2012年3月18日日曜日

いわき清苑


カミサンの義理の伯母の入棺・火葬に立ち会った。大正5(1916)年生まれの満95歳。カミサンにとっても、カミサンのほかのいとこたちにとっても、親たちが亡くなったあとの唯一のオバさんだった。

火葬は「いわき清苑」=写真=で行われた。4年前の4月、「人生最後のステージ」が明るくモダンになってオープンした。その1年半後の2009年9月、元の職場の後輩が亡くなったとき、「いわき清苑」で最後の別れをした。2年半ぶりに訪れた。

待合室で軽い食事をしながら、喪主たちと話をしているうちに、東日本大震災にまつわる「いわき清苑」の話を思い出した。

1年前、「いわき清苑」では津波で亡くなった人たちの火葬が続いた。原発事故が起きて避難した遺族もいたために、全員がそろわないケースもあった。

いわきの新聞には毎日、お悔み情報がチラシとして折り込まれる。今も時折、1年前の3月11日を死去日とするお悔み情報が載る。それも2人、母子と思われるものだったり、夫婦と思われるものだったりするときがある。

先週、3・11から1年を前にして載ったのは、後者の方だった。春の彼岸が近づいたために、遺族が区切りをつけたのだろう。

オバさんの話に戻る。大正5年生まれだから、歴史に残る災厄を3回は経験している。

まず、関東大震災。それが起きたとき、いわき地方はどうだったか。四倉の知人から借りた本がある。吉野熊吉著『海トンボ自伝』。そのなかにこうある。著者はそのとき、12歳。

「――昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」。

震災で東京は火の海になった。それが、四倉からも見えた。オバさんはそのとき、7歳。内陸部の小川の人間だから、それを見たかどうか。地震もどこまでわかっていたか。

次は、太平洋戦争。20代後半で、妻として、母としてしゃにむに働いていたことだろう。そして、最晩年の東日本大震災・原発事故。94歳。

午後の日差しが差し込む「いわき清苑」のロビーで、オバさんの人生に思いをめぐらし、同時に3・11からまったく時間が進んでいない遺族が浜通りにはまだまだいる――そのことを忘れぬようにと、自分に言い聞かせた。

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