2025年6月9日月曜日

小川郷駅前の朝市へ

                      
 夏井川渓谷の隠居の前の道路をぶらついていたとき、1台の車が目の前で止まった。隠居の近くのKさんで、「小川郷駅前の朝市で買って来た」といって、ファーム白石のキュウリを1袋くれた。

 ファーム白石は知っている。若い当主とは設立したばかりのいわき昔野菜保存会でよく顔を合わせた。自然農法で米や野菜を作っていることで知られる。

そこのキュウリである。隠居からの帰り、小川郷駅前周辺を巡ったが、朝市らしい人の出入りはどこにもなかった。

あとで知ったのだが、朝市は、夏場は8時に始まり10時には終わる。11時ごろに行っても、だれもいないわけだ。

その晩、生のまま味噌をつけて食べ、糠床にも入れた。キュウリは約95%が水分なのに、滋味がある。甘みさえ感じられる。こんなうまいキュウリは初めてだ。

というわけで、球技大会があって隠居へ行けなかった6月1日の翌週、8日に隠居へ行く途中、小川郷駅前に寄り道をした。

すると駅の隣、新しいいわき市小川支所の庁舎に併設された地域活性化センターの前で、小規模ながら野菜を売っている男性陣がいた=写真。

支所は移転・新築され、2023年1月30日に供用が開始された。翌年12月1日、活性化センターで「本と盤のフリーマーケット」が開かれたとき、隠居の帰りに会場をのぞいた。

今年(2025年)の5月18日にも、小川郷駅の近くで「小川ヴィレッジキックオフイベント」が開かれた。

地元・平の小学校のスポーツフェスタ(運動会)に顔を出したあと、隠居へ行く前に寄り道をした。前日までの雨で足元はよくなかったが、けっこうな人出だった。

イベントだけの目的で平から小川へ出かけることはない。駅前だから、隠居へ行く前に、あるいは帰りにのぞいてみる――寄り道感覚になれるのはマイカーで移動しているためでもある。

それに、日曜日には小川の「半住民」になる。そんな意識も作用しているにちがいない。駅前の朝市をのぞく気になったのも、理由は同じだ。

8日に寄り道をし、朝市が開いていたのは、しかし偶然だった。これもそこで聞いて知ったのだが、毎週開いているわけではない。

月に2回、第2・第4日曜日の開催だという。開催時間も前述したように、4~9月は午前8~10時、10~3月は午前9~11時だ。

朝市になにか名前が付いているのではないか。ネットで検索すると、「小川の郷『かあちゃんのじまん市』」がヒットした。

「小川郷駅前」その他の情報を加味すると、この朝市がそれだろうか。といっても、売り手は男性2人だったが(1人はファーム白石のお父さん)。

第2・第4日曜日は、これから少し早めに家を出て、小川郷駅前経由で渓谷の隠居へ行くことにするか。

2025年6月7日土曜日

ネコの銅版画

額縁が壊れたらしく、作品がむき出しになっていた。縦15センチ×横12センチほどの小さな銅版画だ=写真。

作者は、カミサンがデザイン事務所に勤めていたころ、新しくスタッフに加わった若い女性、ということだった。

 少し離れたところからは、髪の毛を逆立てたペコちゃんのように見える。が、ちゃんと見るとネコが2匹、相撲でも取るような間合いで対峙(たいじ)している。

 手前で後ろ姿を見せているのは白いネコ。奥で白いネコと向き合っているのはキジトラ。2匹とも胴が異様に長い。

 それもあって、キジトラの胴と足が怒ったペコちゃんの眉と目に、白いネコの胴がひん曲がった口に見えてしまう。

 デフォルメ(変形)は美術の一手法だが、ネコの周りの線刻はシンプルというか、素朴というか、技術的にはやはり若さが感じられる。美大を出たばかりだったのだろう。

 わが家の庭には地域ネコがよく現れる。なかでもさくらネコのゴン(キジトラ)は半住人といってよい。

ほかに、鼻が黒い黒白のハナクロ、そして最近は真っ白なシロがやって来る。茶トラが来たり、真っ黒いネコが現れたりしたこともある。

銅版画とほぼ同じ構図で、手前にハナクロ。奥に茶トラがにらみあっているところを見たことがある。

ハナクロが茶トラにむかって低くうなり続ける。茶トラは茶トラで振り返り気味にハナクロを見続ける。と、次の瞬間2匹が走り出し、隣家のフェンスのそばでだんごになった。

銅版画のキジトラと白いネコも、やがてはうなり声をあげて取っ組み合うのだろうか。そんな展開を想像させる空気感がある。

 現実のネコたちはといえば、白いネコは相変わらずお高くすましている。ハナクロは、私を見るとこそこそ姿を消す。ゴンはすっかり慣れてすり寄って来る。茶トラと黒はこのところまったく姿を見せない。

 おもしろいことに、ネコも毛皮を着ているとはいえ、寒暖の変化には敏感に反応するようだ。

ゴンは、夏のような暑さになると軒下のミカン箱に入って日差しを遮り、冬のような寒さが戻ると縁側のえじこ((人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)に入って丸くなっている。

このところ周期的に天気が崩れる。しかも、週末に雨になることが多い。梅雨のような天気に、人間もネコも翻弄されている。

   そうそう、ネコが来る方角も決まっている。ハナクロは西から、白いネコは南の民家か故義弟の庭の方からやって来る。白いネコの本宅はそっちの方にあるのだろう。 

2025年6月6日金曜日

草野心平と糠漬け

                                 
   いわき市出身の詩人草野心平(1903~88年)を調べていたとき、資料として目を通していたはず。昔のいわき民報の記事である。

いわき市に合併する前の平市で講演し、確か糠漬けを例に、夢を追い求めることの大切さを説いていたような……。

自分のブログを読むと、講演したのは昭和27(1952)年12月だった。そこまでわかれば簡単だ。

図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。そのなかの「新聞」をクリックすると、デジタル化された地域新聞など72紙を読むことができる。

いわき民報は昭和21年の創刊から同56年までの記事が収められている。それをチェックすればよい。

昭和27年12月7、9日の上・下で講演要旨が掲載されていた=写真。紙齢2000号を記念して、いわき民報社が主催した文芸講演会だった。演題は「文化というもの」で、その一例として心平はナスの糠漬けを取り上げた。

だれでも色も美しく、うまく食べるにはどうすればいいかを考える。そして、ナスの身になって、ナスにも夢があるとして、こう述べる。

ナスに聞けば、ナスもまた「どうせ食べられるなら、きれいに、そしてうまく漬けたと、だれからも珍重がられるように漬けてもらいたい」と答えるだろう。

ナスの気持ちを尊重し、うまいナス漬けをつくるために創意工夫を加え、いろいろな方法を考慮し、実験しながら、ナス漬けをよくすることを発見していくものなのだ。

つまりは、夢が文化の原動力になる、文化は持続的な夢の発展によって創造される、というのが結論のようだ。

このとき、心平は49歳。川内村を訪れるのはその翌年だから、まだ東京で破天荒な暮らしを続けていた

 心平らしいと思ったのは、「ナスに聞く」、あるいは「ナスの気持ちを尊重する」というところだろう。

故粟津則雄・元市立草野心平記念文学館長(文芸評論家)は、「草野心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの具体的な生への直視である」と述べている。

この直視力は動物・植物・鉱物・風景にも及ぶ。ナスだって人間だ、というわけである。

カブやキュウリだけでなく、タケノコを糠味噌に漬け、フキを、セロリを漬けて思ったのは、だれもが心平のいう「創意工夫」と無縁ではない、ということだ。

やはり、うまく漬けるにはどうするか、漬かったものをどう切るか、入れ物を含めて、いろいろ考える。別の言葉でいえば、たかが糠漬け、されど糠漬け。

文化は生活様式、つまり生活術そのもの。大事なのはやはり、今日の糠漬けをどううまくつくるか、だ。

2025年6月5日木曜日

特別な存在だった

朝は6時ごろから9時ごろまでテレビをつけている。ニュース、朝ドラ、情報番組をさらっと見て、翌日のブログの打ち込みを始める。

 6月3日は「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん死去のニュースが流れた。亡くなった日は? 3日朝。ほんのちょっと前ではないか。なんという速さだ。やはりミスターは特別な存在だったのだ。

 翌日の活字メディア(新聞)も1面トップで死去を伝え、スポーツ面と社会面で詳報していた。全国紙は社説でも取り上げた。いわき民報も、いわきや市民とのつながりを報じていた=写真。

 高度経済成長時代を象徴する言葉に「巨人・大鵬・卵焼き」がある。その言葉が広まるちょっと前から、子どもながら新聞を読み、ラジオを聞いていた。

相撲は大鵬の前、栃錦と若乃花に引かれ、巨人は川上哲治のあとの長嶋茂雄・王貞治さんに夢中になった。

 1956(昭和31)年4月に町が大火事になり、わが家も灰になった。小学2年生に進級した直後だった。

 家の再建が進む中、近所のラジオ屋の店頭にテレビが据え付けられ、大人に混じって大相撲を観戦した。力道山の空手チョップにも歓声を上げた。

阿武隈の山里にもテレビが普及し始めたが、わが家にはまだラジオしかなかった。ミスターが巨人に入り、最初の試合で国鉄(現ヤクルト)スワローズの金田正一投手に4打数4三振を喫したときは、家(床屋)のラジオで実況放送を聞いた。

 1958(昭和33)年4月5日。私は小学4年になったばかりで、学校へ行ったような記憶があるから(といっても、あいまいなのだが)、始業式が終わって帰宅したあとにラジオを聞いたのかもしれない。

 翌59年の6月5日にはわが家のテレビで天覧試合を見た。4対4の同点で迎えた9回裏、ミスターがサヨナラホームランを打った。小学5年生は劇的な巨人の勝利に興奮した。

 ほかにもテレビでよく実況中継を見た。ミスターはいろんな記録も打ち立てたが、汪さんに比べると印象は薄い。

 ラジオのデビュー戦、テレビの天覧試合が象徴するように、ミスターはやはり記憶の人だった。

 テレビで訃報を知り、すぐ頭に浮かんだのは冒頭のような自分自身のラジオ・テレビ視聴史だった。

 電波メディアといえばラジオしかなかったところに、テレビが加わる。ちょうど同じころ、週刊の少年サンデーと少年マガジンが創刊される。

 それらを享受した最初の子どもたちが、「団塊の世代」といわれる私たちだったのだろう。ミスターはテレビ時代幕開けのシンボル、団塊の世代のヒーローだった。合掌。 

2025年6月4日水曜日

国道399号が通行止めに

  
                                              

 いわき市を起点、山形県南陽市を終点とする国道399号は、福島県内では阿武隈高地を縦断するかたちで峠越えを繰り返す。

山への入り口となるのが、県道小野四倉線から分かれるいわき市小川町の三差路(跨線橋)だ。二ツ箭山方面へと折れてすぐ磐越東線をまたぐ。

日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行くとき、ここを横目で見ながら直進する。6月1日の日曜日は球技大会があって行けず、翌2日朝、一日遅れで車を走らせた。

すると、その三差路に通行止めの看板が設けられていた=写真。看板には「横川地区土砂崩れ」と理由が書かれていた。

 報道や399号を管理する福島県によると、5月29日、いわき市小川町上小川猪小屋地内でのり面の土砂が崩落し、399号をふさいだ。このため、同日午後2時から全面通行止めになっている。

 猪小屋とは聞きなれない地名だ。ネットで検索すると、横川集落の一角といってもいい場所があらわれた。それで通行止めの看板に「横川地区」と入っていたのだろう。

2011年の原発震災の直後、看板と同じ場所にパトカーが止まり、警察官が立って、399号を利用する車にストップをかけていた。そのことを思い出した。399号の通行止めはそれ以来だろう。当時のブログがあるので、一部を要約・紹介する。

 ――大地震から半月余がたち、夏井川渓谷の隠居のことが気になり始めた。3月29日朝、生ごみの入った容器を車に積んで向かったら、小川の高崎で通行止めの看板にさえぎられた。

ひとまずUターンをし、家で少し用をすませたあと、カミサンと一緒に再度、隠居へ出かけた。

高崎から先には行けない。しかし、う回路がある。二ツ箭山のふもとを巻くようにして国道399号を進み、横川から母成(ぼなり)林道に入って江田に出る、いつもの「災害ルート」だ。

399号の入り口で交通警察隊が検問をしていた。福島第一原発から20キロ圏内への立ち入り規制をするのが目的だ。

他県から応援に来たのだろうか。「江田の先に家がある」といっても、「江田はどこか」。う回路の話をすると了解して通してくれた。

通行止めの原因は磐越東線・高崎踏切から1キロ先という表示だったから、おそらく落石除けのロックシェッドがあるあたりで大規模な崩落が起きたに違いない――。

2022年の秋、峠越えの難所を回避するため、内倉湿原の西側に二つの橋を架け、延長2875メートルのトンネルを掘って内倉と戸渡を直結するバイパスが完成した。川内~いわき間はこれでだいぶ時間距離が短縮された。

今度の通行止めが解消されるまで、川内へ行くには以前のルートを迂回・利用するしかない。

わが隠居のある夏井川渓谷から「スーパー林道」を利用すれば、下川内にはすぐ行けるのだが、「けものみち」では勧められないか。

2025年6月3日火曜日

球技大会が終わった

                                
  「やっと」。あるいは「どうにか」。そんなつぶやきがもれそうな球技大会だった。いつになく事前の連絡・調整が多かったことによる。

6月に入るとすぐ、8行政区による地区対抗球技大会(男性・ソフトボール、女性・バレーボール)が行われる。コロナ禍による中断のあと再開された。今年は6月1日に行われた=写真。

直接、メンバー集めに奔走したわけではない。が、バレーでその役目を引き受けてくれた人は苦労したことだろう。

私は内心、勝手にその人を区内会の「サポーター」と呼んでいる。その人がいるからバレーの出場メンバーがそろい、去年は優勝までできた。今年はさらに、ソフトの希望者にも道を開いた。

地域の少子・高齢化が進み、メンバー集めが年々厳しさを増している。再開後はこの問題が顕在化し、参加を見合わせる行政区があらわれた。

わが行政区でも、メンバーがなかなか集まらない。バレーはなんとか選手がそろったが、ソフトは今年も棄権することになった。

傷害保険の関係で、メンバー表は大会の10日前までには体協事務局(公民館)に提出することになっている。

ソフトをやりたいという個人がいる。サポーターから連絡を受けた時点で、とりあえず参加希望者だけのメンバー表を届けて、他行政区に合流できる道を探った。初めてのことである。

わが区は、大きな行政区が三つに分かれてできた一つで、もう一つの「分家」である隣接する行政区の区長に連絡すると、チームへの合流を快諾してくれた。

実は区長協議会や体協理事会でも球技大会の将来を見越して、「合同チーム」の動きが模索されてはいた。その動きに沿って受け入れてくれたのだった。

棄権と決めたから個人の希望は受け入れない、では前に進まない。個人の気持ちにも沿えるよう、体協・他行政区との連絡・調整を進めて、新しいかたちにこぎつけた。

大会当日の朝は曇天で冷たい東風が吹いていた。そのなかで個人参加の3人とともに、受け入れチームの区長にあいさつをし、試合を観戦した。結果はともかく、3人はチームの一員として試合に出場した。

やはり、ソフトは半数の四つの区が、バレーは二つの区が棄権した。わが区のバレーは1人欠員となったこともあって、初戦で敗退した。今年も優勝をと期待したが、そうは問屋が卸さなかった。

個人参加のための連絡・調整はけっこうな回数になった。私とサポーター、サポーターとソフト参加希望者、そして弁当の手配など、事前のやりとりは去年をはるかに上回った。

大会のそもそもの目的に従って、「勝敗」より「親睦」へ、「対抗」から「合同」へという時代の流れに沿った動きが、初体験の積み重ねが「やっと」「どうにか」に集約されたのだった。

2025年6月2日月曜日

青葉寒

                                              
  一言でいうと、散々な5月だった。週末になると天気が崩れる。夏がきたかと思うと、翌日は冬に戻る。寒暖の差がとにかく激しい。

長そでシャツを半そでシャツに替えたり、また長そでシャツに戻したり……。でないと、年寄りは簡単に風邪を引く。

季語でいえば、青葉寒。いや、もう梅雨寒といってもいいのではないか。

この寒暖と雨に刺激されたのか、隠居のある夏井川渓谷でもアラゲキクラゲが発生した=写真。

いわき市平にある平地の石森山でもこの時期、遊歩道を巡ると立ち枯れの木にアラゲが発生していることがある。4年前の拙ブログにこうある。

――6月7日にアラゲキクラゲと出合った。出ていてもおかしくない。そう思って、石森山の遊歩道を巡るたびに、立ち枯れと倒木に目を凝らした。

ある遊歩道では立ち枯れの幹にびっしり、別の遊歩道では倒木にわんさと生えていた。

帰宅して水で洗い、ごみを取ってから、ビニール袋に入れて検査所(近くの公民館)へ持って行き、放射線量を計ってもらった。結果は「検出下限値未満」だった。

年寄りが食べる量は限られる。親しい人にだけ検査結果を見せて、お福分けをした――。

線量が低いのは、すでに根からこずえへの養分の吸い上げが止まり、木としてのいのちが終わっているからだろうか。

それはともかく、アラゲは南方系のキクラゲだ。食べてうまいのは北方系のキクラゲだが、アラゲも炒め物や熱々のラーメンに刻んで加えると、歯ごたえがあってうまい。けんちん汁(豚汁)にも、なんて考えるのは、やはり青葉寒のせいだろう。

いつもこのころ、作家の故池波正太郎さんが『男の作法』のなかで言っていた言葉を思い出す。

「冬なんかに、ちょっときょうは寒い、風邪を引きそうだなあと思ったときは、入浴をしても背中は洗わないほうがいいよ。(略)背中の脂っ気がなくなってカサカサになっちゃうと、そこから風邪が侵入してくるわけ」

青葉寒に見舞われ、背中が寒いなと感じたら、すぐ長そでシャツに替え、上に1枚羽織る。5月30日がそうだった。

早朝5時に玄関を開けて新聞を取り込むと、冷たい雨の微粒子が降りてきた。金・土と予報では雨だ。折から6月1日付で市の広報資料を配らないといけない。1日は地区の球技大会がある。

今しかない。まだ雨が微粒子のうちに資料を配布しなければ――急に思い立って回覧物を積み込み、車を走らせた。むろん、暖房をかけて。

この日は一日中小雨だった。翌31日は、雨こそ降らなかったものの、冷たく湿った北東の風が吹きつけた。

家にいても鼻水が出る。しかたない、まだ灯油が残っていたので、石油ストーブをつけた。座卓(こたつ)の下の電気マットもオンにした。晩酌の焼酎もこのところ、お湯割りが続いている。6月最初の日もそうだった。なんともはや、である。