朝晩、首からデジカメをぶら下げて散歩する。「朝練の息子を車で学校へ送り届ける途中に、カメラをぶら下げて歩いてるのを見ましたよ」。酒席で知人に声をかけられた。「いつもだよ」
彼は散歩コースから少しはずれたところに住んでいる。チラホラ車が通るだけの早朝、こちらは知らずに知人とすれ違っていたわけだ。随分早くから練習するものである。子どもは高校の駅伝競技の選手だという。
いつかの夕方にはこんなこともあった。散歩へ出るとすぐ、住宅と畑の混在する小道で同じく散歩へ出た人とばったり顔を合わせた。「何を撮るんですか」「鳥とか花とか、いろいろです」。その人もカメラが趣味で、チョウを追いかけている、と聞いた。首からぶら下げているカメラが気になったのだろう。言葉を交わしたのは初めてだ。
最近はいつもそばにカメラがある。1年前までは考えられなかったことだ。デジカメを車に積んでおいてもたまに撮る程度だったのが、今や毎日撮るくらいに変わった。プロから見たらおこがましいことだが、カメラがなんだか体の一部になったような気がするのだ。
キノコ好きは森に入るとすぐキノコが目につく。いわゆる「キノコ目」になる。これまたおこがましいが、少し「カメラ目」になってきたのだろうか。絵になりそうだと思っても、「まあいいや」で通り過ぎていたのが、「今撮らないといつ撮れるか分からない」に変わった。足を止めてパチリとやるのだ。
そうなると欲が出てきて、デジカメの機能をいろいろ試してみたくなる。今になって初めて使用説明書が「座右の書」になった。ときどきは息子にも聞く。それでつい最近、マニュアルで接写するやり方を覚えた。望遠とは違った味わいがある。
きのう(11月14日)の朝、国道6号常磐バイパス終点の「草野の森」の広場で木の実を接写していたら、同じ散歩組の人が足を止めた。「何を撮ってんの」。すれ違ってあいさつするだけの人と、初めて話をした。カメラが対話を引き寄せた。
被写体はネズミモチとマルバシャリンバイの黒い実。照葉樹の一種で、標識盤で名前を確かめた。ハマヒサカキの白い小さな花も写真に収めた=写真。ピンボケかどうかすぐ分かるのも、デジカメのいいところだ。
彼は散歩コースから少しはずれたところに住んでいる。チラホラ車が通るだけの早朝、こちらは知らずに知人とすれ違っていたわけだ。随分早くから練習するものである。子どもは高校の駅伝競技の選手だという。
いつかの夕方にはこんなこともあった。散歩へ出るとすぐ、住宅と畑の混在する小道で同じく散歩へ出た人とばったり顔を合わせた。「何を撮るんですか」「鳥とか花とか、いろいろです」。その人もカメラが趣味で、チョウを追いかけている、と聞いた。首からぶら下げているカメラが気になったのだろう。言葉を交わしたのは初めてだ。
最近はいつもそばにカメラがある。1年前までは考えられなかったことだ。デジカメを車に積んでおいてもたまに撮る程度だったのが、今や毎日撮るくらいに変わった。プロから見たらおこがましいことだが、カメラがなんだか体の一部になったような気がするのだ。
キノコ好きは森に入るとすぐキノコが目につく。いわゆる「キノコ目」になる。これまたおこがましいが、少し「カメラ目」になってきたのだろうか。絵になりそうだと思っても、「まあいいや」で通り過ぎていたのが、「今撮らないといつ撮れるか分からない」に変わった。足を止めてパチリとやるのだ。
そうなると欲が出てきて、デジカメの機能をいろいろ試してみたくなる。今になって初めて使用説明書が「座右の書」になった。ときどきは息子にも聞く。それでつい最近、マニュアルで接写するやり方を覚えた。望遠とは違った味わいがある。
きのう(11月14日)の朝、国道6号常磐バイパス終点の「草野の森」の広場で木の実を接写していたら、同じ散歩組の人が足を止めた。「何を撮ってんの」。すれ違ってあいさつするだけの人と、初めて話をした。カメラが対話を引き寄せた。
被写体はネズミモチとマルバシャリンバイの黒い実。照葉樹の一種で、標識盤で名前を確かめた。ハマヒサカキの白い小さな花も写真に収めた=写真。ピンボケかどうかすぐ分かるのも、デジカメのいいところだ。
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