大正時代、現いわき市平に「カフェタヒラ」という西洋料理店があった話を前に書いた。当時の新聞広告をチェックして、「平町紺屋町(住吉屋本店前)」が所在地であることがわかった。
平成17(2005)年、いわき市立草野心平記念文学館で「山村暮鳥展――磐城平と暮鳥」が開かれた。図録に載る「平町市街全図」(大正5年)から、住吉屋本店の道路向かいは紺屋町の「一九イ」と「一八ノ一」番地。そのどちらかが「カフェタヒラ」で、東隣の角は「警察署」(現せきの平斎場)だった。
すると今度は、警察署の所在地の変遷が気になった。いわき総合図書館の『福島県警察史第2巻』(昭和57年刊)、『福島県犯罪史第4巻』(昭和43年刊)、『福島県警察沿革史』(昭和32年刊)にあたる。戦後、平(現いわき)駅前の掲示板撤去問題をめぐって、炭鉱労働者などが一時、平市警察署を占拠する「平事件」がおきた。平市警はどこにあったのだろう。
明治~大正は「紺屋町21番地」。昭和4年には「十五町目31番地」に移り、戦後の昭和23年、十五町目の平地区警察署に新設の平市警察署が“間借り”する。GHQの警察制度改革による。同24年、平市警は新築がなった「田町50番地」の庁舎に引っ越す。同29年、自治体警察は廃止され、その後、いわき市内郷御厩町に警察が移転する。今のいわき中央署だ。
文章にまとめれば簡単だが、平の警察の変遷を知るまで時間がかかった。いわきで生まれ育ったわけではない。平市警と平地区警察が併存していたこともよくわかっていない。平事件の新聞報道、裁判記録を読んでかえってこんがらかった。「十五町目」の警察ではなさそうだ。で、県警本部発行の『沿革誌』などをパラパラやって、やっと「田町」が平事件の舞台だと知った。
新聞にも、被告団が発行した裁判記録にも平市警の所在地は書かれていなかった。市役所や警察、裁判所などはどこに所在するか自明のこと、という判断がだれにもあったのだろう。よその人間、後世の人間にはそれだけで歴史的な大事件の舞台がどこにあったのかあいまいになる。
カミサンに聞くと、一発だった。「あそこの角、いわき民報の通りの、今はヤマザキデイリーになってるところ」。平市警がどこにあったか、記憶している人間がすぐそばにいた。常磐線をまたぐ立体橋の付け根部分だ。『写真アルバム
いわきの昭和』(平成21年、いき出版)に、平市警前に群れ集う労働者、傘をさした市民の写真が載っている=写真。私が働いていた職場の2、3軒隣で大事件がおきていたとは……。灯台下暗し、とはこのこと。
裁判資料には、いわき民報初代社長をはじめ新聞記者や平市議など、名前に覚えのある人たちの証言が載っている。事件のリーダーはのちに市議会議員になった。20代で「平事件」に興味・関心をもっていたら、それこそいながらにして取材ができたのに、と思っても時間は取り戻せない。
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