシベリヤ』は、実は若く無名だった立花隆(当時29歳の東大哲学科の学生)がゴーストライターを務めたのだった。その本の中にこんなくだりがある。

「伐採した松の枝を少しへし折ってきて、収容所に帰ってから、スプーンをこしらえた。ハイラルにいるころ、立派な万能ナイフを拾ったことがある。(略)ネコババしてシベリヤまで持ってきていた。何度かの持物検査でも、無事に隠しおえてきた。このナイフとノミで形をつくり、後は拾ってきたガラスの破片で丹念に磨いて仕上げた」

それと同じようにつくっただろう木製のスプーンを、今年6月のミニミニリレー講演会(いわきフォーラム‘90主催)で見た。いわき市平のごく狭い地区に住む、複数の人からシベリア抑留体験談を聞いた。そのときにスプーンなどが展示された=写真

少し遠回りになったが、極限状況における身の処し方は、たぶん香月泰男も藁谷達も同じだったのだ。香月は、いや立花隆は香月の言葉をこう書いている。

「一人の絵描きとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。(略)この絵描き根性があったがゆえに、ほかの兵隊たちが完全な餓鬼道に陥っているようなときにも、一歩ひいたところに身を持していることができたのだろう」

藁谷達に当てはめれば「一人の絵描き」の代わりに「一人の人間」、いや「人間」ではきれいすぎる、「物書きを目指す一人の人間たらんとする精神」がおのれを抑制し、「一歩ひいたところ」にいて状況を観察し、内なる世界で自己批評を積み重ねた、つまり考えることをやめなかったからこそ、森記者のいう「冷静で正確な筆致」が可能だったのだ。

それは『極光の下に』という歌集を出した歌人大内与五郎の作品のなかにも見いだしうることだ。〈考へること面倒になりゆきてわれにも兆す俘虜型があり〉。面倒なことに耐え抜いたからこその記録文学であり、短歌であったといえようか。

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