おととい(11月9日)に続いて、いわき市平・三町目の話を――。
いわきで最初の民間新聞「いはき」が創刊されたのは、今から108年前の明治40(1907)年5月25日。発行人は吉田礼次郎(1870~1933年)だ。礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、東京日日新聞(現毎日)の増紙拡張に力を入れて、「関東北にその人あり」と称された。旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行をして一家をなした。郡会議員・議長も務めた。
来週の木曜日(11月19日)、神谷(かべや)公民館で月1回4回シリーズの市民講座「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」を始める。レジュメづくりの参考にしようと、いわき総合図書館のホームページをのぞき、<郷土資料のページ>を開いて、電子化された「いはき」の創刊号をチェックした。
創刊号は20ページとボリュームがある。1、2面は欠落している。広告は8~20面に載る。創刊を祝って平の有力事業所や人士が広告を載せている。19面に「祝いはき発刊/弁護士新田目(あらため)善次郎」などとあるのがそれを物語る。
あったらもうけもの――程度に考えていた平・三町目の「十一屋」の広告が、最初の広告欄(8面)に載っていた=写真。「煙草元売捌/洋小間物商/清 平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」とあった。これだけでも大変な情報量である(「清」は、広告では丸で囲まれている。ついでにいえば、大正初期、十一屋の大番頭さんと詩人の山村暮鳥は仲が良かった)。
十一屋については最近、歴史を研究している先輩を介して二つのことがわかった。
一つは――。江戸時代末期には旅宿だった。21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する前、磐城平の城下に寄っている。そのとき、十一屋に泊まった。『新島襄自伝』(岩波文庫)によると、文治元(1864)年3月28日、襄の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へと太平洋側を北上する途中、中之作(現いわき市)に寄港する。
翌29日、襄は城下の北西、「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり」。泊まったところが「十一屋清蔵」、要するに十一屋だった。
もう一つ――。不破俊輔、福島宜慶さん共著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年刊)にこんなくだりがある。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」
愚庵は正岡子規に影響を与えた元磐城平藩士の歌僧、正敏はその竹馬の友だ。北海道へ渡り、一時はサケ漁業経営者として成功した。愚庵に「江正敏君伝」がある。不破・福島さんは親友の間柄、福島さんの奥さんは正敏の子孫ということで、北海道の視点から正敏を描いている。
小説では「正敏は、函館で物品を仕入れ、道内各地で売り、逆に鹿皮や鹿角など、道内各地の産物を、函館で直(じか)に売ったり、十一屋を通じて東京や磐城平などに売り捌いたりして、道内のほとんどの地を歩いていた」と、十一屋と正敏の強いきずなも描かれる。
「坊主持ちの旅」は総合をはじめ市内6図書館にある。総合、四倉以外の4図書館では現在、「貸出中」になっている。じわりと人気が出てきたようだ。
襄の「十一屋清蔵」、小説の「小島忠平」、そしていわきで最初の新聞広告の「小島末蔵」と、十一屋の当主がそろった。清蔵―忠平―末蔵という流れになるのだろうか(丸で囲われた「清」は清蔵の「清」か)。
平・三町目の商店街は、平七夕まつりの発祥地でもある。昭和5年、町内の七十七銀行が店頭に七夕飾りを取り付けた。すると、三町目の商店主たちが刺激されて七夕飾りを実施する。同9年、本町通りの舗装化で盆行事の「松焚き」が中止になると、それに代わるイベントとして「新興七夕祭り」を立ち上げ、翌10年には平商店街全体のまつりに拡大した(小宅幸一「平七夕まつり考」)。
今、商店会の若手が中心になって月に1回、「三町目ジャンボリー」を行っている。アート系のイベント「玄玄天」も三町目を中心に展開中だ。「三町目の血が騒ぐ」と、平はおもしろくなる?
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