2025年6月5日木曜日

特別な存在だった

朝は6時ごろから9時ごろまでテレビをつけている。ニュース、朝ドラ、情報番組をさらっと見て、翌日のブログの打ち込みを始める。

 6月3日は「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん死去のニュースが流れた。亡くなった日は? 3日朝。ほんのちょっと前ではないか。なんという速さだ。やはりミスターは特別な存在だったのだ。

 翌日の活字メディア(新聞)も1面トップで死去を伝え、スポーツ面と社会面で詳報していた。全国紙は社説でも取り上げた。いわき民報も、いわきや市民とのつながりを報じていた=写真。

 高度経済成長時代を象徴する言葉に「巨人・大鵬・卵焼き」がある。その言葉が広まるちょっと前から、子どもながら新聞を読み、ラジオを聞いていた。

相撲は大鵬の前、栃錦と若乃花に引かれ、巨人は川上哲治のあとの長嶋茂雄・王貞治さんに夢中になった。

 1956(昭和31)年4月に町が大火事になり、わが家も灰になった。小学2年生に進級した直後だった。

 家の再建が進む中、近所のラジオ屋の店頭にテレビが据え付けられ、大人に混じって大相撲を観戦した。力道山の空手チョップにも歓声を上げた。

阿武隈の山里にもテレビが普及し始めたが、わが家にはまだラジオしかなかった。ミスターが巨人に入り、最初の試合で国鉄(現ヤクルト)スワローズの金田正一投手に4打数4三振を喫したときは、家(床屋)のラジオで実況放送を聞いた。

 1958(昭和33)年4月5日。私は小学4年になったばかりで、学校へ行ったような記憶があるから(といっても、あいまいなのだが)、始業式が終わって帰宅したあとにラジオを聞いたのかもしれない。

 翌59年の6月5日にはわが家のテレビで天覧試合を見た。4対4の同点で迎えた9回裏、ミスターがサヨナラホームランを打った。小学5年生は劇的な巨人の勝利に興奮した。

 ほかにもテレビでよく実況中継を見た。ミスターはいろんな記録も打ち立てたが、汪さんに比べると印象は薄い。

 ラジオのデビュー戦、テレビの天覧試合が象徴するように、ミスターはやはり記憶の人だった。

 テレビで訃報を知り、すぐ頭に浮かんだのは冒頭のような自分自身のラジオ・テレビ視聴史だった。

 電波メディアといえばラジオしかなかったところに、テレビが加わる。ちょうど同じころ、週刊の少年サンデーと少年マガジンが創刊される。

 それらを享受した最初の子どもたちが、「団塊の世代」といわれる私たちだったのだろう。ミスターはテレビ時代幕開けのシンボル、団塊の世代のヒーローだった。合掌。 

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