2011年6月1日水曜日

詩人の街


詩人の草野心平(1903~1988年)が大学の卒業を待たずに中国から帰国したのは大正14(1925)年7月。それから少したったころの平の街の様子。

「第三回の帰国そして現在に至るまでの平、此の間、上げ潮のやうに精神が盛りあがってきた。生っ粋の平っ子中野勇雄は小林直人君と共に『乾杯群』を創めた。/やや、遅れて石川武夫君が『オムブロ』を創めた」

「高瀬勝男、松本純一君が『路傍詩』を創めた。平附近の詩人が平の電柱や塀に詩をはりつけて警察の問題になった。一ト月一度の集会朗読講演などが平詩の会の名目の下に続々矢つぎ早に行われていった。/そして合併誌『突』の発刊、プロレタリヤ意識の濃化」

大正末期から昭和初期、上げ潮のように盛りあがって、「詩人がうようよと出てきて、平はまるでフランスのどっかの町ででもあるかのやう」な状況になった。(北海道の猪狩満直にあてた三野混沌のはがき=昭和2年1月9日推定)

その詩人たちのたむろする場所のひとつが、平・本町通り(二町目)の中野洋品店(中野勇雄の生家)。

「いわきの昔の写真を」となると、必ず登場するのが、空にそびえる尖塔をいただいた中野洋品店だ。故斎藤伊知郎さんは『いわき商業風土記』のなかで、こう書いている。大正7(1918)年に「ハイカラなトンガリ塔つきの洋館」が建った。「そのころ平町で一番見事な『モダン建築』―流石(さすが)、当代一流の器量人中野勇吉、でかしたと話題を呼んだ」

その建物が「3・11」でおかしくなった。東隣の「堀薬局」と「メガネの松本」も含めて、解体作業が行われている=写真(5月19日撮影)。きのう(5月31日)、ヤマ二書房本店に用があったついでに見たら、あらかたなくなっていた。

耐火レンガ造りの建物だったようだ。外観からはわからなかったが、解体過程でレンガ壁が現れた。当時としては頑丈な造りだったのだろう。

山村暮鳥が種をまいたいわきの詩風土から、三野混沌、猪狩満直、草野心平、中野勇雄・大次郎兄弟らが現れ、花を咲かせた。「トンガリ塔」の下を文学青年が行き交い、論争し、離合集散を繰り返した。全国的にも珍しい「詩人の街」の象徴的建造物が一つ消えた。

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