2015年11月27日金曜日

避難区域の空き巣に実刑

 住民が原発避難中の大熊町で2年間、空き巣を繰り返していたいわきの45歳の男に、懲役2年8月の実刑判決が言い渡された=写真(25日付いわき民報)。立件されたのは未遂1件を含む8件で、骨董品や調度品を主に被害額は263万円余に及んだという。
 1年前にも常習累犯窃盗の裁判があった。避難区域の富岡、楢葉、広野各町で空き巣を繰り返した35歳(当時)の男に、懲役4年が言い渡された。わがふるさとの人間だった。裁判官は「200軒とも300軒ともいう住居に忍び込んで窃盗を繰り返したのは、原発事故により長期間の避難生活を強いられている被害者らに追い打ちをかける行為」と非難した(福島民報)。

 同じ市の人間、同じふるさとの人間だからこそ、なおさら“隣人”の不幸につけ込むふるまいが許せない。と同時に、人間はなぜ不幸を食い物にするのか、それはどんな心の作用によるものなのか――答えのない疑問が胸底にわだかまっている。

 罰当たりは、古今・東西を問わないようだ。関東大震災後の混乱に乗じて「掠奪(りゃくだつ)団」が暗躍した。その一人(女)がいわきで逮捕されたという記事が、大正12(1923)年11月18日付の常磐毎日新聞に載る。

「震災を機とし横浜市内に於て掠奪をほしいまゝにし跳梁闊歩(ちょうりょうかっぽ)した」グループのひとり、「怪婦」がいわきの実姉の家に潜伏していたところを地元の警察が逮捕し、神奈川県警に護送した。その「怪婦」の表現がすさまじい。それはないだろう、うそだろう――という文章が続く(ここでは省略)。

 今年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家・ジャーナリスト、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの『チェルノブイリの祈り―未来の物語』(松本妙子訳=岩波書店)にも、こんな村人の声が載る。いったん避難してから帰還したらしい。

「三家族いっしょにもどってきたが、家はすっかり荒らされておった。ペチカはこわされ、窓やドアがはずされ、床板ははぎとられていた。電球、スイッチ、コンセントも抜き取られ、使えるものはなにひとつありゃしない」

 東日本大震災が起きたとき、外国メディアは日本人の我慢強さや忍耐力、助け合いや思いやりの精神を称賛した。その裏で何が起きていたか。平成23年の双葉郡内の空き巣被害は前年の約30倍、20件から594件に急増した。一部の人間のふるまいとはいえ、はらわたが煮えくりかえったのを覚えている。

 3・11前からつきあいのある人、あとで知り合った人たちも空き巣被害に遭っていた。広野町の知人。家は大規模半壊で津波が床下まできた。加えて、原発事故の影響から、家族全員が避難した。すると、空き巣に入られた。部屋に足跡が残り、ありとあらゆるものが開けられていた。(2011年7月の話)

 広野町の別の避難民。寝泊まりが自由になったあとも、夜は怖くて泊まれない、といっていた。空き巣被害に遭ったのが大きい。富岡町では、醤油や革靴、衣類まで盗られた、という例もある。(2013年10月の話)

 もう一例。広野か楢葉町のことだったが、一時帰宅をしたら、わが家からテレビを抱えて出てくる隣のじいさんと鉢合わせした。じいさんは一時帰宅をしていたが、まさか隣家の人も同様に一時帰宅をするとは思わなかったのだろう。

 大災害・非常時に遭遇して、タガがはずれて邪心が動き出す、という人間がいる。その邪心はだれにもあるものなのかもしれない。が、おおかたは因果の想像力=倫理がはたらくので、やっていいことと悪いことの区別がつく。人間はいつなんどき、そのブレーキが壊れるかわからない、ということなのか。

 ブレーキが壊れる人間と壊れない人間と、その違いは何なのか――を知りたいのだが……。

0 件のコメント: