2011年6月7日火曜日

ホットスポット


文科省は毎日、モニタリングカーを用いて固定測定点で空間線量率を測定している。その結果がHPで公開されている。「福島第一原発の20キロメートル以遠のモニタリング結果」を、測定を開始した3月16日からチェックしてみた。

先日、若い友人が「いわき市小川町上小川の数値が高いですよ、牛小川(夏井川渓谷)ではないですか」と言ってきた。牛小川の無量庵では、知人が4月17日に線量を測った。毎時0.291マイクロシーベルトだった。だから「それはないな。川前は峠の荻が高い。上小川も峠の十文字が測定点かもしれない」

測定時間は午前10時と午後6時の2回、いわき市内では毎回、10カ所前後の測定結果が載る。「上小川」は「いわき市小川町上小川(26キロメートル南西)」と表記される。6月6日午前10時現在で「上小川」は1.5、「いわき市川前町荻(28キロメートル南西)」=写真=は2.8。この2地点だけが1をオーバーしている。数値も毎回、そう変わらない。

グーグルアースで福島第一原発から南西26キロを推定すると、はからずも「十文字」近辺だった。国道399号が小川の町中から山中へと駆け上がり、峠の十文字で双葉郡川内村へと駆け下る。下ったすり鉢の底に戸渡の集落がある。十文字は文字通り「十字路」だ。国道399号と交差するように、双葉郡広野町へも、いわき市川前町へも下ることができる。

旧知の戸渡の住人に聞いた。今は平に避難していて、戸渡に通っている。「線量が高いのは十文字です。私も初期から計測していますが、十文字では2マイクロを下がることがないですね」「とわだ分校校庭では0.8~1.6マイクロで推移しています。メタセコイアの前など局所的に3マイクロを軽く超えるところがあります。ホットスポットですね」

「正しく恐れる」ためには客観的なデータが必要だ。おととい(6月5日)、若い友人が線量計をもってわが家に遊びに来た。室内の放射線量を測ったら0.1だった。3月27日にシャプラニール会員の大学の先生が測ったときには1だったから、だいぶ下がった。平常値(0.05)に近づきつつある。

それはいいとして、私には気がかりなことがある。「田村市都路町岩井沢(25キロメートル西)」の数値が高い。6月5日午後6時現在で1.3。ふるさとの田村市常葉町はそれなりに落ち着いているから一安心だが、わが幼少年時代の記憶の宝庫である「岩井沢」(母の実家がある)が、これでは心配だ。

測定点は岩井沢の東か西か。西側、国道288号の常葉と都路の境界は「サカイノクキ」と呼ばれる峠。そこはしかし、30キロ圏外に近い。もっと東側だとすると、双葉郡との境の峠を越えて、古道から岩井沢に入ったあたりか。いわきに住んでいても、国道288号沿いの阿武隈高地の放射線量が気になる。

2011年6月6日月曜日

高木誠一蔵書


「いわき学」の先達の一人、高木誠一(1887~1955年)の家がいわき市平北神谷にある。無住のために借り手を探している。

土蔵の2階に高木の蔵書が眠る。家を管理している孫たちには、使い道のない資料だという。めぼしいものはすでに流出した。「何か役に立つものがあれば持って行っていいですから」。近所に住むいわき地域学會の会員に声がかかった。

3月末に予定されていた調査が、「東日本大震災」の影響で延期になり、先日、2カ月遅れでようやく実施された。地域学會の有志数人が参加した=写真

高木は柳田國男の門人で、民俗学が産声を上げたころからのフィールドワーカーだ。家業の農業についても研究・改良を重ねた篤農家として知られる。請われて村助役も務めた。実業、学問、村政と、多面・多層的に村づくりに尽力した。

大正~昭和時代には宮沢賢治や高木誠一、三野混沌(吉野義也)といった、農の営みを生き方の基本に据えた人間が輩出している。後世の人間から見ると、興味が尽きない時代だ。

高木は明治末期に柳田に出会い、新渡戸稲造らが結成した「郷土会」に参加し、柳田らが編集する月刊雑誌「郷土研究」に次々と調査報告文を発表した。大正時代に、すでに民俗学者としての実績を残している。

彼がどんな本や雑誌を読んでいたのか。「大正ロマン・昭和モダン」の視点で、ほこりをかぶり、黴臭い資料を1点1点手に取る。

結果として、中央報徳会発行の月刊誌「斯民(しみん)」、東京人類學會発行の「人類學雑誌」、帝國農會発行の「「帝國農會報」といった大正時代の雑誌のほか、昭和初期の雑誌・単行本、合わせて15冊ほどを“救出”した。

ほかの仲間は、それぞれの研究テーマに沿って地元北神谷の古文書を、雑誌を“救出”したようだ。

内郷に家があるという高木の孫の女性(もうかなりの高齢だ)を車で送って行った。その車中でのことば。「祖父もこれで喜んでいることでしょう」。高木の民俗学的研究成果を引き継ぎ、発展させるのが、わが地域学會の使命であることを、あらためて感じた。

2011年6月5日日曜日

カッコウを探して


きのう(6月4日)は、朝7時すぎに散歩に出た。快晴、無風。夏井川のヨシ原では、オオヨシキリが盛んにさえずっている。対岸からはホトトギスの鳴き声。

しばらく行くと、かすかに水辺から聞こえてきた=写真。耳に手を当てて音を集める。「カッコー、カッコー」。それが、だんだんはっきりしてくる。

あとで、自分のブログをチェックした。カッコウの鳴き声を聞いたのは2008年5月下旬以来、3年ぶりだ。その前は十数年間、耳にしなかった。夏井川で「ふるさとの川モデル事業」が始まったころに、一時、オオヨシキリのさえずりが途絶え、その巣に托卵するカッコウの雌の、かりそめの夫の鳴き声も消えた。

カッコウは遠くで鳴いているように聞こえても、たいがいはすぐ近くにいる。対岸ではなく、こちら側の岸辺林でさえずっているに違いない。少し沈黙したあと、今度はちょっと遠くで鳴き始めた。対岸へと移動したのだ。すぐわが家に戻り、車でカッコウを探すことにする。

いったん六十枚橋を経由して右岸へ渡り、河口までゆっくり移動した。車には双眼鏡が常備されている。聞こえるのは、しかし、オオヨシキリとホトトギスの鳴き声のみ。

河口の磐城舞子橋は震災の影響で通行止めになっている。堤防の道をUターンして上流へ向かう。六十枚橋を過ぎたところで、再び「カッコー、カッコー」の声が聞こえてきた。右岸のヤナギの木のこずえにいないかどうか、双眼鏡で探すが、姿はない。

と、2羽が連れ立ってヤナギの木から別のヤナギの木へと入り込むのが見えた。次の瞬間、1羽が追いだされたところをみると、1羽はホトトギス、1羽はカッコウだったか。そちらから「カッコー、カッコー」の鳴き声が響く。

ここで、いったんカッコウの“追っかけ”は中止して、朝食をとり、少し仕事をした。午後にまたカッコウの鳴き声を確かめに出かけた。カッコウは沈黙したままだった。午前と午後と、一日2回は夏井川の堤防に立とうと思うのだが、ずっとカッコウが滞留する保証はない。

2011年6月4日土曜日

ヘンな店


「内郷にオーガニックカフェができた」。カミサンがいうので、運転手をつとめる。はがき大の案内カードには、私立の「磐城一高近くです」とある。国道6号から旧道(浜街道)に入り、磐城一高の前を過ぎる。が、それらしい雰囲気の店はない。昔ながらの家並みが続くだけだ。

カミサンが同級生の文具店で場所を聞く。看板は出ていないが、「ここではないか」とカミサンが目星をつけた2階建ての家がある。見た目はただの住宅。同級生が小雨の降る中、道路に出てきて場所を教える。目星をつけた家がそれだった。「オーガニックカフェ&工房 倭夢(わむ)」

前は家を縦割りにして2世帯が入るアパートだったという。男の目から見ると、「ヘンな店」だ=写真。室内が細かく仕切られている。フランス人形が動き出してどこかに隠れていそうな感じ。

店内をよく見る。蛇口、流し、板張りの床、ガラス戸、仕切り壁、照明、器……。「ヘンな店」という印象は、それらがホームセンターで売っているような大量生産品とは無縁のものだったからだ。要は個性的。吟味したあとがうかがえる。

テーブルも、イスも一つひとつ違う。革のバッグデザイナー、美術商(古物商)を兼ねるオーナーの女性が見立てた。売り物でもある。若い作家の作品も展示・販売している。2階は工房。仲間の女性が布のバッグをつくっていた。

カミサンには旧知の女性だ。私も話したことはないが、何度か顔は見ている。アートキルトを手がける「和田のお姉さん」の、年下の友達だった。和田さんらが出演する朗読コンサートの手伝いをしており、そのときに髪形などが個性的なので印象に残っていたのだろう。

オープン準備中に「3・11」に遭遇した。幸い、大きな被害はなかった。オーガニックカフェである。梅干し味の番茶を頼んだ。隣は10階建てのマンション。ビル風が強烈なので看板を掲げられない。地面を掘るのだという。杭のような看板が立つのかな――番茶をすすりながら、そんなことを思った。

2011年6月2日木曜日

朝めし前


きのう(6月2日)早朝、起き抜けに夏井川渓谷へ出かけた。無量庵の片隅に菜園がある。三春ネギの苗を植えてからおよそ1カ月。最初の追肥と土寄せをした。生ごみも埋めた。

「3・11」に落石事故が起き、通行止めになっていた溪谷の幹線道路(県道小野・四倉線)は5月末までに応急工事が完了し、復旧した。通行止めを告げる立て看も、柵も道路から撤去された。落石現場には新たにワイヤネットが張られた。

追肥と土寄せは30分もあれば終わる。朝めし前の簡単な作業だ。6時45分ごろに郡山からの一番列車が牛小川の集落を通過し、7時10分ごろにいわきからの一番列車が同じく無量庵の前を通過する。郡山行きの一番列車を見送って帰路に就いた。

ざっと1時間余の滞在だ。Kさんが早い時間に軽トラで会社に出かける。やがて出勤するだろうTさんと会って、あれこれ話す。「3・11」以後の、集落(牛小川)の様子が少しわかる。

前回、牛小川からの帰路に、平地の平窪地内で通勤途中の車の列に巻き込まれた。今回は下小川から左折し、石森山を越えるルートをとった。四倉・大野二小の前から石森山を駆け上がり、平・絹谷へと林道を駆け下る。

間もなく「青滝の溜池」に出るというあたりで、キジの雄に遭遇した。悠然と林道を歩いていた。

車を止めて、カメラを向ける。何コマか撮影していたら、キジのうしろでリスが素早く道を横切った。偶然、一コマだけキジとリスが写っていた=写真。リスは反対側の草むらへ入り込むために、草むらから林道へと姿を見せたところだった。

石森山でリスを目撃するのは、これで二度目。朝の8時前といっても曇天だ。夜明けのころの明るさしかない。そんな天気がキジとリスを林道に誘いだしたのだろうか。早起きは三文の徳。ピンボケでもうれしい写真が撮れた。

いわき総合図書館再開


震災復旧作業のために閉館していたいわき総合図書館が、5月30日、再開した。「3・11」から80日間、調べものがほとんどできなかった。それどころではなかったにしても、図書館閉館はこたえた。ともかく、これで“知の森”へ分け入ることができる。長かった――が率直な感想だ。

図書館はいわき駅前再開発ビル「ラトブ」の4、5階にある。再開初日の朝10時ちょうど、エレベーターで6階に着く。10時になるまで、2~5階にはエレベーターは止まらない。待ちわびていた市民が5階へと下るエスカレーターの前に列をなしていた。

総合図書館の広報紙「YABINA(やびな)」に館長があいさつを載せている。「今回の大震災により市内6図書館すべてで図書資料が落下・散乱し、書架等も破損したほか、総合図書館では照明器具が損壊するなど、甚大な被害を受けましたが、幸いにも当時館内にいた利用者に人的被害はなく、無事に避難させることができました」

ユーチューブに震災時の総合図書館の様子が投稿されていた。書架から本がなだれ落ち、天井の蛍光灯が波打って落下する。利用者も、職員も生きた心地がしなかったろう。

復旧作業を続けていたさなかの4月11日、「3・11」からちょうど1カ月で強い余震に襲われ、再度、ほとんどの本が落下した。また一からやり直し。「賽の河原の石積み」を経ての再開だ。利用者も待ちに待ったが、職員も万感の思いで利用者を迎えたことだろう。

5階から入館する。と、偶然、顔を合わせた職員に地域資料展示コーナーへ案内された。「戦後いわき文芸出版の先駆け 氾濫社と真尾倍弘・悦子」展がこの日を期してスタートした=写真。「最初の観覧者です」。真尾悦子さんは「おふくろ」のような存在なので、利用者としては光栄だ、としかいいようがない。手がけた雑誌、詩・歌集などが展示されている。

別の一角では企画展「いわきの文学者――小説・評論・評伝・自伝編」も始まった。草野心平記念文学館が協力した。

「3・11」前に借りていた本を返し、二、三、調べものをして、新たに震災関係の写真集を借りる。午後に再び図書館へ出かけた。高校生たちであふれていた。

図書館に人が戻ってくると、「ラトブ」も“シャワー効果”でにぎわいを取り戻す。こうして少しずつ、日常の光景が広がっていく。そうあってほしい――と、年を取ってひねこび、かすれ、乾いた人間も期待を膨らませた。

2011年6月1日水曜日

詩人の街


詩人の草野心平(1903~1988年)が大学の卒業を待たずに中国から帰国したのは大正14(1925)年7月。それから少したったころの平の街の様子。

「第三回の帰国そして現在に至るまでの平、此の間、上げ潮のやうに精神が盛りあがってきた。生っ粋の平っ子中野勇雄は小林直人君と共に『乾杯群』を創めた。/やや、遅れて石川武夫君が『オムブロ』を創めた」

「高瀬勝男、松本純一君が『路傍詩』を創めた。平附近の詩人が平の電柱や塀に詩をはりつけて警察の問題になった。一ト月一度の集会朗読講演などが平詩の会の名目の下に続々矢つぎ早に行われていった。/そして合併誌『突』の発刊、プロレタリヤ意識の濃化」

大正末期から昭和初期、上げ潮のように盛りあがって、「詩人がうようよと出てきて、平はまるでフランスのどっかの町ででもあるかのやう」な状況になった。(北海道の猪狩満直にあてた三野混沌のはがき=昭和2年1月9日推定)

その詩人たちのたむろする場所のひとつが、平・本町通り(二町目)の中野洋品店(中野勇雄の生家)。

「いわきの昔の写真を」となると、必ず登場するのが、空にそびえる尖塔をいただいた中野洋品店だ。故斎藤伊知郎さんは『いわき商業風土記』のなかで、こう書いている。大正7(1918)年に「ハイカラなトンガリ塔つきの洋館」が建った。「そのころ平町で一番見事な『モダン建築』―流石(さすが)、当代一流の器量人中野勇吉、でかしたと話題を呼んだ」

その建物が「3・11」でおかしくなった。東隣の「堀薬局」と「メガネの松本」も含めて、解体作業が行われている=写真(5月19日撮影)。きのう(5月31日)、ヤマ二書房本店に用があったついでに見たら、あらかたなくなっていた。

耐火レンガ造りの建物だったようだ。外観からはわからなかったが、解体過程でレンガ壁が現れた。当時としては頑丈な造りだったのだろう。

山村暮鳥が種をまいたいわきの詩風土から、三野混沌、猪狩満直、草野心平、中野勇雄・大次郎兄弟らが現れ、花を咲かせた。「トンガリ塔」の下を文学青年が行き交い、論争し、離合集散を繰り返した。全国的にも珍しい「詩人の街」の象徴的建造物が一つ消えた。