2015年11月15日日曜日

総合エンタテイメントバンド

 上の孫をサッカーの練習会場へ送迎した。もう一人のジイジに用ができて送迎ができなくなったのだろう。会場の内郷コミュニティセンターまでの道すがら、小2とサシで話をした。車窓に映る景色を見ながら「ごみ屋敷」なんていう。
 このところ、車中でいわきの総合エンターテイメントバンド「十中八九」の初アルバムを聞いている。ダンサーのひとりに「買う」と言ったら、恵贈にあずかった。

「なに、これ?」と孫に言われる前に、「いわきの音楽だよ」と伝える。少し黙っていた孫が、「どこがいわきなの?」と聞くから、ジャケット=写真=を指さして「ほら、じゃんがらの『じゃんがスカ』とか、アンモナイトの曲(『今夜はアンモNight』)とかあるだろう」――とは言ってみたものの、子どもはクールだ。

「じゃんがスカ」の「じゃんが」はいわき地方の伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」から、「今夜はアンモNight」の「アンモ」は化石のアンモナイトからきている。いわき市出身の詩人草野心平の詩を歌にした「蛙のうた~るるる葬送~」もある。

 母親のふるさとが化石の宝庫の久之浜・大久地区だから、じゃんがらもアンモナイトも孫は知っている。じゃんがらの「チャンカ、チャンカ」という鉦(かね)の音は、母親の胎内にいたときから聞いている。いわきの人間にとっては、じゃんがらは生まれる前からの、いわきのリズム・音だ。

 ジャンルはわからない。が、なにか楽しくなる楽曲が続く。解説に「ジャズ、ファンク、ロック、スカ、ポップス、ラップなど、様々な要素が自由に重なり合う……」とあった。カオス(混沌)状態はアナキスト・心平に通じるものだろう。

「じゃんがスカ」の歌詞に「赤井岳から七浜見れば……」があるが、これはいわきの別の踊り(やっちき踊り)にも出てくる。もとは猥雑な、よくいえば人間のたくましい生命力をうたったものだ。孫はその後も聞き流しながら雑談に応じた。

 サッカーの練習は午後4時半から始まり、1時間ちょっとで終わった。開始時間前に、遊びを兼ねて仲間とボールを蹴ったり、輪になったりしていた。ラグビーの五郎丸ポーズをする子がいた。孫もわが家に来たとき、五郎丸ポーズをしたが、この輪のなかで覚えたのだろう。

 宵の6時ちょっと前。帰りの車に乗ってしばらくすると、孫が静かになった。まぶたが上がったり下がったりを何回か繰り返したあと、動かなくなった。首がだんだんかしいだ。

 急に睡魔が降りてきたようだ。それを見ながら、自分の小2のときのことが思い浮かんだ。やはり、夕食前に遊び疲れてごろ寝をすることがあった。そんな一夜、町が大火事になった。折からの西風で火の粉が艦砲射撃のように飛んできた。すぐ避難した。いのち以外は灰になった。孫は4歳間際で東日本大震災に遭遇し、私らと一時、原発避難をした。それから5年近くたつ。

 大火事の翌朝、新聞記者から取材を受けた。その経験からいうのだが、小2は小2なりに対象を客観化する目を持っている。「十中八九」のアルバムについて説明したのは、小2としての理解が可能だと思ったから。「あまちゃん」のテーマソングを連想したかもしれない。

 きょう(11月15日)は日曜日(朝6時半過ぎ、雨がやむ)。県議選の投票を済ませたあと、夏井川渓谷の隠居へ出かけ、燃え尽きる寸前のカエデの紅葉を見る。そのあと、草野心平記念文学館へ行く。「十中八九」が出演する。「聴く」だけでは面白さがわからない「見る」バンドでもある。CDをプレゼントしてくれたダンサーも出る。チラシに書いてあった。

2015年11月14日土曜日

「平事件」の舞台

 大正時代、現いわき市平に「カフェタヒラ」という西洋料理店があった話を前に書いた。当時の新聞広告をチェックして、「平町紺屋町(住吉屋本店前)」が所在地であることがわかった。
 平成17(2005)年、いわき市立草野心平記念文学館で「山村暮鳥展――磐城平と暮鳥」が開かれた。図録に載る「平町市街全図」(大正5年)から、住吉屋本店の道路向かいは紺屋町の「一九イ」と「一八ノ一」番地。そのどちらかが「カフェタヒラ」で、東隣の角は「警察署」(現せきの平斎場)だった。

 すると今度は、警察署の所在地の変遷が気になった。いわき総合図書館の『福島県警察史第2巻』(昭和57年刊)、『福島県犯罪史第4巻』(昭和43年刊)、『福島県警察沿革史』(昭和32年刊)にあたる。戦後、平(現いわき)駅前の掲示板撤去問題をめぐって、炭鉱労働者などが一時、平市警察署を占拠する「平事件」がおきた。平市警はどこにあったのだろう。
 
 明治~大正は「紺屋町21番地」。昭和4年には「十五町目31番地」に移り、戦後の昭和23年、十五町目の平地区警察署に新設の平市警察署が“間借り”する。GHQの警察制度改革による。同24年、平市警は新築がなった「田町50番地」の庁舎に引っ越す。同29年、自治体警察は廃止され、その後、いわき市内郷御厩町に警察が移転する。今のいわき中央署だ。
 
 文章にまとめれば簡単だが、平の警察の変遷を知るまで時間がかかった。いわきで生まれ育ったわけではない。平市警と平地区警察が併存していたこともよくわかっていない。平事件の新聞報道、裁判記録を読んでかえってこんがらかった。「十五町目」の警察ではなさそうだ。で、県警本部発行の『沿革誌』などをパラパラやって、やっと「田町」が平事件の舞台だと知った。
 
 新聞にも、被告団が発行した裁判記録にも平市警の所在地は書かれていなかった。市役所や警察、裁判所などはどこに所在するか自明のこと、という判断がだれにもあったのだろう。よその人間、後世の人間にはそれだけで歴史的な大事件の舞台がどこにあったのかあいまいになる。
 
 カミサンに聞くと、一発だった。「あそこの角、いわき民報の通りの、今はヤマザキデイリーになってるところ」。平市警がどこにあったか、記憶している人間がすぐそばにいた。常磐線をまたぐ立体橋の付け根部分だ。『写真アルバム いわきの昭和』(平成21年、いき出版)に、平市警前に群れ集う労働者、傘をさした市民の写真が載っている=写真。私が働いていた職場の2、3軒隣で大事件がおきていたとは……。灯台下暗し、とはこのこと。
 
 裁判資料には、いわき民報初代社長をはじめ新聞記者や平市議など、名前に覚えのある人たちの証言が載っている。事件のリーダーはのちに市議会議員になった。20代で「平事件」に興味・関心をもっていたら、それこそいながらにして取材ができたのに、と思っても時間は取り戻せない。

2015年11月13日金曜日

山里の白菜を漬ける

 雨の日曜日(11月8日)に、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」へ出かけて、白菜の大玉を二つ買った。月、火曜日と曇雨天と雑用が続き、八つ割りにして天日に干したのが11日=写真。その日も午後、用事が重なった。干しすぎてもいけない。きのう(12日)の朝食後、なにはさておきこれをやると決めて、桶に白菜を漬け込んだ。
 甕(かめ)でも桶でもいい。物置からカミサンがプラスチックと木の桶を出してきた。前の日、すきまから水がしみ出なくなるまで木の桶に水を張るのを繰り返した。当日朝も水を張った。ほぼ漏水が止まったので、木の桶でやってみようと決めた。

「タガが緩む」という言葉がある。タガは桶や樽を守る「竹の胴巻き」だ。桶をそのまま置いておくと、乾いてタガが緩む。すると、重力の作用でタガがずり落ち、桶を構成していた木片がばらばらになる。使わない桶はひっくり返して桶、いや、おけ――そうすると乾いてもタガは緩まないと学んだのは、いつだったか。

 辞書には「緊張がゆるむ」「年をとって気力・能力が鈍くなる」といった意味で「タガが緩む」とあるが、桶で白菜を漬けるようになってからは、そうではない、桶の扱い方を知らないからだと思うようになった。個人の能力とか年齢以前の話だ。
 
 入れ物が決まったら、食塩のほかに旨味と風味になるものを加える。冬になればユズの皮で風味をととのえるが、今はない。先日、知人から西日本のミカンをいただいた。皮を残して干した。それを使った。トウガラシは、夏井川渓谷の隠居で栽培したものがある。食べるトウガラシらしく、さっぱり辛くないが、これを使うしかない。

 おととしまでは干したあとの白菜の重さを量り、事前に3~5%の量の食塩を用意したが、去年からはいちいち量らないことにした。塩を振る感覚を指が覚えている。重さも見当がつく。大玉だから計5キロはあるだろう。食べるのは夫婦2人だけ、これで20日間は持つ。そのサイクルで4月末まで、あと7回くらいは白菜を漬ける。

 それにしても、と思う。原発事故で、家庭菜園の野菜を、自家製の漬物を子ども一家に分ける喜びが断たれた。家庭菜園そのものをやめた――という人も少なくないのではないか。

2015年11月12日木曜日

箱館の伊達林右衛門

 高倉健さんの命日(11月10)をはさんで、BSプレミアムで主演映画が連続して放送された。しょっぱなは7日夜の「駅 STATION」。北海道の増毛(ましけ)駅が舞台の刑事の物語だ=写真。
 陸奥出身(今の福島県国見町)の豪商伊達林右衛門の2代あとが幕末、「増毛山道」を私費で開削した。崖の続く海岸から別の海岸へと険しい山を越える道だ。ノルウェーには、フィヨルドから内陸へと急峻な山を越える「ニシンの道」があった。「増毛山道」にもそういう意味合いがあったのだろう。(現在は廃道になっている)
 
 北海道の地理も歴史も知らなかったときには漠然と見ていたが、「増毛山道」を知った今は、一帯の風土を目に焼きつけるためにもしっかり「駅 STATION」を見た。

 箱館の伊達林右衛門(清兵衛=今の国見町出身)の存在を知ったのは30年前だろうか。江戸時代後期の俳僧・一具庵一具(1781~1853年)=出羽・村山出身=を調べていたら、師匠の松窓乙二(1756~1823年)=白石=と、門人でパトロンの伊達林右衛門に出合った。俳号・布席。同郷で松前本店の先代(布席は養子)もまた青標という俳号を持つ遊俳だ。
 
 伊達林右衛門(布席)には実業家としての顔と、文化的なパトロン、あるいは俳句を楽しむ教養人としての顔があった。当時の豪商や豪農がそうだったように、「余力学問」を生きた。

 乙二は二度蝦夷へ渡り、箱館に滞在して当地の遊俳を指導している。乙二の死後は、一具が蝦夷の俳人たちと交流した。一具が蝦夷へ渡ったかどうかは定かではない。一具は若いころ、磐城平藩の山崎村、専称寺で修行した、その一点だけで、この30年間、一具を軸にした「俳諧ネットワーク」を調べている。

 それと、もう一つ。間宮林蔵と伊達林右衛門(松前の青標か)がつながっていた。蝦夷と乙二や一具の関係を調べるときのキーパーソンは、当然、伊達林右衛門だ。が、当主は代々、林右衛門を名乗っているので、林蔵と面識のあった林右衛門が乙二・一具とつながりのある林右衛門とは限らない。いつの時代の林右衛門かを見極める必要がある。

「林蔵は、松前で面識のある伊達林右衛門の店におもむき、寄宿先のあっせんを依頼した。林右衛門は、蝦夷地御用達として箱館に店をかまえ、三人扶持を給与され苗字も許されている豪商で、江戸にも店を置いていた。店の者は、快く承諾し、かれに小さな家を提供してくれた」

 吉村昭の小説「間宮林蔵」を読んでいたら、伊達林右衛門の名前が出てきた。樺太(現サハリン)が島であることを発見して松前に戻った林蔵に、寄宿先を提供した。林蔵はそこで幕府に提出する報告書「東韃地方紀行」「北夷分界余話」をまとめる。

 小説「間宮林蔵」に触発されて、伊達林右衛門を検索にかけたら、いろいろおもしろいことがわかった。「増毛山道」がその一つだった。

 伊達屋は近世から近代へと日本が大きく変わる中で表舞台から姿を消す。NHKの朝ドラ「あさが来た」の商家と同じように、蝦夷地(北海道)にも新時代についていけずに没落していく商家があった。

伊達林右衛門は、俳諧史(俳諧ネットワーク)にとどまらず、大きな北海道史(政経ネットワーク)のなかで見ていくべき存在なのだろう。伊達屋を軸にして、北の大地から日本の近世~近代をながめると、また違った風景が見えてくるのではないか。

2015年11月11日水曜日

いわきで最初の新聞広告

 おととい(11月9日)に続いて、いわき市平・三町目の話を――。
 いわきで最初の民間新聞「いはき」が創刊されたのは、今から108年前の明治40(1907)年5月25日。発行人は吉田礼次郎(1870~1933年)だ。礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、東京日日新聞(現毎日)の増紙拡張に力を入れて、「関東北にその人あり」と称された。旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行をして一家をなした。郡会議員・議長も務めた。

 来週の木曜日(11月19日)、神谷(かべや)公民館で月1回4回シリーズの市民講座「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」を始める。レジュメづくりの参考にしようと、いわき総合図書館のホームページをのぞき、<郷土資料のページ>を開いて、電子化された「いはき」の創刊号をチェックした。

 創刊号は20ページとボリュームがある。1、2面は欠落している。広告は8~20面に載る。創刊を祝って平の有力事業所や人士が広告を載せている。19面に「祝いはき発刊/弁護士新田目(あらため)善次郎」などとあるのがそれを物語る。

 あったらもうけもの――程度に考えていた平・三町目の「十一屋」の広告が、最初の広告欄(8面)に載っていた=写真。「煙草元売捌/洋小間物商/清 平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」とあった。これだけでも大変な情報量である(「清」は、広告では丸で囲まれている。ついでにいえば、大正初期、十一屋の大番頭さんと詩人の山村暮鳥は仲が良かった)。
 
 十一屋については最近、歴史を研究している先輩を介して二つのことがわかった。

 一つは――。江戸時代末期には旅宿だった。21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する前、磐城平の城下に寄っている。そのとき、十一屋に泊まった。『新島襄自伝』(岩波文庫)によると、文治元(1864)年3月28日、襄の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へと太平洋側を北上する途中、中之作(現いわき市)に寄港する。

 翌29日、襄は城下の北西、「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり」。泊まったところが「十一屋清蔵」、要するに十一屋だった。

 もう一つ――。不破俊輔、福島宜慶さん共著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年刊)にこんなくだりがある。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」

 愚庵は正岡子規に影響を与えた元磐城平藩士の歌僧、正敏はその竹馬の友だ。北海道へ渡り、一時はサケ漁業経営者として成功した。愚庵に「江正敏君伝」がある。不破・福島さんは親友の間柄、福島さんの奥さんは正敏の子孫ということで、北海道の視点から正敏を描いている。
 
 小説では「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」と、十一屋と正敏の強いきずなも描かれる。

「坊主持ちの旅」は総合をはじめ市内6図書館にある。総合、四倉以外の4図書館では現在、「貸出中」になっている。じわりと人気が出てきたようだ。

 襄の「十一屋清蔵」、小説の「小島忠平」、そしていわきで最初の新聞広告の「小島末蔵」と、十一屋の当主がそろった。清蔵―忠平―末蔵という流れになるのだろうか(丸で囲われた「清」は清蔵の「清」か)。

 平・三町目の商店街は、平七夕まつりの発祥地でもある。昭和5年、町内の七十七銀行が店頭に七夕飾りを取り付けた。すると、三町目の商店主たちが刺激されて七夕飾りを実施する。同9年、本町通りの舗装化で盆行事の「松焚き」が中止になると、それに代わるイベントとして「新興七夕祭り」を立ち上げ、翌10年には平商店街全体のまつりに拡大した(小宅幸一「平七夕まつり考」)。

 今、商店会の若手が中心になって月に1回、「三町目ジャンボリー」を行っている。アート系のイベント「玄玄天」も三町目を中心に展開中だ。「三町目の血が騒ぐ」と、平はおもしろくなる?

2015年11月10日火曜日

白菜を買いに山里へ

 夏はぬか漬け、冬は白菜漬け――と決めている。切り替え時期は5月と11月の上旬。で、雨の日曜日(11月8日)、いわき市三和町の「ふれあい市場」へ足を延ばした。1玉300円の白菜をふたつ買った。
 前日の土曜日、午後2時すぎ。いわき地域学會市民講座の案内印刷・発送準備を終えたあと、少し時間ができた。JR磐越東線江田駅近くの道端でこの時期、小野町の農家のNさんがとろろ芋と曲がりネギを直売している。思い立って車を走らせた。

 雨でなければ土曜日にネギを持って来ると、文化の日に奥さんが言っていた。直売所があるはずの道端に人はおらず、ネギもとろろ芋もなかった。駅前広場のテント村の直売所にも白菜は見当たらなかった。ネギなし、白菜なし――では、なんともおもしろくない。

「神谷(かべや)市民歩こう会」が日曜日、雨で中止になった。ではと、たまっていた用を足すことにした。カミサンの用事で小川へ向かったあと、山を越えて三和町の「ふれあい市場」を目ざした。前日の「空振り」が尾を引いていた。絶対、白菜があるはず、とみての山越えドライブだった。

 大玉の白菜のほかに、カミサンがあれこれ買い物をした。レジ袋では間に合わない。店の人が段ボール箱を出してくれた。重かった。
 
 不思議なもので、時間距離によって行きたくなる場所の回数が決まる。夏井川渓谷の隠居なら、毎週行っても苦にならない。わが家から30分圏内だ。これが1時間圏になると半年に1回、それ以上だと1~数年に1回、あとは偶然、といった感じだろうか。
 
 小川から三和へ山越えをしたら、年に2、3回は突発的に敢行する「山里巡り」をしたくなった。三和から遠野へ抜けることにした。3年ほど前、遠野に金沢翔子美術館が開館した。夏井川渓谷の隠居から、川前~差塩(さいそ)~三和~遠野のルートで車を走らせた。それ以来の、ふたつの山越えだ。
 
 おおよそはセンターラインのない、イノシシが出そうな森の中の細道である。道路標識や案内表示にかえって惑わされ、入遠野の奥で古殿町に入り込んだようだった。
 
 道に迷ったおかげで、谷沿いのカエデの紅葉を堪能した。カミサンはときどき、「バーミリオンレッド」という言葉を口にした。三和の新田(しんでん)だと思うが、人間の生活の匂いと荒々しい自然の厳しさがまじりあっているような場所に出くわした=写真。右側の道の奥に家があった。
 
 このあと、センターラインのある道路にはなかなか出合わなかった。渓流はすべて鮫川へと流れていくはず。渓流に沿って進むと、通行止めの表示があった。古殿町に迷い込んだことを知る。後戻りしながらもさらに下流へ、下流へと車を進めていくと、ようやく見覚えのある道路に出た。遠野トンネルは初めて通った。長いトンネルなのに暗かった。利用車両が極端に少ないのだろう。
 
 余談だが、入遠野は、「入定(にゅうじょう)」の夕暮れの景色が好きだ。魂が吸い寄せられる。だから「入定」なのかと、今回、不意に思ったが、実際はどうなんだろう。(入定は通称地名らしい。入遠野の字名にはない。白鳥=しらとり=というところが入定の中心地?)
 
 もうひとつ余談だが、どんな山奥にも県議選のポスター掲示板があって、いわき市選挙区(定員10人)の立候補者16人のポスターが張られていた。ポスターを張る組織力はどの陣営にもあることを知った。

 ☆追記:「私が言ったのはバーニングレッド」と指摘が入ったので、「バーミリオンレッド」を、「バーニングレッド(燃え立つような朱色)」の意味で受け取ってください。このごろ、耳まで悪くなりました。

2015年11月9日月曜日

雨の三町目ジャンボリー

 わが地元の「神谷(かべや)市民歩こう会」が雨で中止になった。きのう(11月8日)未明、起きると星は見えなかったが、雨は降っていなかった。7時過ぎ、車の窓が少しぬれている。こぬかのような雨が降りだしていた。7時半前、スタート・ゴール地点でもある神谷公民館へ行く。主催する側なので、館長らと雨の予報を踏まえて「中止」を確認した。雨の一日になった。
 前の晩、中止になったらどこへ行くか、カミサンと話した。それぞれ二つ~三つ、たまっていた用を足すことにした。途中、運転手の気まぐれで道順を変え、山里巡りをした。小川から三和へ、三和から遠野へ。道に迷いながらの山越えドライブになった。カエデの紅葉がきれいだった。

 最後はいわきの中心市街地へ戻った。総合図書館のあるラトブに入ろうとしたら、本町通りの角でミニライブをやっている。雨でも「三町目ジャンボリー」を開催しているのを思い出した。
 
 三町目ジャンボリーは、第2日曜日のアリオスパークフェスと連動して、日曜日の街なかに人を呼び込もうと、三町目商店会の青年部が中心になって始めた。店の前の歩道に簡易テントを張った出店が何店かあった=写真。若い知人もいた。

 彼に話したことだが、ざっと100年前、山村暮鳥がこの三町目界隈をよく歩いていた。なかでも三町目2番地の洋物屋「十一屋」の大番頭さんとは昵懇(じっこん)だった。(西隣の1番地には、のちに洋食屋「乃木バー」ができる)

 大番頭さんは読書や文学が大好きだった。2人は、ひまを見つけては近くの洋食屋「福寿軒」へ通った(今はない)。「カツレツ、牛ドンが二十五銭の、懐かしいよき時代でした」と、十一屋のお手伝いさんが回想している(昭和58年7月1日発行の「週刊カメラ」創刊号)。
 
 十一屋では店頭を種物売りの「猪狩ばあさん」に貸していた。ある日、暮鳥とばあさんが話していたと思ったら、しばらくして大番頭さんから「種物売りばあさん」の詩を見せられた。お手伝いさんらは「わけもわからず、ただ、みんなでふき出した」そうだ。

 それは次の「穀物の種子」という詩だったろう。「夢」でばあさんを死なせたのだから、事情が分かっている人たちは笑うほかない。

と或る町の
 街角で
戸板の上に穀物の種子(たね)をならべて売つてゐる老媼(ばあ)さんをみてきた
 その晩、自分はゆめをみた
 細い雨がしつとりふりだし
 種子は一斉に青青と
 芽をふき
 ばあさんは顰め面(づら)をして
 その路端に死んでゐた
 
 三町目に「猪狩ばあさん」ならぬ若者が数軒、戸板ならぬテントを張って商店街に活気を呼び込もうとしている。毎月第2日曜日に開催するようになって6回目。若い知人は「雨ですけど、今回が一番人が出ています」といった。それはそうだ、私ら夫婦も彼から話を聞いてのぞいてみる気になったのだから。継続すれば定着する。定着すればクチコミでイベントが浸透する。東角のレストランのスープがうまかった。