2015年11月21日土曜日

昭和11年のいわき

 いわき市四倉町の四倉商工会館でおととい(11月19日)の夜、16ミリフィルム=写真=のデジタルテレシネ完成試写会が開かれた。
 映像は昭和11(1936)年に集中的に撮影されたものらしい。モノクロながら、80年前のいわきのマチやハマが映っている。「のぼり旗」や「こいのぼり」のはためく家並みもある。年中行事は陰暦で行われていたはずだから、「端午の節句」にのぼりがはためいたのは、今のように4~5月ではなく5~6月だったろう。木々の葉の茂り具合からも初夏の雰囲気が感じられた。

 1年前の8月末、平・一町目の坂本紙店で「タイムスリップ写真の会」が開かれた。いわき芸術文化交流館「アリオス」が主催した。四倉の知り合いから連絡がきて夫婦で出かけた。今度も連絡がきた。「四倉アーカイブズ」が主催した。

 去年は8ミリフィルムだった。四倉商工会館の倉庫から発見されたといっていた。昭和30年代の四倉のイベント、街並みなどが映っている。今度の16ミリフィルムは、四倉のある家から出てきた。DVD化したことで映像もより鮮明になり、保存・公開も簡単になった。
 
 映像そのものには、音声もテロップもない。興味深いものがいろいろあった。例えば、塩屋埼灯台。昭和11年当時は、下から白・黒・白のツートンカラー、「バンドエイドをした一本指」だ。
 
 初代の灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体された。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。完全復旧は昭和22年5月5日だったという。
 
 平・松ケ岡公園にある安藤信正公の、戦争で供出する前の銅像も見た。作者は平の彫刻家本多朝忠(ともただ)さん。今ある銅像と違って、モデルはより若い人だったようだ。
 
 彫刻家は義父とつきあいがあった。で、彫刻家の最晩年、カミサンと一緒に、その後は子連れで洋館の住まい兼アトリエへ押しかけた。映画に出てくる銅像はすべて本多朝忠作とみてよさそうだ。
 
 四倉の磐城セメントには驚いた。野球のグラウンドがある。テニスコート、弓道場がある。従業員の福利厚生に意を注いだ企業だということがわかる。大浦小学校が鉄筋コンクリートだったのは、学区内に磐城セメントがあったからだろう。

 以上、ほんの数例だが、80年前のいわきにタイムスリップをして楽しんだ。しかし、それも“生ナレーション”(知人が解説した)があったから。映像に音楽、テロップを加えれば、もっと理解しやすくなる。いや、この際だから「活動弁士」を養成したらどうか。活弁付きで出前映写会を開く――立派な文化事業になるのではないか。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

昭和30年大浦小学校入学です。そうなんです。校舎がコンクリートなのはセメント工場からの寄付だと先生から聞きました。戦後、磐城セメントは景気がよく、一時社員の給料(ボーナス?)が全国で3番目だという噂を聞きました。